7 / 30
7
「……それで陛下。いつまで私の手を握っていらっしゃるおつもりですか?」
夜も更け、静まり返った執務室で、私は呆れを通り越して感心していました。
並んで書類をチェックしていたはずが、いつの間にかゼクス陛下の大きな手が、私の右手をしっかりとホールドしています。
「これは、君の魔力が切れないように補給しているのだ。帝国のために働く公爵令嬢に、倒れられては困るからな」
「魔力補給。……初めて聞きましたわ。私の家系、魔法適性はあまり高くなかったはずなのですが」
「私がそう決めた。文句があるか?」
ありません。この男に「文句」という言葉は、辞書ごと燃やし尽くされているようです。
陛下は繋いだ手に微かに力を込めると、窓の外に広がる帝都の夜景を見つめました。
「エルトス。あの日、君が私に差し出したのはパンだけではなかった」
「……まだあのクロワッサンの話を続けますの?」
「あれはただのパンではない。……絶望の中にいた私に、初めて『他人の温もり』を教えた魔法の食べ物だ」
陛下の声が、少しだけ低く、熱を帯びました。
十年前、彼は王位継承争いの渦中にあり、誰からも、そして親からも疎まれていました。
そんな彼が隣国へ逃げ込み、泥にまみれて倒れていた時。
当時まだ幼かった私が、夜会の食事をこっそり持ち出して、彼の口に突っ込んだのです。
「『うるさいから食べてください』。君はそう言ったな。私の泣き言を、一切聞かずに」
「……恥ずかしいので詳細に再現しないでくださいませ。私はただ、美味しいものを食べれば人間は大人しくなると思っていただけです」
「その通りだ。私はあの時、君のその傲慢なまでの強さに救われた。……だから、君がラングレー王国で不当に扱われていると知った時、世界を滅ぼしてやろうかと思ったぞ」
「物騒! 愛の表現が核兵器級に物騒ですわ!」
私は思わずツッコミを入れましたが、陛下は冗談を言っているようには見えませんでした。
彼は私の手を引き、自分の胸元に当てました。
ドク、ドクと、規則正しく、けれど力強い鼓動が掌に伝わってきます。
「……十年間、私は君に相応しい場所を作るためだけに生きてきた。君が追放されたのは、私にとっては千載一遇の好機だった。……性格が悪いと言われても構わない。私は、君を誰にも渡したくなかったんだ」
「陛下……」
まっすぐな瞳。一切の迷いがない、重すぎるほどの愛。
ラングレー王国では、私は「便利な駒」か、あるいは「目障りな障壁」でしかありませんでした。
けれど、この人は。
「君が私を必要としなくても、私が君を必要としている。……エルトス、私を見てくれ」
言われるがままに顔を上げると、そこには「氷の皇帝」などという仮面をかなぐり捨てた、一人の男の顔がありました。
(……ああ、これは。反則ですわ)
「……分かりましたわ。そんなに熱烈にスカウトされては、有能な私としても首を縦に振らざるを得ません」
「スカウト……? プロポーズのつもりだったのだが」
「同じようなものですわ。帝国という巨大企業の、終身雇用契約ですもの」
私が照れ隠しにそう言うと、陛下は一瞬驚いたように瞬きをし、それから幸せそうに目を細めました。
「終身雇用か。いい響きだ。……だが、退職金は私の命そのものだということを、忘れないでくれよ?」
「……。やっぱり、この方の愛は重力の法則を無視していますわね」
私は溜息を吐きながらも、握り返した手に力を込めました。
冷たい雨の夜、すべてを捨てて歩き出した私が、こんなにも熱い場所に辿り着くなんて。
人生、何が起こるか分かりません。
「では、陛下。終身雇用の第一歩として、この山積みの未決済書類を今夜中に片付けましょう。……あ、逃げても無駄ですわよ?」
「……。エルトス、少しは余韻を楽しもうという気はないのか?」
「余韻は数字の後にやってくるものですわ。さあ、ペンを持って!」
私の号令に、帝国最強の男が「御意……」と情けない声を上げながらデスクに向かう姿。
これもまた、私だけの特別な景色になりそうでした。
夜も更け、静まり返った執務室で、私は呆れを通り越して感心していました。
並んで書類をチェックしていたはずが、いつの間にかゼクス陛下の大きな手が、私の右手をしっかりとホールドしています。
「これは、君の魔力が切れないように補給しているのだ。帝国のために働く公爵令嬢に、倒れられては困るからな」
「魔力補給。……初めて聞きましたわ。私の家系、魔法適性はあまり高くなかったはずなのですが」
「私がそう決めた。文句があるか?」
ありません。この男に「文句」という言葉は、辞書ごと燃やし尽くされているようです。
陛下は繋いだ手に微かに力を込めると、窓の外に広がる帝都の夜景を見つめました。
「エルトス。あの日、君が私に差し出したのはパンだけではなかった」
「……まだあのクロワッサンの話を続けますの?」
「あれはただのパンではない。……絶望の中にいた私に、初めて『他人の温もり』を教えた魔法の食べ物だ」
陛下の声が、少しだけ低く、熱を帯びました。
十年前、彼は王位継承争いの渦中にあり、誰からも、そして親からも疎まれていました。
そんな彼が隣国へ逃げ込み、泥にまみれて倒れていた時。
当時まだ幼かった私が、夜会の食事をこっそり持ち出して、彼の口に突っ込んだのです。
「『うるさいから食べてください』。君はそう言ったな。私の泣き言を、一切聞かずに」
「……恥ずかしいので詳細に再現しないでくださいませ。私はただ、美味しいものを食べれば人間は大人しくなると思っていただけです」
「その通りだ。私はあの時、君のその傲慢なまでの強さに救われた。……だから、君がラングレー王国で不当に扱われていると知った時、世界を滅ぼしてやろうかと思ったぞ」
「物騒! 愛の表現が核兵器級に物騒ですわ!」
私は思わずツッコミを入れましたが、陛下は冗談を言っているようには見えませんでした。
彼は私の手を引き、自分の胸元に当てました。
ドク、ドクと、規則正しく、けれど力強い鼓動が掌に伝わってきます。
「……十年間、私は君に相応しい場所を作るためだけに生きてきた。君が追放されたのは、私にとっては千載一遇の好機だった。……性格が悪いと言われても構わない。私は、君を誰にも渡したくなかったんだ」
「陛下……」
まっすぐな瞳。一切の迷いがない、重すぎるほどの愛。
ラングレー王国では、私は「便利な駒」か、あるいは「目障りな障壁」でしかありませんでした。
けれど、この人は。
「君が私を必要としなくても、私が君を必要としている。……エルトス、私を見てくれ」
言われるがままに顔を上げると、そこには「氷の皇帝」などという仮面をかなぐり捨てた、一人の男の顔がありました。
(……ああ、これは。反則ですわ)
「……分かりましたわ。そんなに熱烈にスカウトされては、有能な私としても首を縦に振らざるを得ません」
「スカウト……? プロポーズのつもりだったのだが」
「同じようなものですわ。帝国という巨大企業の、終身雇用契約ですもの」
私が照れ隠しにそう言うと、陛下は一瞬驚いたように瞬きをし、それから幸せそうに目を細めました。
「終身雇用か。いい響きだ。……だが、退職金は私の命そのものだということを、忘れないでくれよ?」
「……。やっぱり、この方の愛は重力の法則を無視していますわね」
私は溜息を吐きながらも、握り返した手に力を込めました。
冷たい雨の夜、すべてを捨てて歩き出した私が、こんなにも熱い場所に辿り着くなんて。
人生、何が起こるか分かりません。
「では、陛下。終身雇用の第一歩として、この山積みの未決済書類を今夜中に片付けましょう。……あ、逃げても無駄ですわよ?」
「……。エルトス、少しは余韻を楽しもうという気はないのか?」
「余韻は数字の後にやってくるものですわ。さあ、ペンを持って!」
私の号令に、帝国最強の男が「御意……」と情けない声を上げながらデスクに向かう姿。
これもまた、私だけの特別な景色になりそうでした。
あなたにおすすめの小説
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
結婚結婚煩いので、愛人持ちの幼馴染と偽装結婚してみた
夏菜しの
恋愛
幼馴染のルーカスの態度は、年頃になっても相変わらず気安い。
彼のその変わらぬ態度のお陰で、周りから男女の仲だと勘違いされて、公爵令嬢エーデルトラウトの相手はなかなか決まらない。
そんな現状をヤキモキしているというのに、ルーカスの方は素知らぬ顔。
彼は思いのままに平民の娘と恋人関係を持っていた。
いっそそのまま結婚してくれれば、噂は間違いだったと知れるのに、あちらもやっぱり公爵家で、平民との結婚など許さんと反対されていた。
のらりくらりと躱すがもう限界。
いよいよ親が煩くなってきたころ、ルーカスがやってきて『偽装結婚しないか?』と提案された。
彼の愛人を黙認する代わりに、贅沢と自由が得られる。
これで煩く言われないとすると、悪くない提案じゃない?
エーデルトラウトは軽い気持ちでその提案に乗った。
真実の愛を見つけた婚約者(殿下)を尊敬申し上げます、婚約破棄致しましょう
さこの
恋愛
「真実の愛を見つけた」
殿下にそう告げられる
「応援いたします」
だって真実の愛ですのよ?
見つける方が奇跡です!
婚約破棄の書類ご用意いたします。
わたくしはお先にサインをしました、殿下こちらにフルネームでお書き下さいね。
さぁ早く!わたくしは真実の愛の前では霞んでしまうような存在…身を引きます!
なぜ婚約破棄後の元婚約者殿が、こんなに美しく写るのか…
私の真実の愛とは誠の愛であったのか…
気の迷いであったのでは…
葛藤するが、すでに時遅し…
やり直し令嬢は本当にやり直す
お好み焼き
恋愛
やり直しにも色々あるものです。婚約者に若い令嬢に乗り換えられ婚約解消されてしまったので、本来なら婚約する前に時を巻き戻すことが出来ればそれが一番よかったのですけれど、そんな事は神ではないわたくしには不可能です。けれどわたくしの場合は、寿命は変えられないけど見た目年齢は変えられる不老のエルフの血を引いていたお陰で、本当にやり直すことができました。一方わたくしから若いご令嬢に乗り換えた元婚約者は……。
公爵令嬢の辿る道
ヤマナ
恋愛
公爵令嬢エリーナ・ラナ・ユースクリフは、迎えた5度目の生に絶望した。
家族にも、付き合いのあるお友達にも、慕っていた使用人にも、思い人にも、誰からも愛されなかったエリーナは罪を犯して投獄されて凍死した。
それから生を繰り返して、その度に自業自得で凄惨な末路を迎え続けたエリーナは、やがて自分を取り巻いていたもの全てからの愛を諦めた。
これは、愛されず、しかし愛を求めて果てた少女の、その先の話。
※暇な時にちょこちょこ書いている程度なので、内容はともかく出来についてはご了承ください。
追記
六十五話以降、タイトルの頭に『※』が付いているお話は、流血表現やグロ表現がございますので、閲覧の際はお気を付けください。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
噂の悪女が妻になりました
はくまいキャベツ
恋愛
ミラ・イヴァンチスカ。
国王の右腕と言われている宰相を父に持つ彼女は見目麗しく気品溢れる容姿とは裏腹に、父の権力を良い事に贅沢を好み、自分と同等かそれ以上の人間としか付き合わないプライドの塊の様な女だという。
その名前は国中に知れ渡っており、田舎の貧乏貴族ローガン・ウィリアムズの耳にも届いていた。そんな彼に一通の手紙が届く。その手紙にはあの噂の悪女、ミラ・イヴァンチスカとの婚姻を勧める内容が書かれていた。
不貞の子を身籠ったと夫に追い出されました。生まれた子供は『精霊のいとし子』のようです。
桧山 紗綺
恋愛
【完結】嫁いで5年。子供を身籠ったら追い出されました。不貞なんてしていないと言っても聞く耳をもちません。生まれた子は間違いなく夫の子です。夫の子……ですが。 私、離婚された方が良いのではないでしょうか。
戻ってきた実家で子供たちと幸せに暮らしていきます。
『精霊のいとし子』と呼ばれる存在を授かった主人公の、可愛い子供たちとの暮らしと新しい恋とか愛とかのお話です。
※※番外編も完結しました。番外編は色々な視点で書いてます。
時系列も結構バラバラに本編の間の話や本編後の色々な出来事を書きました。
一通り主人公の周りの視点で書けたかな、と。
番外編の方が本編よりも長いです。
気がついたら10万文字を超えていました。
随分と長くなりましたが、お付き合いくださってありがとうございました!