『悪役令嬢は迷い犬を拾う』

恋守あい

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「……何かしら。この焦げ臭い匂いは。カミーユ、香炉の灰でもこぼしたの?」


公爵邸の別館。膨大な蔵書に囲まれた図書室で、ロザリエは眉をひそめた。


ここは彼女の「隠れ家」だ。本館の騒がしさから逃れ、古今東西の魔導書や毒物学の本を読み耽るための聖域。


だが、返事はない。カミーユは本館へ茶葉を取りに行かせたばかりだった。


「グルルル……ッ! ワンッ! ワンッ!」


足元で丸まっていたコロが、突如として飛び起きた。その瞳は獲物を狙う獣のように鋭く、扉の向こうを睨みつけている。


「どうしたのよ、コロ。そんなに吠えて……。……っ、熱い!?」


ロザリエが扉に手をかけようとした瞬間、凄まじい熱気が木材を透かして伝わってきた。


扉の隙間から、どろりと重たい黒煙が入り込んでくる。


「嘘でしょう……? ここは石造りのはずよ。火が回るのが早すぎるわ」


ロザリエは咄嗟にハンカチで口元を覆った。


外からはパチパチと木が爆ぜる音と、何かが激しく燃え上がる轟音が聞こえてくる。オイル――それも、魔導的に強化された延焼剤の匂いだ。


「あのクソ王子……! 刺客がダメなら、わたくしごと建物を焼き払うつもりね!」


窓へ駆け寄るが、そこには頑丈な鉄格子が嵌められている。本を盗難から守るための設備が、今は彼女を閉じ込める檻と化していた。


「……っ、ゴホッ! 扉はもうダメね。この熱さ、外は火の海だわ。……コロ! あんただけでも、あそこの換気口から――」


ロザリエが叫んだ時、コロが信じられない行動に出た。


彼はロザリエの足元に駆け寄ると、その小柄な体躯からは想像もできない力で、彼女のドレスの裾を強く引いた。


「ちょっと、何!? こっちには行き止まりの壁しかないわよ!」


「ワンッ! ワンッ!」


コロは部屋の隅、巨大な本棚の影にある、古びた暖炉を指して吠えた。


「暖炉? そんなところ、煙突が詰まっていて……。……待って、まさか」


ロザリエは思い出した。この別館は、かつてのアトラス公爵が愛人と忍び会うために改築した場所だ。どこかに隠し通路があるという噂を。


コロは暖炉の奥にある、特定のレンガを前脚で激しく叩いた。


「そこなのね!?」


ロザリエがレンガを押し込むと、ガコン、という重苦しい音と共に、暖炉の奥の壁がゆっくりと回転し始めた。


「やったわ! ……でも、狭すぎる。これじゃあ、ドレスを着たわたくしは……!」


火の手はすでに図書室のカーテンに燃え移り、天井から燃え盛る梁が崩れ落ちてくる。


「コロ、先に行きなさい! わたくしは……!」


その時、コロが「フンッ!」と短く息を吐いた。


次の瞬間、彼は壁際の大きな鉄製の燭台を口で咥え、テコの原理を利用して、回転が止まりかけていた隠し扉を力任せに抉じ開けたのだ。


鉄の軋む音が響き、扉が完全に開放される。


「……信じられない。あんた、本当に犬なの?」


「ワンッ!!」


早くしろ、と急かすような鳴き声。


ロザリエは意を決して、豪華なドレスのパニエを引きちぎり、狭い通路へと身を滑り込ませた。


背後で、図書室が轟音と共に崩落する。


暗く冷たい地下通路を、コロの白い尻尾を道標にして必死に走った。


どれくらい時間が経っただろうか。冷たい夜の空気が肌を刺した。


二人が辿り着いたのは、屋敷から数百メートル離れた庭園の古井戸の影だった。


「……はぁ、はぁ……。助かった……のかしら」


ロザリエは泥に汚れ、煤だらけになった姿で地面に座り込んだ。


遠くでは、彼女の愛した別館が、夜空を赤く染めながら激しく燃え上がっている。


「……フゥ」


隣で、コロが力尽きたように横たわった。その前脚はレンガを叩いた衝撃で皮が剥け、真っ赤に染まっている。


「コロ……。あんた、またわたくしを助けたのね」


ロザリエは、震える手で血の滲む肉球を包み込んだ。


「毒、落下物、刺客、そして火事……。わたくし、今までどれだけ幸運だけで生きてきたのかしら。いいえ、違うわね」


彼女は、炎に照らされるコロの横顔を見つめた。


「わたくしの『厄災』を、あんたが全部食い止めてくれているのね」


コロは静かに目を閉じ、ロザリエの膝に頭を乗せた。


「……いいわ。レオンハルト。あなたがわたくしを灰にしたいのなら、わたくしは地獄の業火になって、あなたの国ごと焼き尽くしてあげる」


ロザリエの瞳に宿る炎は、目の前の火事よりも遥かに熾烈で、静かな狂気を孕んでいた。
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