7 / 30
7
「……何かしら。この焦げ臭い匂いは。カミーユ、香炉の灰でもこぼしたの?」
公爵邸の別館。膨大な蔵書に囲まれた図書室で、ロザリエは眉をひそめた。
ここは彼女の「隠れ家」だ。本館の騒がしさから逃れ、古今東西の魔導書や毒物学の本を読み耽るための聖域。
だが、返事はない。カミーユは本館へ茶葉を取りに行かせたばかりだった。
「グルルル……ッ! ワンッ! ワンッ!」
足元で丸まっていたコロが、突如として飛び起きた。その瞳は獲物を狙う獣のように鋭く、扉の向こうを睨みつけている。
「どうしたのよ、コロ。そんなに吠えて……。……っ、熱い!?」
ロザリエが扉に手をかけようとした瞬間、凄まじい熱気が木材を透かして伝わってきた。
扉の隙間から、どろりと重たい黒煙が入り込んでくる。
「嘘でしょう……? ここは石造りのはずよ。火が回るのが早すぎるわ」
ロザリエは咄嗟にハンカチで口元を覆った。
外からはパチパチと木が爆ぜる音と、何かが激しく燃え上がる轟音が聞こえてくる。オイル――それも、魔導的に強化された延焼剤の匂いだ。
「あのクソ王子……! 刺客がダメなら、わたくしごと建物を焼き払うつもりね!」
窓へ駆け寄るが、そこには頑丈な鉄格子が嵌められている。本を盗難から守るための設備が、今は彼女を閉じ込める檻と化していた。
「……っ、ゴホッ! 扉はもうダメね。この熱さ、外は火の海だわ。……コロ! あんただけでも、あそこの換気口から――」
ロザリエが叫んだ時、コロが信じられない行動に出た。
彼はロザリエの足元に駆け寄ると、その小柄な体躯からは想像もできない力で、彼女のドレスの裾を強く引いた。
「ちょっと、何!? こっちには行き止まりの壁しかないわよ!」
「ワンッ! ワンッ!」
コロは部屋の隅、巨大な本棚の影にある、古びた暖炉を指して吠えた。
「暖炉? そんなところ、煙突が詰まっていて……。……待って、まさか」
ロザリエは思い出した。この別館は、かつてのアトラス公爵が愛人と忍び会うために改築した場所だ。どこかに隠し通路があるという噂を。
コロは暖炉の奥にある、特定のレンガを前脚で激しく叩いた。
「そこなのね!?」
ロザリエがレンガを押し込むと、ガコン、という重苦しい音と共に、暖炉の奥の壁がゆっくりと回転し始めた。
「やったわ! ……でも、狭すぎる。これじゃあ、ドレスを着たわたくしは……!」
火の手はすでに図書室のカーテンに燃え移り、天井から燃え盛る梁が崩れ落ちてくる。
「コロ、先に行きなさい! わたくしは……!」
その時、コロが「フンッ!」と短く息を吐いた。
次の瞬間、彼は壁際の大きな鉄製の燭台を口で咥え、テコの原理を利用して、回転が止まりかけていた隠し扉を力任せに抉じ開けたのだ。
鉄の軋む音が響き、扉が完全に開放される。
「……信じられない。あんた、本当に犬なの?」
「ワンッ!!」
早くしろ、と急かすような鳴き声。
ロザリエは意を決して、豪華なドレスのパニエを引きちぎり、狭い通路へと身を滑り込ませた。
背後で、図書室が轟音と共に崩落する。
暗く冷たい地下通路を、コロの白い尻尾を道標にして必死に走った。
どれくらい時間が経っただろうか。冷たい夜の空気が肌を刺した。
二人が辿り着いたのは、屋敷から数百メートル離れた庭園の古井戸の影だった。
「……はぁ、はぁ……。助かった……のかしら」
ロザリエは泥に汚れ、煤だらけになった姿で地面に座り込んだ。
遠くでは、彼女の愛した別館が、夜空を赤く染めながら激しく燃え上がっている。
「……フゥ」
隣で、コロが力尽きたように横たわった。その前脚はレンガを叩いた衝撃で皮が剥け、真っ赤に染まっている。
「コロ……。あんた、またわたくしを助けたのね」
ロザリエは、震える手で血の滲む肉球を包み込んだ。
「毒、落下物、刺客、そして火事……。わたくし、今までどれだけ幸運だけで生きてきたのかしら。いいえ、違うわね」
彼女は、炎に照らされるコロの横顔を見つめた。
「わたくしの『厄災』を、あんたが全部食い止めてくれているのね」
コロは静かに目を閉じ、ロザリエの膝に頭を乗せた。
「……いいわ。レオンハルト。あなたがわたくしを灰にしたいのなら、わたくしは地獄の業火になって、あなたの国ごと焼き尽くしてあげる」
ロザリエの瞳に宿る炎は、目の前の火事よりも遥かに熾烈で、静かな狂気を孕んでいた。
公爵邸の別館。膨大な蔵書に囲まれた図書室で、ロザリエは眉をひそめた。
ここは彼女の「隠れ家」だ。本館の騒がしさから逃れ、古今東西の魔導書や毒物学の本を読み耽るための聖域。
だが、返事はない。カミーユは本館へ茶葉を取りに行かせたばかりだった。
「グルルル……ッ! ワンッ! ワンッ!」
足元で丸まっていたコロが、突如として飛び起きた。その瞳は獲物を狙う獣のように鋭く、扉の向こうを睨みつけている。
「どうしたのよ、コロ。そんなに吠えて……。……っ、熱い!?」
ロザリエが扉に手をかけようとした瞬間、凄まじい熱気が木材を透かして伝わってきた。
扉の隙間から、どろりと重たい黒煙が入り込んでくる。
「嘘でしょう……? ここは石造りのはずよ。火が回るのが早すぎるわ」
ロザリエは咄嗟にハンカチで口元を覆った。
外からはパチパチと木が爆ぜる音と、何かが激しく燃え上がる轟音が聞こえてくる。オイル――それも、魔導的に強化された延焼剤の匂いだ。
「あのクソ王子……! 刺客がダメなら、わたくしごと建物を焼き払うつもりね!」
窓へ駆け寄るが、そこには頑丈な鉄格子が嵌められている。本を盗難から守るための設備が、今は彼女を閉じ込める檻と化していた。
「……っ、ゴホッ! 扉はもうダメね。この熱さ、外は火の海だわ。……コロ! あんただけでも、あそこの換気口から――」
ロザリエが叫んだ時、コロが信じられない行動に出た。
彼はロザリエの足元に駆け寄ると、その小柄な体躯からは想像もできない力で、彼女のドレスの裾を強く引いた。
「ちょっと、何!? こっちには行き止まりの壁しかないわよ!」
「ワンッ! ワンッ!」
コロは部屋の隅、巨大な本棚の影にある、古びた暖炉を指して吠えた。
「暖炉? そんなところ、煙突が詰まっていて……。……待って、まさか」
ロザリエは思い出した。この別館は、かつてのアトラス公爵が愛人と忍び会うために改築した場所だ。どこかに隠し通路があるという噂を。
コロは暖炉の奥にある、特定のレンガを前脚で激しく叩いた。
「そこなのね!?」
ロザリエがレンガを押し込むと、ガコン、という重苦しい音と共に、暖炉の奥の壁がゆっくりと回転し始めた。
「やったわ! ……でも、狭すぎる。これじゃあ、ドレスを着たわたくしは……!」
火の手はすでに図書室のカーテンに燃え移り、天井から燃え盛る梁が崩れ落ちてくる。
「コロ、先に行きなさい! わたくしは……!」
その時、コロが「フンッ!」と短く息を吐いた。
次の瞬間、彼は壁際の大きな鉄製の燭台を口で咥え、テコの原理を利用して、回転が止まりかけていた隠し扉を力任せに抉じ開けたのだ。
鉄の軋む音が響き、扉が完全に開放される。
「……信じられない。あんた、本当に犬なの?」
「ワンッ!!」
早くしろ、と急かすような鳴き声。
ロザリエは意を決して、豪華なドレスのパニエを引きちぎり、狭い通路へと身を滑り込ませた。
背後で、図書室が轟音と共に崩落する。
暗く冷たい地下通路を、コロの白い尻尾を道標にして必死に走った。
どれくらい時間が経っただろうか。冷たい夜の空気が肌を刺した。
二人が辿り着いたのは、屋敷から数百メートル離れた庭園の古井戸の影だった。
「……はぁ、はぁ……。助かった……のかしら」
ロザリエは泥に汚れ、煤だらけになった姿で地面に座り込んだ。
遠くでは、彼女の愛した別館が、夜空を赤く染めながら激しく燃え上がっている。
「……フゥ」
隣で、コロが力尽きたように横たわった。その前脚はレンガを叩いた衝撃で皮が剥け、真っ赤に染まっている。
「コロ……。あんた、またわたくしを助けたのね」
ロザリエは、震える手で血の滲む肉球を包み込んだ。
「毒、落下物、刺客、そして火事……。わたくし、今までどれだけ幸運だけで生きてきたのかしら。いいえ、違うわね」
彼女は、炎に照らされるコロの横顔を見つめた。
「わたくしの『厄災』を、あんたが全部食い止めてくれているのね」
コロは静かに目を閉じ、ロザリエの膝に頭を乗せた。
「……いいわ。レオンハルト。あなたがわたくしを灰にしたいのなら、わたくしは地獄の業火になって、あなたの国ごと焼き尽くしてあげる」
ロザリエの瞳に宿る炎は、目の前の火事よりも遥かに熾烈で、静かな狂気を孕んでいた。
あなたにおすすめの小説
「やはり鍛えることは、大切だな」
イチイ アキラ
恋愛
「こんなブスと結婚なんていやだ!」
その日、一つのお見合いがあった。
ヤロール伯爵家の三男、ライアンと。
クラレンス辺境伯家の跡取り娘、リューゼットの。
そして互いに挨拶を交わすその場にて。
ライアンが開幕早々、ぶちかましたのであった。
けれども……――。
「そうか。私も貴様のような生っ白くてか弱そうな、女みたいな顔の屑はごめんだ。気が合うな」
4人の女
猫枕
恋愛
カトリーヌ・スタール侯爵令嬢、セリーヌ・ラルミナ伯爵令嬢、イネス・フーリエ伯爵令嬢、ミレーユ・リオンヌ子爵令息夫人。
うららかな春の日の午後、4人の見目麗しき女性達の優雅なティータイム。
このご婦人方には共通点がある。
かつて4人共が、ある一人の男性の妻であった。
『氷の貴公子』の異名を持つ男。
ジルベール・タレーラン公爵令息。
絶対的権力と富を有するタレーラン公爵家の唯一の後継者で絶世の美貌を持つ男。
しかしてその本性は冷酷無慈悲の女嫌い。
この国きっての選りすぐりの4人のご令嬢達は揃いも揃ってタレーラン家を叩き出された仲間なのだ。
こうやって集まるのはこれで2回目なのだが、やはり、話は自然と共通の話題、あの男のことになるわけで・・・。
【完結】悪役令嬢の反撃の日々
ほーみ
恋愛
「ロゼリア、お茶会の準備はできていますか?」侍女のクラリスが部屋に入ってくる。
「ええ、ありがとう。今日も大勢の方々がいらっしゃるわね。」ロゼリアは微笑みながら答える。その微笑みは氷のように冷たく見えたが、心の中では別の計画を巡らせていた。
お茶会の席で、ロゼリアはいつものように優雅に振る舞い、貴族たちの陰口に耳を傾けた。その時、一人の男性が現れた。彼は王国の第一王子であり、ロゼリアの婚約者でもあるレオンハルトだった。
「ロゼリア、君の美しさは今日も輝いているね。」レオンハルトは優雅に頭を下げる。
悪女と呼ばれた王妃
アズやっこ
恋愛
私はこの国の王妃だった。悪女と呼ばれ処刑される。
処刑台へ向かうと先に処刑された私の幼馴染み、私の護衛騎士、私の従者達、胴体と頭が離れた状態で捨て置かれている。
まるで屑物のように足で蹴られぞんざいな扱いをされている。
私一人処刑すれば済む話なのに。
それでも仕方がないわね。私は心がない悪女、今までの行いの結果よね。
目の前には私の夫、この国の国王陛下が座っている。
私はただ、
貴方を愛して、貴方を護りたかっただけだったの。
貴方のこの国を、貴方の地位を、貴方の政務を…、
ただ護りたかっただけ…。
だから私は泣かない。悪女らしく最後は笑ってこの世を去るわ。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ ゆるい設定です。
❈ 処刑エンドなのでバットエンドです。
結婚結婚煩いので、愛人持ちの幼馴染と偽装結婚してみた
夏菜しの
恋愛
幼馴染のルーカスの態度は、年頃になっても相変わらず気安い。
彼のその変わらぬ態度のお陰で、周りから男女の仲だと勘違いされて、公爵令嬢エーデルトラウトの相手はなかなか決まらない。
そんな現状をヤキモキしているというのに、ルーカスの方は素知らぬ顔。
彼は思いのままに平民の娘と恋人関係を持っていた。
いっそそのまま結婚してくれれば、噂は間違いだったと知れるのに、あちらもやっぱり公爵家で、平民との結婚など許さんと反対されていた。
のらりくらりと躱すがもう限界。
いよいよ親が煩くなってきたころ、ルーカスがやってきて『偽装結婚しないか?』と提案された。
彼の愛人を黙認する代わりに、贅沢と自由が得られる。
これで煩く言われないとすると、悪くない提案じゃない?
エーデルトラウトは軽い気持ちでその提案に乗った。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
上手に騙してくださらなかった伯爵様へ
しきど
恋愛
アイルザート・ルテシオ伯爵は十七歳で家督を継いだ方だ。
文武両道、容姿端麗、人柄も良く領民の誰からも愛される方だった。そんな若き英雄の婚約者に選ばれたメリッサ・オードバーン子爵令嬢は、自身を果報者と信じて疑っていなかった。
彼が屋敷のメイドと関係を持っていると知る事になる、その時までは。
貴族に愛人がいる事など珍しくもない。そんな事は分かっているつもりだった。分かっていてそれでも、許せなかった。
メリッサにとってアイルザートは、本心から愛した人だったから。