15 / 30
15話
「……地獄。ここは、甘い香りのする地獄だわ」
アンテラは、王宮の自室にある豪華な長椅子に横たわり、遠い目をして呟いた。
王子の宣言通り、この部屋は「聖域」という名の密室と化した。
扉の外には近衛騎士が立ち、中には世界で最も顔が良い「溺愛マシーン」こと、ゼノン殿下が常駐している。
「アンテラ、次はどのフルーツを食べる? この瑞々しいマスカットか、それとも真っ赤な完熟の苺か。……マスカットは皮を剥く手間があるから、私が剥いてやろう。苺はそのまま食べられるが、練乳をかけるか迷うところだな」
ゼノンは、アンテラの口元にフォークを差し出しながら、至極真面目な顔で尋ねた。
「……殿下。自分で食べられますわ。というか、今は何も食べたくありません。……ただ、重力に従って、そのまま溶けて消えてしまいたいだけなんです」
「いけないな、アンテラ。君が溶けてしまったら、私は誰を愛せばいい。……ほら、選べ。マスカットか、苺か。君が決められないなら、両方を交互に口に運んでやろう」
(……出たわ。究極の二択。……マスカットは美味しいけれど、噛むと果汁が飛び散りそう。苺は甘いけれど、種が歯に挟まったら取るのが面倒……。……ああ、どうしましょう。どっちを選べば、殿下が満足して早く執務に戻ってくれるのかしら)
アンテラは、差し出された二つの果実を交互に見つめて、脳内で壮絶なシミュレーションを開始した。
しかし、彼女の「優柔不断」は、果実一つ選ぶのにも膨大な時間を要求する。
五分後。
「アンテラ……。そんなに真剣に悩むほど、私の愛を吟味してくれているのだな?」
「……いえ。単に、噛む回数が少ない方はどちらかしらと考えていただけです」
「ふっ、君のそういう無欲なところも好きだ。……よし、決められないなら私の口から……」
「……えっ!?」
ゼノンが危険な動きを見せた。
このままでは、別の意味で面倒な事態になる。
アンテラは慌てて体を起こそうとした。
ところが。
「あ」
本日一回目の、ドジである。
急いで起き上がろうとしたアンテラの膝が、ゼノンが持っていたフルーツ皿の端を跳ね上げた。
ガシャン!
空中に舞ったマスカットと苺たちが、王子の高価な絹のシャツに見事な模様を描いて着地する。
さらに、皿に残っていた練乳が、ゼノンの膝の上に、まるでお手本のような白い染みを作った。
「…………あっ」
アンテラは、固まった。
王子の服を汚すのは、これで何度目だろうか。
不敬罪という言葉が、彼女の頭の中で「おやすみなさい」という文字と一緒に踊り始める。
「……殿下、その。……芸術的ですね? 白いキャンバスに、緑と赤のアクセント。……拭きます、今すぐ拭きますわ!」
アンテラは、慌てて手近にあった布を掴んで、ゼノンの膝の上をゴシゴシと擦った。
しかし、その布は彼女自身の薄手のネグリジェの裾だった。
「……アンテラ」
ゼノンの声が、今まで聞いたことがないほど掠れていた。
顔を上げると、至近距離に王子の熱っぽい瞳がある。
彼の顔は、なぜか耳の付け根まで赤く染まっていた。
「……その、拭き方は……。……私を、誘惑しているのか?」
「……はい?」
アンテラは、自分の手の動きを見た。
王子の膝の上、練乳がついた部分を、自分の服の裾で必死に擦っている。
客観的に見れば、それは極めて扇情的な光景だったかもしれない。
「違います! 私はただ、染みを最小限に抑えようと……!」
「わかっている。……君は、言葉では『面倒だ』と言いながら、体はこんなにも情熱的に私を求めているのだな。……拭くのはもういい。……染みなど、愛の証だ」
ゼノンはアンテラの手首を掴み、そのまま長椅子の上に彼女を優しく押し倒した。
「……殿下、近いです。……あと、重いです。……私、今からお昼寝をする予定で……」
「一緒に寝よう。……一週間、外には出さないと言っただろう? 君が望むなら、このまま……」
(……だめだわ。この人、私のドジを全部『情事への誘い』に変換してる……!)
アンテラは、絶望的な気分で天井を見上げた。
本来なら、ここで「嫌です」とはっきり断るべきなのだろう。
しかし、それを説明し、王子の重すぎる情熱を説得し、納得させるまでにかかる時間と労力を計算した瞬間、彼女の脳は白旗を上げた。
「……もう、いいですわ。……お好きなようにしてください。……ただし、静かに寝かせてくださいね……」
「……アンテラ。なんて……なんて従順で、愛おしい女なんだ……!」
ゼノンは感動のあまり、アンテラの首筋に顔を埋めた。
アンテラは、その温もりを感じながら、ぼんやりと思った。
(……ああ。こうして私は、悪役令嬢から王妃への階段を、一段飛ばしで転げ落ちていくのね。……転がるのって、歩くよりは楽だけど……着地点が王宮の奥底なのは、ちょっと計算外だったわ……)
密室の「聖域」は、アンテラの予想を遥かに超えた熱量で、彼女の平穏を焼き尽くしていくのであった。
アンテラは、王宮の自室にある豪華な長椅子に横たわり、遠い目をして呟いた。
王子の宣言通り、この部屋は「聖域」という名の密室と化した。
扉の外には近衛騎士が立ち、中には世界で最も顔が良い「溺愛マシーン」こと、ゼノン殿下が常駐している。
「アンテラ、次はどのフルーツを食べる? この瑞々しいマスカットか、それとも真っ赤な完熟の苺か。……マスカットは皮を剥く手間があるから、私が剥いてやろう。苺はそのまま食べられるが、練乳をかけるか迷うところだな」
ゼノンは、アンテラの口元にフォークを差し出しながら、至極真面目な顔で尋ねた。
「……殿下。自分で食べられますわ。というか、今は何も食べたくありません。……ただ、重力に従って、そのまま溶けて消えてしまいたいだけなんです」
「いけないな、アンテラ。君が溶けてしまったら、私は誰を愛せばいい。……ほら、選べ。マスカットか、苺か。君が決められないなら、両方を交互に口に運んでやろう」
(……出たわ。究極の二択。……マスカットは美味しいけれど、噛むと果汁が飛び散りそう。苺は甘いけれど、種が歯に挟まったら取るのが面倒……。……ああ、どうしましょう。どっちを選べば、殿下が満足して早く執務に戻ってくれるのかしら)
アンテラは、差し出された二つの果実を交互に見つめて、脳内で壮絶なシミュレーションを開始した。
しかし、彼女の「優柔不断」は、果実一つ選ぶのにも膨大な時間を要求する。
五分後。
「アンテラ……。そんなに真剣に悩むほど、私の愛を吟味してくれているのだな?」
「……いえ。単に、噛む回数が少ない方はどちらかしらと考えていただけです」
「ふっ、君のそういう無欲なところも好きだ。……よし、決められないなら私の口から……」
「……えっ!?」
ゼノンが危険な動きを見せた。
このままでは、別の意味で面倒な事態になる。
アンテラは慌てて体を起こそうとした。
ところが。
「あ」
本日一回目の、ドジである。
急いで起き上がろうとしたアンテラの膝が、ゼノンが持っていたフルーツ皿の端を跳ね上げた。
ガシャン!
空中に舞ったマスカットと苺たちが、王子の高価な絹のシャツに見事な模様を描いて着地する。
さらに、皿に残っていた練乳が、ゼノンの膝の上に、まるでお手本のような白い染みを作った。
「…………あっ」
アンテラは、固まった。
王子の服を汚すのは、これで何度目だろうか。
不敬罪という言葉が、彼女の頭の中で「おやすみなさい」という文字と一緒に踊り始める。
「……殿下、その。……芸術的ですね? 白いキャンバスに、緑と赤のアクセント。……拭きます、今すぐ拭きますわ!」
アンテラは、慌てて手近にあった布を掴んで、ゼノンの膝の上をゴシゴシと擦った。
しかし、その布は彼女自身の薄手のネグリジェの裾だった。
「……アンテラ」
ゼノンの声が、今まで聞いたことがないほど掠れていた。
顔を上げると、至近距離に王子の熱っぽい瞳がある。
彼の顔は、なぜか耳の付け根まで赤く染まっていた。
「……その、拭き方は……。……私を、誘惑しているのか?」
「……はい?」
アンテラは、自分の手の動きを見た。
王子の膝の上、練乳がついた部分を、自分の服の裾で必死に擦っている。
客観的に見れば、それは極めて扇情的な光景だったかもしれない。
「違います! 私はただ、染みを最小限に抑えようと……!」
「わかっている。……君は、言葉では『面倒だ』と言いながら、体はこんなにも情熱的に私を求めているのだな。……拭くのはもういい。……染みなど、愛の証だ」
ゼノンはアンテラの手首を掴み、そのまま長椅子の上に彼女を優しく押し倒した。
「……殿下、近いです。……あと、重いです。……私、今からお昼寝をする予定で……」
「一緒に寝よう。……一週間、外には出さないと言っただろう? 君が望むなら、このまま……」
(……だめだわ。この人、私のドジを全部『情事への誘い』に変換してる……!)
アンテラは、絶望的な気分で天井を見上げた。
本来なら、ここで「嫌です」とはっきり断るべきなのだろう。
しかし、それを説明し、王子の重すぎる情熱を説得し、納得させるまでにかかる時間と労力を計算した瞬間、彼女の脳は白旗を上げた。
「……もう、いいですわ。……お好きなようにしてください。……ただし、静かに寝かせてくださいね……」
「……アンテラ。なんて……なんて従順で、愛おしい女なんだ……!」
ゼノンは感動のあまり、アンテラの首筋に顔を埋めた。
アンテラは、その温もりを感じながら、ぼんやりと思った。
(……ああ。こうして私は、悪役令嬢から王妃への階段を、一段飛ばしで転げ落ちていくのね。……転がるのって、歩くよりは楽だけど……着地点が王宮の奥底なのは、ちょっと計算外だったわ……)
密室の「聖域」は、アンテラの予想を遥かに超えた熱量で、彼女の平穏を焼き尽くしていくのであった。
あなたにおすすめの小説
お姉さまは最愛の人と結ばれない。
りつ
恋愛
――なぜならわたしが奪うから。
正妻を追い出して伯爵家の後妻になったのがクロエの母である。愛人の娘という立場で生まれてきた自分。伯爵家の他の兄弟たちに疎まれ、毎日泣いていたクロエに手を差し伸べたのが姉のエリーヌである。彼女だけは他の人間と違ってクロエに優しくしてくれる。だからクロエは姉のために必死にいい子になろうと努力した。姉に婚約者ができた時も、心から上手くいくよう願った。けれど彼はクロエのことが好きだと言い出して――
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
姉の引き立て役の私は
ぴぴみ
恋愛
アリアには完璧な姉がいる。姉は美人で頭も良くてみんなに好かれてる。
「どうしたら、お姉様のようになれるの?」
「ならなくていいのよ。あなたは、そのままでいいの」
姉は優しい。でもあるとき気づいて─
結婚結婚煩いので、愛人持ちの幼馴染と偽装結婚してみた
夏菜しの
恋愛
幼馴染のルーカスの態度は、年頃になっても相変わらず気安い。
彼のその変わらぬ態度のお陰で、周りから男女の仲だと勘違いされて、公爵令嬢エーデルトラウトの相手はなかなか決まらない。
そんな現状をヤキモキしているというのに、ルーカスの方は素知らぬ顔。
彼は思いのままに平民の娘と恋人関係を持っていた。
いっそそのまま結婚してくれれば、噂は間違いだったと知れるのに、あちらもやっぱり公爵家で、平民との結婚など許さんと反対されていた。
のらりくらりと躱すがもう限界。
いよいよ親が煩くなってきたころ、ルーカスがやってきて『偽装結婚しないか?』と提案された。
彼の愛人を黙認する代わりに、贅沢と自由が得られる。
これで煩く言われないとすると、悪くない提案じゃない?
エーデルトラウトは軽い気持ちでその提案に乗った。
後妻の条件を出したら……
しゃーりん
恋愛
妻と離婚した伯爵令息アークライトは、友人に聞かれて自分が後妻に望む条件をいくつか挙げた。
格上の貴族から厄介な女性を押しつけられることを危惧し、友人の勧めで伯爵令嬢マデリーンと結婚することになった。
だがこのマデリーン、アークライトの出した条件にそれほどズレてはいないが、貴族令嬢としての教育を受けていないという驚きの事実が発覚したのだ。
しかし、明るく真面目なマデリーンをアークライトはすぐに好きになるというお話です。
悪女と呼ばれた王妃
アズやっこ
恋愛
私はこの国の王妃だった。悪女と呼ばれ処刑される。
処刑台へ向かうと先に処刑された私の幼馴染み、私の護衛騎士、私の従者達、胴体と頭が離れた状態で捨て置かれている。
まるで屑物のように足で蹴られぞんざいな扱いをされている。
私一人処刑すれば済む話なのに。
それでも仕方がないわね。私は心がない悪女、今までの行いの結果よね。
目の前には私の夫、この国の国王陛下が座っている。
私はただ、
貴方を愛して、貴方を護りたかっただけだったの。
貴方のこの国を、貴方の地位を、貴方の政務を…、
ただ護りたかっただけ…。
だから私は泣かない。悪女らしく最後は笑ってこの世を去るわ。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ ゆるい設定です。
❈ 処刑エンドなのでバットエンドです。
噂の悪女が妻になりました
はくまいキャベツ
恋愛
ミラ・イヴァンチスカ。
国王の右腕と言われている宰相を父に持つ彼女は見目麗しく気品溢れる容姿とは裏腹に、父の権力を良い事に贅沢を好み、自分と同等かそれ以上の人間としか付き合わないプライドの塊の様な女だという。
その名前は国中に知れ渡っており、田舎の貧乏貴族ローガン・ウィリアムズの耳にも届いていた。そんな彼に一通の手紙が届く。その手紙にはあの噂の悪女、ミラ・イヴァンチスカとの婚姻を勧める内容が書かれていた。