雑多な短編

八紘一宇

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蛇殺し

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この村にはある信仰がある。

村の東にある山。その山をひたすら東に進むと切り立った岩山とそこを流れる細い川がある。その川にこれ以上ないほど美しい鹿が住んでいる。この村ではその鹿を神として信仰しているのだ。何せその鹿は村の危機に現れ、その度に村に救いをもたらしてきたとされている。
ただ私は、それをどこか信用出来なかった。
私自身猟師であるということもあるが、ただの鹿に一体どんな感傷を抱くのだろうかという疑問と、自らが理解しえない存在を無条件に信仰してしまう村の連中の愚かさというものが、なによりも受け入れ難かった。

私の家は代々猟師であった。農業が盛んで、且つ教会の宗教ではなく自然信仰を是とするこの村においては私たち家族はあまり善い立場ではなかった。父が身の丈の倍ほどの鹿を狩ってきた時も村の人間の第一声は侮蔑の類であったことを覚えている。彼らにはこの仕事の崇高さが分からないのだと父は度々言っていた。山という、信仰も信条も全てが剥がされる場で、ひとつの生き物として裸で他の生物と命のやり取りを行う。これこそが人間がすべき行為だと説く父の言葉に子供ながら納得していた。

その年の冬はいつもよりも早く来た。例年であれば秋の終わりに全ての麦を収穫し、十分に税を納め、村の人間に食わせるだけの量の麦があるはずであったが、その冬はいつもよりひと月ほど早く、またかつてないほどの寒さを引き連れていた。村にあった全ての麦は寒さにやられ一つ残らず枯れてしまったのだ。

村の人々は必死に神に祈った。私たちはなんの罪も犯していない。だから救いを、情けを、憐れみを、と。私には彼らの行為の全てが、唾でも吐きかけるべき愚かしい行為の総体にしか見えなかった。自身は行動もせず、ただ外なる他者に運命を委ねるとは何たる怠慢か。このままでは、税は収められず村全員の責任となるだろうし、この寒さの冬を越すだけの食事の蓄えもない。祈りながら終わりを待つだなんて愚鈍極まりないことだ。

そう思い私はひとつの考えに至った。そうだ、例の鹿を狩ろう。その鹿を殺せばこの無能どもも自身が信仰している神がただの肉塊に過ぎないことに気づくだろうし、美しい鹿であれば、どこぞの金持ちにでも売れるだろう。そうしたら税と冬の問題は解決出来る。

村で信仰されている鹿を狩る。その考えは、私にはこれ以上ない解決の道筋に見えたのだ。そうと決まれば行動は早い。私は代々受け継がれてきた長弓を手に取り、東の山へと向かった。

山は冬のごとき寒さを前にまだ紅葉を保っていたが、東に行くにつれて葉の数も木の数も減っていった。

いよいよ私はその鹿がいるという川に着いた。
あとは良い位置を探してそこにて座して待つのみだ。

その鹿は、美しいだけではなかった。1000年前から生きているだの、人間と言葉を交わすだの様々な噂があった。だからこそ私の村の人々は何も考えずそれを信仰していた訳だが、私はそんなものは信じない。山に入った以上信仰は捨てる。薄布1枚隔てた向こうは、野生が私の命を削り取っている。これこそが人だ。どれほど精神で飾り立てても、この山に入れば人間もただの動物に過ぎない。風が増した。私はもっと厚着をしてくればよかったと遅い後悔をした。

風の日が2日、雨の日が2日続いたのち、雪の日が3日続いた。
いよいよ冬であるかと私は身構えたが、私が構えた場所は、ある程度は雨風がしのげる岩肌のくぼみであったためそこまで辛くはなかった。
ちょうど川の流れの緩やかな場所が見渡せる位置であり、ここであれば水を飲みに来る獣がいればすぐにわかるだろうと考えた。
しかしながらこの一週間でここに水を飲みに来る獣はほとんど居なかった。
当たり前だ。植物も大して無い岩肌で、身を隠す場所もないこんな水辺に来るなんて迂闊な真似は獣の本能が許さないだろう。だからこそここに水を飲みに来る唯一の鹿こそが私の目当てであると確信をもてる。

雪が降り始めて3日目の日の夕方、私は僅かに風が強まるのを感じた。
伊達に猟師を生業にしている訳では無い、山の気候の急激な変化には敏感なつもりだ。けれどもその時は、なんの予兆もなく天気が急変した。
私は本当に超常的な何かが存在するのかと周囲に気を張る。

いた。

灰色の空の下、こちらに向かって木々の間をゆるりと闊歩する獣の姿が僅かに見えた。

焦るなと自分に言い聞かせる。

私はそっと山をおり、川に近づいた。
こちらは風下、音を立てずに移動するのも慣れている。
いい位置どりをできたと思い油断したのか、わたしは愚かにも奴の姿を見失った。
移動する方向と速度からここに向かうと推測したがどうにも私の予測と外れたらしい。

焦ってくだらないミスをしたと思わず舌打ちをしてしまった。

また別の場所に張り直すかと諦めた時、川上よりなにかの気配を感じた。

それこそ、私が張っていた場所よりはるかに上の方からなにかが近づいていると確信させるだけの威圧感を持った存在が近づいてきたのだ。

私は思わず弓を構え直し、身を隠しながら川上の様子を伺った。

何がいるかは分からないが、それが間違いなくただの鹿では無いことは理解出来た。

私はもはや猟師としての本能を忘れ、純粋な興味で自らもそれに近づき始めた。


私とそれはようやく邂逅した。

その鹿はやはりというか、人が言うところの美しいという枠に収まらない程の威圧感を放っていた。

川の流れのように滑らかな体の形、私の心の奥底まで見透かすような濡れた瞳、そして何よりも特徴的なのはその角。樹木のように無数に枝が折り重なった形状をしており、私にはそれがふたつの雪の結晶を頭に冠しているように見えた。

王鹿サンドラ、それがこの鹿の名前であることを私は唐突に思い出した。

サンドラはこの地方の古い言葉で結晶を意味する。

私はなぜこの鹿にその名が授けられたのかを理解した。

鹿は、いやサンドラは私を見つめたまま滑らかに、しかし悠然とこちらに向かって歩いてきた。
歩き方さえも、その鹿を構成する全ての要素は私に美しいと感じさせるに十分であった。

サンドラの周りには鹿の群れがあった。

鹿は基本群れを作る生き物では無い、特にオスとなれば単独で行動することが多い。だからこそこの光景が何よりも異様に移るのだ。
美しく巨大な1匹の鹿を中心に移動する鹿の群れ。私は再び彼の鹿の名に王という言葉が冠していることを理解する。

気づけば鹿の群れは私を取り囲み、王は情けなく膝立ちで呆然としている私の前にいた。

私に近づいた鹿は私の顔を、その美しい濡れた瞳でおもむろに観察した。さも珍しい生き物を見るかのような瞳で。
私も思わず覗き返すが、その真黒な瞳には何も映っていなかった。ただひたすらに吸い込まれそうな深淵がこちらに微笑んでいるように見え、私はこの生き物への自分の感情を処理できなくなり始めた。

私はこの鹿をどうしたいのだろうか。最初は殺すつもりできたのに、今私の顔を覗き込むその生き物に圧倒されている。無垢であり、また全てを知っているようにも見えるその顔は、私に美しいと感じさせるのに十分な輝きを放っていた。

私は殺意なく、弓を手放した。この鹿を殺して村に持って帰ることなどできまい。

私は言葉は通じないと思いつつ、サンドラに向かって告白する。

「私の村は、今飢えています。作物は実らず、税の取り立ても間に合いません。このままでは越冬もままならないでしょう。私は、あなたを殺してそれで冬をしのごうとしました。あわよくば金になればと。今はそんな意思はありません。お願いいたします。どうか私の村を救ってください。自分勝手な願いなのはわかりますが、私以外の村人はあなたを信じていまも祈りを捧げているでしょう。ですからどうか、お願いいたします。」

私はサンドラに向かって首を下げた。自分でも何をしているのかわからない。けれども手ぶらで帰る気概もないのだ。本来このエリアは狩りをしてはいけない山だ。猟師の立ち入りすら許されない。

サンドラは、私から顔をそらし、そのまま踵を返した。

その後ろ姿から、なぜサンドラが木々の少ない岩山に住んでいるか理解した。あの角では森を移動するのも一苦労だろうし、群れで過ごすにも周りに当たってしまうだろう。だから自らの身を危険に晒してもこのひらけた場所に住んでいるのだ。

聞き入れてもらえたのだろうか、と思うと、サンドラは天に向かって三度鳴いた。

その声は、甲高く、鋭く、耳に残る響きであった。それを最後に私は気を失ってしまった。




気づけば私は自分の家にいた。

三日ほど前に山の入り口で倒れていたと、介抱した村人が教えてくれた。

現実的な解決策のないまま村に戻ってしまったと私は思わず落胆した。

だが、村ではお祭り騒ぎになっていた。何が起きているのかと思うと、村の麦が全て元に戻っているとのことだ。それに加え例年よりも実りがいいらしい。

税を支払っても余りあるほどの余剰が村に蓄えられる。

私はきっとサンドラのおかげだと理解した。あの情けない願いが聞き入れてもらえたのだろうと思うと少し恥ずかしい気持ちさえする。

村の入り口で倒れていた私は、見事に磨かれた鹿の角と麦を一本手に握っていたという。

それを見た村の人々は、私が彼の鹿に直談判しに行ったと思いこみ、大きく感謝していた。

正直彼らの豹変ぶりは見てて気分が悪いが、私は一概に彼らを否定しきれない気持ちがあった。
彼らがあの美しい生き物に何か超常的なものを感じる観念はこれ以上ないほど理解できたのだから。

私の周りで興奮して話す村人を追い出し、ようやく家が落ち着いたところで私の弓がどこにも見当たらないことに気づく。

豊作の代償として持って行かれたのだろうか。

悲しいはずなのに、どこか安心したような気が湧いてくる。


父が間違っているとは思わない。けれども私にはあの鹿を殺すことは人間として無理だ。
きっと自然の中には人間が手を触れてはならない存在があるのだ。
あの鹿はその類いだ。私という裸の猟師が一人立ち向かったところで到底かないもしない超自然的な存在で、私はそれに負けたのだ。だからこそ、私の唯一の武器である弓は私の手を離れ、願いの結果のみがここに残っている。

鹿は特に意味もなく人に干渉しない。

彼の鹿が何を思って私の話を聞いてくれたのかはわからないが、もう猟師はやめろということだろうか。
正直鹿の美しさに当てられてしまった今では、かつてのように鹿を狩ることはできないのだからちょうど良かったのかもしれない。

窓から吹き込む風はまだ強く、弱った体によく響く。


ベッドに横たわった私は村の喧騒を聞きながら、山の奥に住む孤独な王を思って再び目を閉じた。
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