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ポーチの中に、本
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そしてそのポーチはすぐに返すことができた。
何日も待つことはなかった。翌日も彼は同じ車両に乗ってきてくれたので。
美雪は、ほっとした。同時に緊張も感じたけれど。
初めて話しかける。落とし物を拾った、という単純な用事にすぎないけれど。それでも、いくら毎日のように見かけていても、向き合うのは初めてのひとだ。緊張して当たり前だろう。
彼が乗ってきて、少し離れたところに立ったとき。美雪は思い切って席を立った。
席をあとにして、すたすたとそちらへ向かう。
今日もいつもどおり、すし詰めというほどではないが、それなりにひとがたくさん乗っていた。座っていた席は、誰かにすぐに取られてしまっただろう。別に構わなかったけれど。
「あの」
美雪は近くに寄って、声をかけた。
美雪の呼びかけ。今度ははっきり『自分に向けられている』と感じてくれたのだろう。
彼はスマホから顔を上げてこちらを見た。不思議そうな表情に変わる。その顔は、優しそうな目元をしていた。
「なにか……?」
彼はそれだけ言った。捕まえられたことに、美雪は、ほっとした。しかし同時に緊張も強くなる。
落とし物を拾ったのだ。迷惑ということはないだろうけども。
「昨日、これ、落としませんでしたか」
美雪は昨日と同じように入れていたサブバッグから、ポーチを出した。彼に見せる。
彼はすぐに目を丸くした。明らかに自分のものと察してくれた顔であった。
「えっ、はい。俺のです。どうして……」
不思議そうな声に、美雪は答えた。
「昨日、降りるときに落としていかれたんです」
彼は合点のいった、という顔をする。
「ああ……電車で落としたのかぁ……。いや、ありがとうございます。助かりました」
そしてそれがどんどん安堵に変わっていった。大切なものだったのだろう。
落とし物であること以外、美雪としては、中身がなんなのか、そして彼にとってどういう位置付けのものなのかまるでわかっていなかった、それ。
どうやらなくして、困るかがっかりするか……マイナスの気持ちになっていたようだ。
拾って保護しておいて良かった。美雪の顔にも安堵が浮かんだだろう。
どうぞ、と渡すと彼は受け取ってくれて、またお礼を言ってくれた。
「中身は落ちてなかったと思いますけど」
密閉できるものではないので、彼はその点が気になるだろうと思って、美雪は何気なく言った。しかし、彼はきょとんとする。
「あ、そうなんですね。それは良かった……、あれ。なにか入ってるの、わかりましたか」
言われて美雪はやっと、はっと思い当たった。そして焦ってしまう。一気に恥ずかしくなった。
確かに、見た目はハンカチなのだ。中になにか入っているのがわかった、ということはつまり。
「えっ、あの、中身は見てなくて、ただなにか入っている感触がしましたし、あと拾ったとき、床にはほかになにも残っていなかったので……」
勝手にひとの持ち物を開けたり、中を見たりしたと思われてしまうのは困る。それほどお行儀は悪くない。
そして美雪の言ったことで焦るのは、今度は彼の番であった。
「え! ……あっすみません! 疑うようなことを……拾ってくださったのに……」
お互いあわあわと言い合ってしまい、そしてしばらく妙な空気が漂った。
数秒、お互いなにも言わなかったけれど、ふと美雪は視線を違うところへ向けた。
それは彼がまだ手にしていたスマホ。今日も『本』はくっついていた。
昨日も同じものがついていたのを知っていた。ちらっと目にした、青い表紙の本。
「あの、それは、本ですか」
美雪の質問と、視線を追って、すぐにその意味をわかってくれたようだ。けれど彼は驚いたような顔をする。
「ええ、はい。そうですけど」
彼は自分のスマホをちょっと持ち上げて眺める。ふらっと揺れたストラップの『本』。
青い表紙。
左上に、キナリ色の長方形。
その中になにか文字。
ただしこの文字は潰れていてほとんど読めない。
『本』自体が小さいのだ。文字なんてはっきり読めない、いや、むしろきちんとした文字が印字かなにかされているのかも怪しい。
そして遠くから見たらもっとわからないだろう。
彼が不思議そうな顔をしたのも当然である。
「芥川龍之介、好きなんですか?」
質問はしごく普通のものだった。
タイトルが読めないのであれば、元々この本の装丁を知っていた、くらいしか想像できないだろう。
だがそれは少し違う。
美雪はそこで初めて、今日、彼のスマホにくっついていた青い本が、芥川龍之介の著作であるらしいことを知ったのである。
そしてそれはつまり、『このモチーフが本であるということを知っていた』というのを説明するのには、少々ややこしい説明が必要であるということだった。
「え、えっと、少しは読んだことありますけど、この表紙は見たことがなくて……。その、色々とあって」
彼は不思議そうに首をかしげた。まるで大型犬が、主人の質問に首をかしげるような仕草であった。
背が高くて、そして顔立ちも整っているのに、どうにもそんなふうに見えてしまった。
「えーと……たまに本が変わっているでしょう。そのひとつに知ってたのがあったので、本なのかなぁ、と」
考え、考え、美雪は口に出した。その説明はどうやら割合、わかりやすくできたらしい。
彼は合点がいったという顔で、ああ、と頷いてくれたので。
「そっか。たまに変えてますもんね。どの本でした?」
なんだかもはや、落とし物の話題からは逸れていってしまいつつあった。美雪はちょっとそわそわとする。
落とし物を渡す用も済んだというのに、これ以上話していていいのだろうか。
いや、悪いということはない。会話をするだけなのだから。
でも彼は、毎日毎日、電車で食い入るように本を読んでいるのである。その時間の邪魔をしてしまうことにはなるだろう。
「えっと、結構前なんですけど、紅(あか)い表紙の……あっすみません、関係ないことを。ご迷惑……」
美雪があわあわと言った理由は、またもちゃんと伝わってくれたようで、彼は「いやいや、迷惑なんて」と言ってくれた。
しかしそのあと、なにかに思い当たった、という顔をしてスマホを持っているのと逆の手を掲げた。そこには、美雪がさっき渡したハンカチ型ポーチがある。
「関係ありますよ。この『本』。いくつかここに入ってるんですから」
何日も待つことはなかった。翌日も彼は同じ車両に乗ってきてくれたので。
美雪は、ほっとした。同時に緊張も感じたけれど。
初めて話しかける。落とし物を拾った、という単純な用事にすぎないけれど。それでも、いくら毎日のように見かけていても、向き合うのは初めてのひとだ。緊張して当たり前だろう。
彼が乗ってきて、少し離れたところに立ったとき。美雪は思い切って席を立った。
席をあとにして、すたすたとそちらへ向かう。
今日もいつもどおり、すし詰めというほどではないが、それなりにひとがたくさん乗っていた。座っていた席は、誰かにすぐに取られてしまっただろう。別に構わなかったけれど。
「あの」
美雪は近くに寄って、声をかけた。
美雪の呼びかけ。今度ははっきり『自分に向けられている』と感じてくれたのだろう。
彼はスマホから顔を上げてこちらを見た。不思議そうな表情に変わる。その顔は、優しそうな目元をしていた。
「なにか……?」
彼はそれだけ言った。捕まえられたことに、美雪は、ほっとした。しかし同時に緊張も強くなる。
落とし物を拾ったのだ。迷惑ということはないだろうけども。
「昨日、これ、落としませんでしたか」
美雪は昨日と同じように入れていたサブバッグから、ポーチを出した。彼に見せる。
彼はすぐに目を丸くした。明らかに自分のものと察してくれた顔であった。
「えっ、はい。俺のです。どうして……」
不思議そうな声に、美雪は答えた。
「昨日、降りるときに落としていかれたんです」
彼は合点のいった、という顔をする。
「ああ……電車で落としたのかぁ……。いや、ありがとうございます。助かりました」
そしてそれがどんどん安堵に変わっていった。大切なものだったのだろう。
落とし物であること以外、美雪としては、中身がなんなのか、そして彼にとってどういう位置付けのものなのかまるでわかっていなかった、それ。
どうやらなくして、困るかがっかりするか……マイナスの気持ちになっていたようだ。
拾って保護しておいて良かった。美雪の顔にも安堵が浮かんだだろう。
どうぞ、と渡すと彼は受け取ってくれて、またお礼を言ってくれた。
「中身は落ちてなかったと思いますけど」
密閉できるものではないので、彼はその点が気になるだろうと思って、美雪は何気なく言った。しかし、彼はきょとんとする。
「あ、そうなんですね。それは良かった……、あれ。なにか入ってるの、わかりましたか」
言われて美雪はやっと、はっと思い当たった。そして焦ってしまう。一気に恥ずかしくなった。
確かに、見た目はハンカチなのだ。中になにか入っているのがわかった、ということはつまり。
「えっ、あの、中身は見てなくて、ただなにか入っている感触がしましたし、あと拾ったとき、床にはほかになにも残っていなかったので……」
勝手にひとの持ち物を開けたり、中を見たりしたと思われてしまうのは困る。それほどお行儀は悪くない。
そして美雪の言ったことで焦るのは、今度は彼の番であった。
「え! ……あっすみません! 疑うようなことを……拾ってくださったのに……」
お互いあわあわと言い合ってしまい、そしてしばらく妙な空気が漂った。
数秒、お互いなにも言わなかったけれど、ふと美雪は視線を違うところへ向けた。
それは彼がまだ手にしていたスマホ。今日も『本』はくっついていた。
昨日も同じものがついていたのを知っていた。ちらっと目にした、青い表紙の本。
「あの、それは、本ですか」
美雪の質問と、視線を追って、すぐにその意味をわかってくれたようだ。けれど彼は驚いたような顔をする。
「ええ、はい。そうですけど」
彼は自分のスマホをちょっと持ち上げて眺める。ふらっと揺れたストラップの『本』。
青い表紙。
左上に、キナリ色の長方形。
その中になにか文字。
ただしこの文字は潰れていてほとんど読めない。
『本』自体が小さいのだ。文字なんてはっきり読めない、いや、むしろきちんとした文字が印字かなにかされているのかも怪しい。
そして遠くから見たらもっとわからないだろう。
彼が不思議そうな顔をしたのも当然である。
「芥川龍之介、好きなんですか?」
質問はしごく普通のものだった。
タイトルが読めないのであれば、元々この本の装丁を知っていた、くらいしか想像できないだろう。
だがそれは少し違う。
美雪はそこで初めて、今日、彼のスマホにくっついていた青い本が、芥川龍之介の著作であるらしいことを知ったのである。
そしてそれはつまり、『このモチーフが本であるということを知っていた』というのを説明するのには、少々ややこしい説明が必要であるということだった。
「え、えっと、少しは読んだことありますけど、この表紙は見たことがなくて……。その、色々とあって」
彼は不思議そうに首をかしげた。まるで大型犬が、主人の質問に首をかしげるような仕草であった。
背が高くて、そして顔立ちも整っているのに、どうにもそんなふうに見えてしまった。
「えーと……たまに本が変わっているでしょう。そのひとつに知ってたのがあったので、本なのかなぁ、と」
考え、考え、美雪は口に出した。その説明はどうやら割合、わかりやすくできたらしい。
彼は合点がいったという顔で、ああ、と頷いてくれたので。
「そっか。たまに変えてますもんね。どの本でした?」
なんだかもはや、落とし物の話題からは逸れていってしまいつつあった。美雪はちょっとそわそわとする。
落とし物を渡す用も済んだというのに、これ以上話していていいのだろうか。
いや、悪いということはない。会話をするだけなのだから。
でも彼は、毎日毎日、電車で食い入るように本を読んでいるのである。その時間の邪魔をしてしまうことにはなるだろう。
「えっと、結構前なんですけど、紅(あか)い表紙の……あっすみません、関係ないことを。ご迷惑……」
美雪があわあわと言った理由は、またもちゃんと伝わってくれたようで、彼は「いやいや、迷惑なんて」と言ってくれた。
しかしそのあと、なにかに思い当たった、という顔をしてスマホを持っているのと逆の手を掲げた。そこには、美雪がさっき渡したハンカチ型ポーチがある。
「関係ありますよ。この『本』。いくつかここに入ってるんですから」
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