あの夏に嗤われて

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第2話 陽炎

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 『晩夏』とはいうものの、八月昼下がりの太陽は衰えを知らない。ジャアジャアとけたたましいクマゼミの声が、暑さをより一層際立たせる。真夏日のアスファルトから立ち上る陽炎を見ながら切実に、帰りたいと、ただそう思った。

 滝のように吹き出す汗を魚のような目でひたすら拭う僕とは対照的に、七海は汗一つかかずにワンピースの裾を翻す。雪のように綺麗な白が日の光を反射して、一瞬目がくらんだ。


「サッサと歩けー、ばーかー!」


 陽炎の向こうから、僕を呼ぶ声がする。七海だって僕と一緒にひと夏を引きこもって過ごしていたはずなのに、慣れない外の暑さなど気にも留めないように足取りは軽やかだ。まるで七海の周りだけ、太陽の熱など届いていないかのように。

 じっとりとした風が吹き抜けて、思わず眉をひそめた。赤潮だろうか、生臭くベタついたそれは海の気配を感じさせる。一度だけニュースで見かけた濁った海は、どこか非現実的だった。


「どうしたの?」

 いつの間にか戻ってきていた七海が、首をかしげて僕を見上げた。何でもないよと頭を振ると、ふうんと無表情でまた歩き始めた。

「で、どこ行くの」
「どこだと思う?」
「わからないから聞いてるんだろ」

 眉間に皺、と指さされて、ぐりぐりと眉根を揉んだ。七海はまた「ばーか」と言ってケラケラ笑った。写真を撮るとよくわかるけれど、僕らはいつも対照的な表情をしている。七海は笑顔を作るのが上手い。自分の魅せ方を、よくわかっている作り方だ。首を少し左に傾けて、上目遣いで僕を見上げる。ただでさえ大きな目が、一番大きく見える角度。何度も何度も、シャッターを切ったアングル。

「あ」
「今度は何?」
「カメラ」

 汗で滑り落ちる眼鏡を食い止めながら、小さく溜息をついた。出かけるときにはいつも忘れないのに、今日に限ってどうして置いてきてしまったのだろう。夏の写真を、夏の彼女を、撮ろうと思っていたはずなのに。

「まあ、いっか」

 戻ろうと思えば取りに戻れる距離だったけれども、この暑いアスファルトの上を家まで引き返して、もう一度歩き直すなんて元気は、もう僕になかった。
ふうん、とつまらなさそうに七海が相槌を打つ。今日のワンピースはよく似合っていたから、惜しいことをしたなとぼんやり思った。


 徒歩十分でたどり着く大学横の並木道は、日陰が続いて小さなオアシスだった。ぐっしょり濡れたシャツの襟を掴んでパタパタあおいでいると、少し体温が下がったような気がした。七海が僕の家に入り浸っている理由の一つに、このアクセスの良さがある。

「行き先って、大学?」
「どうして夏休み中にわざわざ大学行くんだよ、ばーか」
「ですよねえ」

 並んで歩くと、七海のつむじがちょうどよく見える。暗めの茶色に染めているけれども、根元の方にほんのり地毛の黒さが出てきている。なんとなくつむじを押してみたい気分になったけれども、怒られそうでやめた。
 それにしても、わざわざ僕を引っ張り出して連れて行こうという場所の見当がつかない。歩いて行ける程度の距離に何があっただろうか。それとも、電車に揺られて遠出する気なのだろうか。

「目的地くらい、教えてくれてもいいんじゃないの」
「しかたないなあ、じゃあヒント」

 七海が一歩進む度に、裾がふわりと揺れる。見え隠れするふくらはぎの細さに、なんだか急に心細くなった。女の子の脚というのは、どうしてこうも、枯れ枝のように細いのだろうか。

「私が櫂斗を連れて行きたいとこ。でもきっと、櫂斗が絶対行きたくないとこ」

 七海はニッコリ微笑んで、クルリとこちらを向いた。

 行きたくないところ。人が沢山いる空間。太陽に炙られたアスファルトの上。蝉時雨の喧噪のなか。夏。

「家の外」
「広すぎでしょ、どんだけ引きこもり体質なの」

 その時すれ違った女が、僕を見て振り返る気配があった。どこか見覚えのある顔で、同じ講義を取っていて何度か話したような気がするけれども、名前が思い出せない。
 早く行こ、と七海が急かす。やれやれと首を振って、太陽の熱を引きずりながら後を追った。名前が思い出せないということは、つまり、その程度の仲だったということなのだろう。



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