しんべえ -京洛異妖変-

陸 理明

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第三話 妖怪と犬和郎

色里騒乱

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 亡八ものの勘助は、見返り柳を吹き飛ばすかのような勢いで、柳に馬場に入り込んできた異物に腰を抜かして動けなくなっていた。
 激しすぎるほど狼狽していた。
 褌がびしょびしょに濡れているのは、あまりにもおっかなくて漏らしてしまったからだ。
 女郎たちが慰めのために飼うため、色町には猫が多い。
 勘助もそういった小動物の類いに餌をやったりすることが嫌いな方ではない。
 そろそろ戦国の世も終わり、庶民が食うや食わずの状態にならなくなってくれば愛玩動物を養う余裕をもてるのだ。
 暗闇からのっそりと影絵のように滲み出てきたのは、その猫を何百倍も大きく肉食のけだものであった。
 相貌は猫というよりはのっぺりとした馬に似ている。
 黄色く爛々と輝く瞳と、煙のように口から洩れる白い湯気、不ぞろいの牙並び、そして浅黄の地に黒い横じまの毛皮――もしや、これが大陸に棲むという虎という生き物なのか?
 四本の爪を剥き出しにして、まるでこの路の王者であるかのように歩んでいく。
 恐怖のあまりうごけなくなった勘助のような年増女を、横殴りの前肢で吹き飛ばし、邪魔な老人を爪で蹂躙し、色町に入り込んでくる。
 夜になっても、溢れんばかりの提灯と灯篭の明りで昼間のような通りを獣の臭いを漂わせながら、肩をいからせ、腰をふりつつ、尻尾をくねらせる。
 悪夢のような光景だった。
 
「食わないでくれぇ!」

 思わず悲鳴めいた叫びをあげた浪人がひと睨みされて座り込んだ。
 勘助のように腰が抜けたのだ。
 もし、この虎のような猛獣が腹を空かせていたら、山のようなご馳走に溢れかえった楽園とでも思ったであろうか。
 騒ぎをききつけてやってきた廓の用心棒である首代たちがぎょっとする。
 いかに喧嘩に慣れていても、このけだものに挑もうとするものはいなかった。
 手にした半弓で射ろうとするものさえ皆無だった。
 下手に刺激すれば、あの巨獣は手の付けられない暴れ方をする。
 そのとき死ぬのはきっと自分たちだ。
 そんな悪夢めいた予感があった。
 何百人といた柳の馬場の女を買いに来た客、春をひさぐ女を売る店のものたちが固唾をのんで見詰める中、虎のような怪物は一軒の遊女屋の軒先で止まった。

 この色里では小高い三階があるということで名の知られた店ではあったが、一番に繁盛しているという場所ではない。
 むしろ三階からの景色がいいという以外は、花魁が一人もいない二流店扱いである。
 なぜゆえに、巨獣が足を止めて、しかも店の中へと入り込んでいくのか誰にもわからなかった。
 だが、まるで馴染みの遊女を買いにきたかのように暖簾をくぐって巨獣の姿が消えたと同時に、これまでじっと身じろぎもせずに我慢し続けていたすべてのものたちが反対方向へと走り出した。
 勘助も同様だった。力の限り叫んで逃げた。
 それだけが生きる条件だと悟ったかのように。
 まさに逃散するかのごとき、大声でわめき、時には耐えきれずに滂沱の涙を流しながら、これ以上こんなところにはいられないとばかりに。
 突然、湧き上がった喧騒に一番反応したのは当の巨獣であった。
 遊女屋の店内までが阿鼻叫喚の地獄絵図と化したのに怒ったのか、耳にしたものすべてが魂まで砕けんばかりの雄叫びをあげたのだ。
 間近にいた手代も遊女も禿たちもすべてがあまりの恐ろしさに失神した。
 運が少しでも悪ければ生きたまま餌になる。
 それを骨の髄まで感じ取ったからだ。
 むしろ、気絶したまま食い殺してもらえれば安心して死ねるとまで追いつめられるほどの恐怖の中、巨獣はのしのしと店の中央にある階段を上っていく。

 二階にも客と遊女はいて、すべて裸に等しい状態のまま這いつくばって震えていたのをにべもなく無視し、躊躇う様子もなく三階まで登っていく。
 その間、少しでも早くこの場から逃げ出そうと窓から抜け、したたかに身体を打ち付けて骨を折ってしまったが、それでもこの場から立ち去っていくものもいた。
 三階のものたちは気が付いたときにはどこにもいけなくなっていた。
 どれほど重いのか、階段の木の板がみしみしと耳障りな悲鳴をたてる。
 最上階に到達した巨獣は、前肢のひと払いで邪魔な衾を何枚も裂いて倒した。
 その先には――
 
「あたしなんか!? あたしを追ってきたんか!?」

 喝食が、姉さん格の女郎が落としたかんざしを武器に背に庇っていた。
 女郎はほとんど白目を剥いて気絶する寸前だ。
 それほど目の前に迫る巨獣が恐ろしくて狂いたくなる。
 喝食も身も蓋もなく叫んで喚きたくなるほどに怖い。
 だが、掌にある「仁」の文字が浮かび上がる宝珠の温かさが彼女の正気を保っていた。

 これは犬和郎の宝珠だ。
 あいつに直接返すまであたしは死ねない。
 ほとんど気を失っている姉さんも見捨てない。

 小さな体で女郎を引きずり、柳の馬場の通りを見渡せる三階の、京の家屋にしては珍しい格子のない窓の端に辿り着いた。
 格子がないため、外に出ることもできなくはない。
 だが、ここから身を投げ出しても真下にある通りに何の障害もなく叩きつけられるだけだ。
 しかも、女郎はぐったりとして一歩も動けそうにない。
 
「――誰か、助けて!」

 窓から身を乗り出して叫んでも助けが来るはずもない。
 梯子があっても、二階までしかない。
 柳の馬場で唯一の三階建てという売り文句がすべて跳ね返ってくる。
 唸り声が間近に迫ってくる。
 巨獣が寄ってくる。
 長い頸が頭上から小柄な喝食を見下ろす。
 その黄色く縦に割れた瞳には知性の光が宿っていた。
 この化け物は間違いなく匂いだけでなく、容姿でも喝食のことを認識している!

「犬和郎……!」

 伸し掛かる恐怖にとうとう神経が焼き切れそうになったとき、

「おい、そこな禿、身を伏せよ! かかれえい、射てい!」

 男らしい声による号令が轟いた。
 同時に、何十本という矢が窓の外から飛来してくる。
 喝食が窓の枠に伏せるのとほぼ同時だった。
 少しの遅れで巻き込まれていてもおかしくない。
 だが、その矢は確実に数本、巨獣の胴体に突き刺さった。
 ちらりとそちらを見た喝食は、通りの向かいの遊女屋の屋根に乗って弓を構えている京都所司代の兵たちを発見した。
 地上からなら無理だが、角度的には射線が通る位置取りであった。
 弓を撃った兵たちの横に見覚えのある着流しの若殿風の侍がいた。

「次だ、鉄砲隊も上に登らせろ!」
「御意!」
 
 聚楽第にいるか、色町にいるか、そのどちらかしかないと言われ、まともに政をしているのか京童たちにまで疑問視されているやんごとなきお方がそこにいた。
 
 グオオオオオ!

 弱きものならば魂すら砕けるような凶悪なけだものの咆哮を受けても、その男は身じろぎもしなかった。
 
「この町の総大将はおれなのでな。たかが、妖魅ごときのために逃げ出すわけにはいかぬのよ。それに、ここは長久手ではないぞ、化け物め」

 かつての敗戦によって、いくさ下手と臆病者の印を押され、聚楽第に閉じ込められることになった青年は辛うじて不敵に笑うのであった。
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