90 / 92
第二章 西端半島戦役
第五十四話 王女らしい姿
しおりを挟む
「アッラシード卿、出迎え大儀」
正門を越え政庁の敷地内に入ると、そこには老人が片膝を付いて伏せていた。
自衛官達は戸惑うが、ベアトリクスの態度は堂々としている。
(王族だねぇ……)
万屋はベアトリクスとの育ちの違いを実感した。
そこには、確かに衝撃があった。
万屋とて健全な成人男性である。
自身とは、微妙に方向がズレているとはいえ、美女からの熱い視線を継続的に浴びていれば、それなりに期待もするだろう。
しない方がおかしい。
普段モテないともなれば尚更である。
根本的に免疫力が低いのだ。
(適当に接待してればいいかぁ…)
身分差を実感し、冷や水を浴びせ掛けられた様な心境になったのだろう。
万屋は衝撃を受けつつも、どこか冷静なままだった。
驚きつつも、頭が冷めたというところか。
「ベアトリクス姫殿下、御健勝の様で。
私共も、御身を案じておりましたぞ」
老人は顔を伏せたままであるが、心底安心した様な声を出した。
「いろいろあったのですよ」
ベアトリクスは溜息を吐いて、首を左右に振る。
「いろいろ、で御座いますか?」
老人は訝しげに少しだけ顔を上げた。
「(我等の神々は、現世でもいろいろなさいます)」
ベアトリクスは気を使って小声になりつつも、正直に話す。
ダマスカス男爵イブン・アッラシードは、一代でアッラシード家を大きくした男である。
宗教絡みで揉める可能性は低い。
少なくともその理性は、信用に足るものと判断したのだ。
「私共の想像も及ばぬ事態の様で」
イブンは再び腰を下げる。
詮索無用と解釈したのだ。
イブンの解釈は微妙に間違っていた。
ベアトリクスとしては、説明が複雑に過ぎる上に荒唐無稽な話を避けたかっただけだ。
自身が理解していない事が多過ぎるという問題もあった。
まずは、日本人達を紹介した上で、面倒な説明の類いを押し付けてしまおうという魂胆だ。
「ダマスカス男爵、姪共々お世話になりますぞ」
伯爵が声をかける。
身分制度下では、挨拶一つにも順番というものがあるのだ。
「これは、ウェセックス伯爵。
貴殿の様な方ならば、必ず生きておいでだと信じておりましたぞ」
イブンは腰をかなり上げる。
外国の王族と貴族では同じ客であっても、礼儀作法すら異なるのだ。
側から見ている万屋としては、呆れ以前に信じられない思いだった。
「姪御殿は、アンジェリカ殿でしたな。
以前、姫殿下が立ち寄られた際にもお会いした」
「男爵閣下に覚えていただけるとは光栄で御座います」
今度は逆にアンジェリカが深々と礼をする。
これが身分差というものだ。
「アンジェリカを覚えているとは…。
アッラシード卿は、耄碌しそうにありませんね。
貴国も安泰でしょう」
ベアトリクスは適当に話を繋げる。
そこそこに済ませるとはいえ、挨拶が終わったタイミングは、自衛官達への突っ込みが入りかねない。
自衛官達から気を逸らす為だ。
イブンはかなりの老齢である。
並みの老人ならば、それで誤魔化されたのだろう。
だが、イブンはただの老人では無かった。
なにせアッラシード一族に、二つ目の爵位をもたらした者だ。
西端半島という、西方大陸本土とは若干異なる統治体制の敷かれた地域であっても、それは異例である。
並みの才覚ではない。
誤魔化される筈もなかった。
(怪しげな装束だが、汚い訳でもない。
わざと汚らしく見せ掛けているのだろうか……。
賊の類いにしては、統率され過ぎている。
斥候だのスラッパだのにしては、人数が多過ぎるな)
アンジェリカも誤魔化せるとは思っていない。
無理を承知で誤魔化しているのだ。
その目的は、詮索無用と伝える事にあった。
だが、詮索無用と言われれば気になるのが人情というもの。
貴族という知識人であるからこそ、好奇心を抑えられない事もある。
「側から見ればそう見える様ですな。
しかし、私も老いました。
いつまで国に尽くせるものか……」
イブンにも、探られたくないものがある為、薮蛇にならない様に探る真似はしない。
内心で推測するのみだ。
一瞬、目をやるだけで後は視線をあからさまに逸らす。
アンジェリカの意向を理解したという意味だ。
貴族同士ならそれで通じる。
「まあ!?
謙遜せずとも、アッラシード卿はまだお若いでしょう?
後程お話したい事もあります。
その様な事を仰らずに」
これは、事情を話すので場所を用意して欲しいという意味だ。
この場では話せない重要な案件であるという意味もある。
「ところで甥御殿はどちらに?
甥御殿にも居てもらいたいのですが」
ベアトリクスがそう言うと、一瞬で空気が張り詰めた。
「………………、あれはどうしようもなく不出来な甥で御座います。
畏れ多くもベアトリクス姫殿下の御前に出す訳には参りませぬ。
御用は、私めがお伺い致しましょう」
イブンは肩を落として見せる。
これでは不祥事を起こした様にしか見えないだろう。
イブンとしても、自身の後ろ暗い企てが露見しているとは思っていない。
露見しているのであれば、ベアトリクスがこの人数でのこのことやって来る筈が無いのだ。
ベアトリクスには、イブンを罠に嵌める必要が無い。
他国の事でもあり、首を突っ込まずとも西天津国へ通知すれば済むのだ。
危険を冒す意味も意義も無い。
だが、この話題が偶然とも言い切れない為、この様な対応となった。
「不出来などどとんでもない。
アンカラ侯爵スレイマン殿は狩の名人であるとか。
我が国まで聞こえる程に有名ですぞ。
謙遜なさらずに」
伯爵の言葉はただの社交辞令である。
スレイマン・アッラシードに対する興味は薄かった。
イブンの言う通りであっても、酒色に溺れて出迎える気すら無い様な、話以上の愚物であっても、実は病に伏せており後継者争いで揉めていても、どうでもよかったのだ。
発言の背景を探るつもりは、皆無であった。
「………」
だが言われたイブンには、探られたくない事情がある。
切れ者と評判である伯爵の言葉を、単純に社交辞令と捉える余裕は無かった。
深読みし過ぎたのだ。
イブンが悪い訳ではない。
誰だって、後ろ暗い事がある時に鋭いと評判の相手から、それに関わる件に突っ込まれれば慌てる。
例えるのであれば、某眠りの名探偵やら名探偵三世やらが、発覚を未然に防いだ筈の事件現場に来た時の犯人の心境だろう。
過敏にならない方がおかしいのだ。
「……、な、何かご事情がお有りの様ですな。
某で宜しければ、力になりますぞ」
いくら気が緩んでいるとは言っても、伯爵も空気すら読めない訳ではない。
一瞬表情を変え、沈黙したイブンを見ると、慌てて助力を申し出る。
イブンの不自然さには気付いていているものの、その裏にまで気付いている様子は無い。
それがまた、猜疑心を強くさせる材料となる。
悪循環だが、問題はイブンの内心にある為、それに気付ける者は居ない。
「………、恥ずかしながら甥は放蕩者でして………。
とても、姫殿下の御前に出せる状態とは思えませぬ。
御容赦あれ」
イブンは深々と頭を下げる。
申し訳なさそうにしつつ、表情を隠す為だ。
伯爵が何かに気付いたのだと、完全に思い込んでいるらしい。
イブンにしてみると、この返答は賭けだった。
誤魔化した事への言い訳としては妥当であったが、同時に穴も大きい。
スレイマンには、『一行が立ち去るまでは隠れている様に』と、使いを遣っていた。
だが、不肖の甥という評価そのものには嘘偽りが無い。
イブンには、スレイマンが隠れ続けていられるとは思えなかった。
そう考えると見付かった場合に、誤魔化し切れなくなったとも言える。
背水の陣だ。
(酒と女を与えておくしかあるまい)
イブンが散々に言い聞かせてようやく止めさせたものを、他ならぬイブン自身が与えざるを得ない。
そんな腹わたの煮え繰り返りそうな状況であっても、イブンは申し訳無さそうな顔を崩さなかった。
「少しばかり踏み込み過ぎた様ですな。
こちらこそ、失礼致した。
御気を悪くされるな」
ベアトリクスは尚も何かを言おうとするものの、伯爵がそれを遮る。
(無礼を承知で言っているのです。
これ以上は、ダマスカス男爵に恥をかかす事になりましょう)
伯爵はイブンの態度に不信感を感じてはいない。
外国の王族が来ても挨拶に出さない方がマシとは、本当に不出来な甥なのだと呆れただけだ。
(以前にダッカを訪れた際は不在であったな。
あれも隠そうとしたのだろう)
だが、同時に後継者問題に頭を悩ませる様子のイブンに対して、同情もしていた。
自分の姪と重ね合わせたのだ。
(成長しつつはあるが、やはり他人事ではないな。
しばらくは見てやらねば)
伯爵はアンジェリカをチラリと見てから、一人決意を固めた。
伯爵には子がいない為、その財産は全て彼女の物となるのだ。
爵位こそ返上となるものの、アンジェリカが事実上の後継者と言えよう。
不出来であっても、それを理由に疎んだ事はない。
今さらではあるが、奮起しない方がおかしい。
そもそも、彼女の父親である実兄に遠慮し過ぎていたからこそ、口を最小限に出していたのだ。
改善策はあった。
その配慮を止めるだけだ。
身内だからこそ、それに踏み切れなかったのだろうが、今なら本人の意識が変わりつつある。
切っ掛けがあるのだ。
好機を見逃す伯爵ではなかった。
「ではアッラシード卿。
後程、お話の場を設けてください。
頼みましたよ」
妙な気迫に居心地の悪そうなイブンを見て、ベアトリクスが助け船を出す。
伯爵の気迫は、アンジェリカに厳しくしようという決意の現れである。
(これは………)
親しい者にはそれが分かるのだが、付き合いの浅いイブンにはそれが分からない。
誤解の連鎖は続き、ベアトリクスのフォローでさえも釘を刺されたかの様に聞こえる。
「かしこまりました。
晩餐の席は、その様に用意させましょう」
イブンは動揺を隠す為に、深々と頭を下げた。
「では、寝所までの案内は任せたぞ。
失礼致します」
そして、側に控えていた執事に後を任せ、自身は踵を返す。
(やむを得ぬのか………)
顔を見られない様にと、細心の注意を払いつつ急ぎ足で退出しながら、イブンは静かに覚悟を決めていた。
(あの爺さん、なんか追い詰められてるんじゃ?)
以外にも、状況を察しつつあったのは万屋であった。
気が緩んでいるとはいえ、ベアトリクスや伯爵ですら気付かない状況を、なんとなく察せるのには理由がある。
何も特殊能力に目覚めた訳ではない。
単純に、異世界転移事件直前まで読んでいた小説が、小豪族を主人公とした戦記物だったからだ。
大国の間で翻弄される人々の話を読んでいたからこそ、イブンの態度に違和感を持てたのだろう。
偶然である。
ただ、山田ですら語学力の問題から、万屋程には分かっていないのだから、やはり大したものだろう。
イブンは訛りが強かったのだ。
万屋には、平凡な実力と大した運があった。
そもそも、王に取り立てられたとはいえ、元が名家の次男である伯爵や、王族であるベアトリクスには、『味方を裏切らざるを得ない』という状況や心情を知らない。
伯爵の場合、家の存続だのは二の次であり、ベアトリクスの場合は国の敗北が家の滅亡だ。
汚い事でも、家を保つ為には何でもやる。
そういった事情を理解できない立場なのだ。
そこに、気の緩みが加われば気付けないのは当然であろう。
万屋は山田の肩を掴むと、端の方へ引き寄せた。
正門を越え政庁の敷地内に入ると、そこには老人が片膝を付いて伏せていた。
自衛官達は戸惑うが、ベアトリクスの態度は堂々としている。
(王族だねぇ……)
万屋はベアトリクスとの育ちの違いを実感した。
そこには、確かに衝撃があった。
万屋とて健全な成人男性である。
自身とは、微妙に方向がズレているとはいえ、美女からの熱い視線を継続的に浴びていれば、それなりに期待もするだろう。
しない方がおかしい。
普段モテないともなれば尚更である。
根本的に免疫力が低いのだ。
(適当に接待してればいいかぁ…)
身分差を実感し、冷や水を浴びせ掛けられた様な心境になったのだろう。
万屋は衝撃を受けつつも、どこか冷静なままだった。
驚きつつも、頭が冷めたというところか。
「ベアトリクス姫殿下、御健勝の様で。
私共も、御身を案じておりましたぞ」
老人は顔を伏せたままであるが、心底安心した様な声を出した。
「いろいろあったのですよ」
ベアトリクスは溜息を吐いて、首を左右に振る。
「いろいろ、で御座いますか?」
老人は訝しげに少しだけ顔を上げた。
「(我等の神々は、現世でもいろいろなさいます)」
ベアトリクスは気を使って小声になりつつも、正直に話す。
ダマスカス男爵イブン・アッラシードは、一代でアッラシード家を大きくした男である。
宗教絡みで揉める可能性は低い。
少なくともその理性は、信用に足るものと判断したのだ。
「私共の想像も及ばぬ事態の様で」
イブンは再び腰を下げる。
詮索無用と解釈したのだ。
イブンの解釈は微妙に間違っていた。
ベアトリクスとしては、説明が複雑に過ぎる上に荒唐無稽な話を避けたかっただけだ。
自身が理解していない事が多過ぎるという問題もあった。
まずは、日本人達を紹介した上で、面倒な説明の類いを押し付けてしまおうという魂胆だ。
「ダマスカス男爵、姪共々お世話になりますぞ」
伯爵が声をかける。
身分制度下では、挨拶一つにも順番というものがあるのだ。
「これは、ウェセックス伯爵。
貴殿の様な方ならば、必ず生きておいでだと信じておりましたぞ」
イブンは腰をかなり上げる。
外国の王族と貴族では同じ客であっても、礼儀作法すら異なるのだ。
側から見ている万屋としては、呆れ以前に信じられない思いだった。
「姪御殿は、アンジェリカ殿でしたな。
以前、姫殿下が立ち寄られた際にもお会いした」
「男爵閣下に覚えていただけるとは光栄で御座います」
今度は逆にアンジェリカが深々と礼をする。
これが身分差というものだ。
「アンジェリカを覚えているとは…。
アッラシード卿は、耄碌しそうにありませんね。
貴国も安泰でしょう」
ベアトリクスは適当に話を繋げる。
そこそこに済ませるとはいえ、挨拶が終わったタイミングは、自衛官達への突っ込みが入りかねない。
自衛官達から気を逸らす為だ。
イブンはかなりの老齢である。
並みの老人ならば、それで誤魔化されたのだろう。
だが、イブンはただの老人では無かった。
なにせアッラシード一族に、二つ目の爵位をもたらした者だ。
西端半島という、西方大陸本土とは若干異なる統治体制の敷かれた地域であっても、それは異例である。
並みの才覚ではない。
誤魔化される筈もなかった。
(怪しげな装束だが、汚い訳でもない。
わざと汚らしく見せ掛けているのだろうか……。
賊の類いにしては、統率され過ぎている。
斥候だのスラッパだのにしては、人数が多過ぎるな)
アンジェリカも誤魔化せるとは思っていない。
無理を承知で誤魔化しているのだ。
その目的は、詮索無用と伝える事にあった。
だが、詮索無用と言われれば気になるのが人情というもの。
貴族という知識人であるからこそ、好奇心を抑えられない事もある。
「側から見ればそう見える様ですな。
しかし、私も老いました。
いつまで国に尽くせるものか……」
イブンにも、探られたくないものがある為、薮蛇にならない様に探る真似はしない。
内心で推測するのみだ。
一瞬、目をやるだけで後は視線をあからさまに逸らす。
アンジェリカの意向を理解したという意味だ。
貴族同士ならそれで通じる。
「まあ!?
謙遜せずとも、アッラシード卿はまだお若いでしょう?
後程お話したい事もあります。
その様な事を仰らずに」
これは、事情を話すので場所を用意して欲しいという意味だ。
この場では話せない重要な案件であるという意味もある。
「ところで甥御殿はどちらに?
甥御殿にも居てもらいたいのですが」
ベアトリクスがそう言うと、一瞬で空気が張り詰めた。
「………………、あれはどうしようもなく不出来な甥で御座います。
畏れ多くもベアトリクス姫殿下の御前に出す訳には参りませぬ。
御用は、私めがお伺い致しましょう」
イブンは肩を落として見せる。
これでは不祥事を起こした様にしか見えないだろう。
イブンとしても、自身の後ろ暗い企てが露見しているとは思っていない。
露見しているのであれば、ベアトリクスがこの人数でのこのことやって来る筈が無いのだ。
ベアトリクスには、イブンを罠に嵌める必要が無い。
他国の事でもあり、首を突っ込まずとも西天津国へ通知すれば済むのだ。
危険を冒す意味も意義も無い。
だが、この話題が偶然とも言い切れない為、この様な対応となった。
「不出来などどとんでもない。
アンカラ侯爵スレイマン殿は狩の名人であるとか。
我が国まで聞こえる程に有名ですぞ。
謙遜なさらずに」
伯爵の言葉はただの社交辞令である。
スレイマン・アッラシードに対する興味は薄かった。
イブンの言う通りであっても、酒色に溺れて出迎える気すら無い様な、話以上の愚物であっても、実は病に伏せており後継者争いで揉めていても、どうでもよかったのだ。
発言の背景を探るつもりは、皆無であった。
「………」
だが言われたイブンには、探られたくない事情がある。
切れ者と評判である伯爵の言葉を、単純に社交辞令と捉える余裕は無かった。
深読みし過ぎたのだ。
イブンが悪い訳ではない。
誰だって、後ろ暗い事がある時に鋭いと評判の相手から、それに関わる件に突っ込まれれば慌てる。
例えるのであれば、某眠りの名探偵やら名探偵三世やらが、発覚を未然に防いだ筈の事件現場に来た時の犯人の心境だろう。
過敏にならない方がおかしいのだ。
「……、な、何かご事情がお有りの様ですな。
某で宜しければ、力になりますぞ」
いくら気が緩んでいるとは言っても、伯爵も空気すら読めない訳ではない。
一瞬表情を変え、沈黙したイブンを見ると、慌てて助力を申し出る。
イブンの不自然さには気付いていているものの、その裏にまで気付いている様子は無い。
それがまた、猜疑心を強くさせる材料となる。
悪循環だが、問題はイブンの内心にある為、それに気付ける者は居ない。
「………、恥ずかしながら甥は放蕩者でして………。
とても、姫殿下の御前に出せる状態とは思えませぬ。
御容赦あれ」
イブンは深々と頭を下げる。
申し訳なさそうにしつつ、表情を隠す為だ。
伯爵が何かに気付いたのだと、完全に思い込んでいるらしい。
イブンにしてみると、この返答は賭けだった。
誤魔化した事への言い訳としては妥当であったが、同時に穴も大きい。
スレイマンには、『一行が立ち去るまでは隠れている様に』と、使いを遣っていた。
だが、不肖の甥という評価そのものには嘘偽りが無い。
イブンには、スレイマンが隠れ続けていられるとは思えなかった。
そう考えると見付かった場合に、誤魔化し切れなくなったとも言える。
背水の陣だ。
(酒と女を与えておくしかあるまい)
イブンが散々に言い聞かせてようやく止めさせたものを、他ならぬイブン自身が与えざるを得ない。
そんな腹わたの煮え繰り返りそうな状況であっても、イブンは申し訳無さそうな顔を崩さなかった。
「少しばかり踏み込み過ぎた様ですな。
こちらこそ、失礼致した。
御気を悪くされるな」
ベアトリクスは尚も何かを言おうとするものの、伯爵がそれを遮る。
(無礼を承知で言っているのです。
これ以上は、ダマスカス男爵に恥をかかす事になりましょう)
伯爵はイブンの態度に不信感を感じてはいない。
外国の王族が来ても挨拶に出さない方がマシとは、本当に不出来な甥なのだと呆れただけだ。
(以前にダッカを訪れた際は不在であったな。
あれも隠そうとしたのだろう)
だが、同時に後継者問題に頭を悩ませる様子のイブンに対して、同情もしていた。
自分の姪と重ね合わせたのだ。
(成長しつつはあるが、やはり他人事ではないな。
しばらくは見てやらねば)
伯爵はアンジェリカをチラリと見てから、一人決意を固めた。
伯爵には子がいない為、その財産は全て彼女の物となるのだ。
爵位こそ返上となるものの、アンジェリカが事実上の後継者と言えよう。
不出来であっても、それを理由に疎んだ事はない。
今さらではあるが、奮起しない方がおかしい。
そもそも、彼女の父親である実兄に遠慮し過ぎていたからこそ、口を最小限に出していたのだ。
改善策はあった。
その配慮を止めるだけだ。
身内だからこそ、それに踏み切れなかったのだろうが、今なら本人の意識が変わりつつある。
切っ掛けがあるのだ。
好機を見逃す伯爵ではなかった。
「ではアッラシード卿。
後程、お話の場を設けてください。
頼みましたよ」
妙な気迫に居心地の悪そうなイブンを見て、ベアトリクスが助け船を出す。
伯爵の気迫は、アンジェリカに厳しくしようという決意の現れである。
(これは………)
親しい者にはそれが分かるのだが、付き合いの浅いイブンにはそれが分からない。
誤解の連鎖は続き、ベアトリクスのフォローでさえも釘を刺されたかの様に聞こえる。
「かしこまりました。
晩餐の席は、その様に用意させましょう」
イブンは動揺を隠す為に、深々と頭を下げた。
「では、寝所までの案内は任せたぞ。
失礼致します」
そして、側に控えていた執事に後を任せ、自身は踵を返す。
(やむを得ぬのか………)
顔を見られない様にと、細心の注意を払いつつ急ぎ足で退出しながら、イブンは静かに覚悟を決めていた。
(あの爺さん、なんか追い詰められてるんじゃ?)
以外にも、状況を察しつつあったのは万屋であった。
気が緩んでいるとはいえ、ベアトリクスや伯爵ですら気付かない状況を、なんとなく察せるのには理由がある。
何も特殊能力に目覚めた訳ではない。
単純に、異世界転移事件直前まで読んでいた小説が、小豪族を主人公とした戦記物だったからだ。
大国の間で翻弄される人々の話を読んでいたからこそ、イブンの態度に違和感を持てたのだろう。
偶然である。
ただ、山田ですら語学力の問題から、万屋程には分かっていないのだから、やはり大したものだろう。
イブンは訛りが強かったのだ。
万屋には、平凡な実力と大した運があった。
そもそも、王に取り立てられたとはいえ、元が名家の次男である伯爵や、王族であるベアトリクスには、『味方を裏切らざるを得ない』という状況や心情を知らない。
伯爵の場合、家の存続だのは二の次であり、ベアトリクスの場合は国の敗北が家の滅亡だ。
汚い事でも、家を保つ為には何でもやる。
そういった事情を理解できない立場なのだ。
そこに、気の緩みが加われば気付けないのは当然であろう。
万屋は山田の肩を掴むと、端の方へ引き寄せた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
アルカス
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
凡人がおまけ召喚されてしまった件
根鳥 泰造
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。
勇者召喚に巻き込まれ、異世界転移・貰えたスキルも鑑定だけ・・・・だけど、何かあるはず!
よっしぃ
ファンタジー
9月11日、12日、ファンタジー部門2位達成中です!
僕はもうすぐ25歳になる常山 順平 24歳。
つねやま じゅんぺいと読む。
何処にでもいる普通のサラリーマン。
仕事帰りの電車で、吊革に捕まりうつらうつらしていると・・・・
突然気分が悪くなり、倒れそうになる。
周りを見ると、周りの人々もどんどん倒れている。明らかな異常事態。
何が起こったか分からないまま、気を失う。
気が付けば電車ではなく、どこかの建物。
周りにも人が倒れている。
僕と同じようなリーマンから、数人の女子高生や男子学生、仕事帰りの若い女性や、定年近いおっさんとか。
気が付けば誰かがしゃべってる。
どうやらよくある勇者召喚とやらが行われ、たまたま僕は異世界転移に巻き込まれたようだ。
そして・・・・帰るには、魔王を倒してもらう必要がある・・・・と。
想定外の人数がやって来たらしく、渡すギフト・・・・スキルらしいけど、それも数が限られていて、勇者として召喚した人以外、つまり巻き込まれて転移したその他大勢は、1人1つのギフト?スキルを。あとは支度金と装備一式を渡されるらしい。
どうしても無理な人は、戻ってきたら面倒を見ると。
一方的だが、日本に戻るには、勇者が魔王を倒すしかなく、それを待つのもよし、自ら勇者に協力するもよし・・・・
ですが、ここで問題が。
スキルやギフトにはそれぞれランク、格、強さがバラバラで・・・・
より良いスキルは早い者勝ち。
我も我もと群がる人々。
そんな中突き飛ばされて倒れる1人の女性が。
僕はその女性を助け・・・同じように突き飛ばされ、またもや気を失う。
気が付けば2人だけになっていて・・・・
スキルも2つしか残っていない。
一つは鑑定。
もう一つは家事全般。
両方とも微妙だ・・・・
彼女の名は才村 友郁
さいむら ゆか。 23歳。
今年社会人になりたて。
取り残された2人が、すったもんだで生き残り、最終的には成り上がるお話。
巻き込まれ異世界召喚、なぜか俺だけ竜皇女の推しになった
ノラクラ
ファンタジー
俺、霧島悠斗は筋金入りの陰キャ高校生。
学校が終わったら即帰宅して、ゲームライフを満喫するのが至福の時間――のはずだった。
だがある日の帰り道、玄関前で学園トップスターたちの修羅場に遭遇してしまう。
暴君・赤城獅童、王子様系イケメン・天条院義孝、清楚系美少女・柊奏、その親友・羽里友莉。
よりによって学園の顔ぶれが勢ぞろいして大口論!?
……陰キャ代表の俺に混ざる理由なんて一ミリもない。見なかったことにしてゲームしに帰りたい!
そう願った矢先――空気が変わり、街に巨大な魔法陣が出現。
赤城たちは光に呑まれ、異世界へと召喚されてしまった。
「お~、異世界召喚ね。ラノベあるあるだな」
そう、他人事のように見送った俺だったが……。
直後、俺の足元にも魔法陣が浮かび上がる。
「ちょ、待て待て待て! 俺は陰キャだぞ!? 勇者じゃないんだぞ!?」
――かくして、ゲームライフを愛する陰キャ高校生の異世界行きが始まる。
氷河期世代のおじさん異世界に降り立つ!
本条蒼依
ファンタジー
氷河期世代の大野将臣(おおのまさおみ)は昭和から令和の時代を細々と生きていた。しかし、工場でいつも一人残業を頑張っていたがとうとう過労死でこの世を去る。
死んだ大野将臣は、真っ白な空間を彷徨い神様と会い、その神様の世界に誘われ色々なチート能力を貰い異世界に降り立つ。
大野将臣は異世界シンアースで将臣の将の字を取りショウと名乗る。そして、その能力の錬金術を使い今度の人生は組織や権力者の言いなりにならず、ある時は権力者に立ち向かい、又ある時は闇ギルド五竜(ウーロン)に立ち向かい、そして、神様が護衛としてつけてくれたホムンクルスを最強の戦士に成長させ、昭和の堅物オジサンが自分の人生を楽しむ物語。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
夢幻の錬金術師 ~【異空間収納】【錬金術】【鑑定】【スキル剥奪&付与】を兼ね備えたチートスキル【錬金工房】で最強の錬金術師として成り上がる~
青山 有
ファンタジー
女神の助手として異世界に召喚された厨二病少年・神薙拓光。
彼が手にしたユニークスキルは【錬金工房】。
ただでさえ、魔法があり魔物がはびこる危険な世界。そこを生産職の助手と巡るのかと、女神も頭を抱えたのだが……。
彼の持つ【錬金工房】は、レアスキルである【異空間収納】【錬金術】【鑑定】の上位互換機能を合わせ持ってるだけでなく、スキルの【剥奪】【付与】まで行えるという、女神の想像を遥かに超えたチートスキルだった。
これは一人の少年が異世界で伝説の錬金術師として成り上がっていく物語。
※カクヨムにも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる