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第二章 西端半島戦役
第五十四話 王女らしい姿
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「アッラシード卿、出迎え大儀」
正門を越え政庁の敷地内に入ると、そこには老人が片膝を付いて伏せていた。
自衛官達は戸惑うが、ベアトリクスの態度は堂々としている。
(王族だねぇ……)
万屋はベアトリクスとの育ちの違いを実感した。
そこには、確かに衝撃があった。
万屋とて健全な成人男性である。
自身とは、微妙に方向がズレているとはいえ、美女からの熱い視線を継続的に浴びていれば、それなりに期待もするだろう。
しない方がおかしい。
普段モテないともなれば尚更である。
根本的に免疫力が低いのだ。
(適当に接待してればいいかぁ…)
身分差を実感し、冷や水を浴びせ掛けられた様な心境になったのだろう。
万屋は衝撃を受けつつも、どこか冷静なままだった。
驚きつつも、頭が冷めたというところか。
「ベアトリクス姫殿下、御健勝の様で。
私共も、御身を案じておりましたぞ」
老人は顔を伏せたままであるが、心底安心した様な声を出した。
「いろいろあったのですよ」
ベアトリクスは溜息を吐いて、首を左右に振る。
「いろいろ、で御座いますか?」
老人は訝しげに少しだけ顔を上げた。
「(我等の神々は、現世でもいろいろなさいます)」
ベアトリクスは気を使って小声になりつつも、正直に話す。
ダマスカス男爵イブン・アッラシードは、一代でアッラシード家を大きくした男である。
宗教絡みで揉める可能性は低い。
少なくともその理性は、信用に足るものと判断したのだ。
「私共の想像も及ばぬ事態の様で」
イブンは再び腰を下げる。
詮索無用と解釈したのだ。
イブンの解釈は微妙に間違っていた。
ベアトリクスとしては、説明が複雑に過ぎる上に荒唐無稽な話を避けたかっただけだ。
自身が理解していない事が多過ぎるという問題もあった。
まずは、日本人達を紹介した上で、面倒な説明の類いを押し付けてしまおうという魂胆だ。
「ダマスカス男爵、姪共々お世話になりますぞ」
伯爵が声をかける。
身分制度下では、挨拶一つにも順番というものがあるのだ。
「これは、ウェセックス伯爵。
貴殿の様な方ならば、必ず生きておいでだと信じておりましたぞ」
イブンは腰をかなり上げる。
外国の王族と貴族では同じ客であっても、礼儀作法すら異なるのだ。
側から見ている万屋としては、呆れ以前に信じられない思いだった。
「姪御殿は、アンジェリカ殿でしたな。
以前、姫殿下が立ち寄られた際にもお会いした」
「男爵閣下に覚えていただけるとは光栄で御座います」
今度は逆にアンジェリカが深々と礼をする。
これが身分差というものだ。
「アンジェリカを覚えているとは…。
アッラシード卿は、耄碌しそうにありませんね。
貴国も安泰でしょう」
ベアトリクスは適当に話を繋げる。
そこそこに済ませるとはいえ、挨拶が終わったタイミングは、自衛官達への突っ込みが入りかねない。
自衛官達から気を逸らす為だ。
イブンはかなりの老齢である。
並みの老人ならば、それで誤魔化されたのだろう。
だが、イブンはただの老人では無かった。
なにせアッラシード一族に、二つ目の爵位をもたらした者だ。
西端半島という、西方大陸本土とは若干異なる統治体制の敷かれた地域であっても、それは異例である。
並みの才覚ではない。
誤魔化される筈もなかった。
(怪しげな装束だが、汚い訳でもない。
わざと汚らしく見せ掛けているのだろうか……。
賊の類いにしては、統率され過ぎている。
斥候だのスラッパだのにしては、人数が多過ぎるな)
アンジェリカも誤魔化せるとは思っていない。
無理を承知で誤魔化しているのだ。
その目的は、詮索無用と伝える事にあった。
だが、詮索無用と言われれば気になるのが人情というもの。
貴族という知識人であるからこそ、好奇心を抑えられない事もある。
「側から見ればそう見える様ですな。
しかし、私も老いました。
いつまで国に尽くせるものか……」
イブンにも、探られたくないものがある為、薮蛇にならない様に探る真似はしない。
内心で推測するのみだ。
一瞬、目をやるだけで後は視線をあからさまに逸らす。
アンジェリカの意向を理解したという意味だ。
貴族同士ならそれで通じる。
「まあ!?
謙遜せずとも、アッラシード卿はまだお若いでしょう?
後程お話したい事もあります。
その様な事を仰らずに」
これは、事情を話すので場所を用意して欲しいという意味だ。
この場では話せない重要な案件であるという意味もある。
「ところで甥御殿はどちらに?
甥御殿にも居てもらいたいのですが」
ベアトリクスがそう言うと、一瞬で空気が張り詰めた。
「………………、あれはどうしようもなく不出来な甥で御座います。
畏れ多くもベアトリクス姫殿下の御前に出す訳には参りませぬ。
御用は、私めがお伺い致しましょう」
イブンは肩を落として見せる。
これでは不祥事を起こした様にしか見えないだろう。
イブンとしても、自身の後ろ暗い企てが露見しているとは思っていない。
露見しているのであれば、ベアトリクスがこの人数でのこのことやって来る筈が無いのだ。
ベアトリクスには、イブンを罠に嵌める必要が無い。
他国の事でもあり、首を突っ込まずとも西天津国へ通知すれば済むのだ。
危険を冒す意味も意義も無い。
だが、この話題が偶然とも言い切れない為、この様な対応となった。
「不出来などどとんでもない。
アンカラ侯爵スレイマン殿は狩の名人であるとか。
我が国まで聞こえる程に有名ですぞ。
謙遜なさらずに」
伯爵の言葉はただの社交辞令である。
スレイマン・アッラシードに対する興味は薄かった。
イブンの言う通りであっても、酒色に溺れて出迎える気すら無い様な、話以上の愚物であっても、実は病に伏せており後継者争いで揉めていても、どうでもよかったのだ。
発言の背景を探るつもりは、皆無であった。
「………」
だが言われたイブンには、探られたくない事情がある。
切れ者と評判である伯爵の言葉を、単純に社交辞令と捉える余裕は無かった。
深読みし過ぎたのだ。
イブンが悪い訳ではない。
誰だって、後ろ暗い事がある時に鋭いと評判の相手から、それに関わる件に突っ込まれれば慌てる。
例えるのであれば、某眠りの名探偵やら名探偵三世やらが、発覚を未然に防いだ筈の事件現場に来た時の犯人の心境だろう。
過敏にならない方がおかしいのだ。
「……、な、何かご事情がお有りの様ですな。
某で宜しければ、力になりますぞ」
いくら気が緩んでいるとは言っても、伯爵も空気すら読めない訳ではない。
一瞬表情を変え、沈黙したイブンを見ると、慌てて助力を申し出る。
イブンの不自然さには気付いていているものの、その裏にまで気付いている様子は無い。
それがまた、猜疑心を強くさせる材料となる。
悪循環だが、問題はイブンの内心にある為、それに気付ける者は居ない。
「………、恥ずかしながら甥は放蕩者でして………。
とても、姫殿下の御前に出せる状態とは思えませぬ。
御容赦あれ」
イブンは深々と頭を下げる。
申し訳なさそうにしつつ、表情を隠す為だ。
伯爵が何かに気付いたのだと、完全に思い込んでいるらしい。
イブンにしてみると、この返答は賭けだった。
誤魔化した事への言い訳としては妥当であったが、同時に穴も大きい。
スレイマンには、『一行が立ち去るまでは隠れている様に』と、使いを遣っていた。
だが、不肖の甥という評価そのものには嘘偽りが無い。
イブンには、スレイマンが隠れ続けていられるとは思えなかった。
そう考えると見付かった場合に、誤魔化し切れなくなったとも言える。
背水の陣だ。
(酒と女を与えておくしかあるまい)
イブンが散々に言い聞かせてようやく止めさせたものを、他ならぬイブン自身が与えざるを得ない。
そんな腹わたの煮え繰り返りそうな状況であっても、イブンは申し訳無さそうな顔を崩さなかった。
「少しばかり踏み込み過ぎた様ですな。
こちらこそ、失礼致した。
御気を悪くされるな」
ベアトリクスは尚も何かを言おうとするものの、伯爵がそれを遮る。
(無礼を承知で言っているのです。
これ以上は、ダマスカス男爵に恥をかかす事になりましょう)
伯爵はイブンの態度に不信感を感じてはいない。
外国の王族が来ても挨拶に出さない方がマシとは、本当に不出来な甥なのだと呆れただけだ。
(以前にダッカを訪れた際は不在であったな。
あれも隠そうとしたのだろう)
だが、同時に後継者問題に頭を悩ませる様子のイブンに対して、同情もしていた。
自分の姪と重ね合わせたのだ。
(成長しつつはあるが、やはり他人事ではないな。
しばらくは見てやらねば)
伯爵はアンジェリカをチラリと見てから、一人決意を固めた。
伯爵には子がいない為、その財産は全て彼女の物となるのだ。
爵位こそ返上となるものの、アンジェリカが事実上の後継者と言えよう。
不出来であっても、それを理由に疎んだ事はない。
今さらではあるが、奮起しない方がおかしい。
そもそも、彼女の父親である実兄に遠慮し過ぎていたからこそ、口を最小限に出していたのだ。
改善策はあった。
その配慮を止めるだけだ。
身内だからこそ、それに踏み切れなかったのだろうが、今なら本人の意識が変わりつつある。
切っ掛けがあるのだ。
好機を見逃す伯爵ではなかった。
「ではアッラシード卿。
後程、お話の場を設けてください。
頼みましたよ」
妙な気迫に居心地の悪そうなイブンを見て、ベアトリクスが助け船を出す。
伯爵の気迫は、アンジェリカに厳しくしようという決意の現れである。
(これは………)
親しい者にはそれが分かるのだが、付き合いの浅いイブンにはそれが分からない。
誤解の連鎖は続き、ベアトリクスのフォローでさえも釘を刺されたかの様に聞こえる。
「かしこまりました。
晩餐の席は、その様に用意させましょう」
イブンは動揺を隠す為に、深々と頭を下げた。
「では、寝所までの案内は任せたぞ。
失礼致します」
そして、側に控えていた執事に後を任せ、自身は踵を返す。
(やむを得ぬのか………)
顔を見られない様にと、細心の注意を払いつつ急ぎ足で退出しながら、イブンは静かに覚悟を決めていた。
(あの爺さん、なんか追い詰められてるんじゃ?)
以外にも、状況を察しつつあったのは万屋であった。
気が緩んでいるとはいえ、ベアトリクスや伯爵ですら気付かない状況を、なんとなく察せるのには理由がある。
何も特殊能力に目覚めた訳ではない。
単純に、異世界転移事件直前まで読んでいた小説が、小豪族を主人公とした戦記物だったからだ。
大国の間で翻弄される人々の話を読んでいたからこそ、イブンの態度に違和感を持てたのだろう。
偶然である。
ただ、山田ですら語学力の問題から、万屋程には分かっていないのだから、やはり大したものだろう。
イブンは訛りが強かったのだ。
万屋には、平凡な実力と大した運があった。
そもそも、王に取り立てられたとはいえ、元が名家の次男である伯爵や、王族であるベアトリクスには、『味方を裏切らざるを得ない』という状況や心情を知らない。
伯爵の場合、家の存続だのは二の次であり、ベアトリクスの場合は国の敗北が家の滅亡だ。
汚い事でも、家を保つ為には何でもやる。
そういった事情を理解できない立場なのだ。
そこに、気の緩みが加われば気付けないのは当然であろう。
万屋は山田の肩を掴むと、端の方へ引き寄せた。
正門を越え政庁の敷地内に入ると、そこには老人が片膝を付いて伏せていた。
自衛官達は戸惑うが、ベアトリクスの態度は堂々としている。
(王族だねぇ……)
万屋はベアトリクスとの育ちの違いを実感した。
そこには、確かに衝撃があった。
万屋とて健全な成人男性である。
自身とは、微妙に方向がズレているとはいえ、美女からの熱い視線を継続的に浴びていれば、それなりに期待もするだろう。
しない方がおかしい。
普段モテないともなれば尚更である。
根本的に免疫力が低いのだ。
(適当に接待してればいいかぁ…)
身分差を実感し、冷や水を浴びせ掛けられた様な心境になったのだろう。
万屋は衝撃を受けつつも、どこか冷静なままだった。
驚きつつも、頭が冷めたというところか。
「ベアトリクス姫殿下、御健勝の様で。
私共も、御身を案じておりましたぞ」
老人は顔を伏せたままであるが、心底安心した様な声を出した。
「いろいろあったのですよ」
ベアトリクスは溜息を吐いて、首を左右に振る。
「いろいろ、で御座いますか?」
老人は訝しげに少しだけ顔を上げた。
「(我等の神々は、現世でもいろいろなさいます)」
ベアトリクスは気を使って小声になりつつも、正直に話す。
ダマスカス男爵イブン・アッラシードは、一代でアッラシード家を大きくした男である。
宗教絡みで揉める可能性は低い。
少なくともその理性は、信用に足るものと判断したのだ。
「私共の想像も及ばぬ事態の様で」
イブンは再び腰を下げる。
詮索無用と解釈したのだ。
イブンの解釈は微妙に間違っていた。
ベアトリクスとしては、説明が複雑に過ぎる上に荒唐無稽な話を避けたかっただけだ。
自身が理解していない事が多過ぎるという問題もあった。
まずは、日本人達を紹介した上で、面倒な説明の類いを押し付けてしまおうという魂胆だ。
「ダマスカス男爵、姪共々お世話になりますぞ」
伯爵が声をかける。
身分制度下では、挨拶一つにも順番というものがあるのだ。
「これは、ウェセックス伯爵。
貴殿の様な方ならば、必ず生きておいでだと信じておりましたぞ」
イブンは腰をかなり上げる。
外国の王族と貴族では同じ客であっても、礼儀作法すら異なるのだ。
側から見ている万屋としては、呆れ以前に信じられない思いだった。
「姪御殿は、アンジェリカ殿でしたな。
以前、姫殿下が立ち寄られた際にもお会いした」
「男爵閣下に覚えていただけるとは光栄で御座います」
今度は逆にアンジェリカが深々と礼をする。
これが身分差というものだ。
「アンジェリカを覚えているとは…。
アッラシード卿は、耄碌しそうにありませんね。
貴国も安泰でしょう」
ベアトリクスは適当に話を繋げる。
そこそこに済ませるとはいえ、挨拶が終わったタイミングは、自衛官達への突っ込みが入りかねない。
自衛官達から気を逸らす為だ。
イブンはかなりの老齢である。
並みの老人ならば、それで誤魔化されたのだろう。
だが、イブンはただの老人では無かった。
なにせアッラシード一族に、二つ目の爵位をもたらした者だ。
西端半島という、西方大陸本土とは若干異なる統治体制の敷かれた地域であっても、それは異例である。
並みの才覚ではない。
誤魔化される筈もなかった。
(怪しげな装束だが、汚い訳でもない。
わざと汚らしく見せ掛けているのだろうか……。
賊の類いにしては、統率され過ぎている。
斥候だのスラッパだのにしては、人数が多過ぎるな)
アンジェリカも誤魔化せるとは思っていない。
無理を承知で誤魔化しているのだ。
その目的は、詮索無用と伝える事にあった。
だが、詮索無用と言われれば気になるのが人情というもの。
貴族という知識人であるからこそ、好奇心を抑えられない事もある。
「側から見ればそう見える様ですな。
しかし、私も老いました。
いつまで国に尽くせるものか……」
イブンにも、探られたくないものがある為、薮蛇にならない様に探る真似はしない。
内心で推測するのみだ。
一瞬、目をやるだけで後は視線をあからさまに逸らす。
アンジェリカの意向を理解したという意味だ。
貴族同士ならそれで通じる。
「まあ!?
謙遜せずとも、アッラシード卿はまだお若いでしょう?
後程お話したい事もあります。
その様な事を仰らずに」
これは、事情を話すので場所を用意して欲しいという意味だ。
この場では話せない重要な案件であるという意味もある。
「ところで甥御殿はどちらに?
甥御殿にも居てもらいたいのですが」
ベアトリクスがそう言うと、一瞬で空気が張り詰めた。
「………………、あれはどうしようもなく不出来な甥で御座います。
畏れ多くもベアトリクス姫殿下の御前に出す訳には参りませぬ。
御用は、私めがお伺い致しましょう」
イブンは肩を落として見せる。
これでは不祥事を起こした様にしか見えないだろう。
イブンとしても、自身の後ろ暗い企てが露見しているとは思っていない。
露見しているのであれば、ベアトリクスがこの人数でのこのことやって来る筈が無いのだ。
ベアトリクスには、イブンを罠に嵌める必要が無い。
他国の事でもあり、首を突っ込まずとも西天津国へ通知すれば済むのだ。
危険を冒す意味も意義も無い。
だが、この話題が偶然とも言い切れない為、この様な対応となった。
「不出来などどとんでもない。
アンカラ侯爵スレイマン殿は狩の名人であるとか。
我が国まで聞こえる程に有名ですぞ。
謙遜なさらずに」
伯爵の言葉はただの社交辞令である。
スレイマン・アッラシードに対する興味は薄かった。
イブンの言う通りであっても、酒色に溺れて出迎える気すら無い様な、話以上の愚物であっても、実は病に伏せており後継者争いで揉めていても、どうでもよかったのだ。
発言の背景を探るつもりは、皆無であった。
「………」
だが言われたイブンには、探られたくない事情がある。
切れ者と評判である伯爵の言葉を、単純に社交辞令と捉える余裕は無かった。
深読みし過ぎたのだ。
イブンが悪い訳ではない。
誰だって、後ろ暗い事がある時に鋭いと評判の相手から、それに関わる件に突っ込まれれば慌てる。
例えるのであれば、某眠りの名探偵やら名探偵三世やらが、発覚を未然に防いだ筈の事件現場に来た時の犯人の心境だろう。
過敏にならない方がおかしいのだ。
「……、な、何かご事情がお有りの様ですな。
某で宜しければ、力になりますぞ」
いくら気が緩んでいるとは言っても、伯爵も空気すら読めない訳ではない。
一瞬表情を変え、沈黙したイブンを見ると、慌てて助力を申し出る。
イブンの不自然さには気付いていているものの、その裏にまで気付いている様子は無い。
それがまた、猜疑心を強くさせる材料となる。
悪循環だが、問題はイブンの内心にある為、それに気付ける者は居ない。
「………、恥ずかしながら甥は放蕩者でして………。
とても、姫殿下の御前に出せる状態とは思えませぬ。
御容赦あれ」
イブンは深々と頭を下げる。
申し訳なさそうにしつつ、表情を隠す為だ。
伯爵が何かに気付いたのだと、完全に思い込んでいるらしい。
イブンにしてみると、この返答は賭けだった。
誤魔化した事への言い訳としては妥当であったが、同時に穴も大きい。
スレイマンには、『一行が立ち去るまでは隠れている様に』と、使いを遣っていた。
だが、不肖の甥という評価そのものには嘘偽りが無い。
イブンには、スレイマンが隠れ続けていられるとは思えなかった。
そう考えると見付かった場合に、誤魔化し切れなくなったとも言える。
背水の陣だ。
(酒と女を与えておくしかあるまい)
イブンが散々に言い聞かせてようやく止めさせたものを、他ならぬイブン自身が与えざるを得ない。
そんな腹わたの煮え繰り返りそうな状況であっても、イブンは申し訳無さそうな顔を崩さなかった。
「少しばかり踏み込み過ぎた様ですな。
こちらこそ、失礼致した。
御気を悪くされるな」
ベアトリクスは尚も何かを言おうとするものの、伯爵がそれを遮る。
(無礼を承知で言っているのです。
これ以上は、ダマスカス男爵に恥をかかす事になりましょう)
伯爵はイブンの態度に不信感を感じてはいない。
外国の王族が来ても挨拶に出さない方がマシとは、本当に不出来な甥なのだと呆れただけだ。
(以前にダッカを訪れた際は不在であったな。
あれも隠そうとしたのだろう)
だが、同時に後継者問題に頭を悩ませる様子のイブンに対して、同情もしていた。
自分の姪と重ね合わせたのだ。
(成長しつつはあるが、やはり他人事ではないな。
しばらくは見てやらねば)
伯爵はアンジェリカをチラリと見てから、一人決意を固めた。
伯爵には子がいない為、その財産は全て彼女の物となるのだ。
爵位こそ返上となるものの、アンジェリカが事実上の後継者と言えよう。
不出来であっても、それを理由に疎んだ事はない。
今さらではあるが、奮起しない方がおかしい。
そもそも、彼女の父親である実兄に遠慮し過ぎていたからこそ、口を最小限に出していたのだ。
改善策はあった。
その配慮を止めるだけだ。
身内だからこそ、それに踏み切れなかったのだろうが、今なら本人の意識が変わりつつある。
切っ掛けがあるのだ。
好機を見逃す伯爵ではなかった。
「ではアッラシード卿。
後程、お話の場を設けてください。
頼みましたよ」
妙な気迫に居心地の悪そうなイブンを見て、ベアトリクスが助け船を出す。
伯爵の気迫は、アンジェリカに厳しくしようという決意の現れである。
(これは………)
親しい者にはそれが分かるのだが、付き合いの浅いイブンにはそれが分からない。
誤解の連鎖は続き、ベアトリクスのフォローでさえも釘を刺されたかの様に聞こえる。
「かしこまりました。
晩餐の席は、その様に用意させましょう」
イブンは動揺を隠す為に、深々と頭を下げた。
「では、寝所までの案内は任せたぞ。
失礼致します」
そして、側に控えていた執事に後を任せ、自身は踵を返す。
(やむを得ぬのか………)
顔を見られない様にと、細心の注意を払いつつ急ぎ足で退出しながら、イブンは静かに覚悟を決めていた。
(あの爺さん、なんか追い詰められてるんじゃ?)
以外にも、状況を察しつつあったのは万屋であった。
気が緩んでいるとはいえ、ベアトリクスや伯爵ですら気付かない状況を、なんとなく察せるのには理由がある。
何も特殊能力に目覚めた訳ではない。
単純に、異世界転移事件直前まで読んでいた小説が、小豪族を主人公とした戦記物だったからだ。
大国の間で翻弄される人々の話を読んでいたからこそ、イブンの態度に違和感を持てたのだろう。
偶然である。
ただ、山田ですら語学力の問題から、万屋程には分かっていないのだから、やはり大したものだろう。
イブンは訛りが強かったのだ。
万屋には、平凡な実力と大した運があった。
そもそも、王に取り立てられたとはいえ、元が名家の次男である伯爵や、王族であるベアトリクスには、『味方を裏切らざるを得ない』という状況や心情を知らない。
伯爵の場合、家の存続だのは二の次であり、ベアトリクスの場合は国の敗北が家の滅亡だ。
汚い事でも、家を保つ為には何でもやる。
そういった事情を理解できない立場なのだ。
そこに、気の緩みが加われば気付けないのは当然であろう。
万屋は山田の肩を掴むと、端の方へ引き寄せた。
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※ この作品は私が書きたいと思い、書き進めている作品です。文章がおかしかったり、不明瞭な点、あるいは不快な思いをさせてしまう可能性がございます。できる限りそのような事態が起こらないよう気をつけていますが、何卒ご了承賜りますよう、お願い申し上げます。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
あっとさん
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
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