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「その身体も魂も、すべて——私の物だ」
その声は、まるで夜の帳を裂くように静寂の中に響いた。低く、甘く、耳の奥を撫でるような声音が、確かに私の名前を呼んだわけでもないのに、心の奥底に直接届く。ぞくりとした悪寒が、背中を這い上がっていく。
私は目を見開いた。薄明かりの寝室に立っていたのは、まるで神話の中から抜け出したような男だった。
長く流れる金の髪が、月明かりを浴びてまばゆく輝き、紅玉のように艶やかな双眸が、まっすぐに私を見下ろしている。白磁のような肌は、非現実的なまでに滑らかで、指先で触れれば砕けそうな繊細さすら感じさせた。
彼の名は、ウィリアム・サカーティス伯爵。
この国の影の支配者と噂される男。そして、私が“処理”すべきターゲットでもあった。
——終わった。
心の奥で、乾いた声がつぶやいた。これまで数え切れないほどの任務をこなしてきた私が、初めて「死」を意識した瞬間だった。
私の名前はライラ。暗殺者(アサシン)として生き、アサシンとして死ぬ。それが私に与えられた生き方。
命じられるままに人を殺し、与えられた標的をただ静かに“無に返す”だけの存在だった。
この任務も、いつも通りに終わるはずだった。音もなく寝室に忍び込み、睡眠ガスを部屋に満たし、眠る彼の心臓にナイフを突き立てる——それだけでよかったはずなのに。
「……逆じゃない。……嘘。」
冷たい感触が、喉元を撫でた。
その瞬間、私は理解した。立場が、完全に逆転していることに。
ナイフを握るのは彼。狙われているのは、私の命。
「私はね、少々変わった体質で。毒も、薬も、効かないんだよ。」
涼やかな声で、まるで他人事のように告げる伯爵。その声音は、驚くほど穏やかで、まるで恋人にささやくような優しささえ含んでいた。
だが、その言葉の裏にあるのは確かな死の気配だった。私の命など、彼の気まぐれひとつで簡単に奪われてしまう。そう、本能が叫んでいた。
完璧な容姿。隙のない気配。しかも、毒が効かないという特異体質。
……敵に回すには、あまりにも規格外。
「仕事」は、失敗した。
アサシンにとっての失敗は、即ち、死を意味する。
これまで幾人もの仲間が、その結末を辿った。冷たく、静かに、無言で命を散らしていった彼らの顔が、脳裏をよぎる。
そして今、私もまた——同じ運命の順番を引いただけ。
「君を殺すのは簡単だ。だけど、私の望みはそうじゃないんだ。」
思いがけない言葉に、私は目を見開いた。
ウィリアムは、私を見下ろすその双眸に、どこか寂しげな色を浮かべていた。
「……殺してください。任務に失敗して、生きて帰れば、組織の掟により、仲間の手で処刑されます。それなら、あなたの手で殺された方が、まだいいです。」
私は感情を押し殺し、そう答えた。
心を揺らせば、きっと刃の意味すら忘れてしまう気がした。
彼のような美しすぎる存在を前にしては、私の“職業意識”など、あまりに脆く、儚い。
ウィリアムは、首をわずかに傾げた。
「君がこのまま帰らなかったら?どうなる?」
その問いに、私は静かに答える。
「三日間、連絡を絶てば、死んだものと見なされます。代わりの刺客が、また手配されるだけです。」
その場の空気が、わずかに張り詰めた。
彼はしばし沈黙した後、顎に手を当て、何かを思案するように宙を見つめる。
まるで、世界の法則を吟味するかのように静かで、慎重な眼差し。
そして、再び私を見据えると——言った。
「いいだろう。君に選択権をやろう。」
「私に服従するか、今ここを去るか。去る者を追いはしない。ただし、記憶は少し弄らせてもらう。だが、もし私に従うのなら——君のその身体も魂も、すべて——私の物だ。」
だが、不思議と胸の奥がざわついた。
私は、生まれた時から捨てられ、孤児として育ち、生きる術を学ぶより早く、人を殺す術を叩き込まれた。
過去も、未来も、何ひとつ価値のあるものなんてなかった。
任務に失敗したことが知られれば、消されるだけ。
それなら——
「あなたに忠誠を誓います。私はーー ウィリアム・サカーティス伯爵様の物です。」
伯爵の唇が、わずかに綻んだ。
その微笑みは、神の祝福か、それとも悪魔の契約か。
それが、私と伯爵の出会いだった。
◆◆◆
ウィリアム・サカーティス伯爵——その名は、王都の上層でも“影”として囁かれていた。
政敵を笑顔のまま沈め、秘密裏に国の法さえ書き換える力を持つ男。だが、その正体を知る者はほとんどいない。たった一人、今この瞬間、彼の寝室から自らの足で歩き出した私——ライラだけが、ほんの一端に触れただけだった。
「……この部屋に、今日から住んでもらう。」
ウィリアム・サカーティス伯爵の声音は静かだった。まるで事務的な通達のように、淡々とした口調でそう告げると、彼は背を向け、こちらの返事も待たずにドアの外へと消えていった。
残された私は、ただ息をひそめるようにその場に立ち尽くしていた。
そこは、信じられないほど美しい部屋だった。
高い天井には天使たちの浮彫りが描かれ、天蓋付きのベッドは白金の糸で織られたシーツに包まれている。床には上等な絨毯、壁には一枚一枚異なる花を描いた油彩画。室内に満ちた空気は香水のように甘く、窓辺には季節外れの白薔薇が生けられていた。
……だが、そのすべてが私にとっては、何よりも恐ろしい“牢”だった。
ドアには外側から鍵がかかっており、窓の外に広がる景色も、見慣れた王都ではなかった。森が静かに広がり、その先に建物や街灯の灯りは見えない。
まるで、“この世界の外側”に連れてこられたようだった。
私はベッドの端に腰を下ろす。ふわりと沈んだ感触が、なぜか胸を苦しくさせた。
(本当に、私は……所有物になったんだ)
私は“殺されない”代わりに、“彼に所有される”ことを選んだ。
「所有物には感情など、不要。私はただ、役目を果たすだけ……」
小さく呟いて、目を閉じた。
その夜、私は誰の気配もない天蓋の中で、音のない闇に包まれながら眠りについた。
---
翌朝、私の眠りを破ったのは、ノックでも呼び声でもなかった。
「……起きろ。」
低く、冷たい声が、耳元で響いた。
瞬間、反射的に身体が跳ね起きる。すぐに身構えると、視界に入ったのは——ウィリアムの姿だった。
「……!」
「反応は悪くない。訓練の賜物か。」
彼はまるで実験体を観察するような目で私を見ていた。
その視線に、心臓がじくじくと焼かれるような感覚が広がる。
「着替えろ。朝食は五分後だ。君の行動には、すべて時間と順序がある。それを乱す者は、私の“持ち物”として不適格だと判断される。」
命令。まるで機械のように冷たく無機質な声。
私は頷き、言われた通りに、用意されていた服へと手を伸ばした。
淡いベージュのドレス。動きやすく、控えめな装飾。生地は上質だが、色も形も個性のない“与えられた衣”だった。
自分で選ぶことは許されず、食事の時間も、行動の順番も、話す相手もすべて“彼の意志”で定められている。
この屋敷の中で、私は“誰でもないもの”として扱われていた。
---
数日が過ぎた。
ウィリアムは毎日、私の部屋に姿を見せた。
といっても、彼は私と“会話”を楽しもうとはしない。
「歩け。」
「背筋が曲がっている。修正しろ。」
「その動きは鈍い。無駄な癖を削げ。」
まるで兵士に訓練を施すように、淡々と私の動きを監視し、矯正し続けた。
彼の目に私は“人間”ではなかった。“所有物”としての形を整えるための存在。ただそれだけだった。
それでも、彼の視線はどこまでも強く、深く、逃れられない重さを持っていた。
「君は私のものだ。だから、他者の手が触れることは許されない。」
ある日、侍女が私の背中にブラシをあてようとした瞬間、ウィリアムは何の躊躇もなく、その手首を掴み、ゆっくりとねじった。
「痛っ、し、失礼しました!」
「下がれ。」
淡々と、しかし一切の感情を許さぬその声に、侍女は顔を青くして逃げていった。
その後、私の世話をする者はいなくなった。
ウィリアムが「誰も触れるな」と命じたからだ。
それは奇妙な静けさをもたらしたと同時に、じわじわと私を締め付ける孤独でもあった。
---
ある夜、私は窓辺に立っていた。
月明かりに照らされた庭園。だが、その向こうには、門も城壁も、見張りの影さえも見えなかった。
「逃げるつもりか?」
ゆっくりと振り返ると、そこにはウィリアムが立っていた。
「君は、私の所有物だ。」
「はい、分かっております。」
「ならば ーーよい。」
冷たい微笑。けれどその奥に、ほんの一滴だけ、何か——“執着の種”のようなものが、見えた気がした。
◆◆◆
1週間ほど、ライラはただ籠の鳥のような生活をしていた。ライラは、”仕事”をしていないことに罪悪感を感じ始めていた。
「……仕事を、させてください。」
その言葉が口を突いて出たのは、もはや衝動に近かった。
目の前には、変わらず端正な顔立ちで紅茶を飲むウィリアム・サカーティス伯爵。その指先一つにも気品が宿り、まるで絵画から抜け出したような優雅さをまとっていた。
だが、その美しさに見とれている場合ではない。
私は、ここで生きる価値を証明しなければならなかった。
「……仕事?」
ウィリアムの手が止まる。紅茶のカップがソーサーに触れる音が、静かな書斎に小さく響いた。
私はその視線を正面から受け止める。
「私はアサシンとして育てられました。潜入、暗殺、諜報……あらゆる任務を訓練されてきました。ですから、伯爵の役に立てるはずです。」
言ってしまってから、しまった、と思った。
一瞬、空気が固まる。
ウィリアムの赤い瞳が、深海のように静かに私を見据えていた。
次の瞬間——
「……誰に、許可を得た?」
低く、押し殺した声だった。
それは怒りというより、何かが“ひび割れる”音に近い。
「君は、私に忠誠を誓った。」
「はい。だからこそ私は——」
「違う。」
彼の言葉が、私の声を遮った。
「“だからこそ”、ではない。君が誓った忠誠とは、“私にのみ従う”という誓いだ。外の任務、殺し、組織の動き……すべて不要。君は、私のもとにあればいい。それ以外は、許さない。」
私の身体が、かすかに震えた。
(まさか、ここまでとは……)
「でも、私は“役に立ちたい”んです。そうでなければ——」
「君は、まだ分かっていないようだね。」
ウィリアムは椅子からゆっくりと立ち上がった。
近づいてくる。ひと足ずつ、まるで獣のように無駄のない動きで。
私は思わず後ずさった。だが、背後には本棚がある。逃げ場はない。
「“使えるから残す”とでも思っているのか?」
その声は甘くささやくようでありながら、確かな“殺意”を含んでいた。
「私は、君の“能力”に興味を持ったのではない。君自身——その存在すべてを手に入れたかっただけだ。」
「……だったら、せめて——」
「せめて、“使わせてほしい”と? 自分の命を自由に使えるというその思い込みが、私を何より苛立たせるんだ。」
言葉が詰まった。
ウィリアムの手が、私の顎をそっとすくう。紅い瞳が、まっすぐ私の瞳に突き刺さる。
「君は……“私の物”だ。”君の物”ではない。」
「——!」
「私は所有物を“壊す”趣味はない。だが、それ以上に……私のものが、勘違いをするのは……気に食わない。」
彼の手が、静かに離れる。
だが、その残り香のような熱だけが、頬に残った。
「君はここにいればいい。何もせず、私の視界の中にだけ存在していれば、それでいい。……それが、私にとって最も都合がいい。」
「……わかりました。」
私は静かに頭を下げた。
◆◆◆
その夜、屋敷は異様なほど静まり返っていた。
使用人たちは誰も姿を見せず、廊下の蝋燭は一本、また一本と消されていく。まるで、この空間が外界から切り離されていくような感覚。私は部屋の窓辺でひとり、冷えた夜風を感じていた。
(……伯爵は、今日も外へ出た)
表向きは貴族の端くれ。だがその実態は、王家さえ手を出せない“裏の顔”を持つ男。ときに国の腐敗を清算し、ときに政治を動かす鍵を影から握る存在。
そして今夜は——おそらく、そうした“仕事”に関わっていた。
(私は何も訊かない)
それがこの屋敷の“規律”であり、ウィリアム・サカーティスという男の“距離”だった。
だが——
「……帰ってきた?」
扉の向こう、わずかな衣擦れの音がした。
振り返るより早く、扉が静かに開く。
そして、そこに立っていたのは——血に染まった伯爵だった。
「——!」
その姿は、まるで戦場から戻った戦士のようだった。
白いシャツの裾から、乾いた血が滲んでいる。袖口にも、細かく飛び散った赤が不規則に広がり、左手の指先に至っては、まだ完全に血の色を落としていなかった。
けれど、その顔には痛みも苦しみもなかった。ただ、虚無。
深紅の瞳はまっすぐにこちらを見ているのに、焦点は合っていない。
「……伯爵……」
声をかけると、彼の身体が、わずかに揺れた。
そして、次の瞬間——まるで引き寄せられるように、彼は私の部屋へ足を踏み入れた。
(なぜ……ここに?)
これまで彼は、私に“檻”を与えるだけで、自らは決して入ってこなかった。所有者と所有物。明確な一線を保ち続けてきた。
なのに今夜だけは、何かが違う。
彼の足取りは不自然に重く、いつもの優雅な気配が消えていた。まるで、迷子のように——出口を見失った子供のように——
そして、無言のまま、私の目の前でぺたんと床に座り込んだ。
「——……っ」
私は息を呑んだ。
彼のその姿は、これまで見たどのウィリアムよりも、“人間”だった。
威厳も冷酷も、紅の瞳に宿る炎も、すべてを削ぎ落としたように——ただ静かに、沈んでいた。
「……どうしたんですか」
訊かずにはいられなかった。けれど、彼は何も答えない。
ただ、じっと床を見つめたまま。
「誰の血ですか?」
震える声で訊いた。
彼はようやく、顔を上げた。紅い瞳と、私の視線が重なる。
「関係ない。」
次の瞬間、彼は不意に私を抱き寄せた。
ただ、その存在を確認するように。
そしてすぐに立ち去っていった。
その日から、彼と私の関係性は変わっていった。
その声は、まるで夜の帳を裂くように静寂の中に響いた。低く、甘く、耳の奥を撫でるような声音が、確かに私の名前を呼んだわけでもないのに、心の奥底に直接届く。ぞくりとした悪寒が、背中を這い上がっていく。
私は目を見開いた。薄明かりの寝室に立っていたのは、まるで神話の中から抜け出したような男だった。
長く流れる金の髪が、月明かりを浴びてまばゆく輝き、紅玉のように艶やかな双眸が、まっすぐに私を見下ろしている。白磁のような肌は、非現実的なまでに滑らかで、指先で触れれば砕けそうな繊細さすら感じさせた。
彼の名は、ウィリアム・サカーティス伯爵。
この国の影の支配者と噂される男。そして、私が“処理”すべきターゲットでもあった。
——終わった。
心の奥で、乾いた声がつぶやいた。これまで数え切れないほどの任務をこなしてきた私が、初めて「死」を意識した瞬間だった。
私の名前はライラ。暗殺者(アサシン)として生き、アサシンとして死ぬ。それが私に与えられた生き方。
命じられるままに人を殺し、与えられた標的をただ静かに“無に返す”だけの存在だった。
この任務も、いつも通りに終わるはずだった。音もなく寝室に忍び込み、睡眠ガスを部屋に満たし、眠る彼の心臓にナイフを突き立てる——それだけでよかったはずなのに。
「……逆じゃない。……嘘。」
冷たい感触が、喉元を撫でた。
その瞬間、私は理解した。立場が、完全に逆転していることに。
ナイフを握るのは彼。狙われているのは、私の命。
「私はね、少々変わった体質で。毒も、薬も、効かないんだよ。」
涼やかな声で、まるで他人事のように告げる伯爵。その声音は、驚くほど穏やかで、まるで恋人にささやくような優しささえ含んでいた。
だが、その言葉の裏にあるのは確かな死の気配だった。私の命など、彼の気まぐれひとつで簡単に奪われてしまう。そう、本能が叫んでいた。
完璧な容姿。隙のない気配。しかも、毒が効かないという特異体質。
……敵に回すには、あまりにも規格外。
「仕事」は、失敗した。
アサシンにとっての失敗は、即ち、死を意味する。
これまで幾人もの仲間が、その結末を辿った。冷たく、静かに、無言で命を散らしていった彼らの顔が、脳裏をよぎる。
そして今、私もまた——同じ運命の順番を引いただけ。
「君を殺すのは簡単だ。だけど、私の望みはそうじゃないんだ。」
思いがけない言葉に、私は目を見開いた。
ウィリアムは、私を見下ろすその双眸に、どこか寂しげな色を浮かべていた。
「……殺してください。任務に失敗して、生きて帰れば、組織の掟により、仲間の手で処刑されます。それなら、あなたの手で殺された方が、まだいいです。」
私は感情を押し殺し、そう答えた。
心を揺らせば、きっと刃の意味すら忘れてしまう気がした。
彼のような美しすぎる存在を前にしては、私の“職業意識”など、あまりに脆く、儚い。
ウィリアムは、首をわずかに傾げた。
「君がこのまま帰らなかったら?どうなる?」
その問いに、私は静かに答える。
「三日間、連絡を絶てば、死んだものと見なされます。代わりの刺客が、また手配されるだけです。」
その場の空気が、わずかに張り詰めた。
彼はしばし沈黙した後、顎に手を当て、何かを思案するように宙を見つめる。
まるで、世界の法則を吟味するかのように静かで、慎重な眼差し。
そして、再び私を見据えると——言った。
「いいだろう。君に選択権をやろう。」
「私に服従するか、今ここを去るか。去る者を追いはしない。ただし、記憶は少し弄らせてもらう。だが、もし私に従うのなら——君のその身体も魂も、すべて——私の物だ。」
だが、不思議と胸の奥がざわついた。
私は、生まれた時から捨てられ、孤児として育ち、生きる術を学ぶより早く、人を殺す術を叩き込まれた。
過去も、未来も、何ひとつ価値のあるものなんてなかった。
任務に失敗したことが知られれば、消されるだけ。
それなら——
「あなたに忠誠を誓います。私はーー ウィリアム・サカーティス伯爵様の物です。」
伯爵の唇が、わずかに綻んだ。
その微笑みは、神の祝福か、それとも悪魔の契約か。
それが、私と伯爵の出会いだった。
◆◆◆
ウィリアム・サカーティス伯爵——その名は、王都の上層でも“影”として囁かれていた。
政敵を笑顔のまま沈め、秘密裏に国の法さえ書き換える力を持つ男。だが、その正体を知る者はほとんどいない。たった一人、今この瞬間、彼の寝室から自らの足で歩き出した私——ライラだけが、ほんの一端に触れただけだった。
「……この部屋に、今日から住んでもらう。」
ウィリアム・サカーティス伯爵の声音は静かだった。まるで事務的な通達のように、淡々とした口調でそう告げると、彼は背を向け、こちらの返事も待たずにドアの外へと消えていった。
残された私は、ただ息をひそめるようにその場に立ち尽くしていた。
そこは、信じられないほど美しい部屋だった。
高い天井には天使たちの浮彫りが描かれ、天蓋付きのベッドは白金の糸で織られたシーツに包まれている。床には上等な絨毯、壁には一枚一枚異なる花を描いた油彩画。室内に満ちた空気は香水のように甘く、窓辺には季節外れの白薔薇が生けられていた。
……だが、そのすべてが私にとっては、何よりも恐ろしい“牢”だった。
ドアには外側から鍵がかかっており、窓の外に広がる景色も、見慣れた王都ではなかった。森が静かに広がり、その先に建物や街灯の灯りは見えない。
まるで、“この世界の外側”に連れてこられたようだった。
私はベッドの端に腰を下ろす。ふわりと沈んだ感触が、なぜか胸を苦しくさせた。
(本当に、私は……所有物になったんだ)
私は“殺されない”代わりに、“彼に所有される”ことを選んだ。
「所有物には感情など、不要。私はただ、役目を果たすだけ……」
小さく呟いて、目を閉じた。
その夜、私は誰の気配もない天蓋の中で、音のない闇に包まれながら眠りについた。
---
翌朝、私の眠りを破ったのは、ノックでも呼び声でもなかった。
「……起きろ。」
低く、冷たい声が、耳元で響いた。
瞬間、反射的に身体が跳ね起きる。すぐに身構えると、視界に入ったのは——ウィリアムの姿だった。
「……!」
「反応は悪くない。訓練の賜物か。」
彼はまるで実験体を観察するような目で私を見ていた。
その視線に、心臓がじくじくと焼かれるような感覚が広がる。
「着替えろ。朝食は五分後だ。君の行動には、すべて時間と順序がある。それを乱す者は、私の“持ち物”として不適格だと判断される。」
命令。まるで機械のように冷たく無機質な声。
私は頷き、言われた通りに、用意されていた服へと手を伸ばした。
淡いベージュのドレス。動きやすく、控えめな装飾。生地は上質だが、色も形も個性のない“与えられた衣”だった。
自分で選ぶことは許されず、食事の時間も、行動の順番も、話す相手もすべて“彼の意志”で定められている。
この屋敷の中で、私は“誰でもないもの”として扱われていた。
---
数日が過ぎた。
ウィリアムは毎日、私の部屋に姿を見せた。
といっても、彼は私と“会話”を楽しもうとはしない。
「歩け。」
「背筋が曲がっている。修正しろ。」
「その動きは鈍い。無駄な癖を削げ。」
まるで兵士に訓練を施すように、淡々と私の動きを監視し、矯正し続けた。
彼の目に私は“人間”ではなかった。“所有物”としての形を整えるための存在。ただそれだけだった。
それでも、彼の視線はどこまでも強く、深く、逃れられない重さを持っていた。
「君は私のものだ。だから、他者の手が触れることは許されない。」
ある日、侍女が私の背中にブラシをあてようとした瞬間、ウィリアムは何の躊躇もなく、その手首を掴み、ゆっくりとねじった。
「痛っ、し、失礼しました!」
「下がれ。」
淡々と、しかし一切の感情を許さぬその声に、侍女は顔を青くして逃げていった。
その後、私の世話をする者はいなくなった。
ウィリアムが「誰も触れるな」と命じたからだ。
それは奇妙な静けさをもたらしたと同時に、じわじわと私を締め付ける孤独でもあった。
---
ある夜、私は窓辺に立っていた。
月明かりに照らされた庭園。だが、その向こうには、門も城壁も、見張りの影さえも見えなかった。
「逃げるつもりか?」
ゆっくりと振り返ると、そこにはウィリアムが立っていた。
「君は、私の所有物だ。」
「はい、分かっております。」
「ならば ーーよい。」
冷たい微笑。けれどその奥に、ほんの一滴だけ、何か——“執着の種”のようなものが、見えた気がした。
◆◆◆
1週間ほど、ライラはただ籠の鳥のような生活をしていた。ライラは、”仕事”をしていないことに罪悪感を感じ始めていた。
「……仕事を、させてください。」
その言葉が口を突いて出たのは、もはや衝動に近かった。
目の前には、変わらず端正な顔立ちで紅茶を飲むウィリアム・サカーティス伯爵。その指先一つにも気品が宿り、まるで絵画から抜け出したような優雅さをまとっていた。
だが、その美しさに見とれている場合ではない。
私は、ここで生きる価値を証明しなければならなかった。
「……仕事?」
ウィリアムの手が止まる。紅茶のカップがソーサーに触れる音が、静かな書斎に小さく響いた。
私はその視線を正面から受け止める。
「私はアサシンとして育てられました。潜入、暗殺、諜報……あらゆる任務を訓練されてきました。ですから、伯爵の役に立てるはずです。」
言ってしまってから、しまった、と思った。
一瞬、空気が固まる。
ウィリアムの赤い瞳が、深海のように静かに私を見据えていた。
次の瞬間——
「……誰に、許可を得た?」
低く、押し殺した声だった。
それは怒りというより、何かが“ひび割れる”音に近い。
「君は、私に忠誠を誓った。」
「はい。だからこそ私は——」
「違う。」
彼の言葉が、私の声を遮った。
「“だからこそ”、ではない。君が誓った忠誠とは、“私にのみ従う”という誓いだ。外の任務、殺し、組織の動き……すべて不要。君は、私のもとにあればいい。それ以外は、許さない。」
私の身体が、かすかに震えた。
(まさか、ここまでとは……)
「でも、私は“役に立ちたい”んです。そうでなければ——」
「君は、まだ分かっていないようだね。」
ウィリアムは椅子からゆっくりと立ち上がった。
近づいてくる。ひと足ずつ、まるで獣のように無駄のない動きで。
私は思わず後ずさった。だが、背後には本棚がある。逃げ場はない。
「“使えるから残す”とでも思っているのか?」
その声は甘くささやくようでありながら、確かな“殺意”を含んでいた。
「私は、君の“能力”に興味を持ったのではない。君自身——その存在すべてを手に入れたかっただけだ。」
「……だったら、せめて——」
「せめて、“使わせてほしい”と? 自分の命を自由に使えるというその思い込みが、私を何より苛立たせるんだ。」
言葉が詰まった。
ウィリアムの手が、私の顎をそっとすくう。紅い瞳が、まっすぐ私の瞳に突き刺さる。
「君は……“私の物”だ。”君の物”ではない。」
「——!」
「私は所有物を“壊す”趣味はない。だが、それ以上に……私のものが、勘違いをするのは……気に食わない。」
彼の手が、静かに離れる。
だが、その残り香のような熱だけが、頬に残った。
「君はここにいればいい。何もせず、私の視界の中にだけ存在していれば、それでいい。……それが、私にとって最も都合がいい。」
「……わかりました。」
私は静かに頭を下げた。
◆◆◆
その夜、屋敷は異様なほど静まり返っていた。
使用人たちは誰も姿を見せず、廊下の蝋燭は一本、また一本と消されていく。まるで、この空間が外界から切り離されていくような感覚。私は部屋の窓辺でひとり、冷えた夜風を感じていた。
(……伯爵は、今日も外へ出た)
表向きは貴族の端くれ。だがその実態は、王家さえ手を出せない“裏の顔”を持つ男。ときに国の腐敗を清算し、ときに政治を動かす鍵を影から握る存在。
そして今夜は——おそらく、そうした“仕事”に関わっていた。
(私は何も訊かない)
それがこの屋敷の“規律”であり、ウィリアム・サカーティスという男の“距離”だった。
だが——
「……帰ってきた?」
扉の向こう、わずかな衣擦れの音がした。
振り返るより早く、扉が静かに開く。
そして、そこに立っていたのは——血に染まった伯爵だった。
「——!」
その姿は、まるで戦場から戻った戦士のようだった。
白いシャツの裾から、乾いた血が滲んでいる。袖口にも、細かく飛び散った赤が不規則に広がり、左手の指先に至っては、まだ完全に血の色を落としていなかった。
けれど、その顔には痛みも苦しみもなかった。ただ、虚無。
深紅の瞳はまっすぐにこちらを見ているのに、焦点は合っていない。
「……伯爵……」
声をかけると、彼の身体が、わずかに揺れた。
そして、次の瞬間——まるで引き寄せられるように、彼は私の部屋へ足を踏み入れた。
(なぜ……ここに?)
これまで彼は、私に“檻”を与えるだけで、自らは決して入ってこなかった。所有者と所有物。明確な一線を保ち続けてきた。
なのに今夜だけは、何かが違う。
彼の足取りは不自然に重く、いつもの優雅な気配が消えていた。まるで、迷子のように——出口を見失った子供のように——
そして、無言のまま、私の目の前でぺたんと床に座り込んだ。
「——……っ」
私は息を呑んだ。
彼のその姿は、これまで見たどのウィリアムよりも、“人間”だった。
威厳も冷酷も、紅の瞳に宿る炎も、すべてを削ぎ落としたように——ただ静かに、沈んでいた。
「……どうしたんですか」
訊かずにはいられなかった。けれど、彼は何も答えない。
ただ、じっと床を見つめたまま。
「誰の血ですか?」
震える声で訊いた。
彼はようやく、顔を上げた。紅い瞳と、私の視線が重なる。
「関係ない。」
次の瞬間、彼は不意に私を抱き寄せた。
ただ、その存在を確認するように。
そしてすぐに立ち去っていった。
その日から、彼と私の関係性は変わっていった。
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