嗜虐的に恋して咬みついて

石月煤子

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 以前に在籍していた総合法律事務所で培った人脈のおかげで独立してからの仕事は順調であり、伊吹生は多くの依頼を抱えてきた。

 午後に入っていた相談業務が全て終わり、ミーティングテーブルの上を片付けた司法書士は、地道な書類作成に取り掛かる。

 ……キィ……

 伊吹生は出入り口に目を向けた。

 視線の先でノックもなしに開かれていったスチールドア。

 カーキ色のフードが廊下から覗いた。

「用があるのなら、どうぞ」

 呼びかければ、目深に被ったフードの下から、こちらを窺う二つの目が覗いた。

「ここには俺以外、誰もいない」

 ぶかぶかのマウンテンパーカーにスキニージーンズ。色褪せたスニーカー。身長は百五十センチ台か、小柄な少女であった。

(この子は、どうして、わざわざ俺のところにまで来たんだ……?)

 伊吹生がミーティングテーブルのイスを引いて座るように促すと、恐る恐る入室した少女は立ち止まった。

「……甫、伊吹生……」

 掠れた声。伊吹生が一歩近寄れば小動物みたいに過剰に反応し、一歩退いた。

「ああ。ここは甫伊吹生司法書士事務所で、俺はここで働く甫だ」
「七月の、カーニバルで、見た」

 思いも寄らなかった発言に伊吹生は耳を疑う。

「ここから近いお店で働く金髪の子を連れて帰ろうとしてた」

 あの夜、あの場にいた「普通種」は生き餌バイトに限られる。

 伊吹生は記憶を手繰り寄せようとした。しかし、当時は拓斗を連れ戻すのに必死で、プールに落ちた後は凌貴に……少女があの場にいたかどうか、思い出せなかった。

「生き餌バイトに紛れてノスフェラトゥにいたの。入り浸ってるあのクソ吸血鬼のことを調べるため」

 クソ吸血鬼。凌貴のことか。ストレートな悪口に伊吹生は失笑してしまった。

「俺も同感だ」

 ドアの前で直立していた少女はポカンとしたものの、瞬時に警戒態勢を取り戻し、左の拳をきつく握った。

「アイツの恋人なのに、そんなこと言うなんて、おかしい」
「それは誤解だ。断じてそんな仲じゃない」
「嘘。プールに落ちたアンタを忽那凌貴は助けにきた。服を着たまま飛び込んで、たった一人で引き上げて、ぐったりしていたアンタを大切そうに抱き抱えてた」
「……」
「恋人同士にしか見えなかった」

 少女との距離を詰めようとはせず、優しい声色に修正するでもなく、伊吹生は淡々と話しかける。

「君は高岡今日花さんの妹なんだろう。お姉さんは、今、どうしているんだ?」

 少女の全身がブルリと震えた。

 桜色の唇をヒン曲げて、歯を食い縛り、彼女は深く俯いた。

「どうしてるも何も、また、眠れなくなった。しばらく忘れてたのに、テレビであの映像を見て、またぶり返した」

 伊吹生は聞かずとも察しがついた。「忽那ホテル&リゾート」が海外進出したという、凌貴が映り込んでいた数ヶ月前のニュースのことだろう。

「悪い夢に魘されて、またボロボロになりそうで、だから、居ても立ってもいられなくなって、アイツに会いにいった」
「一人で凌貴に会いに? 随分と危ないことをするんだな」 
「別に。最初はどうしてるか、お姉ちゃんをあれだけ苦しめておきながら、どんな顔してのうのうと生きてるのか、ただ見るだけのつもりだった、でも」

 すぐに凌貴に気づかれた。

 九鳥居大学のキャンパスで、彼は物陰に潜んでいた少女の目の前へやってきた。これまで一度も会ったことがないのに『高岡心春さんですね』と、言い当てたという。

「匂いでわかったって。お姉ちゃんとよく似てるって」

 今日花の妹・心春(こはる)は驚きの余り、怒りや憎しみをぶちまけることもできず、ただ姉が苦しんでいるとだけ訴えた。

 それに対する凌貴の回答が心春にさらなる激情を植えつけた。

『今度はどれくらいの見舞金を送ったらいいですか?』

「死ねって思った。ううん、殺してやりたいって」
「危険だ」

 敵意を振り翳してきた相手に凌貴が何をするか。下手したら返り討ちに遭うかもしれない。

「お姉ちゃんがどれだけ凌貴のことを好きだったか。その分、どれだけ打ちのめされたか。ずっと苦しんでたお姉ちゃんに何もしてあげられなくて、私も地獄に突き落とされた気分だった!」

 フードを被ったままの心春は、自分より遥かに上背のある伊吹生に言い放つ。

「だから、それ以上の地獄に凌貴を突き落してやりたい」

 心春はパーカーのポケットに右手をずっと入れていた。

「アイツの大切な人をアイツから奪ってやりたい」

 何かを強く握っているようだ。

「アンタと一緒にいるときの凌貴は、いつもと違う。この数ヶ月で誰かの家に行くのも初めてだった。きっと凌貴にとって一番大切な人」
「君は……ポケットに何か入れているのか」

 敵意を剥き出しにした少女の目つきから、昨日の朝、事務所の前で感じた執拗な視線は彼女のものだったと確信した伊吹生は心春を見据える。

「凶器なら今、使うといい。そして、ここに置いていってくれ。二度と使わないように」

 ポケットに片手を突っ込んだままの心春は明らかにたじろいだ。

「私にはできないって思ってる? どうして……そんなに強くいられるの? 吸血種だから?」
「俺は強くない。凶器だって怖い。でも、それ以上に君に人生を台無しにしてほしくないと思ってる」

 やっとポケットから出された心春の手に凶器は握られていなかった。そのまま彼女は駆け足で事務所を去っていった……。




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