嗜虐的に恋して咬みついて

石月煤子

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『夕方の五時までここにいてください』

「五時になったら帰っていい。それまで好きなように過ごしてくださいって、忽那さん弟、すぐに出ていっちゃった」
「放置もいいところだ」
「帰るときは鍵もかけなくていいって言われて、それで、コレをどうぞって」
「コレ?」
「十万円。俺の時間を奪った代償で、持って帰っていいって」

 そこまで話して拓斗は司法書士の顔色を窺った。仏頂面だった法律事務の専門家は首を左右に振り、両腕を組む。

「安い。百万が妥当だ。貴重な夏休みを浪費させたんだからな」

(一発くらい殴っておけばよかった)

 身勝手この上ない凌貴にウンザリする伊吹生は「でも、そんな危ないバイトは金輪際お前にはさせない」と、拓斗の頭をポンと叩いた。

 残された拓斗は、それからは退屈と戦い、お金を置いて早く帰ってしまおうか迷い、お金を持って早く帰ってしまおうかという葛藤に苛まれたらしい。

「最後の選択をすればよかったんだ」
「だって、ウチのことも知ってるし、お父さんやお母さんに何かされたら怖いと思って、できなかった」
「……そうだな、今の言葉は軽率だった」
「携帯で何とか時間潰して、でも、お腹空いてきちゃって。何か食べるものがないか、キッチンの冷蔵庫を開けたんだけど……開けたの、後悔した」

 その言葉だけで伊吹生は察することができた。

「大量の血液パックが入ってた。あれ見て食欲なくして、しばらくソファで寝てた」

 そこへやってきたのが時成だった。

 暇潰しに人懐っこい猫に構っていた拓斗は、チャイムもなしに時成がいきなり部屋へ入ってきたので仰天した。その驚きが伝染したのか、一瞬で気が立った猫に咬みつかれてしまったのだ。

「それで血を吸われたのか?」
「その、零れてる血をもらってもいいですかって言われて、断れなくて」

 拓斗は絆創膏が貼られた指を片方の手で包み込んだ。怪我を負わせたのは猫、そのおこぼれに与るような真似をした時成に失望した伊吹生は、念のため尋ねる。

「血を飲まれる以外、他に何かされなかったか?」
「何かって、何を?」

 拓斗に聞き返されて伊吹生は言葉を濁す。どうにも凌貴のせいで思考が汚染されているようだ。

 その後、時成はここに留まる必要はない、弟には自分から言っておくと明言し、マンションから拓斗を連れ出した。身内が迷惑をかけたお詫び、血をもらった対価として彼は食事をご馳走してくれたという。

 結果的に拓斗の帰宅は凌貴が指定していた時間通りになったわけだ。

「最初は怖かったし、ヒヤヒヤしたけど、映画の世界みたいで夏休みの思い出になったよ」

 伊吹生は漸く表情を緩めた。頭を撫でようとしたら「ガキ扱いすんな」と拓斗にピシャリと言われ、行き場を失った手を無言で引っ込めた。

「だけど、なんでわざわざテーブルからイスを離したの?」
「今、消毒中なんだ」

 拓斗の携帯が鳴った。母親には友達と一緒にいると伝えていたが、帰りは何時頃になるかというメールであり、伊吹生は夏休み中の高校生を直ちに帰らせた。






「こんばんは、伊吹生さん」

 自己破産申請に必要な書類のチェックに取りかかり、夜遅くに帰宅した伊吹生は、マンションの出入り口で凌貴に出迎えられた。

「お仕事、お疲れさまです」

 エントランスは建物の背面に位置している。人気のない裏道を常夜灯が照らし出し、スポットライトばりに厳かに凌貴を包んでいた。

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