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十三
蜜月-3
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ジュネーヴから北西へ三〇〇キロあまり、ランスという美しい街に、ハミルトン公爵の居城はある。ベネディクトがあの日、泣きながら移り住んだ、元はエーベルハルトが管理していた古い城だ。
馴染みのない使用人達に囲まれ、一人で暮らしはじめた不安な少年の元に、しかし今、毎日のように土産を携えた客が訪れていた。
それは周辺の貴族ではなく――やはり、商人たちだった。
賑やかで親切な大人たちに囲まれていると、家を追い出されたという悲しみも一時は紛れる。バシリオの馴染みの者達に、もともと親しみを感じていたベネディクトは、彼らがサロンに集まって商談をすることを快く許した。
かくしてランスの城は、商人たちが集う妙な場所として、中央の貴族たちからは奇異の目を向けられる場所になったのだった。
バシリオもクーロを連れて度々足を運んでは、城の改築や、仕立ての古い庭の手入れなど、色々と世話を焼いて彼の新しい生活を支えた。
そもそも、ベネディクトが父から譲り受けた領地は、伝統あるワイン用葡萄の農地が広がる、エウロ有数の豊かな土地である。彼自身はアヴァロンから見捨てられたような気持ちでいたものの、公爵位とともに与えられた新天地は――アーシュラがそう願った通り――決して彼の人生を暗く閉ざすようなものではなかった。
未来の皇帝の弟である、尊い生まれの幼い領主。少年は領民から大いに歓迎された。
そして――ふさぎ込みがちだった少年が、やがて、日々の暮らしの中で明るい表情を見せはじめた頃、バシリオは彼の元にひとつ、突飛な話を持ち込んだ。
「け、結婚……!?」
それは、縁談だった。
「左様でございます」
ベネディクトは、にわかには男の言葉の意味が理解できず、きょとんとした顔で問い返す。
「結婚って、どうして僕が……」
「大変、いいお話でございますよ」
「ちょ、ちょっと、待ってください、僕は……!」
子供っぽく取り乱すベネディクトに、バシリオはあくまで丁寧に続ける。
「ディジョンのリアデンス侯爵家より、ご息女ベアトリーチェ様を是非にとの、願いを託されて参りました」
「リアデンス候……?」
「侯爵とは、常日頃から懇意にさせて頂いておりましてな。ご令嬢は殿下より幾分年上ですが、ゆくゆくはリアデンス家の家督をお継ぎになるお方。滅多にない良いご縁談と思いましたゆえ、急ぎ参じました」
リアデンス候といえば、何度か当主に会ったことがあるな、と、ベネディクトは思い出していた。けれど、アヴァロンにいた頃は特に親しく話をしたこともない相手で、どんな人物だったかまでは覚えていない。
そもそも十六歳の彼にとって、結婚などまだ想像したことすら無いイベントだ。
「……お、お話はありがたいのですが、僕はまだ結婚などということは考えておりませんので……」
「それはいけない」
先刻まで、少年の子供らしい戸惑いに取り合おうとしなかったバシリオは、今度は窘めるようにキッパリと言った。
「皇家をお離れになった以上、殿下は自由であると同時に、ご自分の身をご自分で守り、家と領民を豊かにしてゆかなければなりません。ご結婚は早いほうが良い。これは大切なことです。ハミルトン公爵家とリアデンス侯爵家は、互いに隣り合う豊かな農地を有する家同士。繋がりを作れば、ハミルトン公爵家の勢力は間違いなく盤石なものとなりましょう」
そして、バシリオは優しげに言った。
「そうなれば、貴族界において、殿下が肩身の狭い思いをすることはもう、無くなります」
真摯な口調に、どこか、父親に諭されているような気持ちになって、ベネディクトは瞳を揺らす。バシリオの話は確かに大切なことのように思われる。
「けれど……その……僕……相手の方を、愛せるでしょうか?」
正直な不安に、バシリオはアハハと豪快に笑う。
「心配ご無用でございます、殿下。結婚は契約、未来という同じ目的の下に男女が協力しあうことによって成功いたします。愛に頼る結婚生活ほど儚いものは無く、恋ともなればさらに酷い。互いを慈しみ合う心はいずれ育ちますゆえ、何も問題はございませんよ」
エウロ貴族界での結婚は、全てではないにしろ、その多くが家同士の繋がりを作るための政略結婚である。ベネディクトだって、(恋愛結婚に対し、曖昧な憧れはもっていたけれど)事実としてそれは受け止めていたから、バシリオの言いたいことは分かる。しかし。
「……少しだけ、考えさせてください」
万事勢いのある男の物言いに、危うく押し切られそうになりながらも、ベネディクトは、ようやくそう答えたのだった。
アヴァロンにいた頃であれば、外向きの困ったことはクヴェンに相談すればうまくやってくれた。嫌なことは嫌とはっきり言えたし、多少無理を言っても何とかしてくれると思えた。けれど、今世話をしてくれる執事は――もちろん、彼の落ち度ではないのだけれど――付き合いが浅いせいで、あまり心を開いて相談ごとをしようとは、まだ思えないのだ。
「結婚って……どうしたら良いと思う?」
バシリオが帰った後、ガランとした部屋で、途方に暮れたようにベネディクトは呟いた。今ベネディクトが心を許せるのは、自分よりも幼い、カラスとクロエだけだった。
「けっこん……」
「分からない?」
「し、知っています! 妻をめとることです」
「そうだね。偉いな、カラス」
「わたしも、知っています!」
「あはは、そうだね、わかってるって」
ベネディクトは苦笑した。二人はいつも自分を喜ばせようと一生懸命だけれど、年下で、教育も受けていない。だから、なんだって自分が教えてやらなければいけないのだ。二人がいれば寂しくないと思うし、素直で可愛いけれど、こういう時に頼れる相手ではない。
「結婚なぁ……」
「あるじ様、けっこんするの?」
「まだ決めていないよ、クロエ」
「けっこんしたら、わたし達は……おじゃまになりますか」
「馬鹿だね、お前たちを遠ざけたりはしない。僕の剣になってくれるんじゃなかったの?」
「なります!」
「なりますっ!」
「だろう? だったら、ずっと一緒だよ」
双子の頭を優しく撫でて、ベネディクトは考えた。
ずっと、一番大切な女性といえば姉だった。まだ恋すらしたことがないのだ。結婚なんて、遠い未来の話であってほしいのが正直な気持ちである。
けれど、バシリオの真面目な顔を思い出すと、分からない、なんていい加減な返事をするのが悪い気もした。子供っぽいことを言って男の厚意を無にしてしまったら、今までこんなに助けてもらったのに申し訳ない。
ベネディクトの心は、どうにかして大人にならなければともがいていた。彼を導き支える手は、今は、バシリオ・コルティスただ一人である。
馴染みのない使用人達に囲まれ、一人で暮らしはじめた不安な少年の元に、しかし今、毎日のように土産を携えた客が訪れていた。
それは周辺の貴族ではなく――やはり、商人たちだった。
賑やかで親切な大人たちに囲まれていると、家を追い出されたという悲しみも一時は紛れる。バシリオの馴染みの者達に、もともと親しみを感じていたベネディクトは、彼らがサロンに集まって商談をすることを快く許した。
かくしてランスの城は、商人たちが集う妙な場所として、中央の貴族たちからは奇異の目を向けられる場所になったのだった。
バシリオもクーロを連れて度々足を運んでは、城の改築や、仕立ての古い庭の手入れなど、色々と世話を焼いて彼の新しい生活を支えた。
そもそも、ベネディクトが父から譲り受けた領地は、伝統あるワイン用葡萄の農地が広がる、エウロ有数の豊かな土地である。彼自身はアヴァロンから見捨てられたような気持ちでいたものの、公爵位とともに与えられた新天地は――アーシュラがそう願った通り――決して彼の人生を暗く閉ざすようなものではなかった。
未来の皇帝の弟である、尊い生まれの幼い領主。少年は領民から大いに歓迎された。
そして――ふさぎ込みがちだった少年が、やがて、日々の暮らしの中で明るい表情を見せはじめた頃、バシリオは彼の元にひとつ、突飛な話を持ち込んだ。
「け、結婚……!?」
それは、縁談だった。
「左様でございます」
ベネディクトは、にわかには男の言葉の意味が理解できず、きょとんとした顔で問い返す。
「結婚って、どうして僕が……」
「大変、いいお話でございますよ」
「ちょ、ちょっと、待ってください、僕は……!」
子供っぽく取り乱すベネディクトに、バシリオはあくまで丁寧に続ける。
「ディジョンのリアデンス侯爵家より、ご息女ベアトリーチェ様を是非にとの、願いを託されて参りました」
「リアデンス候……?」
「侯爵とは、常日頃から懇意にさせて頂いておりましてな。ご令嬢は殿下より幾分年上ですが、ゆくゆくはリアデンス家の家督をお継ぎになるお方。滅多にない良いご縁談と思いましたゆえ、急ぎ参じました」
リアデンス候といえば、何度か当主に会ったことがあるな、と、ベネディクトは思い出していた。けれど、アヴァロンにいた頃は特に親しく話をしたこともない相手で、どんな人物だったかまでは覚えていない。
そもそも十六歳の彼にとって、結婚などまだ想像したことすら無いイベントだ。
「……お、お話はありがたいのですが、僕はまだ結婚などということは考えておりませんので……」
「それはいけない」
先刻まで、少年の子供らしい戸惑いに取り合おうとしなかったバシリオは、今度は窘めるようにキッパリと言った。
「皇家をお離れになった以上、殿下は自由であると同時に、ご自分の身をご自分で守り、家と領民を豊かにしてゆかなければなりません。ご結婚は早いほうが良い。これは大切なことです。ハミルトン公爵家とリアデンス侯爵家は、互いに隣り合う豊かな農地を有する家同士。繋がりを作れば、ハミルトン公爵家の勢力は間違いなく盤石なものとなりましょう」
そして、バシリオは優しげに言った。
「そうなれば、貴族界において、殿下が肩身の狭い思いをすることはもう、無くなります」
真摯な口調に、どこか、父親に諭されているような気持ちになって、ベネディクトは瞳を揺らす。バシリオの話は確かに大切なことのように思われる。
「けれど……その……僕……相手の方を、愛せるでしょうか?」
正直な不安に、バシリオはアハハと豪快に笑う。
「心配ご無用でございます、殿下。結婚は契約、未来という同じ目的の下に男女が協力しあうことによって成功いたします。愛に頼る結婚生活ほど儚いものは無く、恋ともなればさらに酷い。互いを慈しみ合う心はいずれ育ちますゆえ、何も問題はございませんよ」
エウロ貴族界での結婚は、全てではないにしろ、その多くが家同士の繋がりを作るための政略結婚である。ベネディクトだって、(恋愛結婚に対し、曖昧な憧れはもっていたけれど)事実としてそれは受け止めていたから、バシリオの言いたいことは分かる。しかし。
「……少しだけ、考えさせてください」
万事勢いのある男の物言いに、危うく押し切られそうになりながらも、ベネディクトは、ようやくそう答えたのだった。
アヴァロンにいた頃であれば、外向きの困ったことはクヴェンに相談すればうまくやってくれた。嫌なことは嫌とはっきり言えたし、多少無理を言っても何とかしてくれると思えた。けれど、今世話をしてくれる執事は――もちろん、彼の落ち度ではないのだけれど――付き合いが浅いせいで、あまり心を開いて相談ごとをしようとは、まだ思えないのだ。
「結婚って……どうしたら良いと思う?」
バシリオが帰った後、ガランとした部屋で、途方に暮れたようにベネディクトは呟いた。今ベネディクトが心を許せるのは、自分よりも幼い、カラスとクロエだけだった。
「けっこん……」
「分からない?」
「し、知っています! 妻をめとることです」
「そうだね。偉いな、カラス」
「わたしも、知っています!」
「あはは、そうだね、わかってるって」
ベネディクトは苦笑した。二人はいつも自分を喜ばせようと一生懸命だけれど、年下で、教育も受けていない。だから、なんだって自分が教えてやらなければいけないのだ。二人がいれば寂しくないと思うし、素直で可愛いけれど、こういう時に頼れる相手ではない。
「結婚なぁ……」
「あるじ様、けっこんするの?」
「まだ決めていないよ、クロエ」
「けっこんしたら、わたし達は……おじゃまになりますか」
「馬鹿だね、お前たちを遠ざけたりはしない。僕の剣になってくれるんじゃなかったの?」
「なります!」
「なりますっ!」
「だろう? だったら、ずっと一緒だよ」
双子の頭を優しく撫でて、ベネディクトは考えた。
ずっと、一番大切な女性といえば姉だった。まだ恋すらしたことがないのだ。結婚なんて、遠い未来の話であってほしいのが正直な気持ちである。
けれど、バシリオの真面目な顔を思い出すと、分からない、なんていい加減な返事をするのが悪い気もした。子供っぽいことを言って男の厚意を無にしてしまったら、今までこんなに助けてもらったのに申し訳ない。
ベネディクトの心は、どうにかして大人にならなければともがいていた。彼を導き支える手は、今は、バシリオ・コルティスただ一人である。
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