紫灰の日時計

二月ほづみ

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十六

剣-5

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 深夜を待って、闇に乗じて、屋敷に忍び込んだ。建物内部に入る経路についてはここ数日でだいたいめどをつけていたので、今更さほど苦労をするようなものではない。しかし、この屋敷の部屋には全て内鍵がかけられていて、もちろん、晩秋の今、夜に窓は開けない。できれば寝込みを襲いたいところだったが、諦めざるを得なかった。
 バシリオの寝室から灯りが消えたのを確認してから、エリンはふかふかした絨毯の敷き詰められた廊下に立ち、ほんの一瞬だけ辺りの様子を窺った後に、ドアをノックした。
「……何だ」
 使用人か何かだと思ったのだろう。部屋からの声にはもちろん応えずに、もう一度、催促するようにドアを叩く。少し間を置いて、苛立たしげな気配が近づいた。エリンの両腕に、光を放たない、透明なガラスの剣が静かに
「こんな時――」
 不機嫌そうにドアを開けた瞬間のコルティスの喉元を狙って、一撃で終わらせるつもりで動く――だが。
「――っ!?」
 誤算だった。
 大男は予想に反して反射的に身を捩り、その攻撃を避けたのだ。
「な、んだ……っ」
 そのまま、コルティスが最初に助けを呼ぼうとでもしてくれていれば、たぶん、エリンの次の攻撃は彼に致命傷を負わせられたはずだった。しかし、男は慌てなかった。
「お前は……ッ!」
 エリンの動きから目を離さず、攻撃を避けながら後退し、迷わず部屋の壁に飾られてあった剣を手にとったのだ。鞘を放って、そのまま挑みかかってくる。
「っ!?」
 ブンという鋭い風切り音。思いの外リーチの長い攻撃が目の先を掠めた。
(ああ――そういえば)
 姿勢を崩しながらエリンは思う。ゲオルグが言っていた。
 バシリオは剣術の名手なのだと。
 そんな大事なことを今頃思い出すなんて。全く――失態だ。
 剣撃を身軽に飛んでかわし、距離を離して着地する。黒い衣が優雅に揺れるのを見て、バシリオは納得したように口を開く。
「……その姿、もしや……アヴァロンの剣か?」
 まずいことになったと思いつつ、迷っている暇は無い。
「あなたに語る名は無い!」
 問いには答えずそのまま斬りかかるが、近づくことが出来ずに反撃を受け、下がらざるを得なかった。大きな身体のくせに妙に動きが機敏だ。フェンシングの選手だったとか聞いたけれど、そのせいなのだろうか。その上、悪いことに、男が手元に置いていた武器はレイピアではなくて重厚なサーベルだった。
「小賢しいッ!!」
 どうにか近づいても、剣を合わせた瞬間、男の一喝と共に、体重の軽いエリンの方が弾き飛ばされてしまう。まともに打ち合ってはだめだ。
「このバシリオにこんな子供が刺客とは、帝室もとんだお笑い草だ!」
 今の数手でエリンが自分に劣ると理解したらしい、バシリオは怒鳴りながら重い剣を振るう。
(速い……!?)
 恐ろしい速さで叩きつけられる攻撃からはどうにか逃げたが、確かにこの数十秒の間に、エリンは窮地に立たされていた。
「呪いの如き強さを誇ると聞いていたが……」
 バシリオは一瞬もエリンから注意を逸らさず、ジリと注意深く距離を取る。エリンも目を細め、男の隙を窺おうとした。豪奢な寝室は、寝台横のフロアライトによって薄明るく、向き合う二人の姿を浮かび上がらせる。
「……」
 力があるといっても、素早く動くといっても、自分と比べ相手が強すぎるような感じはしない。けれど、あの長剣とでは間合いが違いすぎて、今の立ち位置からでは分が悪い。
「影の剣とは、こんなものか……!」
 嘲るような言葉は耳に入れない。何か、一瞬、あの懐に飛び込める隙さえ作れば。エリンには、二本のガラスダガー以外にも武器はある。けれど、暗殺のみを念頭に作り上げられた彼らの武器は、至近距離で使うためのものばかり。不意打ちを外してしまったのが悪かった。
(何か、あの男の、目を……)
 唯一、この距離から使える手があるとすれば――
「――!」
 ひらめきの正しさを確認している余裕は無い。エリンは袖口から、柄のないミセリコルデを取り出すと、こちらを睨むバシリオめがけて投げる――と同時に、男の間合いに思い切り踏み込んだ。
 次の瞬間、パリンと何かが割れる音と共に、部屋がパッと闇に包まれる。
「っ!?」
 エリンが投げた短剣は、バシリオではなくてその傍のスタンドに命中したのだ。男はほんの一瞬目を奪われ、すぐにエリンの姿を探す……しかし、少年は何故か視界に入らない。相手を見失ったと感じたバシリオが怯んだ、ほんの僅かの隙の出来事だった。
「――!!!」
 エリンはベッドを台にして跳び、フロアライトが割れたのと同時に、部屋のシャンデリアを掴んで、バシリオの真上に居た。自分を探す男の首筋めがけて、透明の剣が落とされる。
 影の剣の強さは呪いではなくて、絆による迷いの無さだ。
 自分は主アーシュラと、そして、たぶん、初めての友であるベネディクトのために、お前に死を渡しに――ここに来たのだ。
「コルティスっ!」
 今度は――外さない!



「……父さん、どうしたの?」
 子供の……少年の、声だった。
 延髄を断たれ、声も上げられずに倒れた逞しい身体にとどめを刺し、ユラリと立ち上がったエリンの耳に、それは届いた。
(え……)
 振り向いた先には、明かりのついた廊下。黒髪の少年(クーロ)が立ち尽くしていた。騒ぎ過ぎたのだろうか。
「何…… 父さん……?」
 こちらに気付いたらしい少年が、部屋に一歩踏み込んで、明かりをつけようと、手を伸ばす――エリンは、半ば無意識に動き出していた。
「え――」
 まだ幼い腕を掴んで、動きを封じる。そのまま廊下の壁に身体を押し付け、冷たい手で口を塞ぐ。

 父の命を絶った剣が彼の薄いあばらの間に滑り込んだ時も、少年の顔にはまだ戸惑いの表情しか浮かんではいなかった。
「あ……」
 柔らかい臓物の感触が手に伝わり、エリンは自分がしたことを悟る。



「う……ぁ……っ……く……は、ぁ……」
 少年は何か言おうとしたのか、息を吸おうとしたのか、陸の魚のように口を開けて、そして、ごぶりと血を吐いた。寝間着に染みだした血が、廊下の絨毯を汚す。エリンはどうすることも出来ず、ただその、死につつある身体を抱きとめた。
 子供を殺すつもりなんてなかった。
 改めて顔を覗き込むと、やはり幼い。年下に見える。この子は悪くない。けれど、今夜ここに来たことを、誰にも知られるわけにはいかないのだ。故に、選択肢は無かった。無かったのだ。
 時間が無い。目的は果たされた。屋敷にはまだ使用人も居るだろう。余計な死人を出さないためにも、彼を離して、さっさと引き上げなければ――
 罪のない人間を殺めてしまった絶望に、既に焦点を失った黒い目からエリンが目をそらせずに居た、そんな刹那を、切り裂いたものがあった。
「――――エリン?」
 それは、驚愕に染まった、ベネディクトの声だった。
「クーロ……?」
 呆然としたベネディクトの呟きと同時に、力の抜けたエリンの手から、死んだ少年の身体がドサリと、音を立てて崩れ落ちた。
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