紫灰の日時計

二月ほづみ

文字の大きさ
96 / 126
十七

家族-2

しおりを挟む
「――――ちょっと、聞いているの? エリン」
 いかにも不機嫌な主の声に、エリンはようやく顔を上げる。夜会が終わり部屋に引き上げてきて、緊張を解いたあたりから、そういえばアーシュラの声を聞いていなかった。けれど、いつの間にか彼女が脱いだドレスの後片付けをしていて……どうやら、手はちゃんと動いていたらしい。
「申し訳ありません。聞いていませんでした」
 素直に怒られるつもりで言ったのだけれど、目が合うと主人はホッとした顔で微笑んだ。
「お前、最近無理をしすぎよ。ツヴァイだっているのだし、城の中でまでそんなに警戒することはないと思うわ」
 優しい言葉に、エリンは目を丸くする。
「無理など、しておりません」
 それは別に嘘ではなかった。バシリオ・コルティスを葬ってからというもの、皇女が狙われることは無くなっていた。城の中がほぼ安全といえる状況なのも、アーシュラの言うとおりだ。だから、エリンがいつも以上に神経を使う必要はない。
「だったら、何か気がかりでも? わたくしがこんなに一生懸命お話をしていたのに」
「……申し訳ありません」
「別に怒ってないわ」
「以後気をつけますので」
「エリン……」
 アーシュラは気に入らない様子で、しかし怒らず不安げに肩を落とす。
「絶対おかしいわ。お前も……ベネディクトも」
 その名が出た瞬間、エリンの背がぞわりと粟立つ。
「皇子が……何か……」
「お前、もしかして聞いていなかったの? あの子、結婚したって」
「あ……いえ……」
 慌てて取り繕う。
「伺っておりました。その……喜ばしいことであると……」
 実際に、結婚したと言われてもエリンには何の実感も湧かないし、感想の述べようが無い。
「あの子、きっと好きでもない方と結婚をしたのだわ」
「どうしてお分かりに?」
「分かるわよ。様子が変だったし……第一、お相手が、わたくし、会ったことのない方なんだもの」
 愛のない政略結婚など、選ばなくても良かったのに、と、アーシュラは悲しむように言った。
「……皇子が決められたことでしょうし」
「冷たいわ。お前だってあの子の友達でしょ」
「友達……」
 喉をギュッと掴まれたようになって、言葉が詰まる。
「……エリン?」
 手のひらに蘇る、あの感触。少年の小さな心臓に、アーシュラのための刃を押し込んだ。
 あれは、いつかベネディクトが言っていた――彼の友人。
「も……うしわけ、ありません」
 動揺を悟られまいと、どうにか声を押し出す。
「やはり、少し疲れたようです。隣に控えておりますので、何かあれば参ります」
 そして、今まで決して言わなかったような台詞を口にして、エリンは顔を上げずに自分の部屋に入ってしまった。
「ちょ……」
 呼び止めようとする主の声も届かない。扉を閉めて、ひとりきりになった気配に、エリンは深く深く息をついた。
 あの夜、バシリオだけでなく、幼いその息子クーロ・コルティスを手にかけたことについて、エリンはまだアーシュラに話せずにいた。

 ベネディクトが突然結婚をしたことについては、やはり、エリンにはよく分からない。けれど、今夜の彼は確かに今までとは別人のようだった。だとしたら、このひと月あまりで、彼がすっかり変わってしまったということなのだろう。
 かつての彼は、大人たちが集まる華やかな場が苦手で、いつも挨拶を済ませるとさっさと逃げ出していたのに。
 衝撃と絶望に声も無く立ち尽くしていた皇子を、エリンは血と死の中に置き去りにして逃げた。優しいベネディクト。あれから彼がどうしたのかを、想像することは恐ろしかった。
 彼は思ったはずだ。自分がコルティスの屋敷に現れたのは、アーシュラの意思であるのだと。姉が恩人バシリオの排除を命じたのだと。
 アーシュラは彼を分家させた時、その理由を語らなかった。事実を知らせなかったのは彼女なりの真心だった。だから、決して姿を見られてはいけなかったのに。
 バシリオの思惑はどうあれ、ベネディクトはランスからわざわざあの屋敷を訪れるくらいには、あの親子に親しんでいたのだろう。祖父の暴力に耐えていた彼が、嬉しそうに友人ができたのだと話してくれたことは、もちろんよく覚えている。
 今更誤解なのだと弁解は出来ない。アヴァロンを出る日、僕を嫌いになったのかと姉に迫ったベネディクトの疑念に、最悪の形で応えてしまったのだ。
 取り返しの付かないことだ。アーシュラの言う通り、エリンもベネディクトが好きだった。同い年だったこともあり、幼い頃からずっと、本当に友人のように優しくしてもらった。怪我をしたときは心配もしてくれた。彼が家族や臣下の者達を、心から愛し信頼していたことを、知っていたのに。
(皇子……)
 あの夜の出来事を経て、怒るでもなく、悲しむでもなく、あんな風に笑って、貴族たちの中に立つなんて。
 アーシュラには話せない。決して。
 そして、主に隠し事などしたことのないエリンにとって、その秘密は辛い重荷だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

辺境伯夫人は領地を紡ぐ

やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。 しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。 物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。 戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。 これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。 全50話の予定です ※表紙はイメージです ※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

処理中です...