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第27話 京、扉のひらく日
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まだ朝霧の名残が石畳にうっすらと貼りついていた。
京を遠望できる小丘の上で、僕らは列を整えた。
義昭様は白と薄藤の直衣に唐衣を重ね、御簾の垂れた輿に静かに座す。髪は結い上げられ、額の生え際に短い白粉。頬は少しだけ紅が差し、幼い面差しの中に、今日という日を刻む決意が宿っていた。
信長様は黒漆の胴と緋の陣羽織。金の前立の兜はつけず、烏帽子を戴いた軽装。馬上から京の稜線に視線を細め、何かを測るように黙している。
太鼓一番。槍先がいっせいに立ち、旗が風を掴む。
――この行列が、都の空気を変える。僕は喉の奥で、その確信を飲み込んだ。
◆
京の町は、朝の靄を押し分けるように目を覚ましていた。
土蔵の白壁、格子戸の影、早仕度の茶屋の湯気。路地の奥から子どもが走り出て、母親に袖を引かれて引っ込む。軒並みに人が列をなし、道端に膝をつく者もいれば、ただ息を呑んで見上げる者もいた。
「将軍家の御方だ……!」
「足利様が、戻らはる……!」
ざわめきは波のように広がり、やがてひとつのうねりになった。
御簾の内、義昭様の肩が小さく上下するのが見える。僕は輿の横で歩を合わせ、耳元に聞こえないくらいの声で告げた。
「大丈夫です。皆、義昭様の旗を見ています」
御簾の向こうで、かすかな息が整う。
揺れる簾越しに、白い指が膝の上でぎゅっと握られては、ほどけた。
実は、僕が義昭様の輿の警護を担当することになったのは、義昭様自身が希望したからだった。
先日の「蓮殿を婿に」の言葉が思い出される。
僕自身も…そして周りの人たちも、そのことを口に出しては言わないが。
義昭様は、まだ僕を「婿」にすることを諦めていないようだった。
(だけど僕は…信長様の側にいたい…)
義昭様の婿宣言のおかげで、僕は自分の居場所を再確認した。
僕がいるべきは将軍の側ではなく、信長様の側なのだ。
その信長様の姿は、義昭様の輿の少し前方にある。
民の視線は義昭様へ注がれている――だが、通りすがりの古道具屋の老人が、信長様の背を見てわずかに身を固くしたのを、僕は見逃さなかった。
歓声の温度と、沈黙の温度。二つの熱が並び立つのが分かる。
曲尺手(かねんて)を曲がり、朱の小橋を渡る。
公家の牛車が控え、直衣姿の男たちが並んで深く頭を下げた。細い囁きが風に混じる。
「これが……織田か」
「尾張風は、あまりに剛し」
信長様は聞こえぬふりで、ただ進む。
黄金の瞳が、町と人と屋根の高さ、角の死角、火の気――全てを測っていた。
◆
二条の地。
新しく拵えられた表門の前に、槍の列が左右に開いた。門はすでに建ち上がっているが、両脇の築地(ついじ)はまだ白さが若く、乾き切っていないところに日が斜めに当たっている。庭には敷き砂が足りず、石は据えたばかりで水の筋が残っていた。
「ここが……私の、御所……そして、兄が命を奪われた場所でもあるのですね」
輿から降りた義昭様が、吐息とも呟きともつかぬ声を漏らした。
白い草履の先が、砂を少し押す。
まだ「居」の匂いが薄い空間――柱が鳴り、畳が新しく、襖の引手は光を跳ね返す。
信長様が一歩進み、掌で空気を払うように示した。
「二条御新造。急ぎ建てた。座は用意した。――使い方は、これから学べ」
言葉は簡潔で、冷たくはないが余白がない。
義昭様は顔を上げ、まっすぐにうなずいた。
「学びます。兄の名を辱めぬよう。……この座に、私の言葉を根づかせます」
その横で、作事奉行の女衆が膝をついて進捗を報せる。
「上段の間、畳替え明日完了」「書院の障子、今宵中に貼替」「縁側板、朝までに油を引きます」――言葉が行き交い、職人の足音が忙しく走る。
長秀さんが受け答えをとりまとめ、藤吉郎が人足の割り振りを指示しては市の相場をちらりと口にする。
「杉戸は堺から、値は少し上がってますけど、急ぎなら払います」
光秀殿は、静かに間取り図を見ていた。
「ここは北からの風が通います。衛士の詰所をずらして、火の気を遠ざけた方がよい」
淡々と、しかし正確に。
信長様は短く「よい」とだけ答える。
勝家さんと利家は表門の警固を受け持ち、槍の影が陽の角度とともに伸び縮みした。
門の向こう、通りに集まった人々のざわめきが、かすかに潮のように寄せては引く。
(空っぽの家に、今日から「将軍の匂い」を入れていくんだ……)
僕は鼻先に立つ新畳の青さと、木の樹脂の甘み、遠くから漂う香の筋を吸い込みながら思った。
――座も旗も、ここでは全部、信長様の手で整えられていく。
義昭様は座るけれど、支える柱は別にある。
◆
午下がり、簡略な拝賀が行われた。
装束を整えた義昭様が上段に座し、公家たちがひとりずつ名乗っては挨拶を述べる。
「将軍家の御血筋、再び都に」「乱世の鎮まる兆しを」――口上は美しく、空気は滑らかに流れていく。
義昭様は、よく通る声で応じた。
「兄・義輝の無念を胸に、乱世を鎮め、道を正します。未熟ではありますが、民の安寧のために、皆々のお力をお貸しください」
場は大きく揺れず、しかし確かに温度が上がった。
その背後、控えに立つ信長様は一礼以外、言葉を挟まない。
だが、公家たちの視線は時折そちらへ滑り――すぐに戻る。
礼を欠かぬ、けれど礼だけでは測れない「何か」。
都の人々が一番敏感な匂いだ。
(義昭様は“将軍になる自分”を、今日、初めてちゃんと演じられた。――でも、舞台を作ったのは信長様だ)
拍手(かしわで)も太鼓もない儀の終わりに、僕は小さく息を吐いた。
外に出れば日脚は傾き、二条の空は白から薄金へ、そして藍へ。
(――これが、乱世を変える最初の一歩…義昭様だけではなく、信長様にとっても大きな一歩になる…)
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「入京の凱歌 ― Triumphant Entry」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「入京の凱歌 ― Triumphant Entry」はこちら ⇒ https://youtu.be/e5meY-aNePs
京を遠望できる小丘の上で、僕らは列を整えた。
義昭様は白と薄藤の直衣に唐衣を重ね、御簾の垂れた輿に静かに座す。髪は結い上げられ、額の生え際に短い白粉。頬は少しだけ紅が差し、幼い面差しの中に、今日という日を刻む決意が宿っていた。
信長様は黒漆の胴と緋の陣羽織。金の前立の兜はつけず、烏帽子を戴いた軽装。馬上から京の稜線に視線を細め、何かを測るように黙している。
太鼓一番。槍先がいっせいに立ち、旗が風を掴む。
――この行列が、都の空気を変える。僕は喉の奥で、その確信を飲み込んだ。
◆
京の町は、朝の靄を押し分けるように目を覚ましていた。
土蔵の白壁、格子戸の影、早仕度の茶屋の湯気。路地の奥から子どもが走り出て、母親に袖を引かれて引っ込む。軒並みに人が列をなし、道端に膝をつく者もいれば、ただ息を呑んで見上げる者もいた。
「将軍家の御方だ……!」
「足利様が、戻らはる……!」
ざわめきは波のように広がり、やがてひとつのうねりになった。
御簾の内、義昭様の肩が小さく上下するのが見える。僕は輿の横で歩を合わせ、耳元に聞こえないくらいの声で告げた。
「大丈夫です。皆、義昭様の旗を見ています」
御簾の向こうで、かすかな息が整う。
揺れる簾越しに、白い指が膝の上でぎゅっと握られては、ほどけた。
実は、僕が義昭様の輿の警護を担当することになったのは、義昭様自身が希望したからだった。
先日の「蓮殿を婿に」の言葉が思い出される。
僕自身も…そして周りの人たちも、そのことを口に出しては言わないが。
義昭様は、まだ僕を「婿」にすることを諦めていないようだった。
(だけど僕は…信長様の側にいたい…)
義昭様の婿宣言のおかげで、僕は自分の居場所を再確認した。
僕がいるべきは将軍の側ではなく、信長様の側なのだ。
その信長様の姿は、義昭様の輿の少し前方にある。
民の視線は義昭様へ注がれている――だが、通りすがりの古道具屋の老人が、信長様の背を見てわずかに身を固くしたのを、僕は見逃さなかった。
歓声の温度と、沈黙の温度。二つの熱が並び立つのが分かる。
曲尺手(かねんて)を曲がり、朱の小橋を渡る。
公家の牛車が控え、直衣姿の男たちが並んで深く頭を下げた。細い囁きが風に混じる。
「これが……織田か」
「尾張風は、あまりに剛し」
信長様は聞こえぬふりで、ただ進む。
黄金の瞳が、町と人と屋根の高さ、角の死角、火の気――全てを測っていた。
◆
二条の地。
新しく拵えられた表門の前に、槍の列が左右に開いた。門はすでに建ち上がっているが、両脇の築地(ついじ)はまだ白さが若く、乾き切っていないところに日が斜めに当たっている。庭には敷き砂が足りず、石は据えたばかりで水の筋が残っていた。
「ここが……私の、御所……そして、兄が命を奪われた場所でもあるのですね」
輿から降りた義昭様が、吐息とも呟きともつかぬ声を漏らした。
白い草履の先が、砂を少し押す。
まだ「居」の匂いが薄い空間――柱が鳴り、畳が新しく、襖の引手は光を跳ね返す。
信長様が一歩進み、掌で空気を払うように示した。
「二条御新造。急ぎ建てた。座は用意した。――使い方は、これから学べ」
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義昭様は顔を上げ、まっすぐにうなずいた。
「学びます。兄の名を辱めぬよう。……この座に、私の言葉を根づかせます」
その横で、作事奉行の女衆が膝をついて進捗を報せる。
「上段の間、畳替え明日完了」「書院の障子、今宵中に貼替」「縁側板、朝までに油を引きます」――言葉が行き交い、職人の足音が忙しく走る。
長秀さんが受け答えをとりまとめ、藤吉郎が人足の割り振りを指示しては市の相場をちらりと口にする。
「杉戸は堺から、値は少し上がってますけど、急ぎなら払います」
光秀殿は、静かに間取り図を見ていた。
「ここは北からの風が通います。衛士の詰所をずらして、火の気を遠ざけた方がよい」
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信長様は短く「よい」とだけ答える。
勝家さんと利家は表門の警固を受け持ち、槍の影が陽の角度とともに伸び縮みした。
門の向こう、通りに集まった人々のざわめきが、かすかに潮のように寄せては引く。
(空っぽの家に、今日から「将軍の匂い」を入れていくんだ……)
僕は鼻先に立つ新畳の青さと、木の樹脂の甘み、遠くから漂う香の筋を吸い込みながら思った。
――座も旗も、ここでは全部、信長様の手で整えられていく。
義昭様は座るけれど、支える柱は別にある。
◆
午下がり、簡略な拝賀が行われた。
装束を整えた義昭様が上段に座し、公家たちがひとりずつ名乗っては挨拶を述べる。
「将軍家の御血筋、再び都に」「乱世の鎮まる兆しを」――口上は美しく、空気は滑らかに流れていく。
義昭様は、よく通る声で応じた。
「兄・義輝の無念を胸に、乱世を鎮め、道を正します。未熟ではありますが、民の安寧のために、皆々のお力をお貸しください」
場は大きく揺れず、しかし確かに温度が上がった。
その背後、控えに立つ信長様は一礼以外、言葉を挟まない。
だが、公家たちの視線は時折そちらへ滑り――すぐに戻る。
礼を欠かぬ、けれど礼だけでは測れない「何か」。
都の人々が一番敏感な匂いだ。
(義昭様は“将軍になる自分”を、今日、初めてちゃんと演じられた。――でも、舞台を作ったのは信長様だ)
拍手(かしわで)も太鼓もない儀の終わりに、僕は小さく息を吐いた。
外に出れば日脚は傾き、二条の空は白から薄金へ、そして藍へ。
(――これが、乱世を変える最初の一歩…義昭様だけではなく、信長様にとっても大きな一歩になる…)
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