戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》

梵天丸

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第41話 暁の静寂

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 夜の名残が二条城の瓦に薄く張りつき、白んだ空がゆっくりと色を取り戻していく。
 城下の往来はまだ湿り気を含んだ匂いを残し、遠くでは小鳥が鳴きはじめていた。
 寝所の外は、控えめな足音と、朝の点呼を告げる兵の声。
 金ヶ崎から戻ってまだ幾日も経たぬというのに、城の脈はもう日常の拍に合わせて鼓動している。

 肩に巻かれた包帯は、昨夜よりも固く結ばれていた。
 呼吸のたびに薄い痛みが走る。
 けれどこの痛みは、まだ生きていると告げる合図のようでもあった。
 目を閉じると、湿った夜風、泥の匂い、遠ざかっていく鬨の声――あの岸の影が、脳裏にまだ名残を残している。誰かの手を離した感触、誰かの名を呼びそこねた喉の痺れ。
 生きて帰った安堵と、置いてきたものの重さが、静かに胸の底へ沈んでいた。

 戸口で衣擦れの音がした。

「入るぞ」

 短く告げられた声に、体がわずかに強張る。振り向くと、薄羽織を肩に掛けた信長様が立っていた。
 朝薄明の光の中で、信長様の瞳だけが冴え冴えと際立っていた。

「傷はどうだ」
「……まだ、鳴きますが。大丈夫です」
「食うておるか」
「はい。薬湯も」
「そうか」

 それだけのやり取りで、部屋の空気は落ち着いた。
 信長様は座したまま、置かれた湯呑に手を伸ばすでもなく、指先で机の角を軽く叩く。規則でも不規則でもない、短い合図のような音。

 あの夜、僕が口にした言葉――《死んでも、戻る》。それが嘘にならなかったことを、僕は自分の胸の奥で確かめる。

 信長様はふと視線を落とし、唇の端に影のようなものを浮かべた。

「あの状況の中で、よく戻ってきた」

 それだけ。大仰な誉れも、芝居がかった慰めもない。けれど、その四文字が、体の芯まで温かく浸みた。



 昼の光が障子の紙を透かし、畳の目を淡く照らす時刻。控えめな叩扉がして、光秀殿が見舞いに現れた。
 穏やかな笑みはいつも通りで、包帯に目をやると「よくぞご無事で」と小さく頭を下げる。
 彼の声は柔らかいのに、言葉の輪郭はいつも鋭い。刃を紙で包んだような調子だ。

「金ヶ崎は、誰の目にも退き戦。されど、退きの中にも勝ち筋はある。――蓮殿の報せが、幾筋もの命をつなぎました」
「あれは、僕だけの手柄ではありません。藤吉郎の采配がなければ、瓦解していたでしょう」
「分かっています。ですが、蓮殿の速さがなければ、届かなかった策もあるでしょう」

 光秀殿は視線を障子に移し、薄い紙越しの光をしばし眺める。

「信長様の采配は、常に正しい」

 淡い声。

「ただ――その正しさが、あまりにも速すぎる時があります」
「光秀殿?」

 僕が声をかけると、光秀殿ははっとしたように目を見開き、そして微笑んだ。

「気になさらないでください。ただの独り言です」

 その言葉はまるで、椀に落ちた雨粒のように静かに広がって、やがて見えない波紋を残した。
 僕は、包帯の端を指で撫でながら頷く。

「僕も、信長様の速さに追いつけるよう努力します」

 光秀殿は目を細めた。そこに浮かんだのは、安堵と、どこか遠いものを見つめるような迷い。

「蓮殿がいれば、信長様は見失わずに済むかもしれませんね」

 それだけ告げて、彼は静かに立ち上がる。
 何か言いたげな雰囲気が気になった。

 僕は療養中なので、最近の家中の動きがよく分かっていない。
 何か、光秀殿の表情を曇らせるようなことが、起きているのだろうか…。



 夕刻。城の上に、燃え残りの茜が帯のように横たわっていた。
 再び戸が開き、信長様が入ってくる。手には新しい包帯の束を持っていた。

「包帯を巻き直してやる」

 言外に、余計な口を挟むな――そんな空気を含んだ口調だったが、手つきは驚くほど丁寧だった。
 信長様は、織田家の当主でありながら、こうした傷の手当てにも慣れている。
 かつては尾張の小大名として、自ら槍を取り、戦場に立った。
 だからこそ、包帯を巻く手つきにも迷いがないのだ。
 それが現在は、天下にもっとも近い大大名。

 片膝を畳につき、僕の肩へと両の手が伸びる。

 ほどかれた布が肌から離れるたび、ひやりとした空気が触れる。
 信長様の指が新しい布を取る。指腹に残る微かな紙の粉。
 どれも、知らない戦場の匂いがしない。

「傷の治りは、悪くないな」
「はい。おかげさまで、毎日少しずつ良くなっているのを感じます」
「動けるようになったら、また剣を見てやろう」
「ぜひ、お願いします!信長様から頂いた宗三左文字も、まだ使いこなせていないですし」
「なら、早く治せ」
「はい!」

 そう返事をしてから、ふと、光秀殿のことが気になった。

「先日、光秀殿が見舞いに来てくれたのですが…」
「うん? 光秀がか?」
「はい。少し元気がないようで気になりました。家中で何かあったのでしょうか?」

 僕が言うと、信長様は少し気まずそうに顔をそらす。

「少し言い争いをした」
「言い争い…ですか?」
「たいしたことではない。だが、光秀にとってはそうではなかったのかもしれぬな…」

 僕の知る未来では、明智光秀は信長様を裏切る。
 そうさせないためには、どんな些細なことも見逃せない。

「信長様、光秀殿は織田家にとってなくてはならない存在です。どうか、多少のことはご辛抱されて、光秀殿を大切してほしいです」
「もちろん、分かっておる」

 信長様は微笑んだ。
 もしかすると、本能寺の変という信長様にとって最大の不幸は、避けられるかもしれない。
 そう思えた瞬間、ようやく息が深く吸えた。

***************

戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。

今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「暁にほどける影 ― Dawn Unravele」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫

「暁にほどける影 ― Dawn Unravele」はこちら ⇒ https://youtu.be/QRiVJQKfIlY

 
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