41 / 64
第41話 暁の静寂
しおりを挟む
夜の名残が二条城の瓦に薄く張りつき、白んだ空がゆっくりと色を取り戻していく。
城下の往来はまだ湿り気を含んだ匂いを残し、遠くでは小鳥が鳴きはじめていた。
寝所の外は、控えめな足音と、朝の点呼を告げる兵の声。
金ヶ崎から戻ってまだ幾日も経たぬというのに、城の脈はもう日常の拍に合わせて鼓動している。
肩に巻かれた包帯は、昨夜よりも固く結ばれていた。
呼吸のたびに薄い痛みが走る。
けれどこの痛みは、まだ生きていると告げる合図のようでもあった。
目を閉じると、湿った夜風、泥の匂い、遠ざかっていく鬨の声――あの岸の影が、脳裏にまだ名残を残している。誰かの手を離した感触、誰かの名を呼びそこねた喉の痺れ。
生きて帰った安堵と、置いてきたものの重さが、静かに胸の底へ沈んでいた。
戸口で衣擦れの音がした。
「入るぞ」
短く告げられた声に、体がわずかに強張る。振り向くと、薄羽織を肩に掛けた信長様が立っていた。
朝薄明の光の中で、信長様の瞳だけが冴え冴えと際立っていた。
「傷はどうだ」
「……まだ、鳴きますが。大丈夫です」
「食うておるか」
「はい。薬湯も」
「そうか」
それだけのやり取りで、部屋の空気は落ち着いた。
信長様は座したまま、置かれた湯呑に手を伸ばすでもなく、指先で机の角を軽く叩く。規則でも不規則でもない、短い合図のような音。
あの夜、僕が口にした言葉――《死んでも、戻る》。それが嘘にならなかったことを、僕は自分の胸の奥で確かめる。
信長様はふと視線を落とし、唇の端に影のようなものを浮かべた。
「あの状況の中で、よく戻ってきた」
それだけ。大仰な誉れも、芝居がかった慰めもない。けれど、その四文字が、体の芯まで温かく浸みた。
◆
昼の光が障子の紙を透かし、畳の目を淡く照らす時刻。控えめな叩扉がして、光秀殿が見舞いに現れた。
穏やかな笑みはいつも通りで、包帯に目をやると「よくぞご無事で」と小さく頭を下げる。
彼の声は柔らかいのに、言葉の輪郭はいつも鋭い。刃を紙で包んだような調子だ。
「金ヶ崎は、誰の目にも退き戦。されど、退きの中にも勝ち筋はある。――蓮殿の報せが、幾筋もの命をつなぎました」
「あれは、僕だけの手柄ではありません。藤吉郎の采配がなければ、瓦解していたでしょう」
「分かっています。ですが、蓮殿の速さがなければ、届かなかった策もあるでしょう」
光秀殿は視線を障子に移し、薄い紙越しの光をしばし眺める。
「信長様の采配は、常に正しい」
淡い声。
「ただ――その正しさが、あまりにも速すぎる時があります」
「光秀殿?」
僕が声をかけると、光秀殿ははっとしたように目を見開き、そして微笑んだ。
「気になさらないでください。ただの独り言です」
その言葉はまるで、椀に落ちた雨粒のように静かに広がって、やがて見えない波紋を残した。
僕は、包帯の端を指で撫でながら頷く。
「僕も、信長様の速さに追いつけるよう努力します」
光秀殿は目を細めた。そこに浮かんだのは、安堵と、どこか遠いものを見つめるような迷い。
「蓮殿がいれば、信長様は見失わずに済むかもしれませんね」
それだけ告げて、彼は静かに立ち上がる。
何か言いたげな雰囲気が気になった。
僕は療養中なので、最近の家中の動きがよく分かっていない。
何か、光秀殿の表情を曇らせるようなことが、起きているのだろうか…。
◆
夕刻。城の上に、燃え残りの茜が帯のように横たわっていた。
再び戸が開き、信長様が入ってくる。手には新しい包帯の束を持っていた。
「包帯を巻き直してやる」
言外に、余計な口を挟むな――そんな空気を含んだ口調だったが、手つきは驚くほど丁寧だった。
信長様は、織田家の当主でありながら、こうした傷の手当てにも慣れている。
かつては尾張の小大名として、自ら槍を取り、戦場に立った。
だからこそ、包帯を巻く手つきにも迷いがないのだ。
それが現在は、天下にもっとも近い大大名。
片膝を畳につき、僕の肩へと両の手が伸びる。
ほどかれた布が肌から離れるたび、ひやりとした空気が触れる。
信長様の指が新しい布を取る。指腹に残る微かな紙の粉。
どれも、知らない戦場の匂いがしない。
「傷の治りは、悪くないな」
「はい。おかげさまで、毎日少しずつ良くなっているのを感じます」
「動けるようになったら、また剣を見てやろう」
「ぜひ、お願いします!信長様から頂いた宗三左文字も、まだ使いこなせていないですし」
「なら、早く治せ」
「はい!」
そう返事をしてから、ふと、光秀殿のことが気になった。
「先日、光秀殿が見舞いに来てくれたのですが…」
「うん? 光秀がか?」
「はい。少し元気がないようで気になりました。家中で何かあったのでしょうか?」
僕が言うと、信長様は少し気まずそうに顔をそらす。
「少し言い争いをした」
「言い争い…ですか?」
「たいしたことではない。だが、光秀にとってはそうではなかったのかもしれぬな…」
僕の知る未来では、明智光秀は信長様を裏切る。
そうさせないためには、どんな些細なことも見逃せない。
「信長様、光秀殿は織田家にとってなくてはならない存在です。どうか、多少のことはご辛抱されて、光秀殿を大切してほしいです」
「もちろん、分かっておる」
信長様は微笑んだ。
もしかすると、本能寺の変という信長様にとって最大の不幸は、避けられるかもしれない。
そう思えた瞬間、ようやく息が深く吸えた。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「暁にほどける影 ― Dawn Unravele」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「暁にほどける影 ― Dawn Unravele」はこちら ⇒ https://youtu.be/QRiVJQKfIlY
城下の往来はまだ湿り気を含んだ匂いを残し、遠くでは小鳥が鳴きはじめていた。
寝所の外は、控えめな足音と、朝の点呼を告げる兵の声。
金ヶ崎から戻ってまだ幾日も経たぬというのに、城の脈はもう日常の拍に合わせて鼓動している。
肩に巻かれた包帯は、昨夜よりも固く結ばれていた。
呼吸のたびに薄い痛みが走る。
けれどこの痛みは、まだ生きていると告げる合図のようでもあった。
目を閉じると、湿った夜風、泥の匂い、遠ざかっていく鬨の声――あの岸の影が、脳裏にまだ名残を残している。誰かの手を離した感触、誰かの名を呼びそこねた喉の痺れ。
生きて帰った安堵と、置いてきたものの重さが、静かに胸の底へ沈んでいた。
戸口で衣擦れの音がした。
「入るぞ」
短く告げられた声に、体がわずかに強張る。振り向くと、薄羽織を肩に掛けた信長様が立っていた。
朝薄明の光の中で、信長様の瞳だけが冴え冴えと際立っていた。
「傷はどうだ」
「……まだ、鳴きますが。大丈夫です」
「食うておるか」
「はい。薬湯も」
「そうか」
それだけのやり取りで、部屋の空気は落ち着いた。
信長様は座したまま、置かれた湯呑に手を伸ばすでもなく、指先で机の角を軽く叩く。規則でも不規則でもない、短い合図のような音。
あの夜、僕が口にした言葉――《死んでも、戻る》。それが嘘にならなかったことを、僕は自分の胸の奥で確かめる。
信長様はふと視線を落とし、唇の端に影のようなものを浮かべた。
「あの状況の中で、よく戻ってきた」
それだけ。大仰な誉れも、芝居がかった慰めもない。けれど、その四文字が、体の芯まで温かく浸みた。
◆
昼の光が障子の紙を透かし、畳の目を淡く照らす時刻。控えめな叩扉がして、光秀殿が見舞いに現れた。
穏やかな笑みはいつも通りで、包帯に目をやると「よくぞご無事で」と小さく頭を下げる。
彼の声は柔らかいのに、言葉の輪郭はいつも鋭い。刃を紙で包んだような調子だ。
「金ヶ崎は、誰の目にも退き戦。されど、退きの中にも勝ち筋はある。――蓮殿の報せが、幾筋もの命をつなぎました」
「あれは、僕だけの手柄ではありません。藤吉郎の采配がなければ、瓦解していたでしょう」
「分かっています。ですが、蓮殿の速さがなければ、届かなかった策もあるでしょう」
光秀殿は視線を障子に移し、薄い紙越しの光をしばし眺める。
「信長様の采配は、常に正しい」
淡い声。
「ただ――その正しさが、あまりにも速すぎる時があります」
「光秀殿?」
僕が声をかけると、光秀殿ははっとしたように目を見開き、そして微笑んだ。
「気になさらないでください。ただの独り言です」
その言葉はまるで、椀に落ちた雨粒のように静かに広がって、やがて見えない波紋を残した。
僕は、包帯の端を指で撫でながら頷く。
「僕も、信長様の速さに追いつけるよう努力します」
光秀殿は目を細めた。そこに浮かんだのは、安堵と、どこか遠いものを見つめるような迷い。
「蓮殿がいれば、信長様は見失わずに済むかもしれませんね」
それだけ告げて、彼は静かに立ち上がる。
何か言いたげな雰囲気が気になった。
僕は療養中なので、最近の家中の動きがよく分かっていない。
何か、光秀殿の表情を曇らせるようなことが、起きているのだろうか…。
◆
夕刻。城の上に、燃え残りの茜が帯のように横たわっていた。
再び戸が開き、信長様が入ってくる。手には新しい包帯の束を持っていた。
「包帯を巻き直してやる」
言外に、余計な口を挟むな――そんな空気を含んだ口調だったが、手つきは驚くほど丁寧だった。
信長様は、織田家の当主でありながら、こうした傷の手当てにも慣れている。
かつては尾張の小大名として、自ら槍を取り、戦場に立った。
だからこそ、包帯を巻く手つきにも迷いがないのだ。
それが現在は、天下にもっとも近い大大名。
片膝を畳につき、僕の肩へと両の手が伸びる。
ほどかれた布が肌から離れるたび、ひやりとした空気が触れる。
信長様の指が新しい布を取る。指腹に残る微かな紙の粉。
どれも、知らない戦場の匂いがしない。
「傷の治りは、悪くないな」
「はい。おかげさまで、毎日少しずつ良くなっているのを感じます」
「動けるようになったら、また剣を見てやろう」
「ぜひ、お願いします!信長様から頂いた宗三左文字も、まだ使いこなせていないですし」
「なら、早く治せ」
「はい!」
そう返事をしてから、ふと、光秀殿のことが気になった。
「先日、光秀殿が見舞いに来てくれたのですが…」
「うん? 光秀がか?」
「はい。少し元気がないようで気になりました。家中で何かあったのでしょうか?」
僕が言うと、信長様は少し気まずそうに顔をそらす。
「少し言い争いをした」
「言い争い…ですか?」
「たいしたことではない。だが、光秀にとってはそうではなかったのかもしれぬな…」
僕の知る未来では、明智光秀は信長様を裏切る。
そうさせないためには、どんな些細なことも見逃せない。
「信長様、光秀殿は織田家にとってなくてはならない存在です。どうか、多少のことはご辛抱されて、光秀殿を大切してほしいです」
「もちろん、分かっておる」
信長様は微笑んだ。
もしかすると、本能寺の変という信長様にとって最大の不幸は、避けられるかもしれない。
そう思えた瞬間、ようやく息が深く吸えた。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「暁にほどける影 ― Dawn Unravele」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「暁にほどける影 ― Dawn Unravele」はこちら ⇒ https://youtu.be/QRiVJQKfIlY
1
あなたにおすすめの小説
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
【完結】スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜
かの
ファンタジー
世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。
スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。
偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。
スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!
冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!
【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活
シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
異世界のんびり放浪記
立花アルト
ファンタジー
異世界に転移した少女リノは森でサバイバルしながら素材を集め、商人オルソンと出会って街アイゼルトヘ到着。
冒険者ギルドで登録と新人訓練を受け、採取や戦闘、魔法の基礎を学びながら生活準備を整え、街で道具を買い揃えつつ、次の冒険へ向けて動き始めた--。
よくある異世界転移?です。のんびり進む予定です。
小説家になろうにも投稿しています。
優の異世界ごはん日記
風待 結
ファンタジー
月森優はちょっと料理が得意な普通の高校生。
ある日、帰り道で謎の光に包まれて見知らぬ森に転移してしまう。
未知の世界で飢えと恐怖に直面した優は、弓使いの少女・リナと出会う。
彼女の導きで村へ向かう道中、優は「料理のスキル」がこの世界でも通用すると気づく。
モンスターの肉や珍しい食材を使い、異世界で新たな居場所を作る冒険が始まる。
異世界召喚に条件を付けたのに、女神様に呼ばれた
りゅう
ファンタジー
異世界召喚。サラリーマンだって、そんな空想をする。
いや、さすがに大人なので空想する内容も大人だ。少年の心が残っていても、現実社会でもまれた人間はまた別の空想をするのだ。
その日の神岡龍二も、日々の生活から離れ異世界を想像して遊んでいるだけのハズだった。そこには何の問題もないハズだった。だが、そんなお気楽な日々は、この日が最後となってしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる