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第46話 余白の光
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比叡の山が焼かれてから、まだ数日しか経っていない。
けれど、空の色が変わった気がする。
朝の京は、灰の匂いを抱えたまま沈黙していた。
寺の鐘も鳴らない。風が吹いても、音が消えていく。
あの炎が、僕たちから何かを奪ってしまった気がした。
けれど何を失ったのか、うまく言葉にできない。
光秀殿は兵の再編を進め、藤吉郎は被害地の整理に走り回っていた。
久秀は相変わらず微笑を崩さず、淡々と報告をまとめている。
信長様だけが、何も言わなかった。
黙して座し、机の上の地図を見つめていた。
僕は、あのとき止められなかったことを悔やんでいた。
久秀を使うのは危険だと進言したのに、結局、あの結果を招いた。
もしもう少し強く言えていれば――
そんな“もしも”ばかりが、頭の中を巡る。
◆
夜。
兵たちの営舎に灯が落ち、風が静まる。
外は、まだ灰の匂いが残っている。
月が雲に隠れたり現れたりして、地面を銀に照らした。
信長様は陣の外にいた。
背を向けて、丘の上から遠くを見ている。
僕はそっと近づき、少し離れた場所に立った。
「信長様……そろそろお休みになられてください。小姓たちも心配しています」
「眠れぬ」
「少し歩きますか? それとも……遠乗りでも?」
「夜の遠乗りとは、物好きだな。ついてこれるのか?」
信長様が笑って振り返る。
「頑張ります。以前よりは少し、乗りこなせるようになりました」
「では、付き合ってもらおうか」
◆
夜の街道を、馬で走る。
信長様は、たぶん僕に合わせてくれている。
そのおかげで、ただその背を見失わぬように、必死に手綱を握っていた。
そしてたどり着いたのは、比叡の丘陵だった。
信長様は馬を下り、僕も続く。
山の向こうに、まだ白い煙が漂っていた。
燃え落ちた寺々の跡地。
風が吹くたび、灰の粉が舞い上がる。
「まだ、燃えているのだな」
ほとんどの火は消えていたが、山のあちこちで赤い残光がくすぶっていた。
久秀が、いったいどれだけのものを焼いたのか――
その全貌は、計り知れない。
『面白かったでしょう?』
そう僕にだけ聞こえる声で言った彼女の言葉が、忘れられない。
久秀は、やむを得ず火を放ったのではない。
最初から、火を放つつもりだったのだ。
信長様はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「悔やむつもりはない。だが……二度と同じことは繰り返さぬ」
「はい。僕も、二度と同じことを起こさないために尽力します」
「なぜ、自分のせいだというような顔をする」
その声は、叱責ではなく、どこか慰めに近かった。
「それは……僕のせいだと思うからです」
「なぜそう思う?」
「僕は……」
未来を知っているから――そう言いかけて、慌てて口を閉ざした。
そんなことを言っても、信長様には伝わらない。
「僕は……信長様に天下を取っていただきたいです。でも、それ以上に、幸せにもなってもらいたい」
「幸せか……そなたが考える幸せとは何だ?」
「こんな戦争なんてない世界? よく分かりません。でも、今の世は、幸せだとは思えない。だから、そんな世界では、信長様も幸せになれないと思います」
「そうだな……まずは国を一つにまとめることが必要だ」
「はい。そう思います」
きっとその先に、信長様の幸せもあるに違いない。
「そなたは……やさしいのだな」
気がつくと、信長様が微笑んで僕を見ていた。
「そんなことありません。本当に優しければ……こんなことにはしていませんでした」
僕が怯んだばかりに。
久秀の危険性を知りながら、止められなかった。
信長様を悪者にしてしまった。
今、信長様をあしざまに言う声は、すべて僕のせいだという気がした。
「そのような顔をするな」
「すみません……」
口にした瞬間、風が止んだ。
信長様の視線が、僕を貫いた。
赤い髪が揺れ、月の光が頬を照らす。
言葉を探していた。
でも、何も出てこなかった。
その沈黙の中で、距離がふいに近づいた。
――触れた。
ほんの一瞬、唇が重なった。
呼吸の仕方も忘れるほど、静かな時間だった。
火ではなく、灰の中の微かな熱だけが残った。
信長様はわずかに息を呑み、目を見開いた。
そして、自分の唇に触れ、小さくつぶやいた。
「……私は、何をしたのだ」
僕は目を瞬かせた。
「えっ、あ、い、今のは――」
「忘れろ」
その声は硬かったが、どこか震えていた。
「信長様……?」
「いいから忘れろ。いいな?」
「は、はい……」
背を向け、歩き出す。
月明かりの中、その赤髪が夜風に流れた。
僕はその背中を追おうとして、足が動かなかった。
胸が痛い。
でも、痛みがどこから来るのか分からない。
ただひとつだけ分かる。
(さっきのは……いわゆる……キス?)
僕は唇のあたりに触れる。
一瞬だけ触れた、信長様の――
灰がひとひら、頬に落ちた。
指で拭うと、指先が黒く汚れる。
その色が、胸の奥に滲んでいく気がした。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「余白の光 ― Light Between Us」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「余白の光 ― Light Between Us」はこちら ⇒ https://youtu.be/nnHLVU3WX4M
けれど、空の色が変わった気がする。
朝の京は、灰の匂いを抱えたまま沈黙していた。
寺の鐘も鳴らない。風が吹いても、音が消えていく。
あの炎が、僕たちから何かを奪ってしまった気がした。
けれど何を失ったのか、うまく言葉にできない。
光秀殿は兵の再編を進め、藤吉郎は被害地の整理に走り回っていた。
久秀は相変わらず微笑を崩さず、淡々と報告をまとめている。
信長様だけが、何も言わなかった。
黙して座し、机の上の地図を見つめていた。
僕は、あのとき止められなかったことを悔やんでいた。
久秀を使うのは危険だと進言したのに、結局、あの結果を招いた。
もしもう少し強く言えていれば――
そんな“もしも”ばかりが、頭の中を巡る。
◆
夜。
兵たちの営舎に灯が落ち、風が静まる。
外は、まだ灰の匂いが残っている。
月が雲に隠れたり現れたりして、地面を銀に照らした。
信長様は陣の外にいた。
背を向けて、丘の上から遠くを見ている。
僕はそっと近づき、少し離れた場所に立った。
「信長様……そろそろお休みになられてください。小姓たちも心配しています」
「眠れぬ」
「少し歩きますか? それとも……遠乗りでも?」
「夜の遠乗りとは、物好きだな。ついてこれるのか?」
信長様が笑って振り返る。
「頑張ります。以前よりは少し、乗りこなせるようになりました」
「では、付き合ってもらおうか」
◆
夜の街道を、馬で走る。
信長様は、たぶん僕に合わせてくれている。
そのおかげで、ただその背を見失わぬように、必死に手綱を握っていた。
そしてたどり着いたのは、比叡の丘陵だった。
信長様は馬を下り、僕も続く。
山の向こうに、まだ白い煙が漂っていた。
燃え落ちた寺々の跡地。
風が吹くたび、灰の粉が舞い上がる。
「まだ、燃えているのだな」
ほとんどの火は消えていたが、山のあちこちで赤い残光がくすぶっていた。
久秀が、いったいどれだけのものを焼いたのか――
その全貌は、計り知れない。
『面白かったでしょう?』
そう僕にだけ聞こえる声で言った彼女の言葉が、忘れられない。
久秀は、やむを得ず火を放ったのではない。
最初から、火を放つつもりだったのだ。
信長様はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「悔やむつもりはない。だが……二度と同じことは繰り返さぬ」
「はい。僕も、二度と同じことを起こさないために尽力します」
「なぜ、自分のせいだというような顔をする」
その声は、叱責ではなく、どこか慰めに近かった。
「それは……僕のせいだと思うからです」
「なぜそう思う?」
「僕は……」
未来を知っているから――そう言いかけて、慌てて口を閉ざした。
そんなことを言っても、信長様には伝わらない。
「僕は……信長様に天下を取っていただきたいです。でも、それ以上に、幸せにもなってもらいたい」
「幸せか……そなたが考える幸せとは何だ?」
「こんな戦争なんてない世界? よく分かりません。でも、今の世は、幸せだとは思えない。だから、そんな世界では、信長様も幸せになれないと思います」
「そうだな……まずは国を一つにまとめることが必要だ」
「はい。そう思います」
きっとその先に、信長様の幸せもあるに違いない。
「そなたは……やさしいのだな」
気がつくと、信長様が微笑んで僕を見ていた。
「そんなことありません。本当に優しければ……こんなことにはしていませんでした」
僕が怯んだばかりに。
久秀の危険性を知りながら、止められなかった。
信長様を悪者にしてしまった。
今、信長様をあしざまに言う声は、すべて僕のせいだという気がした。
「そのような顔をするな」
「すみません……」
口にした瞬間、風が止んだ。
信長様の視線が、僕を貫いた。
赤い髪が揺れ、月の光が頬を照らす。
言葉を探していた。
でも、何も出てこなかった。
その沈黙の中で、距離がふいに近づいた。
――触れた。
ほんの一瞬、唇が重なった。
呼吸の仕方も忘れるほど、静かな時間だった。
火ではなく、灰の中の微かな熱だけが残った。
信長様はわずかに息を呑み、目を見開いた。
そして、自分の唇に触れ、小さくつぶやいた。
「……私は、何をしたのだ」
僕は目を瞬かせた。
「えっ、あ、い、今のは――」
「忘れろ」
その声は硬かったが、どこか震えていた。
「信長様……?」
「いいから忘れろ。いいな?」
「は、はい……」
背を向け、歩き出す。
月明かりの中、その赤髪が夜風に流れた。
僕はその背中を追おうとして、足が動かなかった。
胸が痛い。
でも、痛みがどこから来るのか分からない。
ただひとつだけ分かる。
(さっきのは……いわゆる……キス?)
僕は唇のあたりに触れる。
一瞬だけ触れた、信長様の――
灰がひとひら、頬に落ちた。
指で拭うと、指先が黒く汚れる。
その色が、胸の奥に滲んでいく気がした。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「余白の光 ― Light Between Us」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「余白の光 ― Light Between Us」はこちら ⇒ https://youtu.be/nnHLVU3WX4M
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