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第63話 堺の帳(とばり)・後篇
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日が傾き、港の方角から鳴子の音が届いた。
西陽が瓦に反射し、町全体が赤く染まる。魚油の匂いが風に混じり、波止場には異国の船がゆっくりと揺れている。
堺は、戦とは別の律で動いていた。
剣ではなく秤が物を量り、欲と理で均衡を保っている。
僕は、昼間見つけた通い路をもう一度確かめた。
棚板の楔は元に戻したが、底に薄く墨で印を残してある。久秀の使いが再び触れれば、すぐにわかるように。
その上で、別の筋――鉄砲町へ向かうことにした。
昼間の少女が残した言葉が、頭の片隅から離れなかった。
――答えは堺で。
◆
鉄砲町は、表通りから一筋入った先にある。
名前の通り、火薬や鉄を扱う職人たちが集まり、夜でも炉の火が消えない。
昼間の喧噪は静まり、路地の奥から槌音だけが間隔を置いて響いていた。
決して、油断できる空気ではない。
だが、誰かが僕をここへ呼んだのなら、何かを見せたいはずだ。
それが罠であっても、確かめなければ進めない。
狭い路地を抜けると、古い井戸が見えた。
その縁に、昼間の少女が立っていた。
髪をほどき、男装の装束を脱いでいる。思いのほか幼く、年は十七ほどか。
顔に笑みはない。夜気の中で、目だけが澄んでいた。
「また会いましたね、軍師様」
「呼んだのは君か」
「ええ。でも、待っていたのは私ではありません」
その言葉と同時に、背後の暗がりで衣が擦れる音がした。
視線を向けると、灯も持たぬ人影がひとつ、ゆっくりと歩み出る。
風も足音もない。まるで、地を滑るように。
背後の闇が、輪郭を持って形を結ぶ。
――松永久秀だった。
月明かりに、白い指が浮かぶ。
髪を高く結い、唇にはかすかに紅を差している。
その姿は、噂に聞く“魔王”ではなく、どこか退廃的で美しい。
けれど、瞳の奥だけが硝のように冷たかった。
「久しぶりですね。信長殿の軍師殿、とお呼びすればよろしいですか」
その声は、柔らかく、底がない。
「堺の空気には、戦の臭いがしません。だからこそ、戦を運び込む者が誰か、よく目立つ」
「僕は騒ぎを運びに来たわけではありません」
「でしょうね。あなたは“塞ぐ人”ですから」
久秀は微笑み、袖から細い巻紙を取り出した。
印が三つ。桔梗、織田木瓜、そして松永。
「この三つの印が並ぶ文を、見たことはありますか?」
「ありません」
「なら、今日が最初です」
久秀は巻紙を井戸の縁に置いた。
「これは、取引の証。硝と鉄を、堺の町の“外”に出す許可状です。私の印があれば、誰も疑わない。
でも――あなたがここでこれを奪えば、戦が始まる」
挑発のような言葉だった。
だが、その声に怒気はない。
まるで僕がどう動くかを観察しているようだった。
「なぜ僕を呼んだ」
「あなたが信長殿の“口”ではなく、彼女の“目”だからよ」
久秀の声が低くなる。
「目は、光を入れるが、同時に心を覗かせる。……あの方の心は、見たことはある?」
胸が強く打つ。
答えられなかった。
信長様の横顔を思い出した。炎の前で何も語らなかったあの夜を。
(僕は…時々、信長様が何を考えているのか分からなくなることがある…)
久秀は微かに笑い、巻紙を火打石で燃やした。
炎は青く揺れ、一瞬で灰になる。
「この世の秩序は、誰が火をつけるかで変わる。私はその“順序”を試しているだけ」
「なぜそんなことを?」
「退屈だから?」
そう言ってくすくすと笑う。
彼女は以前にも言っていた。
『選びなさい。いつかはね。誰かを選ぶことは、何かを捨てること。捨てるとき、人は一番、美しい』
「あなたは、何を捨てたんですか」
その時、彼女はこう言ったのだ。
「退屈」と。
「もう退屈しのぎの遊びは十分でしょう?」
「さあ、どうかしら?」
久秀は頷き、傍らの少女に目配せをした。
「この人を通しなさい。明日には、堺の帳が書き直されているはず。
信長殿の手が伸びるよりも先に、“誰が誰を信じるか”が試される」
久秀は踵を返し、闇に溶けるように去った。
残されたのは、夜の井戸と、少女の気配だけ。
「……あの人は何をしたい」
「全部、でしょう。あなたの心も、殿の心も。壊すか、繋ぐか、試してるんです」
少女はそう言って笑い、細い針を懐にしまった。
「また、どこかで」
その声を背に、僕は堺の宿営へ戻った。
通りの灯が風に揺れ、秤の皿がまたひとつ触れ合う音を立てた。
戦の音より静かで、けれどずっと鋭い音だった。
◆
陣に戻ると、夜明け前。
机の上には、封蝋の壊れた文が一通。光秀殿の字だった。
――堺に入る信長様の報せ。午刻には御着到。
(もう、来ておられるのか……)
掌に冷たい汗が滲む。
あの人の前で、どんな顔をすればいいのだろう。
僕が久秀と対峙したことを知れば、信長様は――。
目を閉じると、出立の朝の声が甦った。
「二日で戻れ。死ぬな」
あれは命令ではなく、祈りだった。
信長様もまた、心を鬼にしていた。僕を手放すために。
だから僕は、恐れを捨てた。
戻って、報せる。
久秀の狙いも、堺の帳の綻びも、すべて。
この命が尽きる前に、あの人のもとへ。
夜明け前の港で、鐘が鳴った。
遠くの空がかすかに白む。
堺の町はまだ眠り、硝の匂いだけが風に残っている。
その静けさの中で、僕はただひとつ思った。
――この戦を終えたら、もう一度、あの人の傍に立ちたい。
今度は、誰に見られても構わない距離で。
夜が明ける頃、堺の門が開く音がした。
朝の光に、赤い旗の影が揺れる。
その中に、信長様がいた。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
「硝ノ街の秤 –Scales of the Gunpowder City–」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「硝ノ街の秤 –Scales of the Gunpowder City–」はこちら ⇒ https://youtu.be/KsMFsEHbUsk
西陽が瓦に反射し、町全体が赤く染まる。魚油の匂いが風に混じり、波止場には異国の船がゆっくりと揺れている。
堺は、戦とは別の律で動いていた。
剣ではなく秤が物を量り、欲と理で均衡を保っている。
僕は、昼間見つけた通い路をもう一度確かめた。
棚板の楔は元に戻したが、底に薄く墨で印を残してある。久秀の使いが再び触れれば、すぐにわかるように。
その上で、別の筋――鉄砲町へ向かうことにした。
昼間の少女が残した言葉が、頭の片隅から離れなかった。
――答えは堺で。
◆
鉄砲町は、表通りから一筋入った先にある。
名前の通り、火薬や鉄を扱う職人たちが集まり、夜でも炉の火が消えない。
昼間の喧噪は静まり、路地の奥から槌音だけが間隔を置いて響いていた。
決して、油断できる空気ではない。
だが、誰かが僕をここへ呼んだのなら、何かを見せたいはずだ。
それが罠であっても、確かめなければ進めない。
狭い路地を抜けると、古い井戸が見えた。
その縁に、昼間の少女が立っていた。
髪をほどき、男装の装束を脱いでいる。思いのほか幼く、年は十七ほどか。
顔に笑みはない。夜気の中で、目だけが澄んでいた。
「また会いましたね、軍師様」
「呼んだのは君か」
「ええ。でも、待っていたのは私ではありません」
その言葉と同時に、背後の暗がりで衣が擦れる音がした。
視線を向けると、灯も持たぬ人影がひとつ、ゆっくりと歩み出る。
風も足音もない。まるで、地を滑るように。
背後の闇が、輪郭を持って形を結ぶ。
――松永久秀だった。
月明かりに、白い指が浮かぶ。
髪を高く結い、唇にはかすかに紅を差している。
その姿は、噂に聞く“魔王”ではなく、どこか退廃的で美しい。
けれど、瞳の奥だけが硝のように冷たかった。
「久しぶりですね。信長殿の軍師殿、とお呼びすればよろしいですか」
その声は、柔らかく、底がない。
「堺の空気には、戦の臭いがしません。だからこそ、戦を運び込む者が誰か、よく目立つ」
「僕は騒ぎを運びに来たわけではありません」
「でしょうね。あなたは“塞ぐ人”ですから」
久秀は微笑み、袖から細い巻紙を取り出した。
印が三つ。桔梗、織田木瓜、そして松永。
「この三つの印が並ぶ文を、見たことはありますか?」
「ありません」
「なら、今日が最初です」
久秀は巻紙を井戸の縁に置いた。
「これは、取引の証。硝と鉄を、堺の町の“外”に出す許可状です。私の印があれば、誰も疑わない。
でも――あなたがここでこれを奪えば、戦が始まる」
挑発のような言葉だった。
だが、その声に怒気はない。
まるで僕がどう動くかを観察しているようだった。
「なぜ僕を呼んだ」
「あなたが信長殿の“口”ではなく、彼女の“目”だからよ」
久秀の声が低くなる。
「目は、光を入れるが、同時に心を覗かせる。……あの方の心は、見たことはある?」
胸が強く打つ。
答えられなかった。
信長様の横顔を思い出した。炎の前で何も語らなかったあの夜を。
(僕は…時々、信長様が何を考えているのか分からなくなることがある…)
久秀は微かに笑い、巻紙を火打石で燃やした。
炎は青く揺れ、一瞬で灰になる。
「この世の秩序は、誰が火をつけるかで変わる。私はその“順序”を試しているだけ」
「なぜそんなことを?」
「退屈だから?」
そう言ってくすくすと笑う。
彼女は以前にも言っていた。
『選びなさい。いつかはね。誰かを選ぶことは、何かを捨てること。捨てるとき、人は一番、美しい』
「あなたは、何を捨てたんですか」
その時、彼女はこう言ったのだ。
「退屈」と。
「もう退屈しのぎの遊びは十分でしょう?」
「さあ、どうかしら?」
久秀は頷き、傍らの少女に目配せをした。
「この人を通しなさい。明日には、堺の帳が書き直されているはず。
信長殿の手が伸びるよりも先に、“誰が誰を信じるか”が試される」
久秀は踵を返し、闇に溶けるように去った。
残されたのは、夜の井戸と、少女の気配だけ。
「……あの人は何をしたい」
「全部、でしょう。あなたの心も、殿の心も。壊すか、繋ぐか、試してるんです」
少女はそう言って笑い、細い針を懐にしまった。
「また、どこかで」
その声を背に、僕は堺の宿営へ戻った。
通りの灯が風に揺れ、秤の皿がまたひとつ触れ合う音を立てた。
戦の音より静かで、けれどずっと鋭い音だった。
◆
陣に戻ると、夜明け前。
机の上には、封蝋の壊れた文が一通。光秀殿の字だった。
――堺に入る信長様の報せ。午刻には御着到。
(もう、来ておられるのか……)
掌に冷たい汗が滲む。
あの人の前で、どんな顔をすればいいのだろう。
僕が久秀と対峙したことを知れば、信長様は――。
目を閉じると、出立の朝の声が甦った。
「二日で戻れ。死ぬな」
あれは命令ではなく、祈りだった。
信長様もまた、心を鬼にしていた。僕を手放すために。
だから僕は、恐れを捨てた。
戻って、報せる。
久秀の狙いも、堺の帳の綻びも、すべて。
この命が尽きる前に、あの人のもとへ。
夜明け前の港で、鐘が鳴った。
遠くの空がかすかに白む。
堺の町はまだ眠り、硝の匂いだけが風に残っている。
その静けさの中で、僕はただひとつ思った。
――この戦を終えたら、もう一度、あの人の傍に立ちたい。
今度は、誰に見られても構わない距離で。
夜が明ける頃、堺の門が開く音がした。
朝の光に、赤い旗の影が揺れる。
その中に、信長様がいた。
***************
戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
「硝ノ街の秤 –Scales of the Gunpowder City–」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
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