戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》

梵天丸

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第63話 堺の帳(とばり)・後篇

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 日が傾き、港の方角から鳴子の音が届いた。
 西陽が瓦に反射し、町全体が赤く染まる。魚油の匂いが風に混じり、波止場には異国の船がゆっくりと揺れている。

 堺は、戦とは別の律で動いていた。
 剣ではなく秤が物を量り、欲と理で均衡を保っている。

 僕は、昼間見つけた通い路をもう一度確かめた。
 棚板の楔は元に戻したが、底に薄く墨で印を残してある。久秀の使いが再び触れれば、すぐにわかるように。

 その上で、別の筋――鉄砲町へ向かうことにした。
 昼間の少女が残した言葉が、頭の片隅から離れなかった。

 ――答えは堺で。



 鉄砲町は、表通りから一筋入った先にある。
 名前の通り、火薬や鉄を扱う職人たちが集まり、夜でも炉の火が消えない。
 昼間の喧噪は静まり、路地の奥から槌音だけが間隔を置いて響いていた。

 決して、油断できる空気ではない。
 だが、誰かが僕をここへ呼んだのなら、何かを見せたいはずだ。
 それが罠であっても、確かめなければ進めない。

 狭い路地を抜けると、古い井戸が見えた。
 その縁に、昼間の少女が立っていた。
 髪をほどき、男装の装束を脱いでいる。思いのほか幼く、年は十七ほどか。
 顔に笑みはない。夜気の中で、目だけが澄んでいた。

「また会いましたね、軍師様」
「呼んだのは君か」
「ええ。でも、待っていたのは私ではありません」

 その言葉と同時に、背後の暗がりで衣が擦れる音がした。
 視線を向けると、灯も持たぬ人影がひとつ、ゆっくりと歩み出る。
 風も足音もない。まるで、地を滑るように。
 背後の闇が、輪郭を持って形を結ぶ。

 ――松永久秀だった。

 月明かりに、白い指が浮かぶ。
 髪を高く結い、唇にはかすかに紅を差している。
 その姿は、噂に聞く“魔王”ではなく、どこか退廃的で美しい。
 けれど、瞳の奥だけが硝のように冷たかった。

「久しぶりですね。信長殿の軍師殿、とお呼びすればよろしいですか」

 その声は、柔らかく、底がない。

「堺の空気には、戦の臭いがしません。だからこそ、戦を運び込む者が誰か、よく目立つ」

「僕は騒ぎを運びに来たわけではありません」
「でしょうね。あなたは“塞ぐ人”ですから」

 久秀は微笑み、袖から細い巻紙を取り出した。
 印が三つ。桔梗、織田木瓜、そして松永。

「この三つの印が並ぶ文を、見たことはありますか?」
「ありません」
「なら、今日が最初です」

 久秀は巻紙を井戸の縁に置いた。



「これは、取引の証。硝と鉄を、堺の町の“外”に出す許可状です。私の印があれば、誰も疑わない。
 でも――あなたがここでこれを奪えば、戦が始まる」

 挑発のような言葉だった。
 だが、その声に怒気はない。
 まるで僕がどう動くかを観察しているようだった。

「なぜ僕を呼んだ」
「あなたが信長殿の“口”ではなく、彼女の“目”だからよ」

 久秀の声が低くなる。

「目は、光を入れるが、同時に心を覗かせる。……あの方の心は、見たことはある?」

 胸が強く打つ。
 答えられなかった。
 信長様の横顔を思い出した。炎の前で何も語らなかったあの夜を。

(僕は…時々、信長様が何を考えているのか分からなくなることがある…)

 久秀は微かに笑い、巻紙を火打石で燃やした。
 炎は青く揺れ、一瞬で灰になる。

「この世の秩序は、誰が火をつけるかで変わる。私はその“順序”を試しているだけ」
「なぜそんなことを?」
「退屈だから?」

 そう言ってくすくすと笑う。
 彼女は以前にも言っていた。

『選びなさい。いつかはね。誰かを選ぶことは、何かを捨てること。捨てるとき、人は一番、美しい』

「あなたは、何を捨てたんですか」

 その時、彼女はこう言ったのだ。

「退屈」と。

「もう退屈しのぎの遊びは十分でしょう?」
「さあ、どうかしら?」

 久秀は頷き、傍らの少女に目配せをした。

「この人を通しなさい。明日には、堺の帳が書き直されているはず。
 信長殿の手が伸びるよりも先に、“誰が誰を信じるか”が試される」

 久秀は踵を返し、闇に溶けるように去った。
 残されたのは、夜の井戸と、少女の気配だけ。

「……あの人は何をしたい」
「全部、でしょう。あなたの心も、殿の心も。壊すか、繋ぐか、試してるんです」

 少女はそう言って笑い、細い針を懐にしまった。

「また、どこかで」

 その声を背に、僕は堺の宿営へ戻った。
 通りの灯が風に揺れ、秤の皿がまたひとつ触れ合う音を立てた。
 戦の音より静かで、けれどずっと鋭い音だった。



 陣に戻ると、夜明け前。
 机の上には、封蝋の壊れた文が一通。光秀殿の字だった。
 ――堺に入る信長様の報せ。午刻には御着到。

(もう、来ておられるのか……)

 掌に冷たい汗が滲む。
 あの人の前で、どんな顔をすればいいのだろう。
 僕が久秀と対峙したことを知れば、信長様は――。

 目を閉じると、出立の朝の声が甦った。

 「二日で戻れ。死ぬな」

 あれは命令ではなく、祈りだった。
 信長様もまた、心を鬼にしていた。僕を手放すために。

 だから僕は、恐れを捨てた。
 戻って、報せる。
 久秀の狙いも、堺の帳の綻びも、すべて。
 この命が尽きる前に、あの人のもとへ。

 夜明け前の港で、鐘が鳴った。
 遠くの空がかすかに白む。
 堺の町はまだ眠り、硝の匂いだけが風に残っている。

 その静けさの中で、僕はただひとつ思った。
 ――この戦を終えたら、もう一度、あの人の傍に立ちたい。
 今度は、誰に見られても構わない距離で。

 夜が明ける頃、堺の門が開く音がした。
 朝の光に、赤い旗の影が揺れる。
 その中に、信長様がいた。

***************

戦国Re:verse ― 織田信長編《紅蓮の覇者》は、各エピソードごとに YouTubeで公開されるオリジナル楽曲 が1曲ずつ連動しています。
「硝ノ街の秤 –Scales of the Gunpowder City–」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫

「硝ノ街の秤 –Scales of the Gunpowder City–」はこちら ⇒ https://youtu.be/KsMFsEHbUsk
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