平蜘蛛と姫――歪んだ愛

梵天丸

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平蜘蛛と姫――歪んだ愛(5)

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 義栄の部屋に行くと、久秀の姿はなかった。可那がいれば、自分は必要ないと思ったのかもしれない。
 義栄の荷造りは大方終わっていたが、どうしても自分で決め切れなかった荷物のみが残っているようだった。
 この屋敷に残していくもの、畿内に持っていくもの……可那は義栄と話をしながら、荷物を振り分けていく。
「きゅ、急に……な、何だか……た、大変なことになったね……」
「ええ……」
 可那が曖昧な返事をすると、義栄が心配するように首を傾げた。
「か、可那は……ひ、久秀の国に……い、行きたいの……?」
 そう問われて、自分でもびっくりするぐらいきっぱりと言い切った。
「出来ればずっとここにいたかったです、お義兄さま」
 可那のその言葉の強さに、義栄は少し驚いてしまったようだった。戸惑うように目をぱちぱちとさせながら、手元を見つめる。
「そ、そうか……で、でも……こ、ここは……あ、危ないんだよね……」
 可那は少し息を吐いて気持ちを落ち着かせる。感情的にならないでおこうと思うのに、どうしても感情が割り込んできてしまう。
「ええ……ですから、仕方がありません……子供の頃から住んだ場所を離れるのは……少し寂しいですけど」
「う、うん、そうだね……か、可那が寂しいのをが、我慢するのなら……ぼ、僕も我慢するよ……」
 可那は自分の気持ちを押し殺して義栄に微笑みかける。本当は可那だって畿内になんて行きたくない。ずっとここで義栄の傍にいて一生を終えるつもりでいた。当然、嫁ぐことだって考えていなかった。それなのに……。
(今は……お義兄さまを守ることだけを考えなくちゃ。もしも彼がお義兄さまを害するようなことがあったら……その時は……)
 可那は決意を固めるように、胸に当てた手をぎゅっと握り締めた。

 ひと通りの荷造りを終え、庭の蘭をどうしたものかと考えていると、背後に人の気配を感じた。
「もう荷造りは終わられましたか?」
 そこに立っていたのは久秀だった。よりにもよって、今もっとも二人きりで話をしたくない相手だ。
「ええ、だいたいは……」
 可那はそっけなく答え、庭に下りて蘭の土の様子を伺うように腰をかがませた。出来たら久秀には早く立ち去ってもらいたかった。
「では、出来れば日の高いうちに出発したいのですが」
「ええ? もう?」
 可那は驚いた。まさか今日のうちに出発するとは思いもしなかったからだ。
「今出発すれば、夕刻までには船に乗れます」
「そんなに急がなくても……」
「義栄様はもう出発しても構わないと仰っておられますが」
 いつの間に義栄まで説得してしまったのだろう。きっとまた可那をだしに使って、義栄を納得させてしまったに違いない。
「随分と……お義兄さまを手なずけるのが上手なのね?」
 思わず皮肉な言葉が出てしまう。
 義栄が彼を信頼しているのは事実だ。でも、彼は義栄のことを道具程度にしか思っていない。それを可那は知っているだけに、苛立たしい気持ちになる。
「私は相手にとって必要であると思われる態度で接しているだけですよ」
「そうよね。貴方にとって将軍は必要な駒。そりゃあ、地面を這い蹲ってでもお義兄さまに取り入る必要があるわよね」
 可那は自分でも次から次へと出てくる久秀に対する皮肉な言葉に内心で驚いていた。生まれてこのかた、ここまで人を罵るような言い方はしたとがなかった。
 義栄を驚かせたり、怯えさせてはいけないと、幼い頃からそればかりを考えていた。義栄が穏やかに毎日を過ごせることが、自分にとっての平穏でもあった。
(私の中にも……こんな自分がいたのね……)
 そんなふうに考えていると、まるで鼻で笑うかのような気配がした。顔を上げてみると、久秀が意味ありげな笑みを浮かべている。
 なぜだか背中がぞくりとざわめいた。
「な、何……?」
 怯えたように後ろへ下がろうとする可那の手首を、久秀は強く掴んだ。
「い、痛い……離して……!」
「どうやら、あなたに対して必要なのは躾のようですね」
 久秀のその言葉に、可那はかーっと頭に血が上るのが分かった。さっきまでの殊勝な態度はどこへやら。今の久秀は傲慢そのものだ。これまで噂になった悪行も、間違いなく彼がやったものだろうと思えるほどに。
「は? し、躾って……ぶ、無礼な……!」
「そういう口の利き方からまず躾けないといけませんね」
 ぐっと彼の細く長い指が可那の顎を強引に持ち上げる。にやりと笑いながら顔を近づけ、久秀はさらに続けた。
「可那姫、貴方を生かしたのは、利用価値があるからだということをお忘れなく。貴方もご存知の通り、私は義栄様に警戒されることなく近づくことが出来ます。本来なら、貴方の存在は別になくても支障はない、ということなんですよ」
「……っ……」
「それに、貴方の所有権を得ることに関しては、長逸殿からも許可を頂いています。貴方はもう私の私物なのですよ?」
「は……?」
 あまりにも可那にとって侮辱的な言葉だった。
(所有物? 私物? 何を言ってるの、この人……)
 可那は信じられないものを見るように、久秀を見た。虫けらでも見るような目をしていたと思う。
 義栄の前でのあの穏やかで善人ぶった態度と、今可那に見せている人を馬鹿にしたような態度はまるで違う。
 やっぱりこの男の本性はこちらで、義栄の前では必死に取り繕っていたのだ。
 可那と同じように世間知らずな義栄が、彼に騙されたのだとしてもまったく不思議ではない。
 可那は久秀の指が顎に触れていることに激しい嫌悪を感じ、それを振りほどくように顔を背けた。
「これが貴方の本性だって、お義兄さまに教えてやりたい」
「それをすることが義栄様の得になるか損になるか。その程度のことが分からないほど貴方の頭が稚拙でないことを望みます」
 久秀はいちいち頭にかちんとくる言い方をする。ひょっとすると、わざと可那を怒らせて楽しんでいるのかもしれない。
「貴方なんて大嫌い! この人殺し!」
 そう叫ぶように言った瞬間、久秀の顔からすうっと笑みが消えた。
「私を怒らせて、貴方が得をすることは何もありませんよ」
「怒るなら勝手に怒ればいいわ。私だって怒っている。お義兄さまの前では我慢していたけれど……貴方は私の兄の仇なのよ!」
 可那は息を喘がせ、瞳に涙をいっぱいにためながら叫んだ。もっと理性を働かせて、正々堂々と言い負かしてやりたい。でも、久秀が前に来ると、可那は感情ばかりが先立ってしまう。
「どうすれば貴方は理解するのでしょうね。もうこの髪の一本……そして、爪のひとつまでが私の所有物だということを」
 久秀は再び可那の頬に触れてくる。指先でつつと撫でられると、それだけで体中が粟立ちそうだった。
「離して! 私に触らないで!」
 可那は叫んだ。そしてその手を振り払おうとしたその瞬間、さらに強い力で抱き寄せられた。
「……な……っ……!?」
 体を久秀のほうに向かされ、気がついた時には彼の顔が間近まで迫っていた。
「……っ……!?」
 次の瞬間には、久秀の唇が自分のものに重なっていた。
「…………」
 可那は一体自分が何をされているのか理解できなかった。混乱したまま、さらるがままに唇を貪られる。
「んっ、んんぅっ!」
 もがいてみても、恐ろしいほどの力で押さえつけられ、身動き一つ出来ない。あまりの息苦しさと嫌悪感に耐えかねて、可那は久秀の唇を思い切り噛んでやった。
「……っ……!?」
 ようやく久秀の唇が離れた。彼の唇からは赤い血があふれ出している。可那の口の中にも、錆びた味が広がった。
「ふ……やはりあなたにはきついお仕置きが必要なようだ」
 久秀は唇を拭いながら不敵な笑みを浮かべる。ぞくりと背筋が寒くなった。けれどもそれを気取られないように、可那は叫んだ。
「お仕置きが必要なのは貴方のほうでしょう? いきなりこんなことをして……私のことを何だと思っているの?」
「貴方の所有権は私が頂きました。貴方は私のものです」
「勝手に決めないで! どうして所有権とかそういうことを貴方たちに決められなければならないの? 私は生きている人間よ。意思を持った人間なのに……!」
「貴方は一度、生きることを放棄しましたね。あの時に貴方の生殺与奪の権利は三好家にゆだねられたのです。そんな覚悟もないのに、私に刃を向けたのですか?」
 可那は唇をかみ締める。確かに、久秀の言うことは理にかなっていた。可那はあの時、久秀に刃を向け、取り押さえられた。本来ならあの場で殺されても文句は言えない。
 だけど可那はどこかで甘えていたのかもしれない。
 久秀らの義栄に対する慇懃な態度、そして可那に対しても一応は礼儀を心得た対応……もう久秀を殺そうとしたことは、互いの利害の一致で棚上げになっていると心のどこかで思っていた。
 でも、実際はまったく違った。
 久秀は可那が刃を向けたことに対する処置をすでに企んでいたのだ。
「ご理解いただけましたか? 貴方はもう貴方のものではない。私のものなのですよ」
「でも、私は生きている……貴方が生かした。殺したければ殺せばいいでしょう? こんな扱いを受けて生き延びるぐらいなら、死んだほうがましよ」
 唾でも吐きたい気持ちで、可那は言った。
 久秀が可那をどうするつもりかは分からないが、彼にこの体を好きにされるのなら死んだほうがましだ。
「死んだほうがまし……ですか。では、義栄様はどうします? 貴方が死んだ後も、私が義栄様に今のように接していると思っているのですか?」
「やっぱり貴方はお義兄さまを騙しているのね!」
「騙しているとは人聞きの悪い。私は騙すようなことは何もしていませんよ」
「でも、お義兄さまはすっかり貴方のことを信頼しているわ。自分を裏切ることなんて絶対にないと思っているはず……そんなお義兄さまの気持ちを裏切るつもりなの?」
「私はすべてにおいて利害でものを考えます。世間の大人というものはそういうものですよ、可那姫。貴方がそれをご存知ないだけだ。体つきはもう立派な大人なのに、貴方は中身が幼すぎますね」
「……っ……」
 可那は思わず言葉に詰まった。確かに久秀の言うとおりだ。可那は自分が思っていた以上に子供だ。それは自分でも思い知った。だけど、他人から指摘されるのは腹立たしすぎるし、悔しすぎる。
 特にこの男に指摘されるのは……。
「そうやって睨み付けて来る顔も、美しくて素敵ですよ、可那姫」
「な……っ……」
 本当にこの男はどこがおかしい、歪んでいる……可那は最初から感じていた懸念が、間違いのないものだと理解した。
「貴方に拒否権がないことはもうご理解いただいていると思いますが」
 久秀が再び可那の体に手を伸ばしてくる。その腕の中に強引に抱きしめられた。
「やめて……触らないでって言ってるでしょう!」
 もがいてみても、身動き一つ出来ない。恐ろしいほどの力で、久秀は可那の体を抱きしめてきた。
「義栄様には穏やかな暮らしをしてもらいたいのでしょう? 貴方はそれを望んでいるはずだ」
 首筋に唇を這わせながら、久秀が囁いてくる。
 ぞわりと、これまで感じたことのない感覚が下半身のほうから競りあがってきた。
「どうですか? 義栄様に不幸になってほしいと思っているのですか?」
「お、思ってない……でも、もう私がいなくても……っ……あ、貴方が……いるのでしょう……?」
 首筋や耳の裏を彼の唇でくすぐられ、可那は息を喘がせる。胸の鼓動がおかしい。体が奥のほうから熱を帯びてくる。
「そうですね、確かに貴方がいなくても問題はありません。ただ、私をそこまでの善人だと思わないことですよ、可那姫」
「お、お義兄さまを……ぁ……ん……どうするつもりなの……?」
 可那は息を喘がせながら聞く。いつの間にか、久秀の手が着物の上から可那の太ももを撫でていた。
「義栄様に将軍位についていただいた後は、別に特に何をしていただく必要もありません。つまり、義栄様が必要なのは将軍位を得るまでのことです。その後のことまで私は責任を持ちかねます」
「ど、どういうこと……?」
 可那は困惑したように聞いた。久秀の手が太ももからそろりと這い上がり、腰の辺りを撫でている。
「賢い貴方なら、どういうことかご自分でお分かりかと思いましたが」
「わ、私のことを……稚拙だとか幼いとか言ったのは……んぁ……貴方でしょう……?」
 久秀の指が滑るたび、可那は息を喘がせる。体がこれまで経験したことのない反応をしていることだけは分かった。
「ええ、そうですね。貴方がそれほど賢くない女性でとても助かりました。ここまですべて順調に来れたのは、貴方が適度に愚かだったからです」
 酷い。馬鹿にするにもほどがある。でも、可那自身も今は反論できない。すべて久秀が指摘するとおりだからだ。
「はっきり言いましょう。三好家が欲しているのは、傀儡の将軍です。義輝様は少しご自分の意思を強く持ちすぎた。ですが、義栄様なら問題はなさそうです。将軍位を頂いた後には、義栄様にそっくりな影武者を立てることも可能ですし。義栄様なら、影武者を立てられたからといって、どこかへ訴え出ることもないでしょう」
「な……!」
 影武者……確かに義栄と似た影武者を立てれば、もう義栄の存在は必要ない。三好の力を持ってすれば、そんなことは簡単だろう。
「ただ、私には義栄様を守ることが出来る。その力があります。たとえ三好が義栄様を用済みと判断した場合でも、私なら守ることが出来ます。どうしますか、可那姫? 後は貴方が決めればよろしい」
 久秀は可那がおとなしく自分のものになれば、義栄を守ると言っている。その言葉をどこまで信じられるのか……でも、悔しいけれども義栄に危害を加えることが出来るのも、そして守ることが出来るのも、この男次第だということは間違いなさそうだった。
「お義兄さまをこれ以上踏みにじらないで……」
 可那は涙に濡れた瞳で久秀を睨み付ける。
 久秀はうっとりと、まるで可那の体を見定めるかのような視線を投げつけてくる。その視線が体中にまとわりついてくるような気がして、可那は身を強張らせる。
 久秀の細い指は、可那の瞳の端から溢れる涙を拭っている。
「私なら義栄様を守ることが出来ます。そのためにはどうすればいいか、お分かりですね、可那姫?」
「貴方のものになればいいのね……?」
 力なく可那が言うと、久秀はにこりと微笑んだ。
「ええ、その通りです、可那姫」
 可那は久秀の体に身を預けながら、こくりと頷いた。
「……なります。貴方の所有物に……」
「では、城に着いたら本格的に貴方を躾けてさしあげましょう。私の所有物に相応しいように」
 久秀が可那の体を解放した。可那は膝からがくりと崩れ落ちた。
「間もなく出発します。準備をお願いします」
 久秀はそう言い残すと、可那を置いて立ち去っていった。
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