平蜘蛛と姫――歪んだ愛

梵天丸

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平蜘蛛と姫――歪んだ愛(6)

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 使用人たちには本当のことは告げず、義栄と可那は三好家の人間につれられて四国を出発した。
 使用人たちは突然のことに驚いていたようだったが、三好の者たちが上手く説明したので納得してくれたようだった。
 手回しのよさにかけては、彼らはさすがに都で政治を取り仕切っているだけあると感心させられるばかりだった。
(あんな人たちに……最初からかなうはずなかったんだ……)
 可那はそう思うことで、自分を慰める。
 陸路を馬と駕籠で行き、港へは夕刻前に着いた。
 ちょうど海に陽が沈む頃、船は淡路へ向けて出航した。淡路へ寄港後、さらに大坂は堺へと西へ進むことになる。
 可那にとっては人生で二度目の船だった。
 義栄も初めての船旅に最初のうちこそ少し怯えはしたものの、次第に慣れてきたようだった。可那がずっと傍にいたし、久秀も義栄のことを気にかけ、事細かに面倒を見てくれたこともある。また、義栄の船室には可那と久秀以外の者は近づかないよう配慮してくれたのも大きいかもしれない。
(とりあえず……約束は守ってくれているのよね……)
 律儀なのか、それとも用心深いだけなのか、可那には久秀の考えることはよく分からなかった。
 久秀はあの日以来、特に可那に対して何かしてくることはなかった。
 移動するための事務的な話以外の会話はしていない。
 ただ、時折久秀から粘りつくような視線を感じることは何度もあった。そのたびに可那は風呂に入って湯を浴びて、すべて流してしまいたい気持ちになった。
(ぞっとする……お城に着いたら、ずっとあの視線を浴びてないといけないのかな……)
 久秀は自分を所有物にすると宣言した。
 所有物となることが具体的に何を意味するのか、可那にはまだよく分からないことが多かった。久秀もあまり説明をしなかったし。けれどもたぶん、あの接吻の続きのようなことを、久秀は求めてくるに違いない。
 それに、体を抱きしめられ、その手で太ももや腰を撫でられ、唇で首筋や耳をなぞられたあの感触……。
「……っ……」
 あの時感じた体の異変は、可那の体に今も生々しく残っている。
 可那もそういう知識がまるでない、というわけでもない。使用人たちが持ち込んだそういう類の本を、可那も何かの拍子に見たことがある。
 ほとんど裸のように着物を乱した男女が絡み合い、何だかとてもいやらしいことをしている絵ばかりが載っていた。
 可那も結婚したらこういうことをするのだと、誰かが意地悪く教えてくれた記憶がある。
(でも……結婚するわけじゃないから、ああいうことをするとは限らないかも……)
 可那はそう希望をもって考えてみたが、強引に唇を塞がれた時に思い出したのは、あの淫らな絵本のことだった。
(ああ、嫌……絶対に嫌……お兄様の仇に私の体を好きにされるなんて……)
 考えただけで、可那の腕には鳥肌が立っている。
 だけど、可那が拒絶すれば、久秀は義栄に何をするか分からない。将軍位さえもらえば、後は影武者を立ててもいいとまで言った。
(久秀ならきっとやる……影武者を立ててお義兄さまが用済みになったら、どんなひどい目にあわされるか……)
 もしも三好が義栄を用済みとして追い出したとしても、可那が傍にいれば何とかなる。義栄ひとりなら、何とか守っていける気がする。足利家の縁者を頼ってみるのもいいし、可那自身が働いて義栄を養うという方法もあるだろう。
 どれもこれも最悪の場合だけど、可那が生きて傍にいさえすれば、義栄を守る手段は残る。
 そのために久秀に従うことは、義栄を守るための可那に出来る唯一の方法だ。
「寒い……」
 甲板に吹き付ける風は冷たくて、混乱しそうになる可那の頭を冷やしてくれる。
(だけど……今はこれが一番の方法。私が我慢すればいい。耐えられるかどうかが問題だけど、お義兄さまのことを思えば……)
 今も義栄の部屋には久秀がいる。だから可那はそっと部屋を抜け出してきた。義栄はもうすっかり久秀のことを信用しきっている。
 可那は複雑な気持ちになりつつも、義栄にとっては良いことなのだろうと思い込むことにした。
 余計なことまで心配していては身が持たない。久秀には今すぐ義栄を害する気はない。少なくとも、義栄が無事に将軍になるまでは。
 それに、義栄にとっても、可那以外に心を許す人間がいない状態よりも、他に心を許せる人間がいるほうが良いには決まっている。
 たとえそれが、目的のための偽りの関係だったとしても、義栄にそれを気づかせなければいい。当面の間だけでも。
 可那の胸の奥がまたずきんと痛んだ。
(お義兄さまは久秀の本性を何も知らない……何も知らせていない……)
 分かってはいても、義栄を騙しているという気持ちが拭えない。だけど、現状は正直に何もかもを話せるような状況ではないことも事実だ。
 今のところ久秀は義栄に対しては最善の対応をしてくれているし、義栄に利用価値がある間に限っていえば、義栄に対して酷いことをすることもないだろう。
 義栄が将軍になった後も、その政務もすべて久秀と三好家によって行なわれるというのであれば、義栄の負担も最低限ですむ。傀儡の将軍でなければ、義栄にはとても務まらない。だから、三好家が傀儡を望んでいるというのは、義栄のためにも歓迎すべきことだった。
 その政治が民を虐げるような酷いものでないならば、義栄のためを思って可那は目を瞑るしかない。
 義栄の名を使って、酷い政治をするようなことがあれば、その時は可那も黙ってはいないつもりだけれども。
「はぁ……」
 こうしてじっとしていると、後ろ向きなことばかり考えてしまう。四国にいた頃の可那は、常に前向きで、明るかった。でも、久秀らがやって来てから、自己嫌悪に陥ることも増えたし、物事を悲観的にばかり見るようになってしまった。
「駄目駄目……悪いことばかり考えてたら、全部そういうふうになっちゃう……」
 そんなふうに教えてくれたのは、義輝だった。義輝はどんな苦境にあっても、常に前向きだった。可那が少しでも卑屈な様子を見せると、義輝は真剣に窘めた。
「昔から……お兄様はそういう人だったな……」
 常に真っ直ぐで前向きで、曲がったことが大嫌い。だから傀儡の将軍を望む三好の者たちにとっては、不都合な将軍だった……。
 潮風を浴びながら、可那は幼い頃に初めて船に乗ったときのことを思い出す。
 畿内から四国へと渡るとき。父に、そして義輝に見送られ、可那は四国の足利家へと旅立った。今はもう、その父も兄もいない。
「お兄様……」
 兄の無念を考えるたびに、すぐにでも久秀を殺してやりたい気持ちがこみ上げてくる。でも、自分の非力さを考え、義栄の安全を考え、可那は必死にその思いを堪えていた。
 それに、一度大失敗している。
 久秀は突然襲われたにも関わらず、可那の小刀を冷静にかわし、一瞬にして取り押さえられてしまった。
(眠っているときなら、殺せるかしら……)
 可那はふとそんなことを考え、力なく首を横に振る。
(武器も取り上げられてしまったし、下手をすればお義兄さまにまで害が及んでしまう……)
 今のところ久秀は、可那が言うことを聞くという条件で、義栄を守るという立場を取っている。たとえ三好が義栄を切り離すことを考えても、守ると言っている。
 殺してやりたい気持ちは山々だが、今は堪えるしかないのだろう。
 またため息をつき、可那はうな垂れた。
 何も出来ない。可那に出来ることは何もない。ただ、受け止めて耐えるしかない……。
 それはあまりにも絶望的な結論だった。
「可那姫様、こちらにおいででしたか」
「あっ……」
 ふいに背後から声をかけられ、可那はびくんと肩を震わせた。今考えていたことが知らず独り言になっていなかったことを願った。
 振り返ると、そこに立っていたのは三好長逸だった。
 彼は三好家の家中を取り仕切る三好三人衆の一人で、久秀とともに主君の三好長慶に仕えていた。長慶の死後は実質的に三好家の長的な立場であるらしい。
 恐る恐るその表情を伺うと、どうやら可那の心の中の声は彼には聞かれていなかったようだ。可那はほっとした。
 長逸は年齢も久秀と同じ年頃に見える青年で、可那は久秀よりは彼のほうがまだ話しやすかった。久秀のように必要以上に緊張させられることもない。
 それにいやらしい目つきで、可那のことをじろじろ見てきたりしない。
 ただ、彼も兄の義輝殺しの犯人の一人であることは間違いない……。
「何か……御用でしょうか?」
 可那は警戒心を解かずに聞いてみる。
 長逸はそんな可那の気持ちを見透かしたのか、くすりと微笑んだ。
「あまり長く風に当たられていては、体に良くないですよ」
(やっぱりこの人は……久秀ほど悪い人じゃないみたい……)
 可那は労わるような長逸の目に、ほんの少しだけ安堵する。気を許すことは出来ないけど、それでも気を張ってばかりだと疲れてしまう。
「あ……あの……大丈夫です。少し船酔いしてしまったので、ここにいるほうが気持ちいいです」
「そういえば、あまりお顔の色がよろしくないですね。医者を呼びますか?」
 本気で心配するように聞いてくる長逸に、可那は微笑んで首を振った。
「いえ。もうずいぶんましになりましたから」
 可那がそう答えると、長逸は安堵したような顔をした。
「もしご気分が治っているのでしたら、部屋のほうへお戻りいただけますか? 久秀殿が書状を書く時間が欲しいと言っております」
「分かりました」
 可那は頷いて、義栄の部屋へと戻った。
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