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平蜘蛛と姫――歪んだ愛(7)
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「……失礼します」
可那が義栄の船室に入ると、二つの視線が同時にこちらを見た。久秀はまだ義栄の傍にいた。
「あの……久秀。仕事があるのなら、どうぞ行ってください」
「ああ、では、続きは可那姫様からお願いします」
「続き?」
可那が首をかしげると、久秀が今しがた読んでいた書物を差し出してくる。
「義栄様が大陸の書物を読んでみたいと仰られるので、論語を読んでいました。可那姫様は漢語は読めますか?」
「え、ええ……大丈夫です」
「では、この項からお願いします」
開いたままの論語を受け取りながら、可那は頭を平手で殴られたような衝撃を受けていた。
(お義兄さまが……論語を……?)
かつて可那が勧めたときには、あまり良い顔をしなかったのに。
義栄の教育は可那が一切担っていた。基本的にはすべてを彼のやりたいことに合わせてやって来ていた。そうすることが、義栄には良いと思ってやってきていたのだ。
義栄は物語などは好んだが、論語などの古文に関してはあまり関心を示さなかった。可那もあまり義栄に無理をさせたくなくて、あえて義栄には読みたい本しか読ませなかったのだ。
だから義栄の知識の範囲はとても偏っている。可那と好みが似通っている部分もある。
でも、義栄は男なのだから、当然物語よりは論語や中庸や大学を学んだほうが良いには決まっている。
可那はまた心の中でそっと自信を失った。
「か、可那……お、面白いね、論語って……」
「そ、そう……ですか?」
「う、うん……ひ、久秀はと、とても説明が上手で……す、少しだけ……か、漢語を覚えたよ……」
そう言って、義栄は誇らしげに笑う。
義栄に古文は無理だと決め付けてしまったのは、可那の責任だ。だけど、そんな義栄に漢語の書物をすすめて読む気にさせるなんて……。
たとえ彼の趣味が論語を読むことで、時間つぶしにそれしか思いつかなかったのだとしても。
可那は久秀に負けた気分に打ちひしがれていた。ただの負けじゃない。完敗だ。
「か、可那? だ、大丈夫? き、気分でも……わ、悪いのかな?」
気がつくと、義栄が不思議そうな……それでいて少し心配そうな顔をして見つめていた。
「あ、ご、ごめんなさい。大丈夫です。この項からでしたね。読みながら説明していきますね」
可那は慌てて笑みをつくろい、論語を読み上げていった。
(あの人……本当は良い人なの? それとも、想像しているよりももっと悪い人なの?)
可那にはますます久秀という男が分からなくなった。
船旅は特に天候が悪くなることもなく順調に進み、淡路島に寄港した。そこで義栄を甲板に出すために、久秀は船員たちを全員下船させた。
さすがに狭い船内では、すべての船員たちを義栄の目から隠すというのは無理だったようだ。
それでも船室には誰一人近づけず、義栄はほぼ可那や久秀以外と顔を合わせることなく、ここまで船旅をすすめてくることが出来た。
だからだろう……初めての旅だというのに、義栄はそれほど疲れた様子を見せていない。
「うわぁ……す、すごいね……こ、これが……海……か……」
船に乗り込むときには、船員の目から隠れるようにして乗り込んだので、義栄は乗船の時にはほとんど海を見ていなかった。
今ようやく船内が無人になったことで、義栄は甲板から海をゆっくりと眺めることが出来ているのだ。
「ふ、不思議な……に、においがする……」
「ええ、潮の香りですね」
可那が応じると、義栄はその香りをいっぱいに吸い込んだ。いつも以上に目がきらきらと輝いていて、今こうして海を見ていることが、義栄にとってはとても大切な時間だというのが分かる。
久秀の姿は甲板にはなかった。
可那がついているから大丈夫だと判断して自分の仕事でもしているのかもしれない。
「も、もうすぐ……お、おおさかっていうところだって……ひ、久秀が……い、言ってた……」
「ええ、そうですね。大坂の堺という港に着く予定です」
「そ、そこには……ひ、人がいっぱい……いるかもって……ひ、久秀が……言ってた……」
「え、ええ……確かに、多いかも……」
堺には国の内外から多くの船が集まる。当然、人も多い。四国の港とは大違いのはずだ。目を閉じ、耳を塞いでいても、人の気配は感じてしまうだろう。
堺で船を乗り換え、次は川をのぼって久秀の統治する大和国へと向かう予定になっていた。
「大丈夫ですか、お義兄さま?」
「う、うん……で、でも……正直に言うと……ちょ、ちょっと怖い……」
「ですよね……」
「で、でも……が、頑張る……そ、そこを越えたら……も、もうき、危険はないって……ひ、久秀が言ってたから……」
義栄のその言葉に、可那は微笑む。努力しようとしている。大勢の人が溢れる場所へ向かうというのに、義栄はその恐怖に耐えようとしている。
(やっぱりお義兄さま……変わったかも。久秀と出会ってから……)
論語のことといい、これまではすぐに目を背け、耳を背けていたものに挑もうとしている。
(これは良い傾向……よね……)
決して悪い傾向ではない。そうさせたのが久秀だということ以外には。
「そろそろ船員たちを戻らせます。義栄様、船室のほうに戻りましょうか」
頃合を見計らったように、久秀が声をかけてきた。
やがて大坂は堺の港へとたどり着いた。
さすがに義栄の顔は青ざめていた。
可那が手を取り、傍を離れずに付き添ったが、その手はずっとがたがたと震え続けえている。義栄がどれだけの恐怖に耐えているのかと思うと、可那は胸が張り裂けそうだった。
なるべく人の少ない場所を選んで通りながら、乗り換えの船の船着場へと向かう。
「お義兄さま、大丈夫ですか?」
義栄の手を取って可那は歩いていたが、その手は尋常でないほどに震えてしまっている。
「…………」
義栄は何も答えない。言葉を発することも出来ないほどに怯えてしまっているようだ。
船着場で再び船に乗船すると、さらに川路で東へ向かい、そこからは陸路を使って、久秀の居城である信貴山へと向かう。
可那と久秀に励まされながら険しい山道を歩いて信貴山城に到着する頃には、義栄は憔悴しきっていた。
「大丈夫ですか、お義兄さま?」
「う、うん……だ、大丈夫……じゃないかも。き、気分が悪い……」
大丈夫じゃないと言いつつも、ようやく口を開いてくれたことに可那は安堵する。山道を歩く足取りも、町を歩いていた時よりもしっかりしているようだ。
城に続く山道は、一応は人が通れるように整えられている。けれども、その勾配はきつく、何度か休憩を挟まなければならないほどだった。
「もう大丈夫ですよ。すぐにお城だそうです。人に会うこともありません」
「そ、そうだね……」
「ですが、あまりのんびりしていると、山犬の心配をしなければならなくなりますよ」
背後から久秀が笑い含みに告げてくる。笑っているということは、軽い冗談のつもりなのだろうが、確かにこの獣道は、夜になれば山犬の通り道になるであろうことは明らかだった。
「ひ、人より……や、山犬……のほうがいいや……」
義栄はそんなことを言って力なく笑う。冗談に応じる余裕が出てきたというのは、良い傾向だ。可那は重ねて安堵した。
「城までの道は人払いをさせました。門番と櫓の見張りの兵以外はいません。ご安心ください」
「う、うん……」
力なく答える義栄に微笑んで、久秀が先を行く。城はこんな山奥に本当にあるのかと思うほど、さらに山道を進んでいった先にあった。
麓から天守は小さく見えていた。その見事な四層の天守が、今は見上げれば間近に見える。
「あれが私の城です」
信貴山の山上にある城は、どうやってこれを築いたのかと思うほどに大きく広く、まるで一つの町のようだった。何もかもが、目を見張るばかりに豪奢な造りになっている。
大勢の人がここに住んでいるように見えるのに、人の姿はまったくなかった。人払いを徹底的にしているのだろう。
(そうよね……お義兄さまが将軍になるまでは、慎重に行動する必要があるものね……)
傍らの久秀に、可那は皮肉めいた視線を向ける。その視線に気づいた久秀は、意味ありげな笑みを浮かべて可那を見つめてきた。可那は慌てて視線をそらした。
「門には門番はいます。麓でも人の出入りは厳しく管理していますが、この門を通れるのは、事前に許可を得たものだけになります」
久秀はそう説明する。
門には確かに門番の影が見えたが、その身を門扉に隠している。あの程度なら、義栄も怯えることはないだろう。
「す、すごいね。ほ、本当に……や、山の上にこんなお城があるんだね……」
怯えているというよりは、驚いたような様子で傍らの義栄が言った。どうやら門番のことも、大して気にはしていないようで、可那はほっとする。
「気に入っていただけましたか?」
「な、何だかものすごすぎて……き、気に入るかどうかも分からないぐらいだよ……」
「あの天守は四層になっていて、この国では唯一のものです」
「へ、へえ、す、すごいんだ……ひ、久秀ってやっぱり……ほ、本当にすごいんだね……」
「天守なんて、防衛の役にも立たないのに、わざわざ四層にする必要なんてあるの?」
感心しきりの義栄にちょっと苛立って、可那はごく当然の疑問をぶつけてみた。
「機能的であることは必要です。しかし、城は各地の使者を迎える場所であり、この大和国の象徴でもあるので、個性的で威圧感があり、さらには驚きを与えるものでなければなりません」
「ふ、ふーん……」
可那はそれきり黙った。やはり口では久秀に叶わない。余計なことは言わないほうが身のためだと思った。
(久秀って……絶対に私のことを馬鹿にしてる気がする……四国でも浅はかとか稚拙とか、いろいろ言われたような気がするし……)
その時のことを思い出すだけで腹立たしい。
義栄は久秀をまるで憧れる人でも見るような目で見ていた。それも可那には内心面白くなかった。
でも、義栄にとっては、そういうふうに思える人間が見つかったということは良かったのだろうと自分に言い聞かせる。
(本性を教えたら……お義兄さまはきっと混乱するどこ路じゃなくなるだろうし……)
「可那姫様はいかがですか? 私の城は気に入っていただけそうですか?」
「え、ええ、もちろん……」
可那は顔を引きつらせながら微笑んだ。
「それは良かった。これから住んでいただく場所ですから、気に入っていただかなくては困りますけどね」
再び意味ありげな視線を送りつけられ、可那はまるで心臓を撫でられたような気持ちになり、思わず肩に力が入るのを止められなかった。
「後で城郭内を案内しましょう。いろいろと珍しいものもお見せできると思いますよ」
久秀がそう言うと、義栄はびくんと肩を震わせた。
「ひ、人には会いたくない……」
ここへ来る途中、さんざん人の気配を近くで感じたことが影響しているのだろう。義栄はいつも以上に人の気配を恐れているようだった。
四国の自分が住んでいる屋敷でさえ、人に怯える生活をしていた義栄だ。ここまで旅を続けてこられたのが奇跡だったのかもしれない。
「ご心配ありません。すでに人払いは済んでいます。城内に入ってしまえば、誰にも会わずに済むでしょう」
「ほ、本当に?」
「はい。義栄様が通られる場所には人を置いておりません。ですから、城の中を歩いても人に会う心配はありませんよ」
「だ、だったら行く……」
義栄はあからさまにほっとした様子だった。
可那は久秀の手際のよさに、改めて感心する思いだった。
これだけ広い城なら、かなりの人数の使用人や兵や家臣がいるに違いない。久秀は少人数で防衛が可能な城と言っていたけれど、それでもある程度の人がこの城の中にいることは間違いないだろう。
それらの人々を義栄の目に触れないようにするのは、手間がかかるし、大変だと思う。
(そこまでするのは……お義兄さまに将軍になってもらう必要があるから、よね……)
可那は常にそう自分の心に言い聞かせておかないと、うっかり久秀を良い人だと思ってしまいそうになる。
義栄への接し方に関しても、可那はすでに内心で感心していた。論語のことにしてもそうだし、何かと可那は自分自身を思い返させられることが多かった。
ただ、それは単なる親切心や情といったものによる行動でないことを、可那は常に心得ておかなくてはならない。
そうでないと、いざ久秀が手のひらを返したときに、義栄を守れなくなってしまいそうだから。
「では、参りましょうか」
気がつけば、城門の前まで来ていた。
重い城門の影に人の気配がある。でも、義栄の目には触れないように立っている。
可那は義栄とともに、城門をくぐる。
城の中へ一歩を踏み入れた瞬間、ぞくりと背筋が寒くなる感覚を覚えた。振り返ると、久秀がまるで値踏みでもするかのようなねっとりとした視線を可那に向けていた。
可那が義栄の船室に入ると、二つの視線が同時にこちらを見た。久秀はまだ義栄の傍にいた。
「あの……久秀。仕事があるのなら、どうぞ行ってください」
「ああ、では、続きは可那姫様からお願いします」
「続き?」
可那が首をかしげると、久秀が今しがた読んでいた書物を差し出してくる。
「義栄様が大陸の書物を読んでみたいと仰られるので、論語を読んでいました。可那姫様は漢語は読めますか?」
「え、ええ……大丈夫です」
「では、この項からお願いします」
開いたままの論語を受け取りながら、可那は頭を平手で殴られたような衝撃を受けていた。
(お義兄さまが……論語を……?)
かつて可那が勧めたときには、あまり良い顔をしなかったのに。
義栄の教育は可那が一切担っていた。基本的にはすべてを彼のやりたいことに合わせてやって来ていた。そうすることが、義栄には良いと思ってやってきていたのだ。
義栄は物語などは好んだが、論語などの古文に関してはあまり関心を示さなかった。可那もあまり義栄に無理をさせたくなくて、あえて義栄には読みたい本しか読ませなかったのだ。
だから義栄の知識の範囲はとても偏っている。可那と好みが似通っている部分もある。
でも、義栄は男なのだから、当然物語よりは論語や中庸や大学を学んだほうが良いには決まっている。
可那はまた心の中でそっと自信を失った。
「か、可那……お、面白いね、論語って……」
「そ、そう……ですか?」
「う、うん……ひ、久秀はと、とても説明が上手で……す、少しだけ……か、漢語を覚えたよ……」
そう言って、義栄は誇らしげに笑う。
義栄に古文は無理だと決め付けてしまったのは、可那の責任だ。だけど、そんな義栄に漢語の書物をすすめて読む気にさせるなんて……。
たとえ彼の趣味が論語を読むことで、時間つぶしにそれしか思いつかなかったのだとしても。
可那は久秀に負けた気分に打ちひしがれていた。ただの負けじゃない。完敗だ。
「か、可那? だ、大丈夫? き、気分でも……わ、悪いのかな?」
気がつくと、義栄が不思議そうな……それでいて少し心配そうな顔をして見つめていた。
「あ、ご、ごめんなさい。大丈夫です。この項からでしたね。読みながら説明していきますね」
可那は慌てて笑みをつくろい、論語を読み上げていった。
(あの人……本当は良い人なの? それとも、想像しているよりももっと悪い人なの?)
可那にはますます久秀という男が分からなくなった。
船旅は特に天候が悪くなることもなく順調に進み、淡路島に寄港した。そこで義栄を甲板に出すために、久秀は船員たちを全員下船させた。
さすがに狭い船内では、すべての船員たちを義栄の目から隠すというのは無理だったようだ。
それでも船室には誰一人近づけず、義栄はほぼ可那や久秀以外と顔を合わせることなく、ここまで船旅をすすめてくることが出来た。
だからだろう……初めての旅だというのに、義栄はそれほど疲れた様子を見せていない。
「うわぁ……す、すごいね……こ、これが……海……か……」
船に乗り込むときには、船員の目から隠れるようにして乗り込んだので、義栄は乗船の時にはほとんど海を見ていなかった。
今ようやく船内が無人になったことで、義栄は甲板から海をゆっくりと眺めることが出来ているのだ。
「ふ、不思議な……に、においがする……」
「ええ、潮の香りですね」
可那が応じると、義栄はその香りをいっぱいに吸い込んだ。いつも以上に目がきらきらと輝いていて、今こうして海を見ていることが、義栄にとってはとても大切な時間だというのが分かる。
久秀の姿は甲板にはなかった。
可那がついているから大丈夫だと判断して自分の仕事でもしているのかもしれない。
「も、もうすぐ……お、おおさかっていうところだって……ひ、久秀が……い、言ってた……」
「ええ、そうですね。大坂の堺という港に着く予定です」
「そ、そこには……ひ、人がいっぱい……いるかもって……ひ、久秀が……言ってた……」
「え、ええ……確かに、多いかも……」
堺には国の内外から多くの船が集まる。当然、人も多い。四国の港とは大違いのはずだ。目を閉じ、耳を塞いでいても、人の気配は感じてしまうだろう。
堺で船を乗り換え、次は川をのぼって久秀の統治する大和国へと向かう予定になっていた。
「大丈夫ですか、お義兄さま?」
「う、うん……で、でも……正直に言うと……ちょ、ちょっと怖い……」
「ですよね……」
「で、でも……が、頑張る……そ、そこを越えたら……も、もうき、危険はないって……ひ、久秀が言ってたから……」
義栄のその言葉に、可那は微笑む。努力しようとしている。大勢の人が溢れる場所へ向かうというのに、義栄はその恐怖に耐えようとしている。
(やっぱりお義兄さま……変わったかも。久秀と出会ってから……)
論語のことといい、これまではすぐに目を背け、耳を背けていたものに挑もうとしている。
(これは良い傾向……よね……)
決して悪い傾向ではない。そうさせたのが久秀だということ以外には。
「そろそろ船員たちを戻らせます。義栄様、船室のほうに戻りましょうか」
頃合を見計らったように、久秀が声をかけてきた。
やがて大坂は堺の港へとたどり着いた。
さすがに義栄の顔は青ざめていた。
可那が手を取り、傍を離れずに付き添ったが、その手はずっとがたがたと震え続けえている。義栄がどれだけの恐怖に耐えているのかと思うと、可那は胸が張り裂けそうだった。
なるべく人の少ない場所を選んで通りながら、乗り換えの船の船着場へと向かう。
「お義兄さま、大丈夫ですか?」
義栄の手を取って可那は歩いていたが、その手は尋常でないほどに震えてしまっている。
「…………」
義栄は何も答えない。言葉を発することも出来ないほどに怯えてしまっているようだ。
船着場で再び船に乗船すると、さらに川路で東へ向かい、そこからは陸路を使って、久秀の居城である信貴山へと向かう。
可那と久秀に励まされながら険しい山道を歩いて信貴山城に到着する頃には、義栄は憔悴しきっていた。
「大丈夫ですか、お義兄さま?」
「う、うん……だ、大丈夫……じゃないかも。き、気分が悪い……」
大丈夫じゃないと言いつつも、ようやく口を開いてくれたことに可那は安堵する。山道を歩く足取りも、町を歩いていた時よりもしっかりしているようだ。
城に続く山道は、一応は人が通れるように整えられている。けれども、その勾配はきつく、何度か休憩を挟まなければならないほどだった。
「もう大丈夫ですよ。すぐにお城だそうです。人に会うこともありません」
「そ、そうだね……」
「ですが、あまりのんびりしていると、山犬の心配をしなければならなくなりますよ」
背後から久秀が笑い含みに告げてくる。笑っているということは、軽い冗談のつもりなのだろうが、確かにこの獣道は、夜になれば山犬の通り道になるであろうことは明らかだった。
「ひ、人より……や、山犬……のほうがいいや……」
義栄はそんなことを言って力なく笑う。冗談に応じる余裕が出てきたというのは、良い傾向だ。可那は重ねて安堵した。
「城までの道は人払いをさせました。門番と櫓の見張りの兵以外はいません。ご安心ください」
「う、うん……」
力なく答える義栄に微笑んで、久秀が先を行く。城はこんな山奥に本当にあるのかと思うほど、さらに山道を進んでいった先にあった。
麓から天守は小さく見えていた。その見事な四層の天守が、今は見上げれば間近に見える。
「あれが私の城です」
信貴山の山上にある城は、どうやってこれを築いたのかと思うほどに大きく広く、まるで一つの町のようだった。何もかもが、目を見張るばかりに豪奢な造りになっている。
大勢の人がここに住んでいるように見えるのに、人の姿はまったくなかった。人払いを徹底的にしているのだろう。
(そうよね……お義兄さまが将軍になるまでは、慎重に行動する必要があるものね……)
傍らの久秀に、可那は皮肉めいた視線を向ける。その視線に気づいた久秀は、意味ありげな笑みを浮かべて可那を見つめてきた。可那は慌てて視線をそらした。
「門には門番はいます。麓でも人の出入りは厳しく管理していますが、この門を通れるのは、事前に許可を得たものだけになります」
久秀はそう説明する。
門には確かに門番の影が見えたが、その身を門扉に隠している。あの程度なら、義栄も怯えることはないだろう。
「す、すごいね。ほ、本当に……や、山の上にこんなお城があるんだね……」
怯えているというよりは、驚いたような様子で傍らの義栄が言った。どうやら門番のことも、大して気にはしていないようで、可那はほっとする。
「気に入っていただけましたか?」
「な、何だかものすごすぎて……き、気に入るかどうかも分からないぐらいだよ……」
「あの天守は四層になっていて、この国では唯一のものです」
「へ、へえ、す、すごいんだ……ひ、久秀ってやっぱり……ほ、本当にすごいんだね……」
「天守なんて、防衛の役にも立たないのに、わざわざ四層にする必要なんてあるの?」
感心しきりの義栄にちょっと苛立って、可那はごく当然の疑問をぶつけてみた。
「機能的であることは必要です。しかし、城は各地の使者を迎える場所であり、この大和国の象徴でもあるので、個性的で威圧感があり、さらには驚きを与えるものでなければなりません」
「ふ、ふーん……」
可那はそれきり黙った。やはり口では久秀に叶わない。余計なことは言わないほうが身のためだと思った。
(久秀って……絶対に私のことを馬鹿にしてる気がする……四国でも浅はかとか稚拙とか、いろいろ言われたような気がするし……)
その時のことを思い出すだけで腹立たしい。
義栄は久秀をまるで憧れる人でも見るような目で見ていた。それも可那には内心面白くなかった。
でも、義栄にとっては、そういうふうに思える人間が見つかったということは良かったのだろうと自分に言い聞かせる。
(本性を教えたら……お義兄さまはきっと混乱するどこ路じゃなくなるだろうし……)
「可那姫様はいかがですか? 私の城は気に入っていただけそうですか?」
「え、ええ、もちろん……」
可那は顔を引きつらせながら微笑んだ。
「それは良かった。これから住んでいただく場所ですから、気に入っていただかなくては困りますけどね」
再び意味ありげな視線を送りつけられ、可那はまるで心臓を撫でられたような気持ちになり、思わず肩に力が入るのを止められなかった。
「後で城郭内を案内しましょう。いろいろと珍しいものもお見せできると思いますよ」
久秀がそう言うと、義栄はびくんと肩を震わせた。
「ひ、人には会いたくない……」
ここへ来る途中、さんざん人の気配を近くで感じたことが影響しているのだろう。義栄はいつも以上に人の気配を恐れているようだった。
四国の自分が住んでいる屋敷でさえ、人に怯える生活をしていた義栄だ。ここまで旅を続けてこられたのが奇跡だったのかもしれない。
「ご心配ありません。すでに人払いは済んでいます。城内に入ってしまえば、誰にも会わずに済むでしょう」
「ほ、本当に?」
「はい。義栄様が通られる場所には人を置いておりません。ですから、城の中を歩いても人に会う心配はありませんよ」
「だ、だったら行く……」
義栄はあからさまにほっとした様子だった。
可那は久秀の手際のよさに、改めて感心する思いだった。
これだけ広い城なら、かなりの人数の使用人や兵や家臣がいるに違いない。久秀は少人数で防衛が可能な城と言っていたけれど、それでもある程度の人がこの城の中にいることは間違いないだろう。
それらの人々を義栄の目に触れないようにするのは、手間がかかるし、大変だと思う。
(そこまでするのは……お義兄さまに将軍になってもらう必要があるから、よね……)
可那は常にそう自分の心に言い聞かせておかないと、うっかり久秀を良い人だと思ってしまいそうになる。
義栄への接し方に関しても、可那はすでに内心で感心していた。論語のことにしてもそうだし、何かと可那は自分自身を思い返させられることが多かった。
ただ、それは単なる親切心や情といったものによる行動でないことを、可那は常に心得ておかなくてはならない。
そうでないと、いざ久秀が手のひらを返したときに、義栄を守れなくなってしまいそうだから。
「では、参りましょうか」
気がつけば、城門の前まで来ていた。
重い城門の影に人の気配がある。でも、義栄の目には触れないように立っている。
可那は義栄とともに、城門をくぐる。
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