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第三章

身代わり濃姫(62)

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 明智光秀が出してきた策を連日の軍議で検討して調整を加え、信行たちに対する信長らの新たな行動が決定した。
 ひとまず、尾張おわりの織田家が所有するすべての城に対して、信長につくか信行につくかの判断を五日以内に返答するように指示を出し、もしも信行側につくなら戦となることを覚悟せよとの決断を促した。
 二日が経過した今、半数を超える城主が信長への忠誠を宣言した。もともと信行側と思われていた者たちも幾人か含まれるので、今のところ、信長にとって有利な状態となりつつあるといえるだろう。
 各城主たちからの返事を待つ五日間を、信長側は戦の準備にて、そしてそのうちの一日を使い、全将兵に対して休暇を与えた。

 その休暇の日の朝、信長が目を覚ますと、隣で眠っているはずの美夜みやの姿がなかった。
 信長の普段の眠りは浅いことが多いが、さすがに昨夜は連日の睡眠不足のせいもあり、部屋に美夜しかいないという安心感もあり、信長は彼女が寝室から出て行ったことにすら気づかないほど、深く眠っていたようだった。
 信長は目を擦りながら起き上がり、部屋の外に控えていた侍女に声をかける。
帰蝶きちょうはどこへ行ったのだ?」
「あ、え、と……あの……そ、その……」
 梅という名の侍女だが、信長に問われて目に見えて慌てた。
 その横にいるのは、まきという名の侍女で、口ごもった梅に変わって大きな声で答えた。
「あ、あの! はばかりでございます!!」
「ちょ、ちょっと……っ……」
「そうか、なら良い」
 二人の慌てたようなやりとりも眠さで気にならないのか、信長は欠伸をした。
「あ、あの! よろしければ、もう少しお休みになられてはいかがでしょうか!? その間に、帰蝶様も戻ってこられると思いますし!」
 槙の勢い込んだその言葉に、信長はぼんやりと答える。
「そうだな。そうしよう……」
 信長は眠そうにしながら、再び部屋の中に入っていった。

 それからしばらくして、美夜が部屋に戻ってきたときには、信長は再びぐっすりと眠っていた。
(侍女たちの話だと、さっき一度起きてきたと聞いたけれど……)
 しかし、信長はぴくりとも動かず、まったく起きる気配はなさそうだ。
(ど、どうしよう……起こすのも悪い気がするし……でも、冷めちゃうと困るし……)
 信長の寝顔をそっとのぞき込みながら、美夜は迷っていた。
 起こすべきか、このままそっとしておくべきか……。
(こ、困ったわ……どうしよう……)
 信長があまりにも気持ち良さそうに眠っているので、美夜は起きてほしいが、起きて欲しくないという複雑な気持ちになってしまう。
 しかし、美夜が信長の顔をのぞき込んでいるうちに、信長はすぐに気配を感じて目を覚ましてしまったようだった。
「あ、すみません……起こしてしまいましたか?」
「いや……」
 信長は起き上がると、すぐに美夜の腕を引き寄せ、接吻をしてくる。
 そして接吻を解くと、不思議そうに部屋を見回した。
「何だか良い匂いがするな……」
「あ、はい。実は今日の朝餉あさげを、信長様のために作ってみたのですが……」
 美夜が打ち明けると、信長は少し驚いたようだった。
 今日は信長も将兵たちと同じく一日休暇だと美夜は聞き、それなら朝もゆっくり食事ができるのではと考え、かねてから修行中だった料理を信長に食べてもらおうと考えたのだった。
「そなたが作ってくれたのか?」
「はい。各務野かがみのたちにも手伝ってもらいましたが、基本的には私が」
 美夜がそう言うと、信長はようやく目が覚めてきたようだった。
 大きくのびをしてから、信長は起き上がった。
「あの、でももしまだ眠れそうなら、後でまた……」
「いや、もう目が覚めた」
「すみません……」
 美夜が謝罪すると、信長は不思議そうな顔をする。
「なぜ謝る? 俺は今とても嬉しいのだがな」
「あの……せっかく気持ち良さそうに眠っておられたのに、起こしてしまって悪いなと思って」
「悪くはなどないぞ。俺は嬉しいと言っておるであろう」
 信長に重ねてそう告げられ、美夜は慌てて立ちあがった。
「あ、じゃ、じゃあ、準備しますね」
 美夜は信長の前に、準備してきた膳を並べていく。
 朝餉だから、品数はそれほど多くはない。
 けれども、早朝から支度を始めて、かなりの時間をかけて作ったものだった。
「どれも美味そうだ」
 信長は嬉しそうに並べられた膳を眺める。
 基本的には、通常の朝餉と同じようなものだったが、一品だけ、美夜のいた世界にあったものを真似て作ったものを用意した。
 ただ、それがこの時代の人の味覚に合うかどうか心配だったので、各務野たち侍女に何度となく試食に付き合ってもらい、ようやく味や材料を決めたものだった。
 侍女たちは、試作中の美夜の料理を、珍しがりこそはしても、嫌がらずに食べてくれたのがありがたかった。
「変わったものがひとつあるな……」
 信長はすぐにそれに気づいてくれたようだった。
「他のものは全部各務野から教わって作ったものですが、それだけは私が元の世界でも食べていたものを参考にして作ったものなんです。ちょっと工夫はしてありますけど」
 美夜が作ったのは、いわゆるロールキャベツをアレンジしたものだった。
 ただ、まだこの時代にキャベツはないから、外側は白菜で代用したいわゆるロール白菜で、中身もこの時代の肉は癖が強いものが多いので、豆や椎茸などを細かく刻んで肉の代わりに使っている。
 できあがってみればまったくロールキャベツとは別物だったが、何度か試作を繰り返してみたところ、侍女たちにも評判の良い味ができたので、さらに信長の好みなども加味して仕上げたものが今日の膳に並んでいるものだった。
 だから一応は自信作ではあるのだけれども、気に入ってもらえるかどうか、美夜は心臓が落ち着きなく鼓動するのを感じた。
「では、ありがたくいただこうか」
「は、はい……」
 信長は真っ先に、ロール白菜に箸を伸ばしていった。
(そ、それからいくのね……!?)
 形が変わっているからか、信長は箸で持ち上げた料理を、珍しそうに眺めている。
(な、何かの試験結果の発表を待つ時みたい……)
 こんなに緊張して何かの反応を待つのは、美夜にとっては初めての経験だった。
(ま、まずいって言われたら……どうしよう……)
 信長が料理を口に入れようとすると、そこからはまともに見ることができず、思わず目を閉じてしまった。
(もしまずいって言われたら、謝るしかないわよね、とりあえず……)
 美夜が悪いことばかり考えてしまうのを止められずにいると……。
「美味いな、これは」
 と、信長の声が聞こえてきて、美夜はようやく目を開けた。
「ほ、本当ですか!?」
 美夜が思わず声を上げると、信長は不思議そうに首をかしげる。
「なぜ俺が嘘を言わなくてはならぬのだ?」
「そ、そうですけど……無理とかしてないですよね?」
「俺はまずい時には正直にまずいと言うし、美味いときには正直に美味いと言う。今は美味いと思うたから美味いと言ったのだが」
「そ、それなら……いいんですけど……」
「さまざまなものが混ざって入っているようだが、味がばらばらにはならず、ひとつの味にまとまっていて、なかなか味わい深い。まるでよく鍛錬された軍隊のようだな」
 信長は彼らしい細かな感想まで言ってくれる。
 まだ心臓が落ち着かないのを感じながらも、美夜はとりあえず安堵した。
 ひとまず、信長がまずいと言って席を立つ、などということはなさそうだ。
「他のものも食べて良いか?」
「も、もちろんです!」
 信長は並べられたものに次から次に箸をつけていく。
 その食べっぷりを見ていると、どうやら料理は信長の口に合っていたようだ。
「どれも好みの味だ。そなた料理の才があるな」
「ほ、褒めすぎです、信長様……たぶん、いつも料理をしている厨の人たちが作ったほうが、本当はもっと美味しくなると思いますし……」
 あまりの照れくささに耐えきれずに美夜が言うと、信長は怪訝けげんそうな顔をする。
「良いものを褒めてなぜ悪い?」
「そ、そう仰っていただけるのは……とても嬉しいのですが……」
「なら、素直に喜んでおけば良いではないか」
「そ、そうですね。信長様にまずいって言われたらどうしようとばかり考えていたので、なかなか素直に受け取ることができなくて……」
 美夜が言うと、信長は何かを思い出したように笑う。
「そなたは、時折、自分ではそう意識せずにかたくなになるときがあるからな」
 信長に言われて、美夜ははっとした。
 確かに、美夜には自分でもよく分からないうちに頑なになっているときがある、と美夜自身も信長に言われて気づいたのだった。
(信長様ってやっぱりするどい……私のことを私以上に分かってるのかも……)
「あ、あの……ご飯のおかわりを入れましょうか?」
 気がつくと、信長の茶碗が空っぽになっていたので、美夜は慌てて聞いた。
「ああ、そうだな。美味かったから、あっという間に食ってしまった」
「なら、良かったです。頑張って作ったかいがありました」
 結局、それから信長はご飯を三度おかわりして食べ、美夜はようやく、心からの安堵と喜びがこみ上げてくるのを感じた。
 自分の作ったものを、好きな人が美味しそうにたくさん食べてくれることが、こんなに嬉しいことだと初めて知った。
「まさか、そなたの手料理を食べられるとは思わなかったな。しかも、こんなに美味いものを食べたのは初めてだ」
 信長は箸を置きながら笑う。
「いえ……あの……信長様に喜んでもらいたいっていう気持ちだけで作ったので、その……喜んでもらえて良かったです……」
 信長の言葉を聞き、美夜はこれまで各務野に教わりながらこちらの世界の料理を勉強してきたことや、今日も早朝から頑張って腕を振るったことなどが、すべて報われるような気持ちになった。
(各務野や侍女たちにも、後でお礼を言わなくちゃ。このところはずっと付き合ってもらっていたし……)
 そんなことを考えていると、信長の腕が伸びてきて、美夜の身体を抱き寄せた。
「俺は今、そなたと結婚して良かったと改めて思うておるところだ」
「信長様……私ももちろん、信長様と結婚できて良かったといつも思っています」
 包み込むようにして信長に抱きしめられ、首筋や耳に口づけられて、美夜は幸せがじわりとこみ上げてくるのを感じた。
「今日は皆に休暇を与えたが、俺も休暇だ」
「は、はい……それは聞いています」
「なら、することはひとつしかあるまい」
「え? ひとつって……あの、信長様……っ……」
 信長が何をしようとしているのかを悟り、美夜は少し慌てる。
「ま、まだ朝ですけど……っ……」
 気がつけば自分の身体が手際よく押し倒されていて、美夜はさらに慌てた。
「あ、あの、信長様……っ……や、やっぱり朝からこういうのは……その……せめて夜まで待つとか……」
「俺に朝からたっぷり英気を養わせておいて、今さら何を言う」
「ええ? そ、そんなつもりじゃ……なかったんですけど……」
「そなたにそんなつもりはなくとも、俺をそんな気にさせた責任はあるはずだ」
 信長に詰め寄られて、美夜はささやかに最後の抵抗を試みてみる。
「あ、あの……今日は信長様にとっても久しぶりの休暇です。だからせめてゆっくり休んでいただきたいと思っていますし……そのほうが私は安心なんですけど……」
 美夜の言葉に、信長は呆れたような顔をする。
往生際おうじょうぎわが悪いな、そなたは」
「やっぱり駄目ですか?」
「駄目だ」
 信長は着々と事を進めており、すでにもう止まらないようだった。
(まあ……今日は信長様もお休みみたいだし……いいのかな……それに、久しぶりだし……)
 美夜も半ば諦めたような気持ちになり、信長の背中に手を回し、彼の身体を受け入れていった。

 その日は結局、それまで忙しくて触れあう時間がなかった分を埋めるように、信長と美夜は何度も身体を重ねたり、離れていた間のさまざまな話を聞かせあったりと、日頃の慌ただしい日々とはまるで違う、二人きりの濃厚な時間を過ごした。
 そんな一日が終わろうとする夜――信長の元に一報が入った。
 織田家とともに尾張の覇権はけんを争う今川家の当主、今川義元よしもとが急病により逝去し、その嫡男ちゃくなん氏真うじざねが家督を継いだと。
 そして、その今川氏真が、織田家の次男、信行が率いる勢力との同盟を結ぶことを宣言したのだと――。
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