身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

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第四章

身代わり濃姫(81)

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 竹千代を連れた藤吉郎の姿を認めた光秀は、別の場所で待機する部隊に合図を送った。
 速やかに港で合流して船を出発させ、駿府すんぷを離れる必要があるからだった。
 そして、それと同時に、陸路を使って緒川おがわ城にいる信長たちに、ひと足先に作戦の成功を伝える必要もあった。
 今の合図で別働隊にいた者の一人が早馬はやうまの使いとなり、速やかに緒川城へと向かったはずだった。
「お待たせしました。竹千代様はご無事です」
 竹千代の手を引いた藤吉郎が、光秀たちに合流する。
「では、港へ行きましょう」
「はい、よろしくお願いします」
 竹千代が行儀良く返事をしたのを見て、光秀は竹千代が寝間着のままであることに気づき、慌てて自身の羽織を脱いだ。
「お寒いでしょうから、これを着てください。少し大きいかもしれませんが……」
 光秀は自身の羽織を、竹千代の肩にかけた。
「ありがとうございます。とても温かいです」
 竹千代が信長に送った書状を見ていた光秀は、竹千代があまりにも子どもらしい子どもだったので、少し面食らってしまった。
 まだ背丈もこれから伸びようかという年頃で、小柄な藤吉郎よりもさらに小さい。
 寝起きを起こされたこともあり、髪はは結わずにそのまま肩に落としている。
 だからぱっと見は男子というよりは女童のようにも見えてしまう。
 こんなにあどけない子どもが、あれだけしっかりとした書状を書いていたというのは、光秀にとっては意外なことだった。
 あの書状に書かれていた今川家の現状に関する分析はかなり正確で、そのおかげで、光秀たちも今川家の状態を把握することができ、今後の見通しを立てることもできたのだった。
(これは……竹千代殿を子どもだと侮っていては大変な目に遭うかもしれませんね。かつての信長様の時のように……)
 と、光秀は最初に信長に会ったときのことを懐かしく思い出した。
 あの時も光秀は信長を大うつけの評判通りの男だと思って侮り、信長との対面中にそれが自分の考え違いであることを思い知らされ、表面上は冷静を装いつつも、大いに慌てたものだった。
「では参りましょう。海上はさらに冷えますから、船に乗ったら藤吉郎殿に毛皮を出してもらってください」
「はい。何から何まで、本当にありがとうございます」
 にこにこと嬉しそうに笑う竹千代に頷いて、光秀は港への道を先導する。
 今川館いまがわやかたが静まりかえっていることから考えても、どうやらまだ竹千代が連れ出されたことは気づかれていないようだ。
 今回の作戦はほぼ成功したと見て良いだろう……光秀はそう考えた。

 竹千代を船に乗せると、船はすぐに出航した。
 夜半ということもあり、離れていく駿府の港は、真っ暗な闇にしか見えなかったが、竹千代はしばらくずっとその闇のような港を見つめていた。
「竹千代様、甲板におられる時はこれを着てください。お寒ければ、船の中に入れば温かいでござりますよ」
 藤吉郎がそう言って毛皮を手渡すと、竹千代は光秀からかぶせてもらった羽織を脱いで、代わりに毛皮をはおった。
「ありがとうございます。では、この羽織を光秀殿にお返しください。それにしても、この毛皮、とても温かいですね」
「それは良かったです。せっかく久しぶりに御家臣にお会いになるのに、お風邪などを召されては、心配をかけてしまいますでしょうから。甲板は冷えますので、温かくしてお過ごしください」
「はい。松平家の者たちに会うのは、本当に久しぶりなので嬉しいです」
 竹千代の心から嬉しそうな顔を見ていると、藤吉郎も嬉しくなってくる。
 たった一人で見ず知らずの大人たちに囲まれ、自由に外へ出ることもできずに、竹千代は二年近くもの時間を過ごしてきたのだ。
 織田家の里にいた間も竹千代は囚われの身ではあったが、あれはある意味で竹千代を守るための場所ともなっていた。
 それに、信長との友誼もそこで結ばれたようだから、おそらく竹千代にとって里で過ごした時間は無駄ではなかったに違いない。
 だが、今川館での竹千代の生活は、館の敷地内でも移動を制限され、かなり窮屈なものだったと推測される。
 家臣たちとの連絡を取る自由すら奪われ、竹千代はどんな気持ちで今川館での二年間を過ごしたのだろうか……。
「何か音が聞こえます」 
 竹千代が船の縁のほうへ歩いて行くので、藤吉郎は慌ててそれについていく。
「魚が跳ねた音でござりましょう。今日は海も穏やかですから、いろんな音が聞こえますよ」
「魚がこの下にたくさんいるのですね。今は何も見えませんけど」
「はい。明るくなれば、魚が飛び跳ねる様子も、海の中を泳ぐ様子も、時にはこの船よりも大きなくじらなどの生きものを見ることもできまする」
「そうなのですか。これが海というものなのですね……何だかとても不思議な匂いがしてきます……」
「はい、潮の香りでござりますね。明るくなれば、また景色が変わりますよ。今は眺めていてもつまりませんから、船室でお休みになられてはいかがでござりますか?」
 海の上の風が冷えることを気にして藤吉郎は提案してみたが、竹千代は首をかしげた。
「そうですね……でも、海をこうして間近で見るのは初めてなので……もう少し見ています」
「かしこまりました。では、眠くなられたら、すぐに藤吉郎にお申し付けください」
 たとえほとんど闇にしか見えない海でも、竹千代にとっては自由の身になって初めて見る海だから、嬉しくて仕方がないのかもしれないと藤吉郎は思った。
 とりあえず、竹千代が海に落ちたりなどしないように、藤吉郎はその傍にそっと寄り添う。
「それにしても、信長殿は本当に約束を守ってくださる方ですね。三年前に信長殿は、私にいつか海を見せてくださるとお約束くださったのですが、本当にそんな日が来るなんて、あの頃は夢にも思いませんでした」
「そうなんですか……信長様がそんなお約束を?」
 藤吉郎が聞くと、竹千代は嬉しそうに笑って頷いた。
「はい。私は当時、岡崎城の天守から眺める海しか知らなかったのです。だから信長殿は海に連れて行ってやると約束してくれました。これがその海なのですね……」
 真っ暗な海や水平線を見て、どこまで海の様子が竹千代に理解できているのかは分からないが、藤吉郎は微笑ましい気持ちになった。
 信長があの里で、そんな約束をしていたことなど、藤吉郎は知らなかったが、信長はその約束を覚えていて、今回の作戦に船を使うことを提案したのだろうか……と、そんな気さえしてくる。
 今日は冬のわりに比較的波が穏やかで、航行には良い天候だった。
 だから竹千代も甲板に出て海を眺めることができているが、もしもこれが荒れた海だったなら、こんなにのんびり海を眺めることもできなかっただろうと藤吉郎は思う。
(そういえば……前回緒川城に向かったときは、酷い海でござりましたね……)
 あの時は船は激しく揺れ、甲板には雨風がたきつけるような荒天で、海に落ちた信長の小姓こしょうである犬千代を助けるため、藤吉郎は真冬の海に飛び込んだのだった。
 たまたま運良く犬千代を助けることができたが、その後、戦を終えて清洲きよすに帰り着いた後は、一気に疲労が押し寄せてきたのか、藤吉郎は三日ほど寝込んでしまったのだった。
 あの時のことを思い出すたび、今でもよくも生きていたものだと思うが、あの時の藤吉郎はただただ必死なだけだった。
 やがて、夜が明け、海の様子が変わる頃には、竹千代は少し眠そうな顔をしていた。
 こくりこくりとしだした竹千代の肩に、藤吉郎はそっと手を乗せた。
「竹千代様、船室に戻って休みましょう。このようなところで眠られては、お身体にさわりまする」
「もう少し……見て……」
「これから竹千代様はいくらでもお好きな時に海を見ることができまする。ですから、今は少しでもお身体をお休めください」
「そう……ですね……私は……自由になった……でしたね……」
 とうとう竹千代は話をしながら眠ってしまった。
 倒れそうになる竹千代の身体を慌てて支え、藤吉郎は抱え上げた。
 小柄な藤吉郎が抱え上げられるほどに、竹千代の身体は小さく、そしてまだ幼い。
 藤吉郎は船室にある布団に竹千代を運び、竹千代を起こさないようにそっと寝かせたのだった。

 陸路を使った早馬の使いが一足先にしらせていたこともあり、緒川城にいた信長と松平家の家臣、本多忠真ほんだただざねは、船の到着に合わせて港で竹千代を待っていた。
 信長の隣に立つ本多忠真は、終始落ち着きのない様子だった。
 先に緒川城で信長と本多忠真は対面して挨拶を交わしていたが、この家臣が竹千代にとっては心強い味方となるだろうと信長は彼と対面して安堵あんどもしていた。
 しかし、まるで我が子の到着を待つように、先ほどから落ち着きのない忠真の様子には、信長は少し苦笑を禁じ得なかった。
 初対面で信長が感じたのとはまるで違う一面も、この家臣は持っているのだなと信長は思った。
「忠真殿、少し落ち着かれよ。今日は海は穏やかで波の心配もない。船は予定の通り、無事に着くはずだ」
 信長に指摘されて、忠真ははっとして我に返り、苦笑した。
「それは分かっているのだが……どうにも落ち着かぬ。しかし、それにしても到着が少し遅いような気がする……何かあったのではないだろうか……」
「予定では今日の昼過ぎという話だから、まだ少し時間がかかるであろう」
「ああ……まだ昼を過ぎてはいなかったか……それにしても、竹千代様は船酔いなどはされておらぬだろか……船など初めて乗るのだから、きっと怖い思いもされているかもしれない……」
 忠真は二年ほど前に竹千代に一度会っているとはいえ、実質的に竹千代が六歳の時までのことしか知らない。
 だからそういう想像になってしまうのだろうと信長は思いつつも、少し過保護に過ぎるのではとも思った。
「おそらく竹千代のことだ。けろりとして船の中でも熟睡しているに違いない。竹千代は肝がわっておるのだから、そなたも竹千代の臣ならば彼を信じてやらぬか」
 信長がそう言うと、忠真は少し顔を赤くして照れくさそうな顔をする。
「そ、そうだな……確かに貴殿の仰るとおりだ……竹千代様はお年の割にしっかりされた方である。きっと俺の心配など無用なのでしょうな」
「あまりに過度な心配は、竹千代をあなどることにも繋がる。心配するなとは言わぬが、臣としては気を付けたほうが良いと思うぞ」
「その通りだ。気を付けることにしよう」
 忠真は笑ってそう答えたが、やはり落ち着きのなさは収まらなかった。
「信長様、船が見えてきました!」
 高台から物見の者の声が飛んできて、信長が目をこらすと、確かに小さな船影が、こちらに向かってくるのが見えた。
 たった今竹千代を心配しすぎてはならぬと反省を見せた忠真が、海の中に飛び込んでいきそうな勢いで岸壁のほうに走って行く。
「竹千代様~!!! こちらですぞ~~!!!」
 忠真は大きく手を振って見せたが、当然、まだ船からそれが見えるはずもない……ということを言いかけて信長はやめた。
 竹千代と忠真が再会するのは、実に二年ぶりとなるのだ。
 本来は離れて良いはずのない者たちが、理不尽に引き裂かれていたのだから、再会がどれほど嬉しいことかということは、信長にも容易に想像ができた。
 やがて船がさらに近づいて来るにつれ、信長の目にも、藤吉郎の横にいる竹千代の姿がはっきりと見て取れた。
 竹千代は、二年前に別れた時よりも、少し背丈も伸び、大人びたように信長には見えた。
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