身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

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第二章

身代わり濃姫(32)

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 光秀から話を聞いてすぐに、美夜みやは部屋にこもり、さっそく雪春への文を書くことにした。
 しかし、これがなかなかはかどらない。
「ううん……これだと何だか違う気が……でも、こう書くと伝わらない気もするし……」
 美夜は紙に筆を走らせながらも、苦戦している。
 実際に自分の気持ちを文に託そうとしても、難しくて何度も筆が止まってしまう。
 それは、美夜に兄の気持ちが想像できないということも理由にあげられるだろう。
 兄が自分よりもひとつ年下の娘とそういうことをして、子どもまで作ってしまったということ。
 たとえ、それが仕方のない状況下でのことだったとしても、女である美夜には、やはり理解しがたいところがある……。
 特に、美夜の中にある雪春は、絶対にそういうことはしないと何の根拠もなしに考えていたところがあった。
「ああ、駄目……こう書いてしまうと、何だか兄様を責めているような感じになってしまうし……でも、こう書くと、曖昧すぎて伝わらない気がするし……」
 何度目かのため息をついて筆を置いたとき、背後から突然抱きしめられて、美夜は驚いた。
「誰が何を責めるというのだ?」
 耳元に囁かれたのは、信長の声だ。
 振り返ると、信長が笑っている。
「信長様! 急にびっくりするじゃないですか。足音も立てずに傍に来るのは、ちょっと卑怯だと思いますよ」
「許せ。しかし、そなたが俺が部屋に入ってきたことにも気づかず、熱心に恋文など書いておるからだ」
 首筋に何度も接吻され、美夜は顔が熱くなってくるのを感じる。
「恋文ではありません。これは兄様への文です」
 美夜が文を開いてみせると、信長が背後からのぞき込んでくる。
「奇妙な文字を書くのだな、そなたは」
 雪春に読みやすいように、美夜は元の世界で使っていた文字を使って文を書いていた。
 このほうがどうせ手紙を検閲するであろう道三たちには判読しづらいだろうし、雪春にも美夜の想いが伝わりやすいだろうと考えたからだ。
「これはその……私のいた世界の文字で……たぶんこのほうが、兄様には伝わりやすいと思うから」
「ふむ……」
 信長は美夜に抱きついたまま、さらに文をのぞき込んでくる。
 そして、ため息をついた。
「さっぱり読めぬ」
「でしょうね」
 美夜は笑った。
 漢字などはかろうじて読めるものはあったとしても、今とは少し字体の違うものもあるだろうし、カタカナやアルファベット、数字などがそこに混じっていると、その文言の意味はさっぱり理解不能なはずだ。
 以前に美夜が道三あての書状を書いた時は、光秀が手本を書いてくれたものを、そのまま模写しただけだった。
 城の帳簿や書類などを見る機会が多いから、読むほうは何となくできるようになってきたものの、実際に美夜一人ですべてこちらの文字で文を書けと言われても無理な話なのだ。
「兄上から何か連絡があったのか?」
「はい、ちょっといろいろ……」
「そなたが光秀と密談をしているという情報を得たからな。おそらく、道三から何か連絡があったのであろうと推察してきたのだが」
 さすがに信長は鋭くて、美夜は少し驚いてしまう。
 どうやら信長は、美夜が先ほど光秀と話をしていたことも、すべてもう知っているようだ。
 光秀が美夜の秘密を知っているということは、すでに美夜自身の口から信長に伝えてある。
 信長も、光秀は道三の甥でもあるし、あり得るだろうとそのことはおおよそ予測していたようだった。
 しかし、特にその後の信長の光秀に対する態度に変わりはなかったし、信長は彼の仕事を非常に評価しているので、二人の関係に、今のところ大きな変化はない。
 ただ信長は、光秀の動向を監視させることは、怠ってはいないようだった。
「何があったのだ?」
 信長にさらに問われたので、美夜は思い切って言ってみる。
「あの、兄様のことで信長様に相談したいことがあるのですけど……良いですか?」
 どうせ文を書くにも行き詰まっていたし、それなら信長に相談してみたほうが、何か自分の中でも答えが出そうな気がした。
「あ、ああ、何でも言え」
 信長は慌てて美夜の身体から離れ、居住まいを正した。
 きちんと話を聞こうというその信長の姿勢が伝わってくるような気がして、美夜は少し嬉しかった。
 信長はいつもそうだ。
 美夜が真剣に向き合って欲しいときは、必ず真剣に向き合ってくれる。
 だからこそ、信頼できるし、また信頼してもらえる自分でありたいとも思えるのだ。
「実は……」
 美夜は先ほど光秀から聞いた話を、信長に伝えていく。
 兄が、彼の傍で働く侍女との間に子をもうけたこと。
 ただ、結婚するかしないかは兄次第だと、光秀から聞いたこと。
 一通り、兄の状況を伝え終えた美夜は、自分が何に悩んでいるのかを言葉を選びながら伝えた。
「正直に言って、私には自分よりひとつ下の女の子に兄が手を出したということが信じられませんでした。そして、子が生まれたという報告は来たのに、結婚するという報告は来ていないということも」
 信長にそう伝えながら、美夜はもっとももやもやとしていた部分がそこだったのだな自分自身も理解した。
「私は男性としての兄を、たぶんまったく知らないのだと思います。私は兄に理想の男性像を勝手に重ねて見ていたところがあって……本当は……兄様にだって私の知らない部分もたくさんあるんじゃないかと……そうは思うのですが」
 そうは思っても、やはり美夜には兄の気持ちをはかることができない。
「私の両親は私が生まれてすぐに亡くなったので、兄と血の繋がりはありません。でも、兄はとても私のことを愛してくれています。妹として、家族として。私も兄のことを愛しています。家族として。とても大切な存在です」
 その気持ちは、紛れもない事実だ。
 たとえ兄が自分より年下の少女に手を付けたのだとしても、雪春を兄として大切に思う気持ちが美夜の中で揺らぐことはない。
文観もんかんや道三が必要としたのは、帰蝶きちょうさんとうり二つの私だけで、兄は私の巻き添えでこの時代にばれてしまっただけなんです。だから、もしも元の世界へ戻る方法が分かれば、兄だけは帰してあげたいと思っています。でも、この世界に子どもができて……兄はどうするのだろうと思いました。私には兄の気持ちがまったく想像がつかないんです。子どもをおいてでも、元の世界へ戻りたいのか、それとも、元の世界へ戻ることを諦めて、子どもと一緒に暮らす道を選ぼうと考えるのか……」
 美夜の知る雪春なら、何を置いても子どもとその侍女を大切にしそうな気がするが、しかし、今の雪春が、美夜の知る雪春かどうか自信がなくなりつつあった。
「兄が今、何を考えてどうしたいのか、私にはまったく分からないんです。文も……何をどう伝えれば良いのか……赤ちゃんのことは父親としてちゃんとして欲しいという気持ちもあるけど、それすらも私の勝手な思いなんじゃないかとか……そもそも兄様は私に巻き込まれただけなのに……とか……」
 信長はほとんど口を挟まなかった。
 美夜が言葉に詰まっても、じっと黙って、美夜の話を聞き続けてくれた。
「すみません、話がまとまらなくて。えっと、だから……私が知りたいのは、男の人はこういう時、どう思うのだろう……どう考えるのだろうということなんです。兄のことはよく知っているつもりですが、私は男性としての兄をほとんど知りません。だから、私は男性としての兄も知ったうえで、文を書かなくちゃいけない気がして……」
 美夜がそこまで言うと、信長はようやく口を開いた。
「なるほど。女子おなごというのは、そのように考えるのだな」
「や、やっぱり……女子と男の人とでは、考え方がずいぶん違いますか?」
「違うと言うよりは、そなたが男ではないのだから、仕方がないところがあるのだろう。しかし、思いやることはできるはずだ。俺も女子の気持ちなどさっぱり分からぬ事だらけだが、思いやるようにだけはしておる」
「思いやる……」
 美夜がつぶやくと、信長は頷いた。
「俺のような若造が、そなたの兄上の気持ちを軽々しく代弁してはならぬと思うのだが……ただ、俺が思うに、ほとんどの男は基本的に女子より弱い」
「え? そ、そうなんですか?」
 美夜は思わぬ事を聞いたような気持ちになって、驚いてしまう。
 美夜の知っているこの世界の男たちは皆、とても強いように見える。
 戦にも果敢に出て行くし、武器も扱えるし、力だって女よりはずっと強い。
 そんな美夜の気持ちをくみ取るように、信長は笑う。
「男が強いのは、外側だけだ。中身は女子のほうが強い。圧倒的に強いと俺は思う。そして、人が生きていくために必要なのは、中身の強さだ」
「中身の強さ……」
「ただ、男は傍にいる誰かに愛されていると実感するとき、そして傍にいる誰かを愛していると実感するときに限って、女子よりも強くなれる。そなたの兄上にも、そのような相手がおれば良いのだがな」
(傍にいる……誰か……)
「あの、兄様の子を身ごもった侍女は……そういう存在じゃないのでしょうか?」
 信長は美夜の質問に苦笑する。
「俺はそなたの兄上に会うたこともなければ、侍女に会うたこともない。だから、その質問には答えられぬ」
「そ、そうですね。ごめんなさい……」
「ただ……鷺山さぎやま城に長期間軟禁され、家族からも引き離され……その上に、自分の知る世界とはまったく違う世界での生活を強いられているという兄上の状況から考えると、肉の欲に逃げ道を求めたという可能性も、俺は否定はせぬ。美夜は否定したいであろうがな」
 要するに信長は、そのあまりに過酷な状況から、そうした愛がなくても、雪春が侍女を抱いた可能性はある、と言っているのだろう。
「いえ……実はそうかなと思う気持ちも、少しだけありました。信じたくはないという気持ちも強かったですが」
 美夜は正直に自分の想いを伝えた。
「ただ、兄上の現在の状況は相当に過酷なものだ。その侍女が兄上を心から愛し、そして兄上もまた彼女を愛されておられるのであればまだ救いもあろうが、もしもそうではない場合、相当に苦しい状態であろうということは容易に想像がつく……それは理解してさしあげるが良い」
「はい……」
 信長の言葉は、美夜にとっては重かったが、たぶん信長は真実を率直に伝えてくれたのだと思う。
 綺麗な言葉で美夜が安心するようなことを言ってくれても、それは今の美夜が望んでいることではないと信長は分かっているのだ。
 だから、最悪の想定を、言葉にして伝えてくれたのだろう。
「兄上の傍におる侍女が兄上にとってどのような存在なのかは分からぬが、兄上にはそなたがいる。そなたが兄上を大切に想う気持ちが本物なら、必ずそなたの気持ちは伝わるはずだ。文に自分の想いを書いて伝えてさしあげるが良い。きっと、兄上にとっては、それが一番心を丈夫にする薬にもなろう」
「はい、ありがとうございます」
 美夜はまだ気持ちの整理がついたわけではなかったが、これまで考えもしなかった生身の兄の苦悩を、少しだけ理解できたような気がした。
(信長様の言うとおり……私が兄様を大切に思っていることを伝えよう。そして、私が信長様のことを愛し、そして、信長様にも愛されているということ……この世界で生きていくと決めたということも……)
 包み隠さず、何もかもを伝えようと美夜は決めた。
「ではもう邪魔はせぬ。各務野かがみのもおそらく、落ち着かぬ気持ちであろうからな」
 信長は立ちあがって笑う。
 各務野はまだ、信長が美夜の秘密を知っていることを知らない。
 だから、美夜が部屋で雪春への文を書いていることを知っている各務野は、確かに今頃ひやひやしているだろうなと思う。
「ゆっくり文の続きを書くが良い。夜まで俺は仕事の続きをしている」
 どうやら、光秀との密談が気になった信長は、仕事を中断して美夜のもとへ来てくれたようだった。
「あの、信長様……」
「何だ?」
「私……信長様と結婚して、本当に良かったなって改めて思いました」
 美夜がそう言って笑うと、信長はちょっとむっとしたような顔をする。
「そなたという女子は……」
 信長はそのまま強引に抱き寄せると、唇を重ねてきた。
「んんんっ!?」
 なぜじぶんが叱られるのか、こんな乱暴な接吻をされているのか、美夜には理解不能だった。
 信長は接吻を解いてため息をつく。
「せっかく俺が気を利かせて部屋を出て行こうとしたのに、引き留めるつもりか? まあ、そなたがそうしたいというのであれば、俺はまったくもって構わぬが」
「え? べ、別に……そ、そんなつもりでは……」
 信長がさらに迫ってくるので、美夜は思わず後退あとずさりしてしまう。
「そなたはいつもそうだ。無意識を装って、俺を翻弄する」
「してませんって! それは信長様の被害妄想じゃないんですか?」
「被害妄想などではない。俺は結婚してからこの方、そなたに翻弄されっぱなしだ」
「そうでしょうか……」
「そうだ。まあ、俺も翻弄されて楽しんでいるところはあるのだがな」
 信長はそう言って笑うと、もう一度美夜に接吻してから立ちあがった。
「先ほどの言葉、夜にもう一度聞かせてくれ」
 信長はそう言い残して、部屋を出て行った。
(もしかして信長様、嬉しかった……のかな……?)
 何となく美夜はそう思った。
 美夜は思ったことをそのまま言っただけだが、それで喜んでくれたのなら、美夜も嬉しい。
「帰蝶様、大丈夫でしたか?」
 信長が予想したとおり、信長と入れ違いに、各務野が心配顔で部屋に入ってきた。
「大丈夫。文はちゃんと隠しておいたし。信長様も気づかなかったみたい」
 美夜がそう言うと、各務野はほっとしたように微笑んだ。
「それはようございました。信長様は神出鬼没でいらっしゃいますから、時々肝を冷やしてしまいます」
「そうよね。本当に神出鬼没だもの」
「よろしければ、お茶を入れて参りましょうか」
「うん、お願いしようかな。各務野も良かったら一緒に飲まない?」
「帰蝶様がそう仰ってくださるのでしたら、ぜひご相伴にあずからせていただきます」
 いそいそと部屋を出て行く各務野を見送って、美夜はいつの間にか心の中がすっきりとしていることに気づいた。
 きっと信長に相談したから、もやもやしていたものがすべて晴れたのかなと思う。
(夜にまた、ちゃんと言わなくちゃ……)
 美夜がそんなことを考えていると、各務野がお茶とお菓子を持って部屋に戻ってきた。
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