身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

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第二章

身代わり濃姫(38)

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 雪春はまた、美夜みやから届いた文を眺めている。
「…………」
 明智光秀を通じて美夜から受け取ったその文を、雪春は何度も破り捨てようとした。
 けれども、できなかった。
 文には、雪春の身を心から案じる言葉のほかに、信長の元に嫁いでからの自分のことが、事細かに書いてあった。
 それを読めば、美夜がさまざまな紆余曲折うよきょくせつを得ながらも、彼女なりにこの半年間、成長してきたことがとても伝わってきた。
 そして今は自分が信長からとても愛され、そして美夜自身も信長を愛しているということ。
 さらには、もしも元の世界に戻る方法が見つかったとしても、自分は戻らずに、この世界で信長の妻として生きていくという決意が書かれてあった。
 その文章はとても美夜らしく、美夜以外の者が無理やり書かせたものとはとうてい思えない。
 兄の雪春だからこそ分かる。
 つまり、これは、紛れもなく美夜の本当の気持ちであり、それ以外の何者でもないということだった。
 これが偽物であれば良いのに……と雪春は思ったりもしたが、読み返せば読み返すほどに、この文は美夜の今の真実の気持ちだと思い知らされた。
「美夜……」
 最初にこの文を読んだときは、がつんと頭を殴られたような感じがした。
 まるで突き放されたような……自分だけが置いて行かれたような、そんな気持ちになった。
 ずっと自分の人生は美夜のためだけにあると思ってきたし、美夜もそう思ってくれていると考えていた。
 食事も喉を通らず、一時はもう命を絶ってしまおうかとさえ考えたが。
 自分と同じようにこの世界にとらわれ、自由のきかない中で必死にこの世界に馴染もうとして、そして居場所を見つけた妹のことを考えると、そんな情けないことはできないと思うようにもなってきた。
 そして、徐々に雪春は現実を受け入れていった。
 生涯の伴侶は彼女しかいないと考えていた。
 そのために、さまざまな手を打ってきたつもりだったし、雪春のこれまでの人生は、この世界に来る前も、そして来てからも、そのためにあったといっても過言ではない。
 でももう美夜は手の届かないところにいる……雪春はそれを認めざるを得なかった。
(俺は……これからどうするか……)
 美夜がもう雪春の手を離れて自分の人生を歩み始めたとはいえ、雪春にとってやはり美夜は大切な存在であり、大切な家族であることに違いはない。
 これまでは美夜の身の安全を第一に考え、この城に囚われの身として甘んじていたが、今の美夜の現状を知る限り、たとえ雪春がこの城を出たところで、美夜に危害が及ぶ心配はなさそうだった。
(信長が必ず美夜を守るはずだ。そうだろう、信長……だが、もしも美夜を守り切れなかったなら、俺はお前を許さない……)
 もう美夜が自分の手の届かないところにいる以上、彼女のことはその伴侶である信長に任せるしかない。
 そして、雪春にできることは、美夜のためにこれ以上の足かせにならないことだった。
(俺は……これ以上、美夜の足を引っ張るような兄でいてはいけない……)
 このままここにいては、いつか信長の妻である美夜の足を引っ張ることになりかねないと雪春は危惧を覚えた。
 斎藤家と織田家の同盟関係がいつまでも続くとは限らず、もしも破綻した場合、雪春は、今度は美夜を危険に晒す存在ともなりかねない。
(それに、美夜と再会したときに、信長よりも劣る男だとは思われたくない……)
 美夜は雪春の想像を遙かに超えて成長している。
 それが文の端々から存分に伝わってきた。
 雪春自身も成長しなければ、美夜と再会したときにその差は歴然としたものになってしまうだろう。
 こんな場所で囚われの身になったまま、身の上を嘆いて信長を呪っているだけでは駄目だ……それが雪春の出した結論だった。
 美夜は雪春と律との間に子ができたこともすでに知っているようだった。
 雪春は道三が美夜に律の腹の子のことを報告していたことを知らなかった。
(道三め……俺を利用するだけ利用しようとしているのだな……)
 雪春はそう思い、さらに危機感を覚えたのだった。
 このままここにいては、状況次第で自分は道三の思惑に利用されてしまう。
(この城を出るしかない……)
 結局、それがこの数日間で雪春が下した結論だった。
 律の腹の中の子のことは気にはなるが、きっと道三が養ってくれるだろうと思ったし、そのように手紙も書いていこうと考えている。
 どこへ……というあてはないが、ともかく早急に行動を起こすつもりだった。
 こうしている今も、もしかすると、何らかの負担を美夜にかけているかもしれない。
(京へ行ってみるのもいいかもな……)
 美濃の山は雪が降り始めてはいるが、今ならまだ街道沿いに進めば、旅をすることも何とかできるはずだ。
 雪春はこの半年間、この世界のことを必死に学んできた。
 剣の技術も身につけたし、城の敷地内限定ではあるが、それなりに乗馬の技術も身につけた。
 手先の器用さには自信があるから、何か細工ものでも作りながら旅費を工面することもできるだろうし、力仕事や農作業を手伝いながら、宿を求めてもいい。場合によっては、師範の免状もある合気道を教えながら生活の糧にすることもできるだろう。
 最低限、この世界で生活するための準備は、もうすでに整っているのだ。
 その気になれば、何でもできるはずだと雪春は考えていた。
 こんな城に閉じ込められ、妹の負担になるだけの生活を続けるよりは、多少困難であっても、道三の手から逃れ、いずれ美夜と再会できる道を探りたい。
(それに、このままここにいては、俺は駄目になる……)
 何もかも守られたこの場所を出れば、のたれ死ぬ可能性もあるかもしれない。けれども、このままここにいれば、心が殺される。
 決行の日は決まっていた。
 道三の息子である斉藤義龍さいとうよしたつに子が生まれ、その祝いの宴が三日後に行われる。
 その際に、道三たち家臣の多くは義龍のいる稲葉山いなばやま城へ行くことになっている。
 この鷺山さぎやま城が手薄になるのは、その時しかない。
 それを逃せば、もう平地にも雪が降り積もり、移動は限りなく困難になるだろう。
 そうなれば春を待たねばならず、春になれば情勢がどう変化しているかも分からない。
 チャンスは今しかなかった。
「あの、雪春様、お茶をお持ちしました」
 気がつくと、律が部屋に入ってきていた。
「ああ、ありがとう。でも、お茶ぐらい自分で入れるから、無理しなくていいよ」
「いえ。あの……適度に動くほうがお腹の子には良いみたいなので……」
 昨日、一昨日と、律は悪阻つわりが酷くて寝込んでいた。
 今はそういう時期なのだなと思い、そんな時期に自分がいなくなれば、律の腹の子にも負担がかかるかもしれないという危惧はあった。
 でも、雪春には今しか決断できる時間がないこともまた事実だった。
「無理はしないで、身体を大切に労って欲しい」
「はい、ありがとうございます」
 律は頬を赤らめ、嬉しそうに微笑む。
 律の腹はまだそれほど大きくはなっていない。
 けれども、日ごとに柔らかくなっていく彼女の雰囲気は、もう母親の持つそれに近づいていることを雪春は感じていた。
(この腹の中に俺の子がいる……か……)
 それは雪春にとって、不思議な感覚だった。
 最初に告げられた時はまったく実感がわかなかったし、それよりも、自分に繁殖能力があり、それがひいては美夜が子を産む可能性があるということにも繋がってしまうことに衝撃を受けていた。
 しかし、さまざまな気持ちが落ち着いてくると、雪春の中にも人並みの罪悪感が生まれ始めた。
 自分の子を身ごもっている律を置いて城を出て行くということに対して――。
 けれども、律に対して酷い裏切りをすることになっても、自分のため、そして美夜のためにも、ここを離れなければならないという気持ちを変えることはできなかった。
(いよいよ城を出るという時になって、ようやく律に対して罪悪感を感じるようになるとはな……)
 甘えるように身体を寄せてくる律を抱きしめながら、雪春は苦笑する。
 これまでさんざん彼女を利用してきてしまった。
 その身体に慰めを求め、弟を京へやり……そして、子まではらませてしまった。
(次は良い男を見つけてくれ……)
 腕の中の律に、雪春は心からそう願った。

 そして三日後、律への置き手紙を残し、雪春は深夜に城を抜け出した。
 城を抜け出すルートはあらかじめ見つけ出していた。
 暗くなる前に、雪春にも乗りこなせるおとなしい馬を厩舎から拝借して外に繋いでおいたのだが、今日は城全体が慌ただしい雰囲気だったこともあり、まったく気づかれていなかった。
(雪も降っていないな……)
 雪が降っていれば雪春の乗馬技術で大丈夫だろうかという不安はあったが、幸いにも今日の日中は暖かかったこともあり、道には雪はない。
(よし、行こう……)
 馬に乗った経験は城の敷地内のみだが、もともと運動能力に優れている雪春だから、さほど早く走らせるような状況にならなければ、何とか乗りこなせるはずだ。
 馬に鞍を付け、荷物を載せていると、雪春は人の気配を感じた。
 雪春は腰に差した刀に手をかける。
 いざという時は人を斬ってでも城を出るつもりだった。
 しかし、そこに立っていたのは、城の見回りをする兵ではなかった。
「雪春様……置いていかないでください……」
「律……」
 それは旅装を整えた律だった。
「どこかへ行くのなら、私も連れて行ってください」
「しかし、君は今腹の中に子が……」
「大丈夫です。この子もきっと、てて様と一緒にいたいはずです」
「…………」
「雪春様……置いていかないで……」
 律が駆け寄ってきて、雪春の身体にしがみつくようにして泣きじゃくった。
「私は……雪春様がいないと生きていけません……」
「律……」
「だからどうか……私を連れて行ってください。私……何でもします……だから……」
 妹に面影を重ねたこともある娘だった。
 けれども、今はその妹の面影を離れて、律の小柄で頼りない身体が、今まで感じたことのないほどに愛おしく感じられた。
 それは愛とか恋とか、そういうものではないけれども。
 雪春は律の身体を抱きしめる。
 この世界に雪春が残る意味があるとしたら、この娘と腹の中の子のためということなのかもしれない……ふと雪春はそう思った。
 それは愛というものではなく、義務に近いものなのだとしても、それでも雪春がこの世界で生きる意味ではある……。
「見つかれば殺される。それでも良いのか?」
「はい……覚悟はできています」
「俺には君と君の子を幸せにできる自信はない……」
「雪春様のお側にいられることが、私の幸せなんです……」
 雪春は涙に濡れた律の顔を両手で包み込み、そのまま軽く接吻をする。
「行こう。あてはないが、西へ向かうつもりだ」
 雪春がそう告げると、ようやく律は笑みを浮かべた。
「はい。どこへでもついていきます」

 兄がいなくなったという話を、美夜が信長から知らされることになったのは、実際に雪春が旅立ってから十日を過ぎてからのことだった。
「ええ? 兄様が?」
「まだ確認中ではあるが、どうやら間違いないようだから、そなたには先に伝えておく。光秀からは何も聞いてはおらぬか?」
 信長に問われて、美夜は頷いた。
「はい、何も……」
「まあ、道三からしらせがあったとしても、そなたには伝えるなと言われておるのだろうな」
「でも兄様……いったいどこに……」
「侍女もともにいなくなっておるということであるから、兄上はお一人ではない。少なくとも、それだけは安心できることではあるが」
 しかし、その侍女は今、腹の中に雪春の子を宿しており、旅をするのは危険なのではないだろうかと美夜は不安にもなる。
 だが、そんな時期にあえて城を出る決意をしたのは、きっと兄なりに今でないと駄目だと判断したからなのだろうとも感じた。
「それからこれは、そなた宛ての文であろう」
 信長は一通の文を差し出してきた。
 宛名は『桂木美夜様』となっている。
「城へ届く俺宛の文の中に紛れておったらしい。藤ノ助が見つけた」
 文を受け取って、美夜は開いてみる。
 兄の字で美夜へ……と書かれてあり、その後に『心配しなくても俺は大丈夫だ。俺もいつでもどこでも美夜の幸せを祈っている。いずれまた会おう』とだけ書かれてあった。
「兄様……」
 信長宛てに『桂木美夜』という美夜の本名を書いて文を送れば、ひょっとして美夜に届くかもしれない……兄はそんな僅かな希望を託して、文を送ってくれたのだろうか。
 兄は、信長がもう美夜の正体を知っているということにも、気づいているのかもしれない。
「道三も兄上の行方を追っているだろうが、俺も独自にそなたの兄上を探す。必ず、そなたと兄上を会わせてやる。だからもうしばらく待っていてくれ」
「信長様……」
 鷺山城でおとなしく捕まっていれば、兄の命が脅かされる心配はなかった。
 けれども、道三の元から逃げ出してしまった以上、雪春は道三に捕まれば、そのまま殺されてしまう可能性もある。
(兄様……どうかご無事で……)
 信長は鷺山城に軟禁された雪春の置かれた状況は、かなり悲惨なものだろうと言っていた。
 いつの間にか、兄の忍耐は限界を超えてしまっていたのだろうか……。
 考えれば考えるほどに、美夜は不安になってしまう。
 今すぐにでも清洲きよすを出て、兄の行方を探したい……でも、信長の妻という立場を選んだ美夜には、城を出るという自由すらないのだった。
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