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第三章 咆哮の日々
13. 夜空の子守歌
しおりを挟む「シモン……っていうの」
幼子を眠らせ、痩せ細った女は力なく微笑んだ。
「父親はもういない。……何年か前に首を落とされた。……身寄りもないし、弔ってもらえるかすら分からないけど、この子だけは……」
何も知らずに眠るその姿が、巣から落ちたかつてのツバメを思い起こさせた。
空を悠々と飛んで去っていった、あの姿を忘れたことはない。根無し草である自分が救えた命を、ミゲルが忘れた日はない。
「……ティグが心配してやがるぜ。最近あのかわい子ちゃん店にいねぇ……とか何とか。惚れてんじゃねぇの、お前に」
「あら、そう。……1度くらい……お茶でもしてみたかった」
コホコホと咳き込み、女はベッドに身を横たえた。
日は、もう既に傾いている。
「……んじゃ、俺は行くぜ。相棒からのお使いで来ただけだしよ」
「……ティーグレは、こんな汚れた女でも好きなの?」
「あいつに汚れだのなんだの、そんな発想があるわきゃねぇだろ。また元気な顔見せてやんな」
「そう……。元気なかわい子ちゃんって、ちゃんと覚えていてもらえたら……いいな……」
声を殺した嗚咽が、去りゆく背中を押す。
その数日後、女は静かに息絶えた。
「……ティグ、どうした?」
酒場の労働者達が幼子を珍しがるなか、ティーグレはじっと、見知った顔のいない店内を見渡していた。
「あの子、どこ行った」
何をどうやって察したのか、ミゲルには理解できない。
理解できないからこそ相棒に選んだのだから、それも当然だ。
「死んだよ」
さらりと放たれた言葉。
「ふーん」
そして、淡白な答え。
「なんで?」
「……死因っつう意味なら、病気だよ」
「なんであの子が?」
「理由の方か……んなモン俺が知るかよ」
「相棒にも知らねぇことってあんだな」
「おいおい、俺を買い被りすぎだぜ」
寂しくなったな、と、ティーグレが発した。
二人の間にも、長い沈黙が訪れる。
「……あの子供、もしかして孤児?引き取り手は?」
裏口から入ってきたジョゼフの声が、気まずい空間に波紋を作った。
「いねぇから連れてきたんだろ」
「そう……。あんなに小さいのに可哀想だね」
「ま、仕方ねぇわな」
哀れみにすら気づかず笑う赤子と、揺らぐ灯火。
きぃと、酒場の戸板を軋ませる風が、来客の訪れを告げた。
「……なんだあいつ、妙な動きしてやがるな」
ミゲルの瞳に映ったのは、白髪だらけの長髪を縛った紳士だった。ステッキを傷だらけの指で握り、かつんかつんと壁に当てながら歩いている。
「おおセルジュさん! 生きてたのか!」
「勝手に殺さないでください。私はまだまだ生きますよ」
セルジュと呼ばれた男は、焦点の合わない瞳をミゲルに向けた。
思わず身構えたものの、はたと気づく。彼の視線は、自分を映した訳では無い。
「……ああ、なんだ。見えてねぇだけか」
おぼつかない足取りで、それでも男は難なく椅子に腰掛けた。
「いやぁ、眼病になったって聞いた時は焦りましたぜ。なんたってそこのテーブルでこの世のお終いだって顔してたんですから……」
「以前の生業はできなくなりましたがね。……ですが、私は生粋の作り手だったようです」
店主と語り合いながら、セルジュはふと、動きを止めた。
「赤子が、泣いていますか?」
「んん?」
はっ、と、ミゲルとジョゼフも幼子……シモンがいる方面を向いた。泣いてはいない。……ただ、腹が減ったのか、小さくぐずり出している。
「メシ、さっき食ってたぜ?」
ティーグレも首を捻る。
かたん、と音を立てて、セルジュは席を立った。
「坊や、大丈夫です。私の歌をお聞きなさい」
穏やかに語りかけた唇が、メロディを紡ぎ始める。
感情の読めない声が、やがて、みなしごの揺りかごに変わってゆく。
旋律に心を撫でられたのか、男達の喧騒もまばらになっていった。
「……父や母は、どうされましたか」
眠った幼子を慣れたように抱き、セルジュは歌を終える。
「……こいつにゃどっちもいねぇよ。天涯孤独だ」
「それは困りましたね。弟子入りするにしても、このままでは到底生きていけますまい」
私は厳しいですから、と、光を失った瞳に虚空が宿る。
「そりゃあ、でも……」
そいつが乗り越えるしか……、と、そんな言葉を遮って、
ジョゼフがティーグレを指し示した。
「彼が父親です。ティーグレ・アレッサンドロ。……だけど、この通り甲斐性がないので困り果てているんです。あなたが弟子にお困りなら、一度親元を離れるのもいいかもしれません」
へっ? と、ポカンとするティーグレを差し置いて、ミゲルもそれに乗る。
「そうそう。しごいて立派な音楽家に育ててやりゃあいい。親父はこう見えてめちゃくちゃ強いぜ?ローマの剣闘士並みに」
「えっ、そのガキが!? マジで!?」
「馬鹿野郎、ここはそういうことにしとけ」
「よくわかんねぇけどそういうことらしい!」
ティーグレの耳元で、ジョゼフが「小さいから心の支えが必要なんだよ」と補足する。
説明を聞き、なるほど! と頷いてはいるが、ティーグレがどれほど理解できているかどうかは定かではない。
「……では、私が引き取りましょう」
暗がりに沈んだ瞳が、何かを見据えた。
「えっ、いいんですかい? その眼じゃ自分が暮らすのも大変でしょうに……」
「つてならばあります。……皮肉な話ですが、作曲とやらは彫刻よりも向いていたらしい」
その言葉に店主はほっと胸を撫で下ろし、持ち場に戻っていく。
ほつれた衣服のポケットを探り、セルジュは「なにか」に祈るよう触れる。
「久しぶりに訪れてよかった。幼子を路頭に迷わせずに済んだのですから」
相変わらず、感情の読めない声音で語る。
良かった良かったと笑い合う労働者たちが、ミゲルには呑気にさえ見えた。
「……あんた、見ず知らずのガキを拾うって本気で言ってんのか?」
試すように、金の瞳が隙を探る。
「洒落や酔狂で言えるもんじゃねぇ」
「ええ。洒落や酔狂ではありません。息子を去年、病で亡くしましたので」
二の句は告げなかった。手汗を隠すように、ミゲルは拳を握る。
「私は父になどなれません。あくまで、弟子をとると決めただけです。……満足はさせてやれませんが、これで彼を育てるものは増えました」
光すら曖昧な眼が、確かにミゲルの瞳を射抜いた気がした。
「若者よ。アナタもまた、飛ぶ前の鳥に過ぎぬのです」
「……あ?」
「アナタはまだ、空の青さすら知りません」
「知ってるよ、んなモン。むしろ見飽きてら」
つい、零れたのは反論にすらならない減らず口。ゆるりと、セルジュの唇が弧を描く。
乾燥してひび割れたそれが、ミゲルには赤く、色鮮やかにすら思えた。
「いずれ、アナタに似合う楽器を見繕っておきます」
男の名はセルジュ・グリューベル。
流浪の音楽家として後世にも名を残したが、その半生は挫折と苦難に彩られていた。
「この子の名は?」
「シモンだよ。有り触れてんだろ?」
「良い名ですね。負けないような芸名を考えておかなければ」
旅芸人のシモン。シエルという名で『咲いた花、そして空の鳥へ捧ぐ物語』の執筆に携わり、その後は各地を転々としながら民話、民謡の編纂に助力したという。
「それでは、祝杯を。どうせ泊まっていきますから」
「……あの、また先生の曲を聞いても構いませんか?」
「おや、喜んでくださって何よりです。その声……もしや、演劇経験でも?」
「……え、ええ。少しは……」
「おいティグ! 起きろ! 実の父親設定なのになーに爆睡してやがんだ!」
新たな門出を祝福するかのように、夜の帳がシモンを包み込む。
明日をも知れない不安定な時勢すら忘れて、その日、男達は久方ぶりに穏やかな夢を見た。
***
「ルイ=フランソワ様、ラルフです。夜分に申し訳ありませんが、先程、兄君がお亡くなりになられたとのご一報が」
夜更けに響いた声に、青年は静かに起き上がった。
「……ふぅん。じゃあ、次の貧乏くじは僕?」
「貧乏くじなどではありません。この伯爵領では、今や貴方だけが領主の資格を持つのですから。……それでは、また明日」
去っていく足音。刻一刻と近づく死。
長い金髪が、ハラハラと枕に散った。
「あーあ、やだな。順番回ってきちゃった」
幼子のような声色は、夜の闇に消えていった。
瞼を閉じる。途切れた懐かしい夢の続きを祈って、彼は固く目を瞑った。
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