【完結済】『咲いた花、そして空の鳥へ捧ぐ物語』

譚月遊生季

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第四章 流転の日々

19. 壁

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「……なぁ、ルカ。ホントに当たるのか、それ」
「ああ。この預言者様を信じて、ドーンと構えときゃいい」

 ルカ、と今朝に設定した偽名を呼ばれ、ミゲルはにやりと口角を持ち上げた。相手の名前はよく知らないが、何度か言葉を交わしたことのある顔見知りだ。
 ミゲルの本名を知っている者など、彼の周りには一人もいない。……ミゲル本人を除いては。
 綺麗さっぱり忘れてしまいたくとも、染み付いた過去はいつまでも消えはしない。卓越した記憶力は、どれほど望んだところで忘れさせてはくれないのだ。

「だ、だけどさ……信じられねぇよ」
「まあまあ、だったら騙されたつもりでいりゃあいい。……雨は降るぜ、間違いなくな」

 天候は人の手には左右できない。だからこそ、古来より雨乞いが聖人の逸話に組み込まれてきたのだろう。……されど、ミゲルは肌で感じとっていた。
 移り変わる空の気配を、湿った空気の匂いを、……そして、いずれ訪れる結果を。

 ぽたり、ぽたりと雨粒が土を濡らし、「預言」通りに雨粒の音が鼓膜を揺さぶる。
 おお! と傍らの感嘆に気を良くしつつ、ミゲルはくるりと踵を返す。

「んじゃ、約束通り賭け金をせびりに行くとすっか。……フランクの野郎、どんな顔すっかねぇ」

 空模様に唖然とする男どもの姿を想像し、ほくそ笑む。……今日は彼もティーグレも、いつもよりよい食事にありつけるかもしれない。



 ***



 時の流れに区切りがあるのなら、
 その日をこそ、節目と呼ぶのだろう。



 ***



 ミゲルが酒場に足を踏み入れた瞬間、血の匂いが鼻についた。
 ティーグレに殴り倒されたフランクが、頭から血を流して呻いている。
 騒動を遠目に見守りながら、ジョゼフは壁際で「おかえり」と穏やかに告げた。

「なんでまだ分からねぇんだよ馬鹿野郎どもが!!!!
このままじゃ俺らは使い潰されて死ぬだけだってぇのによ!!!」

 フランクの怒号が、場を震わせる。
 壁際の一団は気まずそうに、静かに笑むジョゼフの周りに集う。……それが無意識か否か、ミゲルにもわからなかった。

「……相棒。ケンカって、どうやったら止まる?」

 ティーグレは困り果てたように、揺らぐ視線をミゲルに向けた。

「死んじまったらダメなんだろ……?」

 仲裁のために付着した赤を拭き取ることも、新たに拳を振り下ろすこともできず、ティーグレはミゲルに助けを求めた。
 ミゲルは暫しためらった後、静かに一言、

「……フランク、お前さんのやりようは下手くそだ」

 と。
 波紋に石が投げ込まれ、新たな波が生まれる。

「暴力で変えるとなりゃあ、それなりにリスクがいる。……そんならよ、もっと夢物語を膨らませなきゃ誰もついて行かねぇぜ」

 いつもの癖だった。
 いつも通りに、嘘とはったりに塗れた減らず口が、考えるより前に口をついて溢れ出す。

「だからよ、フランク」

 暴力なんてやめちまえ。のほほんと暮らすにゃ、まだどうにかなんだろ。
 ……そう、告げることはできなかった。

「もっといいやり口を考えな。……そうさな、コイツらがもちっとやる気になるようなのがいい」

 行き場のない怒りを鎮める力など、ミゲルは持たなかった。
 分かっていたのだ。
 そういった激情の類は、己にはどうにもできないのだと。
 ……それに向き合う覚悟を、持たずに生きてきたのだと。

「……どんなのだよ。その「やり口」ってのは……!」
「決まってんだろ?アホンダラな貴族をぶっ殺したらどんだけいい未来が手に入るかってぇのを語りゃいいんだよ。……ああ、もちろん俺の頭ん中にゃ詰まってんぜ」

 ジョゼフが息を飲んだことに気付かず、セルジュが店に訪れたことも分からず、ミゲルは続ける。

「ゴリ押しで壊そうとしてもどうにもならねぇ壁があるってこった」

 その壁が果たして壊して良いものだったのか、
 ミゲルには、……いや、ミゲルにも、ついぞ分からなかっただろう。

「……おや、シモンの成長を見せに来たのですが……揉め事ですか?」

 セルジュの声音が、湯だったような空気を壊す。
 ミゲルがハッと振り返ると、幼い少年がふたり、丸い瞳で室内を見渡していた。

「……話をしてもよろしいようですね。実は、シモンが少し前に6歳になりまして。そして、こちらが弟弟子の……ソレイユ、と呼んでいます。娼館の方が、名前はないとおっしゃっていたので……」

 先程までの喧騒を知ってか知らずか、盲目の音楽家は弟子達をどこか弾んだ声音で紹介する。
 シモンよりは幼く見える少年……ソレイユはニコニコと笑いながら、歌詞にもならないでたらめな歌を紡ぐ。シモンのほうはキョロキョロと店内を見渡し、どこか不安そうにセルジュの陰に隠れた。

「……? シモンの隣の子、女の子か……?」
「……そう見えますか?」

 ミゲルの問いに対して「わざわざ男装させていますので、ご内密にお願いしますよ」と、すれ違いざまに耳打ちし、セルジュは手近な席に腰を下ろす。
 フランクは無言で酒場を後にし、ほかの男たちもぞろぞろと思い思いに散っていく。

「ルカがそう言うってことは……」
「今日の名前ルカなのか。……もしかして、本当に変えられるかも、なのか……? だって、今日の雨も……」

 交わされるぼやきの中、翠の瞳が赤毛の賢人を捉える。
 ……築かれた心の壁には、未だ誰も気づかない。
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