八月の魔女

いちい汐

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1巻

1-2

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 尋ねながらポケットの中のスマートフォンを探ったが、ない。しまった。スマホはバッグの中だ。ジリ、と後退すると、脇をすり抜けたタフィーが男に飛びかかっていった。よし! 行け! 忠犬タフィー!

「オン!」
「よーしよし、タフィー。もうすぐ飯にするからな」

 んん?
 タフィーは賢い犬だ。祖母の騎士役としても忠実で、知らない人間に愛嬌を振りまくようなことは決してない。
 ……じゃあこの人、誰?
 首をかしげる結に向かって、タフィーが「ハフン、ワフワフ」と言っているが、あいにく犬語はわからない。

「ああ、おまえ、先生の孫か」

 先生? 結はぱちくり、とまばたきをした。

「先生は裏の林だ。木イチゴを取りに行ってる」

 セツの家の周辺は果物の宝庫だ。日本では自生するベリーなど見ることは少ないが、なぜかこの家の周りにはブラックベリーやラズベリーを始め、季節ごとの果物が取ってくださいとばかりに実をつける。魔女の力に引き寄せられて起こる現象のひとつだ。

「あのぉ……」

 ところであなたはどちらさま?

「結かい? ああ、やっと来たね」
「おばあちゃん!」
「ストップ」

 駆け寄ろうとした結の足がたたらを踏んだ。

「やれやれ。今年は特に豊作だね」

 背中に担いでいる背負い籠を、男が下ろすのを手伝う。中身をちらっと見ただけで、すごい量のベリーがある。腰をトントンと叩きながら背筋を伸ばしたセツは、目を細めて結を見た。いや。正しくは結の背後を、だ。

「また詩乃しのを連れてきたね。ああ、ほれ。もう行った行った」

 セツがしっしとてのひらをそよがせると、風もないのに結の髪がふわりと揺れた。
 詩乃というのは五歳くらいの地縛霊だ。出会ったのは結がまだ幼稚園の頃。さっき下りたバス停から四キロほど先にある深山村みやまむらの女の子で、明治時代に病気で亡くなっている。川で遊んでいた同い年くらいの結を見つけ、嬉しくなって祖母の元までついてきたのだ。
 当時は結にも詩乃の姿が見えていたのに、成長するに従い見えなくなってしまった。成仏させるのは簡単だったが、セツ曰く、害にならないし本人が望んでいるのでそのままにしているそうだ。いつもなら、幽霊なんてとんでもない! と全身総毛立つ結も、なぜか詩乃のことだけは怖くない。

『あたりまえさね。おまえさんは友だちのことを怖いと思うのかい?』

 セツは至極まっとうな答えをくれた。
 毎年結の夏休みは、タフィーと詩乃の歓迎から始まる。しかし今年の夏は少し違っているようだ。勝手知ったる他人の家とばかりに引き戸を開けて入っていく男を見送っていると、「あれはあたしの弟子だ」とセツが言った。
 は? 弟子? 弟子って、あの弟子?
 目を見開く結に、祖母は大仰おおぎょうに頷いた。

「ええっ、なにそれ! 魔法は血で受け継がれてきたものじゃ……」
「そうなんだけどねえ。畑の世話でも下働きでも、なんでもいいから置いてくれって言うからさ。試しに一週間置いてみたら、おまえさんよりずっと役に立つから、そのまま置くことにしたんだよ」

 ガーン。漫画ならそんな吹き出しが頭の上につくほどのショックを受けた。

「置くことにしたんだよって……」

 しかも私より役に立つって……。
 呆然と突っ立っている結を残して、祖母はちゃっちゃと家の中に入ってしまう。

けい! 今朝採れたスイカが冷えてるだろ。切ってあげとくれ」

 慧。あの人、慧っていうんだ。
 いやいやいや。

「ちょ、ちょっとおばあちゃん!」

 結は慌ててセツの後を追った。
 祖母八月一日せつは七十七歳。引く手あまたの美人だったと自他共に認める祖母は、髪こそきれいな白髪だが、そんじょそこらのご老人と一緒にしてはいけない。麻の作務衣さむえ颯爽さっそうと着こなし、五キロの米なら両肩に担いじゃうくらい元気だ。背筋もしゃんと伸びているし、家の前に広がる畑はすべて祖母が耕しているのだ。

「……さかき慧。二十二歳。K大法学部」

 ずずーっとお茶をすする音が茶の間に響いた。どんなに暑い夏の盛りでもセツは冷茶を飲まない。結と慧の前にある冷えた麦茶は、結が用意したものだ。

「…………」
「え? それだけ?」

 思わず突っ込みを入れた結を、慧がじろりと睨む。
 な、なんで睨まれなきゃいけないのよ! 負けじと結も睨み返す。
 しばらくは同じ屋根の下で暮らすんだから、自己紹介くらいしないかというセツのひと言で結は慧と対峙しているわけだが、先ほどからテーブルを挟んだ二人の間では火花が散っている。信楽焼しがらきやきの湯呑を置いたセツは「それだけ? じゃありませんよ」と結を一瞥いちべつした。

「おまえさんの自己紹介がまだだろう」
「えーっ」

 ぶーっと唇を尖らせると、セツの目がキラリと光った。慌てて姿勢を正す。

「八月一日結。十七歳。好きな食べ物は招福堂しょうふくどうの塩豆大福と……」
「ぶ」
「……今笑ったわね。笑ったでしょう」
「別に。くっ。大福って……」

 肩を震わせる慧にカチンときた。

「あのねえ!」

 結はバンッとテーブルに両手を置いて身を乗り出した。

「招福堂の塩豆大福はね、そんじょそこらの大福とは全然違うの! もっちりしたお餅に塩味とあんこの絶妙なバランス! 私なんか三個はぺろりといけるんだから!」
「これ、結」

 テーブルの手をぺちん、と叩かれて我に返る。

「招福堂の塩豆大福はあたしも好きですよ。……そういや土産はなかったね」

 結は耳を赤くしながら「すみません」と小さな声でうなだれた。

「まあいい。知っての通り、この子はあたしの孫だ。後継者になるかどうかはわからないけどね」
「えっ」

 結は思わずセツの顔を見た。

「なに驚いてるんだい。おまえさんの様子を見てたらすぐにわかるよ。けど来年は十八だ。自分がどうしたいのか、しっかり考えて決めなさい」
「おばあちゃん……」
「それと、いずればれることだから先に言っとくけど、慧の父親は外務大臣だ」
「外務大臣?」
「先生!」

 セツは膝立ちになった慧に「そんなことくらいじゃこの子は驚かないよ」と素っ気なく言った。その通り。外務大臣がどうしたっていうんだ。
 さして興味のない結は、ふーん、と一応は相槌を打ちながらスイカをかじった。
 んー、甘ーい。今年もおばあちゃんのスイカは日本一美味しい。

「じゃあこの人は、おばあちゃんのお客さんの息子ってこと?」
「最初はなんの嫌がらせかと思ったけどね」

 ということは、その外務大臣とやらは依頼を断られた口だなと想像がつく。
 セツを頼ってやってくる客の中には、時折権力を笠に着たとんでも野郎がいたりする。セツの好き嫌いはハッキリしていて、客のステイタスがなんであろうと関係ない。はるばる海を渡ってやってきたとある前大統領に、塩をぶちまけて帰国させた一部始終を目撃している結にとっては、へー、ふーん、程度のものだ。

「親父は関係ありません。ここへ来たのは俺個人の意思で……」
「ああ、わかってるさね。そうじゃなきゃとっくに追い出してるよ」

 わずらわしそうに手をひるがえされた慧は、口をつぐんでうつむいた。なにか言いかけたようだけど、ここにいるということはなにかしらの願いがあるんだろう。
 じっと見ていたら、凶器のような視線が飛んできた。むっとした結は、スイカの種をプップと連続で出しながら、つんと横を向く。

「とにかく。慧はしばらく私が預かることに決めたんだ。結もそのつもりで仲良くやっとくれ」
「おばあちゃん!」

 結は抗議の声を上げたが、セツは聞く耳を持たず「ジャムを作るよ。洗っておくれ。慧は裏の小屋から瓶を運んできておくれ」と指示すると、さっさと台所へと姿を消してしまった。慧も立ち上がると、ぶら下がる電気の傘に頭をぶつけながら結を見下ろす。それだけで威圧感が半端ない。

「仲良くしようぜ」

 口角を引き上げながら、慧は右手を差し出してきた。
 えっ、あっ。急に和解を申し込んできた慧の態度に、結は慌てた。
 スイカを食べていたせいで、手も口の周りもベタベタだ。慌てて布巾で拭い、同じく右手を差し出し平和的な握手……のはずが、慧はすっと自分の手を引っ込めた。つまり、結の手はみごとな空振り三振バッターアウトをこうむった。

「バーカ。お子さまのお守なんてするつもりねえよ」

 は? 結は右手を宙に浮かせたまま、ぽかんと口を開けた。

「先生の後継者なんて諦めろ。おまえには百年経っても無理だ、無理」

 はあ? はあぁ?

「ちょっとあんた! 失礼にもほどがあ……」

 いない。結が開いた口を閉じる間に、慧はサンダルを突っかけて出ていってしまった。むかっ腹が立つというのは、こういうことを言うのだろう。むかむかむかっと怒りのボルテージが上がってきて、頭の活火山が噴火しそうだ。くっそう! 反論してやらなきゃ気が済まない!
 怒りにまかせてすっくと立ち上がると「結。ベリーは洗ったのかい?」と、作務衣さむえ割烹着かっぽうぎをつけたセツが顔を出した。
 そうだった!

「すぐにやりまーす!」

 ベリーベリーベリー! 去年にも増して豊作だった。ジャムにコンフィチュール、ジュースにドライフルーツも!
 ベリーを前に、炎天下を四十分かけて歩いてきたことも、たった今怒りに燃えていたことも、結の頭の中からはきれいさっぱり消えていた。

「ま、あの子のいいところだよ」

 呆れたようなセツの呟きは、鼻歌混じりに外へ出ていった結には知る由もない。




 大小様々な大きさのガラスの瓶を、グラグラと煮立ったお湯の中に入れては取り出す。いわゆる煮沸しゃふつ消毒というものだが、これが大変な作業だ。夏の盛りにもうもうと湯気を立てる大鍋の前に、つきっきりで瓶を入れては出しを繰り返す。

「これ、魔法でどうにかなんないのかよ」

 大粒の汗を拭いながら、さすがの慧も辟易へきえきしている。

「ほらきた」
「なんだよ、ほらきたって」
「なんでもかんでも魔法で済ませようだなんてバカじゃないの」
「おい。子どもの頃、バカって言う方がバカだって習わなかったか?」

 あ、とベリーを種類別に選別していた結は口に手を当てた。

「……ごめんなさい」

 頭を下げると、そのままうなだれた。

「な、なんだ」

 突如しおれた結を見て、慧が慌てる。

「バカは私だ。言葉はちゃんと丁寧に扱わなきゃいけないって知ってるのに」

 言葉は一度口に出してしまったら元には戻らない。言葉には言霊ことだまという霊力が宿っている。幸せを寿ことほげば、本人も告げられた方も幸せな気持ちになるし、逆に呪詛じゅその言葉は不幸をもたらす。特に結は、他所よその子ども以上に厳しくしつけられてきたはずだった。

「私の場合、言葉は本当に力を持つ魔法になるから」
「安心しろ」
「え」

 ぽすんと大きな手が頭の上に乗ってきて、結はカチンと固まった。
 え? え? えっ?

「これでもK大法学部現役合格者だ。物理赤点ギリギリの高校生にバカ呼ばわりされたって痛くもかゆくもねえよ」

 慧の手は、結の髪をくしゃりと掻き混ぜて離れていった。

「つか、俺も悪かった。魔法のこと、便利な道具みたいな言い方して。ここ何日か先生のこと見ててわかってたのにな」
「あ、あのさ」

 結はくしゃくしゃになった髪を撫でつけながら慧を見上げた。

「なんで信じてくれたの、魔法のこと」
「なんでって……」
「お父さんが関係してる? おばあちゃんのこと知ったのも、お父さんに聞いたからでしょう? でもどうして弟子入りだなんて……」

 勢い込んで尋ねた結は、そこではたと気づいて再び「うわっ、ごめんなさい!」と頭を下げることになった。たとえ身内だったとしても、依頼者に関わる情報を詮索してはいけない――。互いの信頼関係がなければ成り立たない仕事でもあるのだ。

「い、今のなし! いいの、答えなくて!」

 結の唇には、仕分けをしながらちょこちょことつまみ食いをしていた赤い木の実の汁がついている。ラズベリーなのかブラックベリーなのかはわからない。もしかすると……しなくとも、その両方なのかも知れない。

「……聞いたのは親父の秘書からだ。なにをバカなことをってぼやいてたがな」

 目をすがめながら話す慧の表情は硬い。
 じっと見つめている結に気づいたのか、慧は大鍋の火を止めた。

「ほら、これで終わりだ。先生呼んでくるわ」
「あ、う、うん」

 大きな背中を見送りながら、結の手は無意識に髪に触れていた。
 慰めて……くれたのかな? 頭なんて、子どもの頃お父さんに撫でてもらった記憶しかない。嫌なやつだって決めつけてたけど、そう悪い人じゃないのかも……。
 ちょっと前に慧と睨み合ったのを反省していると「どれどれ」とセツがやってきた。

「こっちはどうだい?」

 ラズベリー、ブラックベリー、ハックルベリーにブルーベリー。種類ごとに仕分け、下ごしらえをしていた鍋を覗き込んだセツは「いいね」と満足そうに頷いた。

「まずはブルーベリーのジャムを作ろうかね。煮ている間にマフィンも作れるね。……どうした?」
「え?」
「ぼんやりして。疲れたのかい? だったら手伝うのは明日に……」
「ううん! 大丈夫。おばあちゃんのマフィン大好き! 私ジャム作るよ」
「焦がさないでおくれよ」
「うんっ」

 結は頭の中から慧を追い出すように明るく返事をすると、木べらを手に立ち上がった。毎年恒例のジャム作りは、結にとっては慣れたものだ。冬に備えて長期保存するため、砂糖もたっぷりと使う。常温でも保存の利く、しっかりとしたジャムだ。大きなホーロー鍋を火にかける。

「俺はタフィーの散歩に行ってきます」
「ああ。頼んだよ」

 台所の窓から射し込む陽の光が柔らかさを帯びてきた。いつの間にか聞こえてくる蝉の声もヒグラシに変わっている。夏は思ったより日が暮れるのが早い。結は夏の夕暮れが好きだ。一日の終わりを惜しむかのように、薔薇ばら色からあかね色へと変化していく空の色も。

「ねえ、おばあちゃん」

 セツからの返事はないけれど、ちゃんと結の話を聞いているのがわかる。

「私、この間の三者面談でちゃんと言えなかった」
『なんだ、第一志望抜けてるじゃないか』
『はあ……』
『第二、第三志望は公立大か。他に狙ってる大学があるのか?』
『あー、えーっと……』
『八月一日、迷ってる時間はないぞ。もし第一志望の偏差値が高いなら、それに向けてがむしゃらに勉強しなければならない。もう遅いくらいだ』
『……はい』

 夏休み最初の日の三者面談で、結は第一志望を記入しないまま提出した。学校からの帰り道、香住はしょうがないわよねえ、と笑いながら肩をすくめた。

『やあねえ。第一志望は魔女です、なんて書けないわよねえ』

 違うんだよ、お母さん。私、私本当はね……。

「魔女になりたくないってわけじゃないの。でも、絶対になりたいってわけでもなくて。そんなんで、このまま魔女になってもいいのかなって……」

 ふつふつとブルーベリーが煮えてきて、甘い匂いが漂ってきた。

「おばあちゃんは考えたことある? 魔女になるって決めたとき。家のこととか、これからのこととか、色々……」
「そうさねえ」

 セツは小麦粉にバターと卵を入れて、掻き混ぜながら答える。

「あたしらにとっちゃ、呪いみたいなもんだからね」
「え」
「そりゃそうさ。八月一日の家が栄えてきたのは魔女の血あってこそだと言われている。言われているだけで、本当かどうかはわからない。噂みたいなものさ。あいにくそれを試した者はいないが、あたしらは魔法の力を嫌というほど知っている。事実、八月一日家は、代々苦境に立たされることもなく栄えてきた。おまえさん自身の環境を見てもわかるだろう。試してみたいと思う人間なんているもんか。言ってみれば、最初から他の選択肢なんてないのさ。それがあたしらを縛る呪いだ」
「呪い……」
「ああ、ほら。焦げちまうよ」
「あ、はいっ」

 結は慌てて止まっていた手を動かす。

「だけど、あたしは知っているのさ」

 セツはパラフィン紙のカップにマフィンの生地を流し込むと、その上にブルーベリーの実をいくつか載せた。キッチンに備えつけのアンティークなオーブンに入れたら、あとは焼き上がりを待つのみだ。

「魔法は魔女の血の中に確かに流れている。あたしらにとっては呪いの力でも、魔法の力で誰かを笑顔にすることもできるんだってね」

 そう言うと、セツは煮立っているジャムの鍋を覗き込みながら『よくお聞き』と言った。その言葉はとても古い言葉で、妖精の世界の言葉だ。

『緑のご馳走、大地の祝福。一口食べれば笑顔になる。二口食べれば力が溢れてくる。魔女のちぎりをもって命じよう』

 言葉は言霊ことだまとなってセツの唇から零れ落ちる。言わばささやかなスパイスのようなものだ。言霊ことだまはキラキラと光り輝きながら鍋の中へと消えていった。
 毎年、ふもとの村には、この手作りのジャムを楽しみに待っていてくれる人がいて、体調のすぐれない人や気落ちしている人には無償で提供している。大量に作るジャムやソースには、元気になる魔法と共に、セツのやさしさが込められているのだ。

「もしおまえさんが別の道を見つけたなら、あたしはそれでもいいと思ってるんだよ。なあに、文句を言われたら、向こうの世界に行って直談判じかだんぱんでもしてやろうかね」
「おばあちゃん……」


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