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清らかな影は花と沈む
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吉原で最も高く咲いた花魁、花影が死んだ。
大店の主人への身請けを数日後に控えた、ある朝のことである。彼女の部屋では、紅色の着物をまとった亡骸が発見され、枕元にはごく無難な言葉で書かれた遺書が一つ。ただそれだけが残されていた。
「ふん……売約済みの品が、納品前に壊れたとはな」
報せを聞いて駆けつけた楼主・お辰は、花影の安らかな死に顔を一瞥すると、すぐに唇を歪めて呟いた。損失と醜聞。この二つをどう処理するか――それが彼女の脳裏を駆け巡る。
「清」
お辰の鋭い声が、部屋に響き渡る。
呼ばれた下女の清は、主の亡骸の傍らで、人形のように立ち尽くしていた。血の気の引いた顔は虚ろで、ただひたすらに花影の顔を見つめている。
(……よかろう。これも見極めの時だ)
お辰は清の様子を冷静に見据える。
(あの娘の聡明さと、花影へ注いだ愚直なまでの忠誠心は、買っておった。だが、花魁とは心を殺してこそ務まる商売。主を失い、心の拠り所をなくした今、その忠誠が我に向けられ、この窮地を乗り越えられるか。もしやり遂げたなら……二度と逃れられぬ、本物の逸材となる)
「よく聞け、清」
お辰の声は、低く、そして冷たく響く。
「花影は、間男と駆け落ちした末、捨てられて病に倒れた。それが、あの娘の末路だ。……わかったな?」
虚ろだった清の目が、かすかに揺らぐ。お辰はそれを見逃さなかった。
「あの長持を使え。荷物を送る体裁だ。中身は、お前が整えよ。その後、手代たちに川岸まで運ばせ、舟で始末する――それが、お前の役目だ」
清の仕事ぶりは、恐ろしいほどに手際が良かった。
「清っちゃん、あれで大丈夫なのかい……?」
「魂が抜けちまったようだよ、可哀想に……」
見世の者たちの囁きが飛び交う中、清は無言で作業を進める。花影が最も愛した紅色の着物を亡骸に纏わせ、髪を結い上げる。そして、自分が預かっていた珊瑚の簪を、そっと髪に挿す。
(これで、よろしい。花影様)
これが、主への最後の仕度。清のその行為は、誰の目にも痛ましい忠誠の証と映った。
やがて、長持は手代たちによって担ぎ出され、暗い夜道を川岸へと運ばれていく。清は、その一歩後ろを、影のように付いていく。
川岸に着くと、男たちは長持を舟の脇に下ろし、足早にその場を去った。たちまち、辺りには静寂が訪れる。川面を渡る風だけが、冷たく二人を包み込む。
清は、ゆっくりと長持の蓋を開けた。
中には、紅色の着物に包まれた、眠るように美しい花影の亡骸が横たわっている。
「……花影様」
清は細い腕で亡骸を抱き上げ、舟の中へと運び入れた。着物の端がほんの少しでも乱れないよう、涙ぐましいまでの細心さで。
◇◇◇
――そして今、私は舟の上にいる。
腕の中には、穏やかな顔で眠る、私の花影様。
(ああ……なんて、美しい)
もう、誰にも穢されることはない。奪われることもない。私だけの、花影様。
この結末に至るまで、すべては私の描いた通りの計画だった。楼主様も、見世の者たちも、誰一人として真相には気づかない。
(あの日、初めてお会いした日……)
楼主・お辰に連れられ、花影様の部屋へ通されたあの日。完璧な笑みを浮かべて「……わかりました。お預かりいたします」と応じたその姿に、私は一瞬で心を奪われた。
やがて、私は花影様のお気に入りとなった。
「これは秘密よ」と、客から贈られた高価な砂糖菓子を口に入れてくれ、袖の下でそっと手を握り合った。触れ合う指先の熱だけが、私たちの全てだった。
「私は、いずれ誰かに身請けされる身。お前とは違うのだよ」
そう言っては、私を突き放す花影様。その言葉は、ご自身への言い聞かせだと、私は知っていた。
そして、身請けが決まったあの夜――。
「覚悟は、できていたはずなのに……! いざ、お前と会えなくなる日を思うと、息の仕方もわからなくなる……!」
仮面が剥がれ、嗚咽する花影様は、なんて身勝手で、愛おしい人だろう。
(この人は、私なしでは、駄目なのです)
その瞬間、私の頭に、一つの計画が浮かんだ。町外れの怪しい薬売りから、口八丁で望むものを手に入れるのは、さして難しくなかった。
「泣かないで、花影様。離れ離れになるのがお辛いなら……いっそ、誰にも邪魔されない場所へ、二人で参りましょう」
差し出した小さな陶器の容器を、花影様はうっとりと手にした。
(そうです……私は、この人を、金色の鳥籠から救い出して差し上げるのです)
ゴポリ、ゴポリ。
舟の底から、水が湧き出してくる音がする。懐から取り出した鑿で、静かに穿った穴からだ。
私は、花影様の隣にそっと身を横たえ、冷たくなりつつあるその身体を、強く、強く抱きしめた。
「花影様……」
水は、ゆっくりと私たちの体を包み、沈めていく。
「これで、もうどこへも行かれませんね」
「永遠に……私だけの、花影様です」
常闇の水底へと、二つの影は一つになって、静かに、静かに沈んでいった。
私だけが知る、完璧な結末とともに。
大店の主人への身請けを数日後に控えた、ある朝のことである。彼女の部屋では、紅色の着物をまとった亡骸が発見され、枕元にはごく無難な言葉で書かれた遺書が一つ。ただそれだけが残されていた。
「ふん……売約済みの品が、納品前に壊れたとはな」
報せを聞いて駆けつけた楼主・お辰は、花影の安らかな死に顔を一瞥すると、すぐに唇を歪めて呟いた。損失と醜聞。この二つをどう処理するか――それが彼女の脳裏を駆け巡る。
「清」
お辰の鋭い声が、部屋に響き渡る。
呼ばれた下女の清は、主の亡骸の傍らで、人形のように立ち尽くしていた。血の気の引いた顔は虚ろで、ただひたすらに花影の顔を見つめている。
(……よかろう。これも見極めの時だ)
お辰は清の様子を冷静に見据える。
(あの娘の聡明さと、花影へ注いだ愚直なまでの忠誠心は、買っておった。だが、花魁とは心を殺してこそ務まる商売。主を失い、心の拠り所をなくした今、その忠誠が我に向けられ、この窮地を乗り越えられるか。もしやり遂げたなら……二度と逃れられぬ、本物の逸材となる)
「よく聞け、清」
お辰の声は、低く、そして冷たく響く。
「花影は、間男と駆け落ちした末、捨てられて病に倒れた。それが、あの娘の末路だ。……わかったな?」
虚ろだった清の目が、かすかに揺らぐ。お辰はそれを見逃さなかった。
「あの長持を使え。荷物を送る体裁だ。中身は、お前が整えよ。その後、手代たちに川岸まで運ばせ、舟で始末する――それが、お前の役目だ」
清の仕事ぶりは、恐ろしいほどに手際が良かった。
「清っちゃん、あれで大丈夫なのかい……?」
「魂が抜けちまったようだよ、可哀想に……」
見世の者たちの囁きが飛び交う中、清は無言で作業を進める。花影が最も愛した紅色の着物を亡骸に纏わせ、髪を結い上げる。そして、自分が預かっていた珊瑚の簪を、そっと髪に挿す。
(これで、よろしい。花影様)
これが、主への最後の仕度。清のその行為は、誰の目にも痛ましい忠誠の証と映った。
やがて、長持は手代たちによって担ぎ出され、暗い夜道を川岸へと運ばれていく。清は、その一歩後ろを、影のように付いていく。
川岸に着くと、男たちは長持を舟の脇に下ろし、足早にその場を去った。たちまち、辺りには静寂が訪れる。川面を渡る風だけが、冷たく二人を包み込む。
清は、ゆっくりと長持の蓋を開けた。
中には、紅色の着物に包まれた、眠るように美しい花影の亡骸が横たわっている。
「……花影様」
清は細い腕で亡骸を抱き上げ、舟の中へと運び入れた。着物の端がほんの少しでも乱れないよう、涙ぐましいまでの細心さで。
◇◇◇
――そして今、私は舟の上にいる。
腕の中には、穏やかな顔で眠る、私の花影様。
(ああ……なんて、美しい)
もう、誰にも穢されることはない。奪われることもない。私だけの、花影様。
この結末に至るまで、すべては私の描いた通りの計画だった。楼主様も、見世の者たちも、誰一人として真相には気づかない。
(あの日、初めてお会いした日……)
楼主・お辰に連れられ、花影様の部屋へ通されたあの日。完璧な笑みを浮かべて「……わかりました。お預かりいたします」と応じたその姿に、私は一瞬で心を奪われた。
やがて、私は花影様のお気に入りとなった。
「これは秘密よ」と、客から贈られた高価な砂糖菓子を口に入れてくれ、袖の下でそっと手を握り合った。触れ合う指先の熱だけが、私たちの全てだった。
「私は、いずれ誰かに身請けされる身。お前とは違うのだよ」
そう言っては、私を突き放す花影様。その言葉は、ご自身への言い聞かせだと、私は知っていた。
そして、身請けが決まったあの夜――。
「覚悟は、できていたはずなのに……! いざ、お前と会えなくなる日を思うと、息の仕方もわからなくなる……!」
仮面が剥がれ、嗚咽する花影様は、なんて身勝手で、愛おしい人だろう。
(この人は、私なしでは、駄目なのです)
その瞬間、私の頭に、一つの計画が浮かんだ。町外れの怪しい薬売りから、口八丁で望むものを手に入れるのは、さして難しくなかった。
「泣かないで、花影様。離れ離れになるのがお辛いなら……いっそ、誰にも邪魔されない場所へ、二人で参りましょう」
差し出した小さな陶器の容器を、花影様はうっとりと手にした。
(そうです……私は、この人を、金色の鳥籠から救い出して差し上げるのです)
ゴポリ、ゴポリ。
舟の底から、水が湧き出してくる音がする。懐から取り出した鑿で、静かに穿った穴からだ。
私は、花影様の隣にそっと身を横たえ、冷たくなりつつあるその身体を、強く、強く抱きしめた。
「花影様……」
水は、ゆっくりと私たちの体を包み、沈めていく。
「これで、もうどこへも行かれませんね」
「永遠に……私だけの、花影様です」
常闇の水底へと、二つの影は一つになって、静かに、静かに沈んでいった。
私だけが知る、完璧な結末とともに。
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