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第五章 再び会うために 四
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四
体が重く、だるい。疲れが溜まっている。等間隔に設置された角灯が照らす官舎の廊下を、足を引き摺るようにして歩き、与えられた自室の扉の前に辿り着いたスカイは、纏った軍服の詰襟を寛げ、首に紐で下げた鍵を取り出して、鍵穴に差し込み、開錠した。次いで取っ手を握り、暫し目を閉じて祈る。それから、おもむろに取っ手を回して扉を開け、暗い部屋の中へ入った。蝋燭に火は灯さず、窓の隙間から差し込む月明かりを頼りに、部屋の奥に置いた天蓋付きの寝台へ歩み寄る。天蓋から下がる帳を潜ったスカイは、そこに眠る親友の顔を――変わらない微笑みを、微かな落胆を持って見つめ、そっと手を伸ばしてその頬に触れた。
「……冷たいな、ユテ」
ぽつりと語りかけ、スカイはそのまま崩れるように床に座り込み、掛布の下にあるユテの肩へ頭を寄せるように、寝台の端へ突っ伏した。今日も、祈りは届かなかった――。
あれから、五年が経った。最初の一年間は、希望に満ちていた。〈大おじいちゃん〉の許で、頭環に宿ったクレヴァスの助言も受けながら、呪具製作の修行を積んだ。そして僅か一年で、クレヴァスが作ったものを凌ぐ呪具の頭環を作り上げ、あの蟻の巣のような洞穴の一室に寝かせていたユテに着けさせた。が、親友は目覚めなかった。呪具の出来が悪かったのかと思い、幾度となく作り直して着けさせても、親友は目覚めなかった。二人きりになった部屋で、忌み名を呼び、目覚めてくれと懇願したこともある。それでも、親友は目を覚まさなかった。その理由を、風竜一族の里にいるヒタネのところまで独断で訊きに行ったクロガネは、三つのことを教えられて帰ってきた。一つ目に、《休眠》というものは、周りの環境が純血の天精族にとってよいものにならなければ、明けないこと。二つ目に、ユテ自身の体に溜まった穢れが多過ぎて、目覚めの妨げになっているだろうこと。三つ目に、《休眠》中は、五感が全て閉ざされているので、触覚も働いておらず、忌み名を呼んで命じた条件――スカイがユテに相応しい呪具を作って着ける――が、認識されないということ。聴覚も働いていないので、《休眠》中に忌み名を呼んで新たに何かを命じても、やはり認識されないということ。更に、ヒタネは付け加えたという。
――「雷竜一族の雷で、ユテの《休眠》が一度破られたのなら、最後の手段として、彼らを頼るか使うかすることを考えるべきかもしれない。とにかく、早く目覚めさせたいなら、何か刺激が必要なんだと思う……」
スカイは落ち込んだ。雷竜一族を頼るのは論外で、採れる選択肢ではなかった。しかし、絶望はしなかった。できることからしていかなければ、と思った。まず、周りの環境がユテにとってよいものになるように、穢れの原因となるものをできるだけ排除して、自分自身もあまり傍へ行かないようにした。本当は、風竜一族の里へ帰すのが一番だと分かってはいたが、目覚めても会えなくなる可能性が高いので、踏み切れなかった。その代わり、ウツミにユテに溜まった穢れをできる限り浄化して貰い、その上で、穢れを少しでも除くための呪具を考えて作った。それは白金の腕輪として完成し、今もユテの両腕に嵌めてある。けれど、それでもユテは目覚めなかった。呪具製作を学び始めてから、二年が過ぎていた。今度こそ絶望しそうになったスカイを救ったのは、妹の一言だった。
――「ここはアース真人帝国よ。ユテさんにとってよい環境が整ってるとは言えないわ。もっと他に、できることがあるんじゃない?」
確かにそうだった。〈周りの環境〉の範囲や意味を、更に考える必要があると思えた。そこから続く人生は、ユテがスカイになってほしくないと言っていた《勇者》の生き方に重なる気もしたが、それでいいと思った。もともと、《勇者》には憧れていたのだ。
十七歳のスカイはレイン村を出て、帝都ソイルに行った。〈周りの環境〉を整える、即ち〈帝国を変える〉には、まず帝都を見なければと思ったからだ。そして、丁度募集が行なわれていた帝国の軍隊に入った。ユテとクロガネに仕込まれた刀捌きで、入隊試験に合格できるという勝算があったのもあるが、何より、手っ取り早く帝国の中枢に関わっていけると考えたのだ。
軍隊に入って三年。スカイの目論見は当たった。スカイには、刀捌きの他に、呪具を作れるという強味がある。真人族の中にあっては、特異な力だ。スカイは、その力を惜しみなく使い、帝国軍の研究開発部で出世して、三年間で少尉という地位を与えられた。軍の中で、ある程度の発言権も得た。その力と発言権を利用して、スカイは、汽車を段階的に〈気車〉に替えていく事業を行なってきた。〈気車〉とは、専用の呪具を備えつけることにより、蒸気ではなく、精気で動く列車だ。汽車――蒸気機関車よりも速度が出せ、制御が簡単で、呪具さえあれば、燃料の確保が容易いという利点がある。難点は、その呪具を作れる者が、今のところスカイしかいないことだった。だからこそ、スカイは少尉という地位とともに、何人かの部下――地老族と真人族との混血を与えられて、日々、彼らに呪具製作を教えつつ、呪具の改良や研究を進めているのだ。
「ユテ……、おれは、頑張ってるんだ……」
呟いて、スカイは寝台から顔を上げた。床に座り込んだまま手を伸ばして、枕から寝台の敷布の上に落ちている、編まれた白銀色の髪をそっと掬い上げて、顔を寄せる。森を吹き抜ける風そのもののような匂い。天精族という存在は、本当に自然そのもののような気がする。自然の一部が、偶然、人型をしているだけのような――。白銀色の髪の先は、白金と瑠璃で作られた飾り筒に収まっている。それもまた呪具なのだと、呪具製作を習っている時、チムニーから教えられた。ホール家始祖のホールが作って、ユテに渡したものなのだと。恐らく、その効果で、ユテは《天災》となりつつも、スカイが辿り着くまで意識を保っていられたのだろうと。瑠璃の上に象嵌された、白金の繊細な唐草模様が、確かな技を、熱い思いを、伝えてくる。自分は、そのホールの血を引いている。誇りを持って、希望を持って、働いてきた。
「いずれ大いに軍のためになるって媚びながら、石炭で動く蒸気機関車を精気で動く呪具機関車に変えて、穢れの排出を少しでも減らして……。今は地老族との混血だけだけど、真人族の社会の中に、少しでも他の種族が入るようにして……。東大陸じゃ政治に関与してる聖教会に対抗できるように、軍備の増強も考えて……。五族協和への――おまえが目覚めるための環境を整える、一歩になるように……」
けれど、時々、耐えられなくなる。純血の真人族を第一として、他の種族や混血を迫害する帝国の、その軍隊の中にあることに。その行動規範に従わなければならないことに。そして、何より、ユテと話せないことに。
スカイが帝都に出てきた後も、ずっとユテの体はチムニーの洞穴の一室に寝かせたままにしていた。顔を見られなくなるのはつらかったが、穢れが蔓延する帝都になど連れてこられないと思ったのだ。しかし、少尉の地位を与えられ、こうして研究開発部の官舎の中に立派な一室をあてがわれたのを機に、とうとうスカイは、内密に、研究資材に紛れ込ませて、ユテを運んできてしまった。そうしなければ、心が壊れそうな気がしたのだ。
「毎日おまえの顔が見たくて、無理してこんなところまで連れて来ちゃったけど……」
スカイは、白銀色の髪を敷布の上にそっと戻し、のろのろと立ち上がると、枕の両脇に手を着いて、ユテの顔を真上から見下ろす。白銀色の髪がかかる白い額には、菱形の水晶が光っている。スカイが作った、精気を抑える頭環の飾り。せっかく作ったのに、それ以外にもあらゆる努力を積んでいるのに、ユテは目覚めない。
「欲望っていうのは、限りがないよな……。もう、おまえの寝顔を見てるだけじゃ、満足できない。つらいんだ……」
スカイは囁くと、身を屈め、枕の上にある翡翠色の耳へ、唇を寄せた。硬質な冷たい鱗に、五年間待った――二十歳になった己の熱を伝え――。
「おい」
閉めた窓の外から声がかかり、スカイはゆっくりとユテから体を離して、振り向いた。彼が来たことは、声がかかる前に、気配で分かっていた。外が透けて見える帳越しに、両開き窓の隙間に外から細い刀身が差し込まれ、掛け金が外されるさまを眺める。慣れた様子で窓を開き、月光を背に現れた姿は、ほっそりとした少年のもの。五年前よりすらりと手足が伸びたが、まだまだ少年だ。
「何をしている」
問う言葉に、スカイは問いで返した。
「日光の影響を中和する呪具を渡したはずなのに、何でおまえは夜行性のままなんだ? 大体、窓っていうのは出入りする場所じゃないって、前にも教えただろう?」
「いつ活動しようと、どこから出入りしようと、おれの勝手だ」
答えた少年の首には、丸い紅玉が嵌まった飾りが一つ下がる首輪が着いている。律儀に、二年前スカイが渡した呪具を身に着け続けているのは彼らしい。夜行族吸精一族と天精族火竜一族の混血であるクロガネ。彼は何故かスカイについて来て、この帝都で暮らしている。そして時折、こうして顔を見せる。
「それより、そいつに何をしようとしていた?」
改めて問われて、スカイは微苦笑した。どうやらクロガネも、ユテのことが気になって仕方ないらしい。
「別に。ちょっと顔を眺めてただけだよ……」
適当に告げて、スカイはずるずると再び床に腰を下ろし、帳の外に頭を出して、ユテの寝台に背中で凭れた。疲れた。頑張ることに疲れてしまった。それでも、朝が来れば、自分はまた頑張るだろう。ただ、夜はもう駄目だ。心が崩れて、理性が保てない。このままでは、本当に、ユテに何かしてしまいそうだ。
(ああ、そうか)
唐突にスカイは悟った。クロガネが気に掛けているのは、ユテ一人のことではなく、スカイも含めてなのだ。心配して、ずっと様子を窺ってくれているのだろう――。
「――なあ、おまえも、帝国軍に入らないか?」
ふと浮かんだ思いつきを口にすると、窓枠に座った少年の気配が、少し険しくなった。
「夜行族は、他種族には使われず、従わん。それが掟だ」
硬い声の返答に、スカイはまた微苦笑した。五年前は、〈夜行族の問題〉としか言ってくれなかった事情。クロガネの心なのか、夜行族自体なのか、どちらにせよ、変われば変わるものだ。
「使うとか、従うとかじゃない。協力だよ」
スカイは、穏やかに説明する。
「おれは、この国を、アース真人帝国じゃなく、アース五族協和国にしたいんだ。そのためには、五族が、互いに相手を知らないといけない。個人と個人で知り合わなきゃいけないんだ。その第一歩として、おれは真人族と地老族との混血を部下として招いてる訳だけど、おまえにも、剣術指南役か何かで、軍の奴らに関わって貰えたらなって思うんだ」
暫し黙ってから、クロガネは言った。
「――考えておく」
(進歩だな……!)
スカイは、驚いてクロガネを見つめた。火竜一族の血を引く証である尾を、ずっと隠していたクロガネ。夜行族に命じられるままに動いていたクロガネ。そんな、出会った当時のクロガネからすると、本当に変わった。
「ありがとう。期待してるよ」
礼を述べて、スカイは立ち上がり、天蓋から下がる帳を元通りに整えて、ユテの寝台を離れた。そのまま部屋の真ん中にある自分の寝台へと歩き、倒れ込むように寝転ぶ。靴を床へ投げ捨てるように脱ぎ、軍服の上着も脱いで椅子へ放り、掛布を被った。
「おやすみ、クロガネ」
一方的に告げて、目を閉じる。寝台へ体が重く沈み込むような感覚。溜まった疲れが、余計なことを考える間もなく、すぐに眠りへと引き摺りこんでくれた。
「スカイは大丈夫そうか?」
背後の木の上に現れた少女の言葉に、クロガネは首を横に振った。
「もうそろそろ限界だろうな」
呟くように言い、クロガネは窓枠から部屋の中へと下りる。音もなく歩いて、ユテの寝台へと近づき、天蓋から下がる帳を潜った。寝かされたユテの、相変わらずの、微笑んだような穏やかな寝顔。
(確かに、こんなものを毎日落胆とともに眺めていては、気が狂うか)
思いながら、クロガネは掛布の下へ片手を入れ、ユテの手を探って握る。少し目を閉じ、ウツミから習ったように、精気を送り込んでみた。しかし、ユテに変化はない。今度は、寝台に手を着いて、先ほどスカイがしていたように身を屈め、五年前にしたように、ユテに口付けた。吸精の逆の方法で精気を送り込んでみたが、やはり変化はない。
(駄目か……)
「――難しいものだな」
夜風がそよぐような気配で窓まで来たヌバタマが、溜め息とともに呟いた。クロガネは身を起こし、ユテの唇を指先で拭ってから、帳の外へ出た。五感が閉ざされていても、精気の刺激ならば届くはずと思いついて試してみたのだが、効果がなかったようだ。
(あんたが早く目覚めないと、スカイがもたんぞ)
ちらと、眠りに落ちた青年のほうを見遣り、クロガネは窓へ戻る。ヌバタマとともに木の上へ跳び移り、慣れた手つきで窓を閉め、引っ掛けておいた糸で外から鍵も閉めて、官舎を後にした。
三年前から、クロガネはヌバタマとともに帝都に住んでいる。住み処は、とある居酒屋の屋根裏部屋で、ついでにそこで料理の下拵えや用心棒紛いのこともやっている。そこの主人は、真人族白肌一族の血に夜行族吸精一族の血が四分の一入った《混ざり者》で、二人に対しても理解があった。そう、探せば、《混ざり者》――種族間の混血も、結構いるのだ。スカイが目指す五族協和の土台がない訳ではない。
建物の屋根伝いに居候先の居酒屋へと帰りながら、クロガネはヌバタマに言った。
「帝国軍に勤めないかと誘われた」
「そうか」
ヌバタマはいつも通り無表情に応じる。
「おまえがいいなら、受ければいい。一族のほうは、これまで通り、わたしが黙らせておく」
伝説の巫女ツゴモリの孫であるヌバタマは、吸精一族の中で、次期族長と目される立場にあり、それなりの発言権を持っている。今は比較的自由に行動しているが、その内、一族の掟に縛られた生活を余儀なくされるようになるだろう。だからこそ、今はこうしてクロガネにくっ付いて、縄張りの外で見聞を広めているのかもしれない。
「いつも、すまん」
「気にするな。わたしも、いろいろ楽しんでいるんだ」
長い黒炭色の髪を靡かせた少女は、クロガネのほうを見て、微かに両眼を細めた。
「ホール少尉、顔色悪いわよ。ちゃんと食べて寝てる?」
朝の光の中、官舎の食堂できびきびと働く少女に言われて、食卓に着いたスカイは苦笑いした。
「ちゃんと食べてるのは、いつも見て知ってるだろう?」
「だからこそ、よ。昨日の夜は食べに来なかったじゃない」
「ちょっと、実験が長引いてね。途中で止める訳にもいかなかったから」
「でも、体壊して働けなくなったら、元も子もないわよ?」
容赦なく言えるのは、家族だからだろう。少女の名はケイヴ。十七歳になったスカイの妹だ。彼女もスカイを心配してだろう、二年前にレイン村を出てきて、この官舎の食堂で働き始めたのだ。今では持ち前の可愛らしさと気の強さで、食堂を利用する兵士と士官の間で人気者になり、逆にスカイに気を揉ませるほどである。
「分かってるよ」
優しい味の野菜煮込みを匙で掬って啜りながら、スカイが頷くと、ケイヴはすっと近づいてきて、小声で問うてきた。
「――ユテさん、まだ……?」
ケイヴには、内密にユテを運んできたことを知らせている。スカイは、無言で小さく頷いた。何度となく繰り返してきたこの遣り取りはつらいが、一つ救われることがある。祖母や両親は、今だにユテのことを〈様〉付けで呼ぶが、ケイヴだけは、〈さん〉付けで呼ぶ。それが何だか嬉しい。
「そう……。あのね」
更に声を潜めて、ケイヴは言う。
「あたしも、いろいろ情報を集めたり資料を読んだりしてるんだけど、昔話にもあるじゃない? 《眠れる森の美女》って。あれって、《休眠》した純血の天精族のことじゃないかと思うの」
スカイも、その物語は聞いたことがあった。確か、森の中の城で一人眠り続ける美女に、とある騎士が口付けをしたところ、目覚めたという話だったはずだ。
「だから、ね、一回試してみたら?」
妹に、少女らしく、やや頬を赤らめて勧められ、スカイは昨夜のことが思い出されて、自分も頬や耳が熱くなるのを感じた。夜の自分はどうかしている。ユテには例の腕輪を身に着けさせているとはいえ、日常生活の中で知らず知らず穢れを纏っている自分が、触れるべきではないと分かっているのに――。
「――もしかして、もう試したの?」
妹に怪訝そうに訊かれて、スカイは大きく首を横に振った。
「じゃあ、やっぱり試してみるべきだと思うの」
ケイヴは、きらきらと翠玉色の双眸を輝かせて囁く。
「何しろ、お兄ちゃんは、《加護》を貰った、特別な人なんだから……!」
それは、それこそ雷竜一族の雷撃のような示唆だった。
(そうか。おれの体内には、大量にユテの精気がある……!)
いつか、クロガネも指摘していた、その精気を、ユテに僅かでも返すことができれば、目覚めを誘う刺激となりはしないだろうか。
(精気の送り方なんて、分からないけど……)
脳裏に浮かんだのは、昨夜も現れたクロガネの顔。
(あいつに教えて貰えれば)
クロガネが二日続けて訪れたことは今までないが、あの義理堅い性格を考えれば、入隊してほしいというスカイの依頼の返事を、今晩にでも伝えに来るはずだ。スカイは、久し振りに希望の光を見た思いで、夜を待った。
居酒屋ファイヤーで下拵えの仕事を一通り終えたクロガネは、後をヌバタマに任せ、黒い上衣を纏って外へ出た。スカイに、昨夜の返事をしなければならない。それに何より、スカイが気掛かりだった。
前は、あれほど嬉々として呪具製作に向き合っていたというのに、今では死んだような目で、ただ仕事として呪具製作に携わっている。それでもまだ、毎日働き続けているのは、偏にユテのためだろう。
クロガネは、高い建物の屋根から屋根へと跳び移って、帝国軍の基地へ向かいながら、首元の紅玉が嵌まった飾りを触る。
――「クロガネ、これ使ってくれよ」
そう言って、二年前にスカイが笑顔で渡してきた呪具の首輪。お陰で、昼間でも皮膚を焼かれる心配なく外出できるようになった。
(あいつが目覚めないのは、おまえのせいじゃない)
気に病むな、と何度も言ったが、スカイは、少しずつ少しずつ、精神的に病んできている。
(おれが、軍隊で働くことで、少しでもおまえの気が紛れるなら)
そんなことを思いながら、官舎の庭木の枝まで来たクロガネは、そこで、目を瞠った。スカイの部屋の、いつもは閉ざされている窓が、何故か開かれている。いつもはもう少し帰りの遅いスカイの気配が、既に部屋の中にある。
(まさか、あいつ、何か思い詰めて――)
急いで部屋の中へ跳び込んだクロガネは、あまりに静かに、自分の寝台に腰掛けている青年の姿に、一瞬、言葉を失った。窓から差し込む月光の中、まるで彫刻のように見えたのだ。
「待ってたんだ」
既に軍服の上着を脱いでいるスカイは、柔らかな表情で言った。クロガネは一呼吸置いてから、答えた。
「返事は、入る、だ。おまえの話、受ける」
「そうか。ありがとう。凄く、嬉しい」
どことなくぼんやりとした反応に、クロガネは眉根を寄せた。
「おれの返事を待っていたんじゃないのか?」
「いや……、待ってたんだけど、もっと別のことも教えてほしくて……」
僅かに目を泳がせて、スカイは言う。
「精気の、送り方を教えてほしいんだ」
クロガネは、スカイの意図を察し、そして告げた。
「それは、おれが昨夜試した。それでも、あいつは、目覚めていない」
「――え……」
スカイは、両眼を見開いて、クロガネを凝視した。驚かせ、傷つけることは分かっていたので、できれば黙っていたかったが、嘘は吐けない。
「済まん。期待させて裏切ることはしたくないと思ったんだが、無断で勝手をしたことは詫びる」
「いや、そんな、いいよ……」
スカイは、複雑そうに微笑んだ。
「おまえが、ユテのことも、おれのことも、ずっと心配してくれてるのは、分かってるんだ」
穏やかに言ってから、青年はふと真剣な顔になる。
「でも、もう一回、試したい。おれの中のユテの精気を、ユテに少しでも返したいんだ」
成るほど、とクロガネは思った。それは盲点だったが、やってみる価値はあるだろう。しかし――。
「おまえは、天精族でも、夜行族でもない。精気の扱いがそう巧くできるとは思えん」
「うん。分かってる。それでも、思いついたことは、全て試したいんだ」
月明かりを受けた翠玉色の双眸が、真っ直ぐクロガネを見つめる。小さく溜め息をついて、クロガネは、今まで秘めてきたことを、さらりと口にした。
「おれの天精族としての通し名はマホ。忌み名はマコトノヒという」
さすがに驚いたらしい、スカイは暫し絶句した後、慌てて言った。
「お、おまえ、何言ってるんだ! そんな大切なこと、口にするなよ!」
「何の問題もない」
クロガネは、スカイを見つめ返して教える。
「おれを、忌み名で縛ることはできん。それは、おれにこの二つの名を与えた天精族火竜一族の奴らが証明済みだ。天精族は、忌み名で縛れるか否かで、天精族かどうかを判断する。夜行族の血が半分入ったおれに、忌み名は無意味だった。だから、おれは、天精族じゃないんだ」
「――それで、おれは夜行族だって、あんなに言い張ってたのか」
スカイは、納得したように呟いた。そう、クロガネには、夜行族吸精一族という選択肢しかなかったのだ。
「おまえがやろうとしている五族協和は難しい」
クロガネは、低い声で言う。
「血に因る違いや、その混ざり具合でできる差は、努力で乗り越えられるものじゃない。違いは断絶を生み、差は嫉妬を生む。おまえが幾ら努力しても、ユテに精気は返せんかもしれんし、協和は成せんかもしれん。それでも、やるのか?」
寿命の短い真人族であっても、二十歳ならば、まだ、幾らでも人生の選びようがある。スカイ・ホールは、他の生き方を選ぶことができる。いつ目覚めるかも分からない天精族のために、一生を費やす必要などないのだ。
「やるよ」
スカイは即答し、静かに微笑む。
「おれの生き甲斐は、ユテだから」
「――分かった」
希望は、大きければ大きいほど、上手く行かなかった時、深い絶望へと変わる。だが、ここまで確認しておけば大丈夫だろう。
「協力する」
クロガネは、スカイへ真っ直ぐ手を差し伸べた。ユテを目覚めさせることに。五族協和に。それは、自分もまた望むことだから。帝国軍に入ることを手始めとして、スカイの進む道を、ともに歩む――。
「ありがとう……」
スカイは、少し湿った声で言うと、手を差し出して、クロガネの手をぎゅっと握った。その手を強く握り返し、引っ張って、クロガネはスカイを寝台から立ち上がらせる。
「来い」
先に立って、クロガネはユテが眠る寝台へ歩み寄った。天蓋から垂れた帳を潜り、ユテの寝顔を見下ろす。呼吸のない、五感の閉ざされた、静謐な眠り。精気すら、無生物のそれのようになっている。傍らへ来たスカイへ、クロガネは説明した。
「精気は、天然に存在する万物に宿る力。生きているものにとっては、命だ。それを分け与えるやり方は、一般的には二つ。手当てと口付けだ。おまえも、精気を感じることはできるんだから、自分の体内の精気をこいつへ流すように意識するんだ」
「分かった」
頷いて、スカイは、掛布の下へ手を差し入れ、昨夜のクロガネと同じようにユテの手を握った。夜行族は、熱感知にも優れているので、クロガネには、全てが手に取るように分かる。スカイの手から、体温がユテの体へ伝わると同時に、僅かずつ、精気が流れて移っていく。けれど、それはスカイ自身の精気であって、その体内で結界を作っているユテの精気ではない。やはり難しいのだ。
「ユテは、どうやっておまえに精気を渡したんだ?」
問うと、スカイは少しばかり頬を赤らめて答えた。
「口付けで」
「なら、口付けで、その時の精気の流れの逆を意識するのが一番いいかもしれんな」
クロガネが助言すると、それまでユテばかり見つめていたスカイが、困ったようにこちらを向いた。
「――ユテに穢れを与えてしまわないか、心配なんだ」
「そのための、おまえの呪具なんだろう? もっと、自分の力を信じろ」
「――分かった」
もう一度頷くと、スカイは決意した顔で、寝台に手を着いて、ユテへと、そっと身を屈めていった。その背中を見つめながら、クロガネは精気の流れを感じる。先ほどと同じようにまずは体温が伝わり、スカイの精気が流れ込んでいき――。遅れて、金色の光のように感じられるユテの精気が、ほんの僅かだが、スカイの体内からユテの体内へと、流れていくのが分かった。
「上手くいっている」
クロガネが小声で教えた後も、暫くの間、スカイはユテに口付けていたが、やがて静かに体を起こした。けれど、やはり、ユテは動かない。スカイから返された精気も、その冷たい体内で、少しずつ、光が萎むように、静謐な眠りへ溶け込んでいってしまう。
「――諦めるなよ?」
つい、言わずもがなのことを口にしてしまったクロガネに、スカイは背を向けたまま答えた。
「大丈夫だよ。ユテはおれの生き甲斐――おれの人生そのものだから」
「――そうだったな」
クロガネは相槌を打って、帳の外へ出た。ユテの顔を見下ろし続けるスカイの背中が、今夜は、もう一人にしてくれと語っている。
「……また来る」
告げて、クロガネは月明かりが差し込む窓へ行き、庭木へと跳び移った。
「――つらいな」
上のほうの枝に腰掛けて、少し前から待っていたヌバタマが呟いた。
「覚悟は、していただろう」
応じてから、クロガネは問うた。
「――店のほうは?」
「急いで戻らないといけない」
ヌバタマは抑揚に乏しい声で答え、先に枝を蹴って、店へ帰り始めた。
(心配されているのは、おれも同じか)
微苦笑して、クロガネは少女の後を追った。
(ごめん、ありがとう、クロガネ)
遠ざかる少年の気配を感じながら、スカイはユテの冷たい頬に触れた。穏やかな表情を湛えた、五年前から変わらない寝顔。
「おれは、おまえを諦めないから」
静かに告げて、もう一度口付ける。できる限り、体内にあるユテの精気を返せるよう、意識する。一度では足りなくても、少しずつでも、回数を重ねれば、いつかは、ユテの目覚めに届くかもしれない――。
自分の精気のほうを多く送り過ぎたのか、それとも溜まった疲れのせいか、頭がぼうっとしてきたので、スカイは体を起こして、寝台の端で靴を脱いだ。
「今夜は、ここで寝かせて」
ユテに囁き、掛布の下へ入り込む。五年前のあの《大聖罰》事件の後、ヌバタマが着替えさせた白い長衣を纏ったままの華奢な体に身を寄せ、枕に一緒に頭を乗せて、端正な横顔を見つめた。
「そう言えば、おまえ、おれが大きくなってからは、いっつも寝ながら待ってたけど、おれがまだ小さい内は、何か、あの木の下に腕組みして立って、おれのこと待ってたよな。やっぱり、心配してくれてたのかな」
多分、自分が知っている以上に、ユテは、スカイのことをずっと見てくれていたのだ。
「――おれ、おまえと話したいことが、いっぱいあるんだ」
つい、泣き言が零れる。
「早く、目覚めてくれよ……」
涙まで零してユテの枕を濡らさないように、スカイは固く目を閉じた。暗闇の中、疲れが、枕へ、敷布へ、体を沈み込ませていく――……。
風が、吹いている。
青空の下、穏やかな風が、辺りに生えた草を優しく撫ぜている。
「それで、ユテが《天災》にされたあの町はどうなった?」
柔らかな男の声に問われて、スカイは答えた。
「壊滅は免れたけど、やっぱり被害は酷くて……。人の意見も分かれました。それ見たことか、《聖罰》が下ったって主張する人と、天精族――《竜》を討伐すべきだって言い始めた人と、それから、現場を目撃してて雷竜一族について調べ始めた人と、大きく三つの派閥に分かれて、町の復興という面では協力しながらも、互いに意見を戦わせてる状態です。しかも、その意見の隔たりは、帝国中に広がりつつあって、それに乗じて、聖教会が勢力を拡大してる始末です……。おれが幾らあちこちで言っても、聖教会を信じる人達は、雷竜一族が聖教会に属してることを信じないで、おれを異端者扱いしますし……」
「五族協和は、難しい、か」
「――でも、不可能じゃない」
スカイは断言して、傍らに座る男の顔を見る。金茶色の髪に多く白いものが混じり、端正な顔にも多く皺を刻んだ男は、しかし、少年のような煌きを翠玉色の双眸に湛えて、スカイを見つめ返した。その眼差しに励まされ、スカイは言葉を続ける。
「実際、多くの種族間の混血の人達が、真人族と一緒に暮らしてる。おれも、クロガネやウツミ、ヌバタマと分かり合えた。雷竜一族には、まだわだかまりがあるけど、あいつらにも、きっと《混ざり者》だからこその事情があるんだと思う。五族協和は、決して不可能じゃないんです」
「協和の仕方にも、いろいろある。きみの目指す協和とは趣の異なる協和を、正しいという人々もいるかもしれない。何が正しいかは、人それぞれだから」
穏やかに別の見解を示した男を見据え、スカイは熱い思いを込めて言った。
「個人と個人が分かり合い、交わり合う五族協和を、おれは諦めません。だって、それを実現した〈あなた〉にこそ、人々は〈困難に負けず、正しいことを成す者〉――《勇者》の尊称を贈って、二千年、語り継いできたんですから。――ミスト・レイン」
男は、そよぐ緑の中で微笑んだ。
「ただ一人への思いは、何より強い。――ユテを、頼む」
風が吹いている。
少し寒い。窓が開けっ放しになっているのだ。
目を開くと、朝の淡い光の中、額に触れる位置に、ユテの髪の先の飾り筒があった。
(クレヴァスさんと同じで、この呪具に、ミストさんの意識が宿ってたりするのかな……)
今見た情景は、単なる夢とは思えない。ホールが父親のために、呪具に何か細工をしたのかもしれない。大いにあり得ることだ。
(だったら、いいな……)
「――そんなに端で寝ていると、風邪を引く……」
不意に声を掛けられて、スカイはびくりと体を震わせた。懐かしい、透明な響きの声。寝台の端ぎりぎりで丸めていた体を動かし、恐る恐る、ユテのほうを見る。澄んだ瑠璃色の双眸と、目が合った。ユテが、枕に頭を乗せたまま、優しい眼差しで、スカイのほうを見ている。目覚めている。
「――ユ……!」
声を詰まらせながら、スカイは両手を伸ばしユテに抱きついた。
「おまえ、大きくなったな」
言いながら、ユテは、さわさわとスカイの髪を撫ぜてくれた。涙が溢れて、止まらない。ユテの肩に顔を埋め、スカイは泣いた。ユテの声を聞いた途端、ユテの瞳を見た途端、心の中に溜まっていた澱のようなものが、全て洗い流される気がした。いつもこうだ。諦めかけ、絶望しかけても、ユテのお陰で、自分は、もう一歩を踏み出せる。ユテがいるから、強くなれる。全て、ユテのために。
「ずっと、傍に、ユテ……」
嗚咽で途切れる言葉で伝えた思いに、親友は、柔らかな声で答えた。
「それは、おれの望みでもある、スカイ」
そのまま、ユテはただ優しく、スカイが泣き止むまで、頭や背中を撫ぜ続けてくれた。
西大陸から、東大陸へ、果ては南大陸まで渡り歩き、二度目の五族協和を成し遂げた《勇者》スカイ・ホールの名は、忘れ去られることなく、のちの世へと語り継がれた。地老族、天精族、夜行族といった、寿命の長い種族達や、その混血達が、真人族や野生族と途切れることなく交わり、〈正しい〉行ないと、それを成した者の名を、意識して伝え続けたためである――。
体が重く、だるい。疲れが溜まっている。等間隔に設置された角灯が照らす官舎の廊下を、足を引き摺るようにして歩き、与えられた自室の扉の前に辿り着いたスカイは、纏った軍服の詰襟を寛げ、首に紐で下げた鍵を取り出して、鍵穴に差し込み、開錠した。次いで取っ手を握り、暫し目を閉じて祈る。それから、おもむろに取っ手を回して扉を開け、暗い部屋の中へ入った。蝋燭に火は灯さず、窓の隙間から差し込む月明かりを頼りに、部屋の奥に置いた天蓋付きの寝台へ歩み寄る。天蓋から下がる帳を潜ったスカイは、そこに眠る親友の顔を――変わらない微笑みを、微かな落胆を持って見つめ、そっと手を伸ばしてその頬に触れた。
「……冷たいな、ユテ」
ぽつりと語りかけ、スカイはそのまま崩れるように床に座り込み、掛布の下にあるユテの肩へ頭を寄せるように、寝台の端へ突っ伏した。今日も、祈りは届かなかった――。
あれから、五年が経った。最初の一年間は、希望に満ちていた。〈大おじいちゃん〉の許で、頭環に宿ったクレヴァスの助言も受けながら、呪具製作の修行を積んだ。そして僅か一年で、クレヴァスが作ったものを凌ぐ呪具の頭環を作り上げ、あの蟻の巣のような洞穴の一室に寝かせていたユテに着けさせた。が、親友は目覚めなかった。呪具の出来が悪かったのかと思い、幾度となく作り直して着けさせても、親友は目覚めなかった。二人きりになった部屋で、忌み名を呼び、目覚めてくれと懇願したこともある。それでも、親友は目を覚まさなかった。その理由を、風竜一族の里にいるヒタネのところまで独断で訊きに行ったクロガネは、三つのことを教えられて帰ってきた。一つ目に、《休眠》というものは、周りの環境が純血の天精族にとってよいものにならなければ、明けないこと。二つ目に、ユテ自身の体に溜まった穢れが多過ぎて、目覚めの妨げになっているだろうこと。三つ目に、《休眠》中は、五感が全て閉ざされているので、触覚も働いておらず、忌み名を呼んで命じた条件――スカイがユテに相応しい呪具を作って着ける――が、認識されないということ。聴覚も働いていないので、《休眠》中に忌み名を呼んで新たに何かを命じても、やはり認識されないということ。更に、ヒタネは付け加えたという。
――「雷竜一族の雷で、ユテの《休眠》が一度破られたのなら、最後の手段として、彼らを頼るか使うかすることを考えるべきかもしれない。とにかく、早く目覚めさせたいなら、何か刺激が必要なんだと思う……」
スカイは落ち込んだ。雷竜一族を頼るのは論外で、採れる選択肢ではなかった。しかし、絶望はしなかった。できることからしていかなければ、と思った。まず、周りの環境がユテにとってよいものになるように、穢れの原因となるものをできるだけ排除して、自分自身もあまり傍へ行かないようにした。本当は、風竜一族の里へ帰すのが一番だと分かってはいたが、目覚めても会えなくなる可能性が高いので、踏み切れなかった。その代わり、ウツミにユテに溜まった穢れをできる限り浄化して貰い、その上で、穢れを少しでも除くための呪具を考えて作った。それは白金の腕輪として完成し、今もユテの両腕に嵌めてある。けれど、それでもユテは目覚めなかった。呪具製作を学び始めてから、二年が過ぎていた。今度こそ絶望しそうになったスカイを救ったのは、妹の一言だった。
――「ここはアース真人帝国よ。ユテさんにとってよい環境が整ってるとは言えないわ。もっと他に、できることがあるんじゃない?」
確かにそうだった。〈周りの環境〉の範囲や意味を、更に考える必要があると思えた。そこから続く人生は、ユテがスカイになってほしくないと言っていた《勇者》の生き方に重なる気もしたが、それでいいと思った。もともと、《勇者》には憧れていたのだ。
十七歳のスカイはレイン村を出て、帝都ソイルに行った。〈周りの環境〉を整える、即ち〈帝国を変える〉には、まず帝都を見なければと思ったからだ。そして、丁度募集が行なわれていた帝国の軍隊に入った。ユテとクロガネに仕込まれた刀捌きで、入隊試験に合格できるという勝算があったのもあるが、何より、手っ取り早く帝国の中枢に関わっていけると考えたのだ。
軍隊に入って三年。スカイの目論見は当たった。スカイには、刀捌きの他に、呪具を作れるという強味がある。真人族の中にあっては、特異な力だ。スカイは、その力を惜しみなく使い、帝国軍の研究開発部で出世して、三年間で少尉という地位を与えられた。軍の中で、ある程度の発言権も得た。その力と発言権を利用して、スカイは、汽車を段階的に〈気車〉に替えていく事業を行なってきた。〈気車〉とは、専用の呪具を備えつけることにより、蒸気ではなく、精気で動く列車だ。汽車――蒸気機関車よりも速度が出せ、制御が簡単で、呪具さえあれば、燃料の確保が容易いという利点がある。難点は、その呪具を作れる者が、今のところスカイしかいないことだった。だからこそ、スカイは少尉という地位とともに、何人かの部下――地老族と真人族との混血を与えられて、日々、彼らに呪具製作を教えつつ、呪具の改良や研究を進めているのだ。
「ユテ……、おれは、頑張ってるんだ……」
呟いて、スカイは寝台から顔を上げた。床に座り込んだまま手を伸ばして、枕から寝台の敷布の上に落ちている、編まれた白銀色の髪をそっと掬い上げて、顔を寄せる。森を吹き抜ける風そのもののような匂い。天精族という存在は、本当に自然そのもののような気がする。自然の一部が、偶然、人型をしているだけのような――。白銀色の髪の先は、白金と瑠璃で作られた飾り筒に収まっている。それもまた呪具なのだと、呪具製作を習っている時、チムニーから教えられた。ホール家始祖のホールが作って、ユテに渡したものなのだと。恐らく、その効果で、ユテは《天災》となりつつも、スカイが辿り着くまで意識を保っていられたのだろうと。瑠璃の上に象嵌された、白金の繊細な唐草模様が、確かな技を、熱い思いを、伝えてくる。自分は、そのホールの血を引いている。誇りを持って、希望を持って、働いてきた。
「いずれ大いに軍のためになるって媚びながら、石炭で動く蒸気機関車を精気で動く呪具機関車に変えて、穢れの排出を少しでも減らして……。今は地老族との混血だけだけど、真人族の社会の中に、少しでも他の種族が入るようにして……。東大陸じゃ政治に関与してる聖教会に対抗できるように、軍備の増強も考えて……。五族協和への――おまえが目覚めるための環境を整える、一歩になるように……」
けれど、時々、耐えられなくなる。純血の真人族を第一として、他の種族や混血を迫害する帝国の、その軍隊の中にあることに。その行動規範に従わなければならないことに。そして、何より、ユテと話せないことに。
スカイが帝都に出てきた後も、ずっとユテの体はチムニーの洞穴の一室に寝かせたままにしていた。顔を見られなくなるのはつらかったが、穢れが蔓延する帝都になど連れてこられないと思ったのだ。しかし、少尉の地位を与えられ、こうして研究開発部の官舎の中に立派な一室をあてがわれたのを機に、とうとうスカイは、内密に、研究資材に紛れ込ませて、ユテを運んできてしまった。そうしなければ、心が壊れそうな気がしたのだ。
「毎日おまえの顔が見たくて、無理してこんなところまで連れて来ちゃったけど……」
スカイは、白銀色の髪を敷布の上にそっと戻し、のろのろと立ち上がると、枕の両脇に手を着いて、ユテの顔を真上から見下ろす。白銀色の髪がかかる白い額には、菱形の水晶が光っている。スカイが作った、精気を抑える頭環の飾り。せっかく作ったのに、それ以外にもあらゆる努力を積んでいるのに、ユテは目覚めない。
「欲望っていうのは、限りがないよな……。もう、おまえの寝顔を見てるだけじゃ、満足できない。つらいんだ……」
スカイは囁くと、身を屈め、枕の上にある翡翠色の耳へ、唇を寄せた。硬質な冷たい鱗に、五年間待った――二十歳になった己の熱を伝え――。
「おい」
閉めた窓の外から声がかかり、スカイはゆっくりとユテから体を離して、振り向いた。彼が来たことは、声がかかる前に、気配で分かっていた。外が透けて見える帳越しに、両開き窓の隙間に外から細い刀身が差し込まれ、掛け金が外されるさまを眺める。慣れた様子で窓を開き、月光を背に現れた姿は、ほっそりとした少年のもの。五年前よりすらりと手足が伸びたが、まだまだ少年だ。
「何をしている」
問う言葉に、スカイは問いで返した。
「日光の影響を中和する呪具を渡したはずなのに、何でおまえは夜行性のままなんだ? 大体、窓っていうのは出入りする場所じゃないって、前にも教えただろう?」
「いつ活動しようと、どこから出入りしようと、おれの勝手だ」
答えた少年の首には、丸い紅玉が嵌まった飾りが一つ下がる首輪が着いている。律儀に、二年前スカイが渡した呪具を身に着け続けているのは彼らしい。夜行族吸精一族と天精族火竜一族の混血であるクロガネ。彼は何故かスカイについて来て、この帝都で暮らしている。そして時折、こうして顔を見せる。
「それより、そいつに何をしようとしていた?」
改めて問われて、スカイは微苦笑した。どうやらクロガネも、ユテのことが気になって仕方ないらしい。
「別に。ちょっと顔を眺めてただけだよ……」
適当に告げて、スカイはずるずると再び床に腰を下ろし、帳の外に頭を出して、ユテの寝台に背中で凭れた。疲れた。頑張ることに疲れてしまった。それでも、朝が来れば、自分はまた頑張るだろう。ただ、夜はもう駄目だ。心が崩れて、理性が保てない。このままでは、本当に、ユテに何かしてしまいそうだ。
(ああ、そうか)
唐突にスカイは悟った。クロガネが気に掛けているのは、ユテ一人のことではなく、スカイも含めてなのだ。心配して、ずっと様子を窺ってくれているのだろう――。
「――なあ、おまえも、帝国軍に入らないか?」
ふと浮かんだ思いつきを口にすると、窓枠に座った少年の気配が、少し険しくなった。
「夜行族は、他種族には使われず、従わん。それが掟だ」
硬い声の返答に、スカイはまた微苦笑した。五年前は、〈夜行族の問題〉としか言ってくれなかった事情。クロガネの心なのか、夜行族自体なのか、どちらにせよ、変われば変わるものだ。
「使うとか、従うとかじゃない。協力だよ」
スカイは、穏やかに説明する。
「おれは、この国を、アース真人帝国じゃなく、アース五族協和国にしたいんだ。そのためには、五族が、互いに相手を知らないといけない。個人と個人で知り合わなきゃいけないんだ。その第一歩として、おれは真人族と地老族との混血を部下として招いてる訳だけど、おまえにも、剣術指南役か何かで、軍の奴らに関わって貰えたらなって思うんだ」
暫し黙ってから、クロガネは言った。
「――考えておく」
(進歩だな……!)
スカイは、驚いてクロガネを見つめた。火竜一族の血を引く証である尾を、ずっと隠していたクロガネ。夜行族に命じられるままに動いていたクロガネ。そんな、出会った当時のクロガネからすると、本当に変わった。
「ありがとう。期待してるよ」
礼を述べて、スカイは立ち上がり、天蓋から下がる帳を元通りに整えて、ユテの寝台を離れた。そのまま部屋の真ん中にある自分の寝台へと歩き、倒れ込むように寝転ぶ。靴を床へ投げ捨てるように脱ぎ、軍服の上着も脱いで椅子へ放り、掛布を被った。
「おやすみ、クロガネ」
一方的に告げて、目を閉じる。寝台へ体が重く沈み込むような感覚。溜まった疲れが、余計なことを考える間もなく、すぐに眠りへと引き摺りこんでくれた。
「スカイは大丈夫そうか?」
背後の木の上に現れた少女の言葉に、クロガネは首を横に振った。
「もうそろそろ限界だろうな」
呟くように言い、クロガネは窓枠から部屋の中へと下りる。音もなく歩いて、ユテの寝台へと近づき、天蓋から下がる帳を潜った。寝かされたユテの、相変わらずの、微笑んだような穏やかな寝顔。
(確かに、こんなものを毎日落胆とともに眺めていては、気が狂うか)
思いながら、クロガネは掛布の下へ片手を入れ、ユテの手を探って握る。少し目を閉じ、ウツミから習ったように、精気を送り込んでみた。しかし、ユテに変化はない。今度は、寝台に手を着いて、先ほどスカイがしていたように身を屈め、五年前にしたように、ユテに口付けた。吸精の逆の方法で精気を送り込んでみたが、やはり変化はない。
(駄目か……)
「――難しいものだな」
夜風がそよぐような気配で窓まで来たヌバタマが、溜め息とともに呟いた。クロガネは身を起こし、ユテの唇を指先で拭ってから、帳の外へ出た。五感が閉ざされていても、精気の刺激ならば届くはずと思いついて試してみたのだが、効果がなかったようだ。
(あんたが早く目覚めないと、スカイがもたんぞ)
ちらと、眠りに落ちた青年のほうを見遣り、クロガネは窓へ戻る。ヌバタマとともに木の上へ跳び移り、慣れた手つきで窓を閉め、引っ掛けておいた糸で外から鍵も閉めて、官舎を後にした。
三年前から、クロガネはヌバタマとともに帝都に住んでいる。住み処は、とある居酒屋の屋根裏部屋で、ついでにそこで料理の下拵えや用心棒紛いのこともやっている。そこの主人は、真人族白肌一族の血に夜行族吸精一族の血が四分の一入った《混ざり者》で、二人に対しても理解があった。そう、探せば、《混ざり者》――種族間の混血も、結構いるのだ。スカイが目指す五族協和の土台がない訳ではない。
建物の屋根伝いに居候先の居酒屋へと帰りながら、クロガネはヌバタマに言った。
「帝国軍に勤めないかと誘われた」
「そうか」
ヌバタマはいつも通り無表情に応じる。
「おまえがいいなら、受ければいい。一族のほうは、これまで通り、わたしが黙らせておく」
伝説の巫女ツゴモリの孫であるヌバタマは、吸精一族の中で、次期族長と目される立場にあり、それなりの発言権を持っている。今は比較的自由に行動しているが、その内、一族の掟に縛られた生活を余儀なくされるようになるだろう。だからこそ、今はこうしてクロガネにくっ付いて、縄張りの外で見聞を広めているのかもしれない。
「いつも、すまん」
「気にするな。わたしも、いろいろ楽しんでいるんだ」
長い黒炭色の髪を靡かせた少女は、クロガネのほうを見て、微かに両眼を細めた。
「ホール少尉、顔色悪いわよ。ちゃんと食べて寝てる?」
朝の光の中、官舎の食堂できびきびと働く少女に言われて、食卓に着いたスカイは苦笑いした。
「ちゃんと食べてるのは、いつも見て知ってるだろう?」
「だからこそ、よ。昨日の夜は食べに来なかったじゃない」
「ちょっと、実験が長引いてね。途中で止める訳にもいかなかったから」
「でも、体壊して働けなくなったら、元も子もないわよ?」
容赦なく言えるのは、家族だからだろう。少女の名はケイヴ。十七歳になったスカイの妹だ。彼女もスカイを心配してだろう、二年前にレイン村を出てきて、この官舎の食堂で働き始めたのだ。今では持ち前の可愛らしさと気の強さで、食堂を利用する兵士と士官の間で人気者になり、逆にスカイに気を揉ませるほどである。
「分かってるよ」
優しい味の野菜煮込みを匙で掬って啜りながら、スカイが頷くと、ケイヴはすっと近づいてきて、小声で問うてきた。
「――ユテさん、まだ……?」
ケイヴには、内密にユテを運んできたことを知らせている。スカイは、無言で小さく頷いた。何度となく繰り返してきたこの遣り取りはつらいが、一つ救われることがある。祖母や両親は、今だにユテのことを〈様〉付けで呼ぶが、ケイヴだけは、〈さん〉付けで呼ぶ。それが何だか嬉しい。
「そう……。あのね」
更に声を潜めて、ケイヴは言う。
「あたしも、いろいろ情報を集めたり資料を読んだりしてるんだけど、昔話にもあるじゃない? 《眠れる森の美女》って。あれって、《休眠》した純血の天精族のことじゃないかと思うの」
スカイも、その物語は聞いたことがあった。確か、森の中の城で一人眠り続ける美女に、とある騎士が口付けをしたところ、目覚めたという話だったはずだ。
「だから、ね、一回試してみたら?」
妹に、少女らしく、やや頬を赤らめて勧められ、スカイは昨夜のことが思い出されて、自分も頬や耳が熱くなるのを感じた。夜の自分はどうかしている。ユテには例の腕輪を身に着けさせているとはいえ、日常生活の中で知らず知らず穢れを纏っている自分が、触れるべきではないと分かっているのに――。
「――もしかして、もう試したの?」
妹に怪訝そうに訊かれて、スカイは大きく首を横に振った。
「じゃあ、やっぱり試してみるべきだと思うの」
ケイヴは、きらきらと翠玉色の双眸を輝かせて囁く。
「何しろ、お兄ちゃんは、《加護》を貰った、特別な人なんだから……!」
それは、それこそ雷竜一族の雷撃のような示唆だった。
(そうか。おれの体内には、大量にユテの精気がある……!)
いつか、クロガネも指摘していた、その精気を、ユテに僅かでも返すことができれば、目覚めを誘う刺激となりはしないだろうか。
(精気の送り方なんて、分からないけど……)
脳裏に浮かんだのは、昨夜も現れたクロガネの顔。
(あいつに教えて貰えれば)
クロガネが二日続けて訪れたことは今までないが、あの義理堅い性格を考えれば、入隊してほしいというスカイの依頼の返事を、今晩にでも伝えに来るはずだ。スカイは、久し振りに希望の光を見た思いで、夜を待った。
居酒屋ファイヤーで下拵えの仕事を一通り終えたクロガネは、後をヌバタマに任せ、黒い上衣を纏って外へ出た。スカイに、昨夜の返事をしなければならない。それに何より、スカイが気掛かりだった。
前は、あれほど嬉々として呪具製作に向き合っていたというのに、今では死んだような目で、ただ仕事として呪具製作に携わっている。それでもまだ、毎日働き続けているのは、偏にユテのためだろう。
クロガネは、高い建物の屋根から屋根へと跳び移って、帝国軍の基地へ向かいながら、首元の紅玉が嵌まった飾りを触る。
――「クロガネ、これ使ってくれよ」
そう言って、二年前にスカイが笑顔で渡してきた呪具の首輪。お陰で、昼間でも皮膚を焼かれる心配なく外出できるようになった。
(あいつが目覚めないのは、おまえのせいじゃない)
気に病むな、と何度も言ったが、スカイは、少しずつ少しずつ、精神的に病んできている。
(おれが、軍隊で働くことで、少しでもおまえの気が紛れるなら)
そんなことを思いながら、官舎の庭木の枝まで来たクロガネは、そこで、目を瞠った。スカイの部屋の、いつもは閉ざされている窓が、何故か開かれている。いつもはもう少し帰りの遅いスカイの気配が、既に部屋の中にある。
(まさか、あいつ、何か思い詰めて――)
急いで部屋の中へ跳び込んだクロガネは、あまりに静かに、自分の寝台に腰掛けている青年の姿に、一瞬、言葉を失った。窓から差し込む月光の中、まるで彫刻のように見えたのだ。
「待ってたんだ」
既に軍服の上着を脱いでいるスカイは、柔らかな表情で言った。クロガネは一呼吸置いてから、答えた。
「返事は、入る、だ。おまえの話、受ける」
「そうか。ありがとう。凄く、嬉しい」
どことなくぼんやりとした反応に、クロガネは眉根を寄せた。
「おれの返事を待っていたんじゃないのか?」
「いや……、待ってたんだけど、もっと別のことも教えてほしくて……」
僅かに目を泳がせて、スカイは言う。
「精気の、送り方を教えてほしいんだ」
クロガネは、スカイの意図を察し、そして告げた。
「それは、おれが昨夜試した。それでも、あいつは、目覚めていない」
「――え……」
スカイは、両眼を見開いて、クロガネを凝視した。驚かせ、傷つけることは分かっていたので、できれば黙っていたかったが、嘘は吐けない。
「済まん。期待させて裏切ることはしたくないと思ったんだが、無断で勝手をしたことは詫びる」
「いや、そんな、いいよ……」
スカイは、複雑そうに微笑んだ。
「おまえが、ユテのことも、おれのことも、ずっと心配してくれてるのは、分かってるんだ」
穏やかに言ってから、青年はふと真剣な顔になる。
「でも、もう一回、試したい。おれの中のユテの精気を、ユテに少しでも返したいんだ」
成るほど、とクロガネは思った。それは盲点だったが、やってみる価値はあるだろう。しかし――。
「おまえは、天精族でも、夜行族でもない。精気の扱いがそう巧くできるとは思えん」
「うん。分かってる。それでも、思いついたことは、全て試したいんだ」
月明かりを受けた翠玉色の双眸が、真っ直ぐクロガネを見つめる。小さく溜め息をついて、クロガネは、今まで秘めてきたことを、さらりと口にした。
「おれの天精族としての通し名はマホ。忌み名はマコトノヒという」
さすがに驚いたらしい、スカイは暫し絶句した後、慌てて言った。
「お、おまえ、何言ってるんだ! そんな大切なこと、口にするなよ!」
「何の問題もない」
クロガネは、スカイを見つめ返して教える。
「おれを、忌み名で縛ることはできん。それは、おれにこの二つの名を与えた天精族火竜一族の奴らが証明済みだ。天精族は、忌み名で縛れるか否かで、天精族かどうかを判断する。夜行族の血が半分入ったおれに、忌み名は無意味だった。だから、おれは、天精族じゃないんだ」
「――それで、おれは夜行族だって、あんなに言い張ってたのか」
スカイは、納得したように呟いた。そう、クロガネには、夜行族吸精一族という選択肢しかなかったのだ。
「おまえがやろうとしている五族協和は難しい」
クロガネは、低い声で言う。
「血に因る違いや、その混ざり具合でできる差は、努力で乗り越えられるものじゃない。違いは断絶を生み、差は嫉妬を生む。おまえが幾ら努力しても、ユテに精気は返せんかもしれんし、協和は成せんかもしれん。それでも、やるのか?」
寿命の短い真人族であっても、二十歳ならば、まだ、幾らでも人生の選びようがある。スカイ・ホールは、他の生き方を選ぶことができる。いつ目覚めるかも分からない天精族のために、一生を費やす必要などないのだ。
「やるよ」
スカイは即答し、静かに微笑む。
「おれの生き甲斐は、ユテだから」
「――分かった」
希望は、大きければ大きいほど、上手く行かなかった時、深い絶望へと変わる。だが、ここまで確認しておけば大丈夫だろう。
「協力する」
クロガネは、スカイへ真っ直ぐ手を差し伸べた。ユテを目覚めさせることに。五族協和に。それは、自分もまた望むことだから。帝国軍に入ることを手始めとして、スカイの進む道を、ともに歩む――。
「ありがとう……」
スカイは、少し湿った声で言うと、手を差し出して、クロガネの手をぎゅっと握った。その手を強く握り返し、引っ張って、クロガネはスカイを寝台から立ち上がらせる。
「来い」
先に立って、クロガネはユテが眠る寝台へ歩み寄った。天蓋から垂れた帳を潜り、ユテの寝顔を見下ろす。呼吸のない、五感の閉ざされた、静謐な眠り。精気すら、無生物のそれのようになっている。傍らへ来たスカイへ、クロガネは説明した。
「精気は、天然に存在する万物に宿る力。生きているものにとっては、命だ。それを分け与えるやり方は、一般的には二つ。手当てと口付けだ。おまえも、精気を感じることはできるんだから、自分の体内の精気をこいつへ流すように意識するんだ」
「分かった」
頷いて、スカイは、掛布の下へ手を差し入れ、昨夜のクロガネと同じようにユテの手を握った。夜行族は、熱感知にも優れているので、クロガネには、全てが手に取るように分かる。スカイの手から、体温がユテの体へ伝わると同時に、僅かずつ、精気が流れて移っていく。けれど、それはスカイ自身の精気であって、その体内で結界を作っているユテの精気ではない。やはり難しいのだ。
「ユテは、どうやっておまえに精気を渡したんだ?」
問うと、スカイは少しばかり頬を赤らめて答えた。
「口付けで」
「なら、口付けで、その時の精気の流れの逆を意識するのが一番いいかもしれんな」
クロガネが助言すると、それまでユテばかり見つめていたスカイが、困ったようにこちらを向いた。
「――ユテに穢れを与えてしまわないか、心配なんだ」
「そのための、おまえの呪具なんだろう? もっと、自分の力を信じろ」
「――分かった」
もう一度頷くと、スカイは決意した顔で、寝台に手を着いて、ユテへと、そっと身を屈めていった。その背中を見つめながら、クロガネは精気の流れを感じる。先ほどと同じようにまずは体温が伝わり、スカイの精気が流れ込んでいき――。遅れて、金色の光のように感じられるユテの精気が、ほんの僅かだが、スカイの体内からユテの体内へと、流れていくのが分かった。
「上手くいっている」
クロガネが小声で教えた後も、暫くの間、スカイはユテに口付けていたが、やがて静かに体を起こした。けれど、やはり、ユテは動かない。スカイから返された精気も、その冷たい体内で、少しずつ、光が萎むように、静謐な眠りへ溶け込んでいってしまう。
「――諦めるなよ?」
つい、言わずもがなのことを口にしてしまったクロガネに、スカイは背を向けたまま答えた。
「大丈夫だよ。ユテはおれの生き甲斐――おれの人生そのものだから」
「――そうだったな」
クロガネは相槌を打って、帳の外へ出た。ユテの顔を見下ろし続けるスカイの背中が、今夜は、もう一人にしてくれと語っている。
「……また来る」
告げて、クロガネは月明かりが差し込む窓へ行き、庭木へと跳び移った。
「――つらいな」
上のほうの枝に腰掛けて、少し前から待っていたヌバタマが呟いた。
「覚悟は、していただろう」
応じてから、クロガネは問うた。
「――店のほうは?」
「急いで戻らないといけない」
ヌバタマは抑揚に乏しい声で答え、先に枝を蹴って、店へ帰り始めた。
(心配されているのは、おれも同じか)
微苦笑して、クロガネは少女の後を追った。
(ごめん、ありがとう、クロガネ)
遠ざかる少年の気配を感じながら、スカイはユテの冷たい頬に触れた。穏やかな表情を湛えた、五年前から変わらない寝顔。
「おれは、おまえを諦めないから」
静かに告げて、もう一度口付ける。できる限り、体内にあるユテの精気を返せるよう、意識する。一度では足りなくても、少しずつでも、回数を重ねれば、いつかは、ユテの目覚めに届くかもしれない――。
自分の精気のほうを多く送り過ぎたのか、それとも溜まった疲れのせいか、頭がぼうっとしてきたので、スカイは体を起こして、寝台の端で靴を脱いだ。
「今夜は、ここで寝かせて」
ユテに囁き、掛布の下へ入り込む。五年前のあの《大聖罰》事件の後、ヌバタマが着替えさせた白い長衣を纏ったままの華奢な体に身を寄せ、枕に一緒に頭を乗せて、端正な横顔を見つめた。
「そう言えば、おまえ、おれが大きくなってからは、いっつも寝ながら待ってたけど、おれがまだ小さい内は、何か、あの木の下に腕組みして立って、おれのこと待ってたよな。やっぱり、心配してくれてたのかな」
多分、自分が知っている以上に、ユテは、スカイのことをずっと見てくれていたのだ。
「――おれ、おまえと話したいことが、いっぱいあるんだ」
つい、泣き言が零れる。
「早く、目覚めてくれよ……」
涙まで零してユテの枕を濡らさないように、スカイは固く目を閉じた。暗闇の中、疲れが、枕へ、敷布へ、体を沈み込ませていく――……。
風が、吹いている。
青空の下、穏やかな風が、辺りに生えた草を優しく撫ぜている。
「それで、ユテが《天災》にされたあの町はどうなった?」
柔らかな男の声に問われて、スカイは答えた。
「壊滅は免れたけど、やっぱり被害は酷くて……。人の意見も分かれました。それ見たことか、《聖罰》が下ったって主張する人と、天精族――《竜》を討伐すべきだって言い始めた人と、それから、現場を目撃してて雷竜一族について調べ始めた人と、大きく三つの派閥に分かれて、町の復興という面では協力しながらも、互いに意見を戦わせてる状態です。しかも、その意見の隔たりは、帝国中に広がりつつあって、それに乗じて、聖教会が勢力を拡大してる始末です……。おれが幾らあちこちで言っても、聖教会を信じる人達は、雷竜一族が聖教会に属してることを信じないで、おれを異端者扱いしますし……」
「五族協和は、難しい、か」
「――でも、不可能じゃない」
スカイは断言して、傍らに座る男の顔を見る。金茶色の髪に多く白いものが混じり、端正な顔にも多く皺を刻んだ男は、しかし、少年のような煌きを翠玉色の双眸に湛えて、スカイを見つめ返した。その眼差しに励まされ、スカイは言葉を続ける。
「実際、多くの種族間の混血の人達が、真人族と一緒に暮らしてる。おれも、クロガネやウツミ、ヌバタマと分かり合えた。雷竜一族には、まだわだかまりがあるけど、あいつらにも、きっと《混ざり者》だからこその事情があるんだと思う。五族協和は、決して不可能じゃないんです」
「協和の仕方にも、いろいろある。きみの目指す協和とは趣の異なる協和を、正しいという人々もいるかもしれない。何が正しいかは、人それぞれだから」
穏やかに別の見解を示した男を見据え、スカイは熱い思いを込めて言った。
「個人と個人が分かり合い、交わり合う五族協和を、おれは諦めません。だって、それを実現した〈あなた〉にこそ、人々は〈困難に負けず、正しいことを成す者〉――《勇者》の尊称を贈って、二千年、語り継いできたんですから。――ミスト・レイン」
男は、そよぐ緑の中で微笑んだ。
「ただ一人への思いは、何より強い。――ユテを、頼む」
風が吹いている。
少し寒い。窓が開けっ放しになっているのだ。
目を開くと、朝の淡い光の中、額に触れる位置に、ユテの髪の先の飾り筒があった。
(クレヴァスさんと同じで、この呪具に、ミストさんの意識が宿ってたりするのかな……)
今見た情景は、単なる夢とは思えない。ホールが父親のために、呪具に何か細工をしたのかもしれない。大いにあり得ることだ。
(だったら、いいな……)
「――そんなに端で寝ていると、風邪を引く……」
不意に声を掛けられて、スカイはびくりと体を震わせた。懐かしい、透明な響きの声。寝台の端ぎりぎりで丸めていた体を動かし、恐る恐る、ユテのほうを見る。澄んだ瑠璃色の双眸と、目が合った。ユテが、枕に頭を乗せたまま、優しい眼差しで、スカイのほうを見ている。目覚めている。
「――ユ……!」
声を詰まらせながら、スカイは両手を伸ばしユテに抱きついた。
「おまえ、大きくなったな」
言いながら、ユテは、さわさわとスカイの髪を撫ぜてくれた。涙が溢れて、止まらない。ユテの肩に顔を埋め、スカイは泣いた。ユテの声を聞いた途端、ユテの瞳を見た途端、心の中に溜まっていた澱のようなものが、全て洗い流される気がした。いつもこうだ。諦めかけ、絶望しかけても、ユテのお陰で、自分は、もう一歩を踏み出せる。ユテがいるから、強くなれる。全て、ユテのために。
「ずっと、傍に、ユテ……」
嗚咽で途切れる言葉で伝えた思いに、親友は、柔らかな声で答えた。
「それは、おれの望みでもある、スカイ」
そのまま、ユテはただ優しく、スカイが泣き止むまで、頭や背中を撫ぜ続けてくれた。
西大陸から、東大陸へ、果ては南大陸まで渡り歩き、二度目の五族協和を成し遂げた《勇者》スカイ・ホールの名は、忘れ去られることなく、のちの世へと語り継がれた。地老族、天精族、夜行族といった、寿命の長い種族達や、その混血達が、真人族や野生族と途切れることなく交わり、〈正しい〉行ないと、それを成した者の名を、意識して伝え続けたためである――。
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