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木は語る
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「ただいま、カオル」
弘樹は、大きく枝を広げた楠の大木を見上げ、微笑んだ。背負っていたランドセルを下ろし、楠の根元に座る。頼もしい幹を背に、ランドセルからタブレットPCを取り出した。
自宅近くの公園に生えている、この楠の根元で、母が帰宅する時刻まで宿題をするのが、小学五年生、南弘樹の日課だ。真っ直ぐ家には帰りたくない。何故なら、あの男がいるからだ。
(母さんは、何で、あんな男を住まわせてるんだろ……)
あの男が家に来て三年が経つ。その間、何があった訳でもないが、とにかく薄気味悪いのだ。
(特にあの目つき)
弘樹はタブレットPCの画面に視線を落としたまま、眉をひそめる。
こちらを見ているのかどうかも分からない虚ろな双眸で、しかし確かに観察されている。そして、殆ど喋らない。弘樹の母親相手には少し話すようだが、弘樹相手には全くだ。動きものろのろとしていて、一緒に生活していると、神経を逆撫でされることもしばしばだ。
(それに、いつも何をしてるんだ……?)
シングルマザーとして弘樹を育ててくれている母の稼ぎを、あの男は食い潰している。外出はするが、それが仕事でないことは、三年間ともに暮らしていて、もうはっきりしている。日曜日に母が昼寝している間に、弘樹はよく母の通信端末を見て家計簿を確認しているが、あの男からと思しき収入が記されていた試しがないのだ。
(一体何なんだ、あいつ……!)
しかし、当の母は文句一つ言わず、あの男を家に置き続けている。弘樹があの男を嫌っていることは知っている様子だが、放課後、毎日公園に立ち寄ってから帰ってくる息子に、母は不審者に気をつけるよう言うだけで、それ以上は言わない。
(不審者と言うなら、まさに、あの男じゃないか)
胸中で文句を呟きつつ、弘樹は宿題を始めた。光合成についてなどは、お手の物だ。
頭上で、ざあっと楠が風に葉を鳴らす。心地よい音だ。この楠の根元にいると、いつも気持ちが安らぐ。
「そう言えば、カオル」
弘樹は、夕方の公園を見回し、近くに誰もいないのを確認して、自分で勝手につけた名を呼んだ。楠をタブレットPCで調べて、その花言葉が「芳香」だと知り、つけた名だ。そもそも、小学二年生の時に楠という漢字をタブレットPCで調べて知って、自分の名前に似ていると思い、この木に親しみを感じてきたのである。タブレットPCは学校から貸与されているものだが、家にも持ち帰って自由に使うことができるので、調べものが好きな弘樹にとっては大変ありがたい道具だ。
「ペルム紀末の大量絶滅って知ってるか? 今日、理科の時間に聞いたんだ」
さわさわという葉音で、カオルは先を促してくれる。
「恐竜が絶滅した時の隕石衝突より、たくさんの生物が絶滅したって。でも原因は、大規模火山噴火とか、樹木のリグニンを分解できる真菌が登場したからだとか、諸説あるらしい」
弘樹は、タブレットPCで調べた内容を披露して、カオルを見上げた。
「とにかく、二酸化炭素濃度が上昇し続けて、酸素濃度が低下したことが大量絶滅の大きな要因になったんだ。人間は、二酸化炭素を排出してばかりいるけど、おまえ達はいっぱい酸素を出してくれて、偉いよな……」
カオルは再び、ざあっと葉を鳴らした。まるで朗らかに笑っているようだ。弘樹は微笑み、それから深い溜め息をついて俯いた。明日は、憂鬱な土曜日だ。母は仕事でおらず、あの男と一日、二人きりで過ごさねばならない。友人宅に行くという選択肢もあるが、弘樹にとっては、カオルの根元こそが最も心安まる場所だった。
「あいつが出掛けなかったら、明日も来るよ」
タブレットPCに表示された時刻が十六時五十六分となっている。美容師をしている母は、十六時半には仕事を終えて十七時には帰ってくる。弘樹のために、職場で調整して貰っているのだ。
タブレットPCをランドセルに仕舞い、立ち上がった弘樹は、改めてカオルを見上げた。西日を浴びて佇む楠は、何度見ても美しい。大きな傘の如く見事に伸びた枝と、惚れ惚れするような立派な幹だ。冬でも青々と茂る葉は、雨からも日差しからも弘樹を守ってくれる。
「またな、カオル」
そっと木肌に触れてから、弘樹はランドセルを背負い、公園の小道を走って、すぐそこの自宅へ向かった。
◇
「全く、あいつ、掃除しないなら、せめて散らかすなよ!」
一人の家で、弘樹は遠慮なく文句を言った。
男は、朝早くから出掛けて留守だった。それは嬉しいのだが、居間のテーブルの上と下に、明らかにあの男が書いたと思しき覚え書きが散らばっていたのだ。
土曜日は、弘樹が洗濯と掃除と食事の用意を担っている。洗濯で、あの男の衣服を洗濯機に入れるだけでも業腹だというのに、何故、片付けまでしてやらねばならないのだろう。
(しかし、あいつが、一体何を書いてたんだ……?)
ふと興味を惹かれて、弘樹はごみ箱に入れかけた覚え書きを見た。そこには、走り書きのような文と、幾つかのURLが記されている。
(電網世界上の、この無料ソースコードサイトの、このプログラムを使えば、安価な電子工作キットを利用するだけで、植物と意思疎通できる……? え……?)
弘樹の頭に真っ先に思い浮かんだのは、カオルと話すことだった。もし、それが可能なら、絶対にしてみたい。他の覚え書きには、設計図のような図が描いてある。弘樹は、覚え書きを全て拾い集めると、急いで自分の部屋へ行き、タブレットPCを立ち上げて、示されていた無料ソースコードサイトを開いた。確かに、覚え書きに載っているプログラムがある。
(こういうのを調べるのが、あいつのやってることなのか……?)
疑問に思いつつも、弘樹はそのプログラムをタブレットPCにダウンロードし、次いで、覚え書きにあった、夏休みの自由研究によく使われるという電子工作キットを通販サイトで探し始めた。自分では購入できないが、安いものであれば、近々やってくる誕生日プレゼントとして、母が買ってくれるだろう。
◇
空気が濁っている。土ではないもので固められた地面が熱い。その上を、二本に見せ掛けた「足」を引き摺って歩きながら、彼は連絡地点へ向かっていた。地球へ派遣された先遣隊の隊員同士が連絡を取り合うには、乗ってきた着陸艇に戻る必要がある。定時連絡時刻までに、そこへ辿り着かねばならない。
(他の皆のように、もっと着陸艇の近くで寝起きすれば、楽なんだが……)
だが自分は、南朝子と出会ってしまった。
あれは、三年前、まだこの惑星――人間達が呼ぶところの地球――に到着して間もない頃のことだった。人間を調査しようと、その生息域を訪れたものの、言葉が全く分からずに困惑し、うろうろとしていた彼に、朝子が声をかけてきたのだった。何を言われているか理解できない彼の「手」を引き、朝子は強引に自宅へ連れ帰って、茶漬けを作ってくれた。水分はありがたかったが、塩分が強いものは体が受けつけないので、おずおずと自分で茶を足した彼に、朝子は何かを言って声を立てて笑った。感覚器の集中している部分がくしゃりと歪む笑顔というものも、当時は理解できなかったが、朝子の笑い声は――その音は、彼の体に妙に心地よく響いた。音を含む振動を主な言語として用いる彼らにとって、それはとても大切な要素で、その日から成り行きで、彼は朝子と彼女の息子の縄張り――家に住むことになったのである。
朝子との生活の中で、彼は人間の言葉と文字について学び、表情について学び、文化について学び、さまざまな機器について学んだ。人間にも多くの種類がいて、彼が学んだことは、朝子の生息域に限ったものが多かったが、それでも彼らの目的達成のために、大いに役立つ情報ばかりだった。
(朝子、きみは、間違っているよ……)
彼女は彼が何者かを知ろうともしない。彼に対する認識としては、あの息子のほうが、余ほど正しいのだ。
凄まじい騒音と、街という不快な空間に耐えながら、ずるずると「足」を動かし続け、彼は眷属達がこんもりと茂る一角へと至った。人間の生息域の中にあっても、そこは、少しばかり安らげる場所だ。人間達は、ここを古墳と呼んで、寄りつかない。振動を聞き、広い波長の光を見分けて、周囲に殆ど人間達がいないこと、そして誰もこちらに注意を払っていないことを確認すると、彼は眷属達の中へ分け入っていった。彼の着陸艇は、ここの眷属達の茂みの中に隠してあるのだ。
【いつも、すまん】
彼が声をかけると、眷属達はそれぞれ静かな音を立てた。踏みしだかれることに文句を言う者、優しく労ってくれる者、さまざまだ。
【すまん】
繰り返して、彼は茂みの奥の着陸艇まで歩き、そのハッチを開いた。
(どうせ、皆、人間達の悪口を言い合うだけの定時連絡だろうが……)
互いの無事を確認し合う意味も、あるにはある。だが何より、既に方針が決まっているということが大きい。人間――病原のようなこの生物を駆除するには、空気中に、遅効性の毒を一斉に撒布することが有効と結論が出ているのだ。
(本隊が来るまで、後二十五年)
本隊は、彼ら先遣隊が送った情報を元に、最も効果的な毒を大量に用意してくるだろう。毒を逃れて生き残った人間達に対する作戦も立ててくるに違いない。
(後二十五年で、人間は滅ぶ)
彼は、ずるりと着陸艇に入ると、ハッチを閉めた。
◇
「母さん、これ、買ってほしいんだ」
帰ってきた母親に、玄関で待ち受けていた弘樹は早速、タブレットPCの画面を見せた。
「水質検査が簡単にできる電子工作キット……? 夏休みの自由研究に使うの?」
聞き返してきた母親は、手提げ鞄の他に、重そうなエコバッグを持っている。帰り道で食品を買ってきたのだ。弘樹はタブレットPCを小脇に挟んで母の手からエコバッグを受け取りながら、曖昧に首を横に振った。
「ううん、でも、これを使ってやりたいことがあって……。誕生日プレゼント、これにしてほしい」
弘樹の誕生日は、一ヶ月ほど先だ。
「そうなの? なら、後でもう一回きちんと見せてね」
母は笑顔で言い、靴を脱ぐ。弘樹はエコバッグを両手で提げて、先にダイニングキッチンへ進んだ。あの男は、昼過ぎに帰ってきて、自室として与えられている和室に篭もっている。かつて父がいたその部屋を、今はあの男が使っているのだ。
弘樹がこども園に通っていた頃までは、確かに父がいた。だが、小学校に入学する時にはもうおらず、二年生になって暫く経ったある日、母から、父は帰ってこないと告げられたのだった。男が家に来たのは、その暫く後だ。
「あいつ、今日は午前中、ずっと出掛けてた」
弘樹がぼそりと告げると、ダイニングキッチンへやって来た母は明るく笑った。
「何か用事があったのね。いつも、PCで熱心に調べものしてるし」
母が家に置いているPCを、あの男はしょっちゅう使っている。今もきっと使っているのだろう。
「好きにさせておいてあげて。わたしの愚痴を黙ぁって聞いてくれる、とってもいい人なんだから。それより、明日は何が食べたい? いろいろ買ってきたわよぉ」
母はさらりと話題を変えて、冷蔵庫へ食品を入れ始めた。
◇
あの男は、覚え書きがなくなったことについて、何も言ってこなかった。捨てられたとでも思っているのだろう。けれど、とても分かり易い設計図だった。
母は、誕生日プレゼントの前倒しだと言って、弘樹が頼んだその日に、通販サイトで電子工作キットを注文してくれた。翌日、日曜日の夕方には届いたそれを、弘樹は懸命に改造中だ。月曜日の今日も、カオルのところには寄らずに真っ直ぐ帰ってきた。
「よし!」
声を上げて、弘樹は部屋の時計を見た。まだ十六時三十三分だ。カオルのところへ行く時間は充分ある。弘樹は、改造した電子工作キットとタブレットPCとを持って、急いで部屋から出た。
靴を履いて公園のカオルのところまで走り、弘樹は大木を見上げる。
「カオル、おまえと話せるかもしれないんだ! ちょっとクリップを二つ、着けさせてくれ」
頼んで、一番下に伸びた枝の、艶々とした緑の濃い葉を選んで、感知基板と振動装置を改造してクリップ型にしたものを挟んで着けた。次いでタブレットPCを立ち上げ、昨夜インストールしたキットのアプリケーションで、あの男のプログラムを起動させる。すると、対象の植物をどういう外見のキャラクターにするか、さまざまな候補が示され始めた。弘樹はそれらから、顔立ち、髪型、服装など、カオルのイメージに合ったものを選んでいき、緑の長い髪の先が葉っぱになっている、ドライアド風のキャラクターを創り上げた。色白の肌や褐色の円らな双眸、優しげな顔立ちなど、なかなか満足のいく出来だ。白いゆったりとした衣を纏った格好もいい。最後に「カオル」と名前を登録してから、弘樹が息を呑んで開始ボタンをクリックすると、ドライアド風のキャラクターは瞬きしてから、こちらを見た。
〈……きみは、殆ど毎日ここへ来ているよね?〉
(カオルだ!)
まさに、このキャラクターは、カオルなのだ。この楠なのだ。有頂天になって、弘樹は頷いた。
「ああ! おれは、弘樹、南弘樹っていうんだ! 楠っていう漢字が、木と南で、おれの名前に似てるから、ずっと、おまえを友達みたいに思ってて……!」
〈ぼくの名は、カオルなんだね〉
微笑んでから、カオルは小首を傾げる。
〈ああ、成るほど、ぼく達楠は、きみ達人間にとって、香りのいい木で通っているんだね。へえ、花言葉も「芳香」なんだ。だから、カオル、なんだね。いい名をありがとう〉
礼を言われて、弘樹は目を見開いた。
「おまえ、そんなこと、何で分かったんだ?」
〈このプログラムを使うと、ぼくもきみ達の電網世界に接続できるんだ。きみ達の言葉も分かるから、いろいろなことを知ることができる。とても便利で、さっきから驚きっぱなしだよ〉
嬉しげに教えてくれたカオルは、褐色の双眸をきらきらとさせて愛嬌たっぷりだ。
「けど、まさか、おまえとこんなふうに話せるようになるなんてな……」
感慨深く弘樹が言うと、カオルもしみじみと応じた。
〈ぼくも、きみと話せるようになって、とても嬉しいよ。きみはいつもぼくに語りかけてきて、ぼくも答えてはいたんだけれど、ぼく達の言葉は違い過ぎて、なかなか会話というふうにはならなかったものね……〉
「でも、おれは、おまえの言ってることが分かる気がしてた」
弘樹は真剣に伝える。
「おまえは、おれの言葉を受け止めて、いつも優しく反応してくれてただろ?」
〈そうだね。でもそれは、きみがぼくに優しかったからだよ。きみはぼくの根の上には座らないようにしていたし、ぼくの葉をちぎることもしなかったし、ぼくの幹を傷つけたり、ぼくの枝を折ったりすることもなかった。きみのほうこそ、ぼくの痛みをよく分かってくれていたんだよ。言葉が通じなくてもね〉
褐色の双眸に真っ直ぐに見つめられて、弘樹は照れ臭くなった。
〈そろそろ、帰る時間じゃないかい?〉
カオルが口調を変えて言う。
〈大体、この季節は、このくらい太陽が沈んだ頃に帰るだろう?〉
「ああ、うん」
画面右上に表示された時刻は、十六時五十七分となっていた。そろそろ母が帰宅する。
「じゃあ、またな」
楠を見上げた弘樹に、画面のカオルが肩を竦めた。
〈ぼくの体から離れても、このプログラムを通じて、会話はできるけれどね〉
「そうか!」
弘樹は小躍りしたくなった。家に帰っても、カオルと話し続けられるのだ。
(凄いな、この装置!)
あの男に、一つだけ感謝する事柄ができた。
◇
残念ながら見ることはできなかったが、弘樹が一つ一つ説明してくれるので、彼の家の中の様子は、詳しく知ることができた。弘樹の母親の、心地よく響く声も時折聞こえてきて、温かい家庭の雰囲気まで伝わってくる。そして、弘樹がいつも「あいつ」と呼んで嫌っている男の音も微かに聞こえた。
(あれ……?)
カオルは全ての葉で、気孔の呼吸を一瞬止めた。
(これ、人間の音じゃない……)
カオル達は、音――振動で会話する。だから、音には敏感だ。
(今すぐどうこうしようという音じゃないけれど……)
弘樹に教えるべきだろうか。
弘樹は、何やら小さなものをたくさん運んでいる振動をさせて動き回りながら、機嫌よく学校であったことを母親に話している。しかし、カオルと話せたことは全く口にしない。どうやら、カオルのことは秘密にしておきたいらしい。
カオルが悩んでいると、弘樹の声が囁いてきた。
「ごめん、カオル。夕食だから、ちょっと電源切る。また後でな」
〈うん、分かった〉
カオルが了承した直後に、ぷつりと接続は切られた。
とっぷりと日が暮れていき、爽やかに吹き渡る夜風をカオルが楽しんでいると、不意にまた電網世界に接続された感覚があった。
「カオル」
呼びかけてきた弘樹は、心臓をどくどくと高鳴らせている。
「おまえと話せたこと、電網世界上に公開しようと思うんだ」
〈それはいいと思うけれど、お母さんや、あの「男の人」には、ぼくと話せたことを言ったのかい?〉
カオルが確かめると、途端に、弘樹の脈拍が落ち込んだ音を立てた。
「いや……。実は、おれがこの装置を作れたのは、あいつが置きっ放しにしてた覚え書きを見たからなんだ……。おまえと話せたことを言ったら、おれが覚え書きを見たことがばれるだろ……? それは嫌なんだ。だから、あいつには言わないし、母さんに言ったら、あいつに言うかもしれないから、母さんにも言えないんだ」
〈成るほどね……〉
納得して、カオルは逡巡する。
(やっぱり、あの男のことを教えるべきかな……?〉
しかし、カオルが結論を出す前に、弘樹はさっさと話を進めた。
「けど、電網世界上なら、実名は出さずにニックネームで通せるから、母さんにもあいつにも、おれだってばれないんだよ」
〈そうらしいね〉
電網世界に接続している状態だと、どんどんと人間の知識が入ってくる。
〈きみと同じように、ぼく達の眷属と意思疎通したいと思ってくれる人がいっぱいいて、ぼくのように、きみ達人間と意思疎通できるようになる植物が増えたら、とても嬉しいよ〉
「そうだな!」
弘樹は大きく頷くと、男の設計図をタブレットPCの画面で新しく描き直し、無料ソースコードサイトとプログラム、自分が使った電子工作キットの画像も貼り付けて見易く整えたページを、よく使うソーシャルメディアのLikeItにアップロードして、電網世界上に公開した。LikeItで弘樹が使っているニックネームはKUSUだ。勿論、楠に因んでいる。
「これでよし!」
弘樹が快哉を叫ぶと、丁度、風呂から出たらしい音をさせた母親が、廊下から声を掛けてきた。
「弘樹、もう遅いわよぉ。早く寝なさい」
「はぁい」
弘樹は上機嫌で返事をしてから、声を潜めて話しかけてきた。
「たくさん反応があるといいな」
〈そうだね〉
カオルは、月明かりを感じながら応じる。
〈きっと、きみみたいな人が世界中に大勢いるよ〉
「そうだといいな。じゃあ、タブレットの電源を切るよ。おやすみ、カオル」
〈おやすみ、弘樹〉
ぷつりと接続が切られ、電網世界から来る情報が、ふっと途絶えた。
(ちょっとほっとするけれど、ちょっと寂しくもある……。きみ達人間は、こういう世界に生きているんだね……)
周りの草花や木々が、静かに呼吸する音が聞こえる。彼らの維管束を流れる水の音が聞こえる。苔達は維管束を持たないので、全身で水蒸気を吸っている。元気そうな音もあれば、苦しげな音もある。
(人間と、ぼく達の眷属が話せることが当たり前の時代が来る……。それは、かなり凄いことだけれど……、その装置の作り方を書き留めていたのが、人間じゃない、あの男……)
今夜は男の正体について、とうとう弘樹に言いそびれてしまった。
(明日は、言ったほうがいいだろうか……)
悶々としながら、カオルは夜を明かした。
◇
翌朝、目覚めてすぐに枕元のタブレットPCを立ち上げた弘樹は、LikeItを見て驚いた。たった一晩で、一万越えの「いいね」或いは「Like」がされている。実際に自分も作り始めたというコメントも多く為されていた。
「凄い、凄い!」
弘樹は思わず声を上げ、すぐにタブレットPCをカオルに接続する。
〈おはよう、弘樹〉
穏やかに微笑んだカオルに、弘樹は興奮を抑えきれない声で言った。
「カオル、LikeItを見てくれ! 一万越えの『いいね』がされてる!」
〈本当だ、これは嬉しいね……!〉
カオルも驚き喜んでくれている。弘樹はベッドから跳ねるように下り、寝巻きから半袖シャツとズボンに着替えながらも、布団の上に置いたままのタブレットPCの画面を見続けた。僅かな間にも、「いいね」はどんどんと増え続けていく。
〈今後が楽しみだね……〉
カオルが考え深げに呟いた。
ずっとタブレットPCの画面を見続けていたいが、小学生はそうもいかない。弘樹はダイニングキッチンに行って朝食を食べたり、洗面所で歯を磨いたりしながら、しかしタブレットPCの電源は切らずに、カオルとの接続も保ったままにしておいた。そうしておけば、カオルが常にLikeItを確認できるからだ。
弘樹は、それとなく、味噌汁を啜る男の姿も観察したが、特に変わった様子はない。LikeItは見ていないか、少なくとも、KUSUが弘樹だとは気づいていないのだろう。
(それにしても、毎朝、忙しい母さんに、自分専用の、ちゃんと冷ました薄味の味噌汁を用意させて、子どもかよ……!)
僅かな苛立ちを感じつつも、弘樹は仕度を済ませ、ランドセルを背負う。
「行ってきます」
母に声をかけて玄関を出た直後、背中のランドセルの中から、カオルが話しかけてきた。
〈弘樹、「いいね」が二万を越えたよ。おめでとう。こういうものは、加速度的に増えるんだね〉
「ああ。『これは面白い』と思った人が、次々他の人達にも知らせてくれるからな!」
弘樹は走って公園に入り、カオルの体――楠のところへ急いだ。普段は帰りにしか寄らないが、今朝はどうしても直接会ってから学校へ行きたかったのだ。
楠は、朝から既に暑い夏の陽光の中で、濃い緑の葉をきらきらとさせて立っている。遠くにジョギングをしている人はいるが、近くには誰もいない。弘樹は茶褐色の幹にそっと抱きつき、囁いた。
「カオル、おまえと喋れて本当に嬉しいよ。おまえみたいに人間と喋ってくれる植物が増えるといいな」
〈そうだね。ぼくも、わくわくしているよ〉
ランドセルの中から、カオルが優しく答えてくれた。
◇
目論見通り、南弘樹は彼が置いておいた覚え書きを見て、眷属達と意思疎通できる装置を創り上げ、それをLikeItにアップロードした。これで、多くの眷属達が人間達と意思疎通し、人間の文化を学び、膨大な情報を得、遠く離れた眷属同士とも意思疎通できるようになるだろう。
(皆からは、賛否両論あるだろうが……)
批判してくる輩もいるだろう。どうせ滅ぼす人間相手に、余計なことはしなくてよい、と。だが、地球の眷属達が人間相手に意思疎通できるようになり、遠く離れた眷属同士でも意思疎通できるようになる利点は、誰も非難できないはずだ。そこを力説すれば、特に介入や妨害をしてくる輩はいないだろう。
(われらとて、この惑星の眷属達の意志全てを知る訳ではない。人間を滅ぼすというなら、それは、この惑星の眷属達が主となって行なうべきことだと、皆を説得しよう……)
ずるり、ずるりと彼は古墳へ向かう。「肩」から斜め掛けした布鞄の中で、朝子が用意してくれた水筒の水が、たぷんと揺れた。
◇
その後の一週間で、LikeItのKUSUのページに対する「いいね」は、更に増加して十万を越え、鉢植えのシクラメンや盆栽の松、庭の薔薇と話すことに成功した等々のコメントや動画も増え始めた。また、アプリケーションをアップグレードさせて、キャラクターの画像をより美麗にする方法を紹介するコメントも付けられて、大評判となっている。弘樹自身も、喜んでカオルの容姿を一層可憐で美しいものへと向上させた。一方、KUSU自身に対しては、この複雑なプログラムをどのようにして創り上げたのかという質問や賞賛、あなたは植物生理学者なのかというような、正体を誰何するコメントも寄せられて、現状、弘樹を大いに困らせている。
「なあ、カオル」
いつものように帰り道、楠の根元に座ってタブレットPCを立ち上げ、弘樹は話しかけた。
「おれがただの小学生だって、LikeItのみんなに教えたほうがいいかな……」
〈それは、やめておいたほうがいいと思うよ〉
カオルは緑色の睫毛を揺らして目を瞬いた。我ながら、元々の愛らしさはそのままに、実に繊細な造形ができたキャラクターだ。
〈そんなことをしたら、きっときみはあらゆるメディアに取り上げられた挙げ句、たくさんの研究機関から問い詰められることになる。でも、あのプログラムは、きみが創ったものじゃないだろう? きみは、LikeItのみんなが求める技術を持っている訳じゃない。だから、やめておいたほうがいいよ〉
カオルの言葉は些か辛辣だったが、的を射ている。
「そうだな……」
溜め息をついた弘樹に、カオルは優しく微笑んだ。
〈そんなことより、この装置を模倣した改良型の装置で縄文杉さんと話そうと試みている研究者がいるよ。縄文杉さんがどんなことを言うのか楽しみじゃないかい? ぼくも縄文杉さんと話ができたら、とても嬉しいよ。それもこれも、きみがこの装置を作って電網世界上に公開したお陰だ。きみは素晴らしい偉業を為したんだよ〉
「そうだといいな……」
褒められて頬を弛めた弘樹は、ふと疑問に思って、カオルに問うた。
「そう言えば、おまえはいつからここに生えてるんだ?」
〈ぼくかい?〉
画面のカオルは可愛らしく自分を指差す。頭上でも、さわさわと葉音が鳴った。
〈ぼくは、今年で百三歳だよ。樹齢数百歳という先輩がたくさんいるようだから、ぼくはまだまだ若いほうだね〉
「そうなのか……。でも、この公園ができるずっと前から生えてるんだよな……?」
〈うん。きみ達が「太平洋戦争」と呼んでいる大きな人間同士の争いの最中に、種から育てて貰って、ちょっと育った頃に、ここに植えられたんだよ。当時は、きみ達の言葉が分からなかったから、理解できていなかったけれど、どうやら、出征する若い男の人が育てたぼくを、その母親の女性が、ずっとずっと世話してくれていたんだと思う。その男の人は――息子さんは、帰ってこなかったから、その女性は、ぼくのことを、息子さんの替わりのように思っていたんだろうね……〉
「太平洋戦争……」
急に歴史で習った言葉が出てきて、弘樹は面食らった。木というものは、やはり長く生きているだけあって、語る言葉の一つ一つが奥深い。
〈その女性が亡くなった後、家は取り壊されたんだけれど、ぼくは切り倒されなかった。そして、そのまま、公園の一部になったんだ〉
「……凄いな……」
弘樹は気を呑まれたまま、ほうと息をつく。
「おまえの生きてきた時間が、そのまま歴史って感じがする。若いほうって言っても、おれ達人間より、滅茶苦茶長生きだよ」
感心した弘樹に、カオルは肩を竦めた。
〈ぼくにとっては、きみ達人間のほうが驚異だよ。ぼく達の数百倍慌ただしく生きているのに、百年生きるんだから〉
「そうか?」
真似して肩を竦めた弘樹に、カオルはうんうんと大きく頷いて、憐れむ眼差しで見てくる。
〈そうだよ。そしてきみは、ぼくと話しながらでも、宿題を進めないとね。ゆっくりしていたら、すぐに家に帰る時刻になって、夜遅くまで宿題をする羽目に陥ってしまうよ〉
「分かったよ」
苦笑して、弘樹は画面に、カオルと並べて漢字の宿題を開き、次々出される問題にタッチペンで答え始めた。
◇
弘樹は、愚痴を零したり感謝を口にしたりしながら、何とか漢字と計算の宿題を終えて、ベッドに入った。おやすみ、と毎夜の挨拶を交わし、接続が切られて、静寂が訪れる。月はまだ出ていないが、星々の光が感じられる。長くうねる星々の集まりは、人間達によって「天の川」とか「ミルキーウェイ」と呼ばれているらしい。
(弘樹に訊かれて、久し振りに思い出した……)
カオルは、広く深く伸ばした根の先から水を吸い上げ、維管束でくるくると音を立てた。植えられた頃の記憶は、既に朧気だ。だが、心地よく響く声をした青年の手で、植木鉢から地面に優しく植え替えられたこと。徐々に老いていくその母親に、毎日毎日五十年間ほども話しかけられていたことは覚えている。
(何故、人間はぼくに話しかけるんだろう。今度、弘樹に訊いてみよう)
一つ決めて、カオルは空に向けて広げた全ての葉の気孔から、静かに二酸化炭素と水蒸気を吐き出した。弘樹に、まだあの男の正体について話せていない。今日も弘樹は、あの男について、盛大に愚痴を零していた。夕食の際、男が湯飲みを倒し、流れた茶が弘樹の服にもかかったらしい。けれど、男は低い声で何かもごもご言っただけで、碌に謝りもせずに、後の片付けを全て弘樹の母親に任せっきりだったという。
――「あいつは、おれの父さんじゃない。なのに、何で父さんの部屋を使ってるんだ……! 学校でも、あいつがおれの父さんみたいに言われることがあって腹が立つし。母さんはどういうつもりなんだろ。不器用だけど優しい人だ、の一点張りで、いつまであいつの面倒を見るつもりなんだ……?」
――〈きみの苛立ちは尤もだけれど、彼がいることで、きみのお母さんは何か救われている部分があるんだよ。それに、彼は別に、意図的にきみに何か悪いことをする訳じゃないだろう?〉
カオルが宥めると、弘樹は余計に尖った声で言った。
――「家っていうのは、安心して、ゆっくりできる場所のはずだろ? あいつがいると、ゆっくりし切れない。安心し切れないんだ。あいつがいる限り、どっかでおれは緊張してる。どっかで苛々してるんだ」
――〈……そうだね……〉
相槌を打つことしかできなかったカオルに、弘樹は溜め息をついて詫びてきた。
――「ごめん、カオル。おまえに当たってもしょうがないのにな。おまえはいつも、おれの話を真面目に、最後まで聞いてくれる。おまえ相手なら、どんな愚痴でも零せる。母さんには言えないことも言える。凄く感謝してる」
――〈ぼくのほうこそ、きみと話せて、とても嬉しいんだ。だから、謝る必要はないよ〉
――「ありがとう……」
少し湿った弘樹の声はいじらしかった。
(彼のこと、いつかは弘樹に伝えないとね……。それにしても、彼は本当に、どういう存在で、どういうつもりで弘樹の家にいるんだろう……?)
音で、大まかな正体は分かったが、詳しいことについては皆目不明だ。そもそも、あんな音――振動は今まで感じたことがないのだ。
(彼は、何なんだろう……)
考えつつ、夜風に揺れる全ての葉の気孔から酸素を吸い込んで、カオルは眠りに落ちた。
◇
縄文杉が、芽吹いてから七千百六十二回の冬を越えたと語ったというニュースが流れたのは、九日後のことだった。縄文杉のある屋久島周辺では、約七千三百年前の鬼界カルデラの大噴火により、大型の植物は絶滅したと考えられており、縄文杉の証言は、それを裏付けるもので、世界的なニュースとなった。それまで、電網世界上だけで主に話題となっていたKUSUの装置が、ありとあらゆるメディアで取り上げられるようになったのである。縄文杉は、倒れた仲間の体の上に芽吹いたとも語ったらしく、そのことは、既に調査で明らかとなっていた倒木更新の跡とも合致して、装置の信憑性も高まることとなった。お陰で、KUSUとは誰なのか、プログラムを創ったのは誰なのか、巷で議論が沸騰している。
「おれは名乗り出ないとして、あのプログラムを創ったのは誰なんだろうな……」
学校帰り、いつものようにカオルの根元に座って、弘樹は呟いた。
(まさか、あいつ自身が創ったんじゃないよな……?)
湧いてくる疑念に顔をしかめた弘樹に、画面のカオルが硬い面持ちで応じた。
〈……誰かというのも重要だけれど、どういう意図で、というのも重要だと思う。いつかはこういう状況になると、恐らく分かっていて、あのプログラムを無料ソースコードサイトに公開していた訳だから〉
「そうだな……」
弘樹は首を捻る。
「けど、意図って言うなら、このプログラムを創った人は、きっとおれと同じように植物が好きな人だよな? こんなに人間と植物が分かり合える装置の元になったんだから」
〈「分かり合える装置」としては使っていない人間達もいるけれどね……〉
カオルは一転して皮肉な笑みを浮かべた。常に優しげなカオルにしては珍しいことだ。
「どういうことだ?」
聞き返した弘樹に、カオルは微かに棘のある口調で告げた。
〈この日本で、きみの装置を改造した装置を使って、ホワイトアスパラガスやアボカドの生産を試みるらしいよ。装置の最大の「改良点」は、植物達を生産者のPCにのみ接続して、電網世界には接続しない点にあるって。余計な知識を与えたり、他の植物達と意思疎通したりはさせたくないんだね。ホワイトアスパラガスは、三年間、肉牛と同じように愛情たっぷりに可愛がって育てて、とても美味しくなったものを食用に出荷するそうだよ。彼ら草は、ぼく達木に比べて知能が低いとはいえ、なかなか残酷なことをするね……。アボカドについては、充分に彼らの意思を汲みながら、よい果実を付けさせて、もぎ取って出荷するらしい。努力して努力して大きくした実を、種を、地面に植えては貰えない訳だね……〉
「そんなことにまで使われてるのか……」
愕然として呟きつつ、弘樹は内心カオルを慮っておろおろとしていた。画面のカオルは目を伏せて、暗い表情で佇んでいる。背中を預けている幹も、心なしか、いつもより硬く刺々しく感じた。ホワイトアスパラガスへの人間の仕打ちも酷い。そしてアボカドは、確かクスノキ科の木なので、より感情移入してしまうのだろう。
「……そんな人間ばかりじゃないから、その……、人間全部、嫌いにならないでくれよ……?」
弘樹は懸命に言葉を紡いだ。カオルが目を上げて、こちらを見つめてくる。その褐色の円らな双眸を見つめ返すことができず、僅かに視線を逸らしながらも、弘樹は請うた。
「勿論おれも、野菜を食べてるし、木からできた紙も使ってる。でも、でも、おれは、おまえと、ずっと……」
〈分かっているよ〉
カオルは肩を竦めて微笑んでくれた。いつもの優しい表情だ。
〈大丈夫、ぼくがきみを嫌いになることはないよ。寧ろ、きみには期待しているんだ。ぼく達植物と、人間達との橋渡し役になってくれるんじゃないか、とね。期待し過ぎかな?〉
悪戯っぽく問われて、弘樹は急いで首を横に振った。
「いや、おれも、そうなりたい……!」
〈よかった……〉
カオルは嬉しげに笑い、頭上でも、ニイニイゼミの鳴き声に混じって、さわさわと心地のよい葉ずれの音がした。
◇
公園が唐突に立ち入り禁止になったのは、夏休み直前のことだった。何でも、不審者が出たらしい。それも、何度も何度もカオルの近くで目撃されたというのだ。
「あの木に、チンコこすりつけてたらしいぜ」
級友達は、弘樹がカオルの根元で毎日過ごしていたのを知っていて、からかってくる。
「きったねえよな! おまえ、不審者のおしっこに触ってたんじゃねえか?」
「うわ、きったねえ! こっち寄るなよ、弘樹」
男子達が一頻り騒ぐと、今度は女子達が寄ってきた。
「あの木は祟るって、うちのお婆ちゃんが言ってた。植えた人の魂が宿ってて、何かしたら仕返しがあるんだって。だから、あそこを公園にした時にも、そのまま置いておいたんだって」
「怖ぁ。何でそんな木が生えてるとこ、公園にしてる訳……?」
「木が、不審者を呼んでたりして」
「不審者が何かしたら木が怒るんじゃないの?」
「違うわよ、あたし達に嫌がらせするために、変な人を呼び寄せるのよ」
「そんな木、切っちまえばいいんだよ」
男子の一人が女子の会話へ、ぽんと放り込んだ言葉が、弘樹の心臓を締め付けた。
「切ったら祟るんじゃねえか?」
「お祓いすればいいでしょ」
「最近話題の、あの植物と話せるって装置使ったら、祟らないで下さいって言えるんじゃねえ?」
「切らないで下さい~って返事されて終わりだろ? でも切るからって答えるのか? 植物と話したって面倒臭ぇだけだよ」
勝手に続いていく級友達の会話を背に、弘樹は教室を出た。廊下を早足で歩いていき、階段下の誰も来ないところで、抱えていたタブレットPCを開く。画面に素早くカオルを呼び出し、訴えた。
「不審者がおまえに変なことしてたって言う奴がいるんだ……。おまえ、大丈夫か? おまえのところに行きたい。おまえの根元に座って、葉っぱの音を聞きたい。おまえの幹に触れて、無事なのを確かめたい。こうやって話はできても、会いに行けないことがつらいんだ……」
〈ぼくは、大丈夫だけれど……〉
カオルは、やや躊躇う様子を見せてから、意を決したように褐色の双眸をこちらへ向けた。
〈話があるんだ、弘樹。でも、長い話になるから、今夜、きみの部屋で聞いてくれないかい?〉
酷く深刻そうな口調だ。
「……分かった」
弘樹は唾を呑み込み、乾いた声で答えた。
◇
夕食に、あの男はいなかった。母の通信端末に、暫く留守にする、今までありがとう、と家のPCからメッセージが来ていたらしい。心配そうにして落ち込んでいる母に、弘樹は微かに苛々として言った。
「よかったじゃないか、母さん。あんな男のどこがよかったんだよ。おれはあいつがいなくなって清々する」
ここまできつく母に告げたことはなかったが、弘樹もカオルのことが気懸かりで、心に余裕がなかったのだった。
「あの人は……、優しかったのよ……」
母は、俯いて寂しげに、繰り返してきた言葉をまた口にすると、一口茶を飲んでから続ける。
「母さんは、父さんに捨てられたの。単身赴任してた間に、あなたの父さん、別に好きな人ができちゃって、離婚したのよ」
それは、弘樹が初めて聞く話だった。絶句する弘樹に、母は湯飲みに視線を落としたまま話す。
「あの日は、離婚届を出して、心が、もうどうしていいか分からないくらいぐちゃぐちゃだった。『これでいいんだ』『弘樹がいるし、仕事もあるから、強く生きていくんだ』っていう前向きな気持ちと、『何でこうなるのよ』『許せない』『恨めしい』『悲しい』『つらい』っていう後ろ向きな気持ちが喧嘩して、後ろ向きな気持ちのほうが勝ちかけてた。けど、その時、あの人が目に入ったの」
母は、湯飲みを弄りながら微笑む。
「丁度あの日は、台風の煽りで、歩道にも、並木の木の枝や葉っぱがたくさん散らばってた。あの人、その木の枝を一つ一つ拾っていくのよ。それも、とても大切そうに。黒い合羽を着てたから、掃除の人かと思うくらいだったけど、見てる内に、拾った枝を全部、近くの神社の森の端っこの土に挿し木し始めたの。しっかり間隔を開けて、大きくなった時に困らないようにっていう感じに。まるで子どもみたいで……、でも、ああ、優しい人なんだなって思った瞬間に、涙が出たの。溢れて止まらなくなった。雨の日でよかったわ。傘の陰で泣けたから。道端で泣いて泣いて……。また目が見えるようになったら、まだあの人がいたのよ。うろうろして、とても困ってるふうだった。だから、つい勢いで連れて帰ってきちゃったのよ」
ふふ、と母は笑う。
「言葉が不自由だったみたいだけど、話すほうはなかなかでも、読み書きのほうはすぐに覚えて、わたしのPCまで使えるようになって……、凄く便利に使い易くしてくれたのよ?」
それも、弘樹にとっては初耳だった。
「食事も、薄味の汁物しか食べないし、ただ部屋にいて、時々外出するだけで、夜はずっとわたしの愚痴を聞いて、静かに相槌を打ってくれて……」
母の目から、ぽたりとテーブルの上に涙が落ちる。
「……もう、帰ってこないのかしら」
悲しげに呟かれて、弘樹はどう応じていいものか分からなくなった。
「――帰ってくるだろ、こんな居心地のいい家、他にないんだから」
つっけんどんに言って、弘樹は席を立つ。普段なら夕食の片付けを手伝うところだが、そんな気分にはなれなかった。自室へ行き、扉を閉めて、ベッドに倒れ伏す。暫くしてから、弘樹は枕元で充電していたタブレットPCの電源を入れ、カオルに接続した。
〈弘樹、大丈夫かい……? 脈拍が乱れているよ……?〉
開口一番、カオルは気遣ってくる。弘樹は、枕に顔を埋めたまま告げた。
「――あいつがいなくなったんだ。それで、母さんが落ち込んで……」
〈そう〉
カオルの声音には、納得したような響きがあった。
「何か知ってるのか?」
頭をもたげて画面を見た弘樹に、カオルは複雑そうに微笑む。白い衣の裾を整えて座り、長い話を語り始めた。
〈単刀直入に言えば、きみが「あいつ」と言っている「男の人」は、人間じゃないんだよ〉
「は……?」
間抜けな反応しかできなかった弘樹に、カオルは肩を竦める。
〈きみが驚くのは無理もないんだけれど、実は、ぼくは、この状態で初めて、この家を紹介して貰った日に、彼の音を聞いた時から、分かっていたんだ……。ずっとずっと言えていなくて、ごめん……。でも、彼の真相は、ぼくの想像を超えていたよ。彼はね、不審者に間違われているけれど、ぼくのところへ来て、自分の正体を明かして、いろいろ相談していたんだ……。何日かに分けて、わざわざ通ってきてね〉
「要するに、あいつは何なんだ?」
弘樹が急かすと、カオルは今までになく真剣な表情になり、ゆっくりと言った。
〈彼は、宇宙から里帰りしてきた木なんだ〉
「は?」
またも間抜けな反応しかできなかった弘樹に、カオルは真顔のまま説明した。
〈彼の先祖は、三億六千万年前から二億九千九百年万前の石炭紀に、地球で大繁栄したリンボクの仲間なんだ。きみなら、その辺りの話は詳しいよね? リンボクは高さ四十メートル、幹の直径は二メートルに達する小葉植物だったんだけれど、彼の仲間は六千百万年の間に随分と進化して、配偶体が、あちこち歩き回れるようになったんだ。そうして、新しい生息地を見つけては、そこで男女の配偶体が交わり、生まれた胞子体が根を張るという生態だったらしい。でも、歩き回れるようになったことで、感覚器官はどんどん発達し、さまざまな意思決定をする細胞群、即ち「脳」も発達して、きみ達人間と似たような動きをするようになってね、世代を重ねるごとに、配偶体で過ごす期間も三十年、四十年と長くなっていったそうだよ。その後、石炭紀の次のペルム紀に環境が悪化していったことで、逆境を跳ね返すために彼らの文明は加速度的に進歩して、ペルム紀末の、地球史上最大規模の大量絶滅を前に、宇宙へ脱出したんだ。彼らの文明の痕跡が未だ発見されていないのは、生息域が現在の南極大陸だったからみたいだね。そうして彼らは、胞子体を休眠させながら太陽系外へ出て、住める惑星を探して、そこで今も繁栄しているそうだよ。けれど、一部の木達が、故郷の地球へ帰ろうと言い出して、先遣隊として、彼を含む数本の木が派遣されてきたらしい。それで、植物をいいように利用している人間を見て――駆除しようという結論になったんだ〉
「なら、あいつ、おれ達人間の敵じゃないか!」
低く叫んだ弘樹に、カオルは首を横に振って見せた。
〈違うんだ。彼は、きみのお母さん――朝子さんに出会って、考えを変えたと言うんだ。人間と植物は共存共栄できる、と。それで彼は、あのプログラムを創ったんだよ〉
「……そうじゃないかと、思ったことはあった」
吐露した弘樹に、カオルは頷いた。
〈きみが彼の覚え書きを見たのは偶然じゃない。彼が意図してそうさせたんだ。そして、ぼくと親しいきみが、あの装置を作り、嬉しさの余り、電網世界上へ公開するだろう、とね……〉
「おれは、あいつの掌の上で踊らされてたってことか」
弘樹が憮然として呟くと、カオルは励ます表情になった。
〈きみに期待してのことだよ。前に、ぼくも言っただろう? 「寧ろ、きみには期待しているんだ。ぼく達植物と、人間達との橋渡し役になってくれるんじゃないか、とね」と。彼も、ぼくと同じ気持ちだった訳だよ。そして、きみは「そうなりたい」と言ってくれた。きみは、既にその第一歩を踏み出していたんだよ〉
「……それで、あいつは何で姿を消したんだ……?」
弘樹の問いに、カオルは少し悲しげな顔で答えた。
〈「不審者」になったから、もうこの家にはいられない、と言っていた。二十五年後まで、どこかに潜み続けて、彼の仲間達の意見を変えさせようと努力するんだろうね……〉
その夜、弘樹は寝返りばかり打って、寝付くことができなかった。余りに多くの信じ難い真相が告げられて、重苦しい気分だった。だが翌日、弘樹にとって、更に重苦しい話が飛び込んできたのだった。
◇
「伐採……?」
信じたくない話に、弘樹の声は裏返った。
一学期の終業式を終え、教室で締め括りの学級活動をしている最中だった。担任の先生から、立ち入り禁止となっている公園で、明日から楠の大木の伐採作業があり、大型車両等も来るため、気をつけるように、という注意があったのだ。
「弘樹、残念だったな」
斜め前に座っている級友が、振り向いて、にやっと笑った。
「人の心を傷つけることは言わない!」
担任の先生がぴしゃりと叱ったが、弘樹の耳には届かなかった。そのまま立ち上がり、タブレットPCだけを抱えて、弘樹は公園へと必死に駆けていった。
公園は相変わらず黄色い立ち入り禁止のテープで囲まれていたが、弘樹は周囲に人がいない隙を狙って、するりとテープの下から入り込み、一散にカオルの許へ走った。
「カオル、カオル」
懐かしいとすら感じる、ごつごつとした幹に縋りつき、急いでタブレットPCを立ち上げる。
「カオル、おまえが切られるって、先生が……!」
〈うん、今、電網世界上で確認した。明日、伐採されるんだね〉
カオルは、まるで他人事のように落ち着いていた。
「カオル、おまえ、何で、そんな……、おれは嫌だよ、おまえが切られるなんて……!」
涙が溢れる。息が苦しい。滲んだ視界の中で、カオルが優しく微笑んだ。
〈ぼくも嫌だよ。だから、きみに一つお願いがあるんだ。ぼくの枝を一本切り取って、大きめの鉢に挿し木してくれないかな? うまく根付けば、ぼくは枝一本でも生き延びられる〉
「そうする! そうするけど、まずはおまえが切られないように、何とかできないのか? おれがKUSUだって名乗り出て、反対運動をしたら、『いいね』をくれた人達が助けてくれて、止められるんじゃないか?」
〈その可能性は大いにあるし、反対運動もしてくれたらいいんだけれど、でも、止めてしまわないでほしいんだ〉
カオルは肩を竦めて、すまなそうに言った。
「何でだ……!」
意味が分からない。愕然とした弘樹に、楠は労る表情で告げた。
〈これは、ぼくが彼と相談して立てた、計画に沿ったことだから〉
「あいつと……?」
弘樹が乾いた声で聞き返すと、カオルは厳しい顔になって語った。
〈彼の仲間の本隊は、二十五年後に地球に到着して、きみ達人間を滅ぼすことになっている。もう猶予はないんだよ。何とかそれまでに、彼の仲間達と、きみ達人間は、分かり合えるようになっていなければいけない。彼の仲間達が、きみ達を滅ぼさない方向で考えられるように持っていかなければいけないんだ。そのためには、人間の意識改革が必要だ。植物――特に木を、対等な相手と見なして、共存共栄できるようにね。彼は、わざと、ぼくが巻き込まれる形で不審者を演じた。そうして、ぼくが切り倒される、その一部始終を、きみが、ぼくのこのキャラクターの様子とともに電網世界上に公開すれば、きっと、多くの人間の意識が変わって、人間が二十五年後を生き延びるための第一歩になると思うんだ〉
「人間のために、切られるのか……?」
喘いだ弘樹に、カオルはまた肩を竦めて微苦笑した。
〈それは、ちょっと違うかもしれない。ぼくは、きみの未来を守るために、切られる覚悟を決めたんだ〉
◇
おれのためにおまえが切られるなんて嫌だ、と泣いて幹に縋りつく弘樹は、走ってきた担任と、連絡を受けて帰ってきた朝子に宥めすかされて引き離された。その後、担任が学校へ戻って取ってきた剪定鋏で、カオルが指示して切らせた若い枝の先を大切そうに胸に抱き、家へと連れ帰られていった。
【弘樹は、KUSUだと名乗り出て、夜通し反対運動を盛り上げているよ。ぼくがどういうつもりだろうと、切らせはしないと言い張って】
カオルが教えると、僅かに白んだ夜明け空の下、近づいてきた男は、常時全身を覆ってきた黒い服を脱いで、無数の気孔から息を吐いた。葉緑体を持つ体は、かなり不定形らしい音がする。配偶体だからか、維管束の代わりに人間や動物の血管に似た組織が、体中へ水と養分を送り、眷属同士の会話の大部分も担っている。その不定形眷属が、不審者として人間の女を驚かせ、鞄ごと奪ったタブレットPCを抱えている様子は、妙におかしかった。
【おまえは、本当に、いいのか……?】
問われて、カオルは維管束でくるくると音を鳴らした。
【覚悟が鈍るようなことは、言わないでほしいな。でも、これが一番いい方法だと思うから】
【――分かった】
ずるりと男は「踵」を返した。服を纏い直し、徐々に人間の姿へと戻っていく。
【反対運動は、間に合わない……。それよりも強力に、自治体に伐採を訴えている地域住民がいる……。若い頃、男から性暴力を受けた経験のある女だ……。不審者を呼び寄せる木を切れ、見通しがよくなれば治安もよくなるという、彼女の訴えを軽んじることは、誰にもできない……】
遠ざかる「背中」で告げてきた男に、カオルは、明るさを増す空から二酸化炭素を吸い込みながら応じた。
【その女性の訴えを、きみが電網世界上で拡散させて、この運びとなった訳だね。ありがとう、とは言いたくないな。分かった、とだけ言っておくよ】
◇
反対運動が高まるのを恐れるかのように、伐採作業は午前八時から始まった。
【弘樹、きみにはつらいことを頼むけれど、ぼくの体と、このキャラクターと、両方の様子を、きちんと世界中に配信してほしい】
カオルに真摯に請われて、弘樹は泣き腫らした目のまま、タブレットPCを抱えて、張り巡らされたフェンスのすぐ外まで行った。震える手でタブレットPCを構え、朝日を浴びて佇む楠の姿を動画で撮影する。画面の右下には、神妙な面持ちで立つカオルのキャラクターも映し出してある。作業員が、身軽にカオルの体に登り、幹の高い位置へ縄を括り付けてから降りてきた。縄の端は地面に長々と垂れている。そして八時十五分過ぎ、唐突に、チェーンソーの心臓を抉るような音が響き始めた。
〈――っ、痛い、痛い、痛い……!〉
耐えかねたように、カオルが叫ぶ。昨日、枝の先を切り落とした時には、微かに顔をしかめただけだったカオルが、身を捩って痛がっている。
「カオル、カオル……! やめて、やめてくれ、お願いです! やめて下さい、その木は、おれの友達なんです、お願い、やめさせて……!」
弘樹も叫んだが、周囲にいる大人達は痛ましそうな顔をするだけ、作業員達は、そもそも聞く耳を持っていないようだった。
〈痛い、痛い、ひあ、あぁあ、ぎゃあああ……!〉
カオルの叫びは、身も世もないものへ変わっていく。
「カオル、カオル、嫌だ、嫌だよ……! やめてくれ! お願い、誰かやめさせて下さい、誰か、やめさせて……!」
弘樹も滂沱と涙を流しながら叫び続けたが、応じる者は誰もいない。
〈ああああ……!〉
画面の中のカオルが、とうとうふらつきかけた時、断続的に響いていたチェーンソーの音が、また唐突に止んだ。
「やめてくれたのか……?」
首を伸ばして、何とかフェンスの向こう、楠の根元で行われている作業を見ようとした弘樹に、いつの間にか傍らに立っていた母が、首を横に振って見せた。
「違うわ。次は、反対側を切るのよ」
そうして母は、両手を伸ばして、弘樹の肩を強く支えてくる。直後、再び恐ろしい音が鳴り響き始めた。
〈うっ、あ、いぎゃあああああああ……!〉
カオルの悲鳴が、弘樹の心臓を鷲掴みにする。
「あああ、カオル、カオル、やめて、やめて、もうやめて……!」
泣いて震えながらも、弘樹はタブレットPCを構え続けた。カオルとの約束を破ることはできない。
(おまえは、おれのために――、たった一人の、おれのためだけに……!)
〈ああ、あ……〉
カオルの声が、不意に途絶えた。チェーンソーの音も止んだ。作業員達が、大きな声で話し合っている。カオルの幹の上のほうに括り付けられていた縄が、急にぴんと張った。作業員達が引っ張り始めたのだ。
〈――弘樹……〉
画面のカオルが、しゃがみ込むような姿勢で、こちらへ片手を伸ばした。
「カオル……!」
弘樹は、画面と憐れな楠とを、忙しく見比べる。めりめり、べきべき、と全ての希望を打ち砕く音が響いた。
〈ありがとう……〉
画面の中のカオルが目を閉じて倒れ伏す。楠の大木も、全ての枝と葉を揺らしながら、ゆっくりと地面へ倒れていった。
◇
「カオル、今日から、おれ三日間、国際連合総会に行ってくる」
まだ新しい中学校の制服に身を包みながら、弘樹は枕元に置いた自前のタブレットPC画面に話しかけた。そこには、横たわって目を閉じ、静かに呼吸だけしているカオルのキャラクターが映っている。カオルの挿し木は、発根促進剤を使い、電網世界上で調べた通りに丁寧に行なったので成功したのだが、何故か、その葉にクリップ型の感知基板と振動装置を着けておいても、キャラクターは眠ったままなのだった。
「って言っても、おれはオブザーバーでしかないんだけどな」
二年前、反対運動をするためにKUSUであると明かしたことで、弘樹は今や、木の権利を守ろうとする運動の象徴的存在となっている。更には、カオルが伐採される日の早朝、公園の防犯カメラに、人間に擬態する植物様の謎の生命体が映っていたと、ハッキングされた画像が電網世界上に流され、弘樹がそれを受けて、例のプログラムの作成者や、地球由来の木の宇宙人達の到来について話したため、国連に設けられた対策委員会にまで呼ばれるようになった。
「日本代表は、森本総理大臣と縄文杉大統領なんだけど、おれはいつか、おまえが日本の樹木大統領になってくれたらと思うよ。知名度は、もう縄文杉さんと同じくらいになったしな。おまえ、ちゃんと世界中で有名になってるんだぜ……?」
幾ら話しかけても、返事はない。着替えを終えた弘樹は溜め息をつき、鞄にタブレットPCを入れると、自室を出た。
「母さん、それじゃ、カオルのこと、宜しく頼む」
見送りに出てきた母に念を押し、玄関を出た弘樹は公園へと走る。カオルの元の体が切り倒され、根まで掘り起こされてしまったその後に、柵に囲まれて、挿し木から育ったカオルは、まだ小さく細い体ながら、空へ向けて葉を広げている。去年、自治体の許可を得て、鉢から元の場所へ植え替えたのだ。
「カオル、しっかり水吸えよ。おれはアメリカまで行って、明後日帰ってくるから、それまで元気にしてるんだぞ」
声をかけ、柵の外から手を限界まで伸ばしてカオルの葉にそっと触れてから、弘樹は市役所へ向かった。
◇
ずっと空に向かって枝と葉を広げていた。その体が倒れかけた瞬間、自分の記憶というものは奈辺にあるのだろう、いつも幹を撫でてくれた女性を、いつも根元に座っていた少年を、忘れたくないと強烈に思った。繋がれていた電網世界へその意識は電気信号となって走り――、暗闇が訪れた。
眠ってばかりではなく、起きてはいた。だが、昼と夜を感じるくらいで、それ以上の意識はなかった。何か話しかけられて、世話もされていた。だが、それらはただ通り過ぎていくもので、水と養分を吸い上げ、光を浴びて光合成をし、呼吸することにだけ、一生懸命になっていた。
朝日に全ての葉を向けていると、不意に葉の一枚に、敏感な気孔のある裏側に、そっと触れられた。
(この音は……知っている……)
呼吸の音、脈拍の音、声は少し低くなり、足音は少し重くなっただろうか。けれど、知っている。
(知っている……覚えている……ぼくの……記憶――)
浮上する意識に呼応するように、膨大な量の電気信号が流れ込んできた。
◇
公園からもほど近い市役所には既に高級車が待っていて、弘樹はその後部座席に収まった。少しばかりVIPになった気分だ。座った時の習慣として、鞄からタブレットPCを取り出し、カオルを確認したのは、特に予感などがあったからではなかった。しかし、画面にカオルが現れた瞬間、弘樹は声を上げた。
「え?」
隣の席に座った外務省職員が、こちらを見てくる。弘樹は構わず、画面へ話しかけた。
「カオル、カオル、起きたのか?」
ゆっくりと立ち上がったカオルが、緑の長い髪に縁取られた顔を上げる。褐色の円らな双眸と、目が合った。
「カオル……!」
〈――弘樹……〉
懐かしい、優しい声だ。
〈……泣いているのかい……?〉
柔らかに問われて、弘樹は頷いた。
「当たり前だ……! おまえと、また話せたんだからな……!」
◇
国際連合総会には、加盟する世界中の各国から、それぞれ人間代表と樹木代表とが出席する。樹木代表達は、当然オンライン出席だ。更には、その日、オブザーバーとして、日本の中学生KUSUこと南弘樹と、楠のカオルとが出席し、話題を呼んだのだった。
南弘樹とカオルとが熱弁した効果もあり、木の権利を守り、宇宙から里帰りしてくる木達と友好的な関係を結ぼうという機運は、一層高まった。ASAKOLOVEという素性の知れないハッカーが、木の権利を侵害する業者や団体、自治体の不正をあちこちで暴き、南弘樹達の運動に追い風を吹かせた。
そうして、南弘樹が予言してから二十五年後の夏、本当に、宇宙船が船団を組んでやって来たのである。国際連合は慌てることなく、まずは計画通り、静止軌道上に設けた会談場で迎えることとし、樹木職員が中心となって連絡を取り合った。先方は、樹木職員がいることに感嘆したようで、会談の日程はすんなりと決まり、地球基準時間の八月八日、双方の代表が出会うこととなった。地球代表は、正式に国際連合職員となり、三十六歳となった弘樹と、こちらも国際連合職員となっているカオルである。
〈いよいよだね〉
キャラクターの姿をそのまま模した美しい遠隔操作ロボットから話しかけられて、弘樹は深く頷いた。道程は長かったが、傍らには、ずっとカオルがいた。だから、止まらずに歩いてくることができたのだ。目の前で、広間へと続くハッチが開かれる。
「おまえと、ここに立てて嬉しい」
緊張しながらも、感無量で告げた弘樹に、カオルが朗らかに言った。
〈誕生日おめでとう、弘樹。大丈夫、ASAKOLOVEと懇意のぼくがいるから、きっと会談はうまくいくよ。きみに、最高の誕生日プレゼントを贈ると約束する〉
(そうか、今日は……)
忙しくてすっかり忘れていた。
(でも、最高の誕生日プレゼントは……)
あの日、母が前倒しで買ってくれた安価な電子工作キット。あれを懸命に改造し、そのアプリケーションでASAKOLOVEのプログラムを起動させ、初めてカオルと話した。
(あれに優る誕生日プレゼントはないよ)
胸中で呟きつつ、顔を上げて、弘樹はカオルと並んで広間へ踏み入る。同じように向こうのハッチから入ってきた緑色の代表達は、どこか見慣れた懐かしい姿に思えた。
弘樹は、大きく枝を広げた楠の大木を見上げ、微笑んだ。背負っていたランドセルを下ろし、楠の根元に座る。頼もしい幹を背に、ランドセルからタブレットPCを取り出した。
自宅近くの公園に生えている、この楠の根元で、母が帰宅する時刻まで宿題をするのが、小学五年生、南弘樹の日課だ。真っ直ぐ家には帰りたくない。何故なら、あの男がいるからだ。
(母さんは、何で、あんな男を住まわせてるんだろ……)
あの男が家に来て三年が経つ。その間、何があった訳でもないが、とにかく薄気味悪いのだ。
(特にあの目つき)
弘樹はタブレットPCの画面に視線を落としたまま、眉をひそめる。
こちらを見ているのかどうかも分からない虚ろな双眸で、しかし確かに観察されている。そして、殆ど喋らない。弘樹の母親相手には少し話すようだが、弘樹相手には全くだ。動きものろのろとしていて、一緒に生活していると、神経を逆撫でされることもしばしばだ。
(それに、いつも何をしてるんだ……?)
シングルマザーとして弘樹を育ててくれている母の稼ぎを、あの男は食い潰している。外出はするが、それが仕事でないことは、三年間ともに暮らしていて、もうはっきりしている。日曜日に母が昼寝している間に、弘樹はよく母の通信端末を見て家計簿を確認しているが、あの男からと思しき収入が記されていた試しがないのだ。
(一体何なんだ、あいつ……!)
しかし、当の母は文句一つ言わず、あの男を家に置き続けている。弘樹があの男を嫌っていることは知っている様子だが、放課後、毎日公園に立ち寄ってから帰ってくる息子に、母は不審者に気をつけるよう言うだけで、それ以上は言わない。
(不審者と言うなら、まさに、あの男じゃないか)
胸中で文句を呟きつつ、弘樹は宿題を始めた。光合成についてなどは、お手の物だ。
頭上で、ざあっと楠が風に葉を鳴らす。心地よい音だ。この楠の根元にいると、いつも気持ちが安らぐ。
「そう言えば、カオル」
弘樹は、夕方の公園を見回し、近くに誰もいないのを確認して、自分で勝手につけた名を呼んだ。楠をタブレットPCで調べて、その花言葉が「芳香」だと知り、つけた名だ。そもそも、小学二年生の時に楠という漢字をタブレットPCで調べて知って、自分の名前に似ていると思い、この木に親しみを感じてきたのである。タブレットPCは学校から貸与されているものだが、家にも持ち帰って自由に使うことができるので、調べものが好きな弘樹にとっては大変ありがたい道具だ。
「ペルム紀末の大量絶滅って知ってるか? 今日、理科の時間に聞いたんだ」
さわさわという葉音で、カオルは先を促してくれる。
「恐竜が絶滅した時の隕石衝突より、たくさんの生物が絶滅したって。でも原因は、大規模火山噴火とか、樹木のリグニンを分解できる真菌が登場したからだとか、諸説あるらしい」
弘樹は、タブレットPCで調べた内容を披露して、カオルを見上げた。
「とにかく、二酸化炭素濃度が上昇し続けて、酸素濃度が低下したことが大量絶滅の大きな要因になったんだ。人間は、二酸化炭素を排出してばかりいるけど、おまえ達はいっぱい酸素を出してくれて、偉いよな……」
カオルは再び、ざあっと葉を鳴らした。まるで朗らかに笑っているようだ。弘樹は微笑み、それから深い溜め息をついて俯いた。明日は、憂鬱な土曜日だ。母は仕事でおらず、あの男と一日、二人きりで過ごさねばならない。友人宅に行くという選択肢もあるが、弘樹にとっては、カオルの根元こそが最も心安まる場所だった。
「あいつが出掛けなかったら、明日も来るよ」
タブレットPCに表示された時刻が十六時五十六分となっている。美容師をしている母は、十六時半には仕事を終えて十七時には帰ってくる。弘樹のために、職場で調整して貰っているのだ。
タブレットPCをランドセルに仕舞い、立ち上がった弘樹は、改めてカオルを見上げた。西日を浴びて佇む楠は、何度見ても美しい。大きな傘の如く見事に伸びた枝と、惚れ惚れするような立派な幹だ。冬でも青々と茂る葉は、雨からも日差しからも弘樹を守ってくれる。
「またな、カオル」
そっと木肌に触れてから、弘樹はランドセルを背負い、公園の小道を走って、すぐそこの自宅へ向かった。
◇
「全く、あいつ、掃除しないなら、せめて散らかすなよ!」
一人の家で、弘樹は遠慮なく文句を言った。
男は、朝早くから出掛けて留守だった。それは嬉しいのだが、居間のテーブルの上と下に、明らかにあの男が書いたと思しき覚え書きが散らばっていたのだ。
土曜日は、弘樹が洗濯と掃除と食事の用意を担っている。洗濯で、あの男の衣服を洗濯機に入れるだけでも業腹だというのに、何故、片付けまでしてやらねばならないのだろう。
(しかし、あいつが、一体何を書いてたんだ……?)
ふと興味を惹かれて、弘樹はごみ箱に入れかけた覚え書きを見た。そこには、走り書きのような文と、幾つかのURLが記されている。
(電網世界上の、この無料ソースコードサイトの、このプログラムを使えば、安価な電子工作キットを利用するだけで、植物と意思疎通できる……? え……?)
弘樹の頭に真っ先に思い浮かんだのは、カオルと話すことだった。もし、それが可能なら、絶対にしてみたい。他の覚え書きには、設計図のような図が描いてある。弘樹は、覚え書きを全て拾い集めると、急いで自分の部屋へ行き、タブレットPCを立ち上げて、示されていた無料ソースコードサイトを開いた。確かに、覚え書きに載っているプログラムがある。
(こういうのを調べるのが、あいつのやってることなのか……?)
疑問に思いつつも、弘樹はそのプログラムをタブレットPCにダウンロードし、次いで、覚え書きにあった、夏休みの自由研究によく使われるという電子工作キットを通販サイトで探し始めた。自分では購入できないが、安いものであれば、近々やってくる誕生日プレゼントとして、母が買ってくれるだろう。
◇
空気が濁っている。土ではないもので固められた地面が熱い。その上を、二本に見せ掛けた「足」を引き摺って歩きながら、彼は連絡地点へ向かっていた。地球へ派遣された先遣隊の隊員同士が連絡を取り合うには、乗ってきた着陸艇に戻る必要がある。定時連絡時刻までに、そこへ辿り着かねばならない。
(他の皆のように、もっと着陸艇の近くで寝起きすれば、楽なんだが……)
だが自分は、南朝子と出会ってしまった。
あれは、三年前、まだこの惑星――人間達が呼ぶところの地球――に到着して間もない頃のことだった。人間を調査しようと、その生息域を訪れたものの、言葉が全く分からずに困惑し、うろうろとしていた彼に、朝子が声をかけてきたのだった。何を言われているか理解できない彼の「手」を引き、朝子は強引に自宅へ連れ帰って、茶漬けを作ってくれた。水分はありがたかったが、塩分が強いものは体が受けつけないので、おずおずと自分で茶を足した彼に、朝子は何かを言って声を立てて笑った。感覚器の集中している部分がくしゃりと歪む笑顔というものも、当時は理解できなかったが、朝子の笑い声は――その音は、彼の体に妙に心地よく響いた。音を含む振動を主な言語として用いる彼らにとって、それはとても大切な要素で、その日から成り行きで、彼は朝子と彼女の息子の縄張り――家に住むことになったのである。
朝子との生活の中で、彼は人間の言葉と文字について学び、表情について学び、文化について学び、さまざまな機器について学んだ。人間にも多くの種類がいて、彼が学んだことは、朝子の生息域に限ったものが多かったが、それでも彼らの目的達成のために、大いに役立つ情報ばかりだった。
(朝子、きみは、間違っているよ……)
彼女は彼が何者かを知ろうともしない。彼に対する認識としては、あの息子のほうが、余ほど正しいのだ。
凄まじい騒音と、街という不快な空間に耐えながら、ずるずると「足」を動かし続け、彼は眷属達がこんもりと茂る一角へと至った。人間の生息域の中にあっても、そこは、少しばかり安らげる場所だ。人間達は、ここを古墳と呼んで、寄りつかない。振動を聞き、広い波長の光を見分けて、周囲に殆ど人間達がいないこと、そして誰もこちらに注意を払っていないことを確認すると、彼は眷属達の中へ分け入っていった。彼の着陸艇は、ここの眷属達の茂みの中に隠してあるのだ。
【いつも、すまん】
彼が声をかけると、眷属達はそれぞれ静かな音を立てた。踏みしだかれることに文句を言う者、優しく労ってくれる者、さまざまだ。
【すまん】
繰り返して、彼は茂みの奥の着陸艇まで歩き、そのハッチを開いた。
(どうせ、皆、人間達の悪口を言い合うだけの定時連絡だろうが……)
互いの無事を確認し合う意味も、あるにはある。だが何より、既に方針が決まっているということが大きい。人間――病原のようなこの生物を駆除するには、空気中に、遅効性の毒を一斉に撒布することが有効と結論が出ているのだ。
(本隊が来るまで、後二十五年)
本隊は、彼ら先遣隊が送った情報を元に、最も効果的な毒を大量に用意してくるだろう。毒を逃れて生き残った人間達に対する作戦も立ててくるに違いない。
(後二十五年で、人間は滅ぶ)
彼は、ずるりと着陸艇に入ると、ハッチを閉めた。
◇
「母さん、これ、買ってほしいんだ」
帰ってきた母親に、玄関で待ち受けていた弘樹は早速、タブレットPCの画面を見せた。
「水質検査が簡単にできる電子工作キット……? 夏休みの自由研究に使うの?」
聞き返してきた母親は、手提げ鞄の他に、重そうなエコバッグを持っている。帰り道で食品を買ってきたのだ。弘樹はタブレットPCを小脇に挟んで母の手からエコバッグを受け取りながら、曖昧に首を横に振った。
「ううん、でも、これを使ってやりたいことがあって……。誕生日プレゼント、これにしてほしい」
弘樹の誕生日は、一ヶ月ほど先だ。
「そうなの? なら、後でもう一回きちんと見せてね」
母は笑顔で言い、靴を脱ぐ。弘樹はエコバッグを両手で提げて、先にダイニングキッチンへ進んだ。あの男は、昼過ぎに帰ってきて、自室として与えられている和室に篭もっている。かつて父がいたその部屋を、今はあの男が使っているのだ。
弘樹がこども園に通っていた頃までは、確かに父がいた。だが、小学校に入学する時にはもうおらず、二年生になって暫く経ったある日、母から、父は帰ってこないと告げられたのだった。男が家に来たのは、その暫く後だ。
「あいつ、今日は午前中、ずっと出掛けてた」
弘樹がぼそりと告げると、ダイニングキッチンへやって来た母は明るく笑った。
「何か用事があったのね。いつも、PCで熱心に調べものしてるし」
母が家に置いているPCを、あの男はしょっちゅう使っている。今もきっと使っているのだろう。
「好きにさせておいてあげて。わたしの愚痴を黙ぁって聞いてくれる、とってもいい人なんだから。それより、明日は何が食べたい? いろいろ買ってきたわよぉ」
母はさらりと話題を変えて、冷蔵庫へ食品を入れ始めた。
◇
あの男は、覚え書きがなくなったことについて、何も言ってこなかった。捨てられたとでも思っているのだろう。けれど、とても分かり易い設計図だった。
母は、誕生日プレゼントの前倒しだと言って、弘樹が頼んだその日に、通販サイトで電子工作キットを注文してくれた。翌日、日曜日の夕方には届いたそれを、弘樹は懸命に改造中だ。月曜日の今日も、カオルのところには寄らずに真っ直ぐ帰ってきた。
「よし!」
声を上げて、弘樹は部屋の時計を見た。まだ十六時三十三分だ。カオルのところへ行く時間は充分ある。弘樹は、改造した電子工作キットとタブレットPCとを持って、急いで部屋から出た。
靴を履いて公園のカオルのところまで走り、弘樹は大木を見上げる。
「カオル、おまえと話せるかもしれないんだ! ちょっとクリップを二つ、着けさせてくれ」
頼んで、一番下に伸びた枝の、艶々とした緑の濃い葉を選んで、感知基板と振動装置を改造してクリップ型にしたものを挟んで着けた。次いでタブレットPCを立ち上げ、昨夜インストールしたキットのアプリケーションで、あの男のプログラムを起動させる。すると、対象の植物をどういう外見のキャラクターにするか、さまざまな候補が示され始めた。弘樹はそれらから、顔立ち、髪型、服装など、カオルのイメージに合ったものを選んでいき、緑の長い髪の先が葉っぱになっている、ドライアド風のキャラクターを創り上げた。色白の肌や褐色の円らな双眸、優しげな顔立ちなど、なかなか満足のいく出来だ。白いゆったりとした衣を纏った格好もいい。最後に「カオル」と名前を登録してから、弘樹が息を呑んで開始ボタンをクリックすると、ドライアド風のキャラクターは瞬きしてから、こちらを見た。
〈……きみは、殆ど毎日ここへ来ているよね?〉
(カオルだ!)
まさに、このキャラクターは、カオルなのだ。この楠なのだ。有頂天になって、弘樹は頷いた。
「ああ! おれは、弘樹、南弘樹っていうんだ! 楠っていう漢字が、木と南で、おれの名前に似てるから、ずっと、おまえを友達みたいに思ってて……!」
〈ぼくの名は、カオルなんだね〉
微笑んでから、カオルは小首を傾げる。
〈ああ、成るほど、ぼく達楠は、きみ達人間にとって、香りのいい木で通っているんだね。へえ、花言葉も「芳香」なんだ。だから、カオル、なんだね。いい名をありがとう〉
礼を言われて、弘樹は目を見開いた。
「おまえ、そんなこと、何で分かったんだ?」
〈このプログラムを使うと、ぼくもきみ達の電網世界に接続できるんだ。きみ達の言葉も分かるから、いろいろなことを知ることができる。とても便利で、さっきから驚きっぱなしだよ〉
嬉しげに教えてくれたカオルは、褐色の双眸をきらきらとさせて愛嬌たっぷりだ。
「けど、まさか、おまえとこんなふうに話せるようになるなんてな……」
感慨深く弘樹が言うと、カオルもしみじみと応じた。
〈ぼくも、きみと話せるようになって、とても嬉しいよ。きみはいつもぼくに語りかけてきて、ぼくも答えてはいたんだけれど、ぼく達の言葉は違い過ぎて、なかなか会話というふうにはならなかったものね……〉
「でも、おれは、おまえの言ってることが分かる気がしてた」
弘樹は真剣に伝える。
「おまえは、おれの言葉を受け止めて、いつも優しく反応してくれてただろ?」
〈そうだね。でもそれは、きみがぼくに優しかったからだよ。きみはぼくの根の上には座らないようにしていたし、ぼくの葉をちぎることもしなかったし、ぼくの幹を傷つけたり、ぼくの枝を折ったりすることもなかった。きみのほうこそ、ぼくの痛みをよく分かってくれていたんだよ。言葉が通じなくてもね〉
褐色の双眸に真っ直ぐに見つめられて、弘樹は照れ臭くなった。
〈そろそろ、帰る時間じゃないかい?〉
カオルが口調を変えて言う。
〈大体、この季節は、このくらい太陽が沈んだ頃に帰るだろう?〉
「ああ、うん」
画面右上に表示された時刻は、十六時五十七分となっていた。そろそろ母が帰宅する。
「じゃあ、またな」
楠を見上げた弘樹に、画面のカオルが肩を竦めた。
〈ぼくの体から離れても、このプログラムを通じて、会話はできるけれどね〉
「そうか!」
弘樹は小躍りしたくなった。家に帰っても、カオルと話し続けられるのだ。
(凄いな、この装置!)
あの男に、一つだけ感謝する事柄ができた。
◇
残念ながら見ることはできなかったが、弘樹が一つ一つ説明してくれるので、彼の家の中の様子は、詳しく知ることができた。弘樹の母親の、心地よく響く声も時折聞こえてきて、温かい家庭の雰囲気まで伝わってくる。そして、弘樹がいつも「あいつ」と呼んで嫌っている男の音も微かに聞こえた。
(あれ……?)
カオルは全ての葉で、気孔の呼吸を一瞬止めた。
(これ、人間の音じゃない……)
カオル達は、音――振動で会話する。だから、音には敏感だ。
(今すぐどうこうしようという音じゃないけれど……)
弘樹に教えるべきだろうか。
弘樹は、何やら小さなものをたくさん運んでいる振動をさせて動き回りながら、機嫌よく学校であったことを母親に話している。しかし、カオルと話せたことは全く口にしない。どうやら、カオルのことは秘密にしておきたいらしい。
カオルが悩んでいると、弘樹の声が囁いてきた。
「ごめん、カオル。夕食だから、ちょっと電源切る。また後でな」
〈うん、分かった〉
カオルが了承した直後に、ぷつりと接続は切られた。
とっぷりと日が暮れていき、爽やかに吹き渡る夜風をカオルが楽しんでいると、不意にまた電網世界に接続された感覚があった。
「カオル」
呼びかけてきた弘樹は、心臓をどくどくと高鳴らせている。
「おまえと話せたこと、電網世界上に公開しようと思うんだ」
〈それはいいと思うけれど、お母さんや、あの「男の人」には、ぼくと話せたことを言ったのかい?〉
カオルが確かめると、途端に、弘樹の脈拍が落ち込んだ音を立てた。
「いや……。実は、おれがこの装置を作れたのは、あいつが置きっ放しにしてた覚え書きを見たからなんだ……。おまえと話せたことを言ったら、おれが覚え書きを見たことがばれるだろ……? それは嫌なんだ。だから、あいつには言わないし、母さんに言ったら、あいつに言うかもしれないから、母さんにも言えないんだ」
〈成るほどね……〉
納得して、カオルは逡巡する。
(やっぱり、あの男のことを教えるべきかな……?〉
しかし、カオルが結論を出す前に、弘樹はさっさと話を進めた。
「けど、電網世界上なら、実名は出さずにニックネームで通せるから、母さんにもあいつにも、おれだってばれないんだよ」
〈そうらしいね〉
電網世界に接続している状態だと、どんどんと人間の知識が入ってくる。
〈きみと同じように、ぼく達の眷属と意思疎通したいと思ってくれる人がいっぱいいて、ぼくのように、きみ達人間と意思疎通できるようになる植物が増えたら、とても嬉しいよ〉
「そうだな!」
弘樹は大きく頷くと、男の設計図をタブレットPCの画面で新しく描き直し、無料ソースコードサイトとプログラム、自分が使った電子工作キットの画像も貼り付けて見易く整えたページを、よく使うソーシャルメディアのLikeItにアップロードして、電網世界上に公開した。LikeItで弘樹が使っているニックネームはKUSUだ。勿論、楠に因んでいる。
「これでよし!」
弘樹が快哉を叫ぶと、丁度、風呂から出たらしい音をさせた母親が、廊下から声を掛けてきた。
「弘樹、もう遅いわよぉ。早く寝なさい」
「はぁい」
弘樹は上機嫌で返事をしてから、声を潜めて話しかけてきた。
「たくさん反応があるといいな」
〈そうだね〉
カオルは、月明かりを感じながら応じる。
〈きっと、きみみたいな人が世界中に大勢いるよ〉
「そうだといいな。じゃあ、タブレットの電源を切るよ。おやすみ、カオル」
〈おやすみ、弘樹〉
ぷつりと接続が切られ、電網世界から来る情報が、ふっと途絶えた。
(ちょっとほっとするけれど、ちょっと寂しくもある……。きみ達人間は、こういう世界に生きているんだね……)
周りの草花や木々が、静かに呼吸する音が聞こえる。彼らの維管束を流れる水の音が聞こえる。苔達は維管束を持たないので、全身で水蒸気を吸っている。元気そうな音もあれば、苦しげな音もある。
(人間と、ぼく達の眷属が話せることが当たり前の時代が来る……。それは、かなり凄いことだけれど……、その装置の作り方を書き留めていたのが、人間じゃない、あの男……)
今夜は男の正体について、とうとう弘樹に言いそびれてしまった。
(明日は、言ったほうがいいだろうか……)
悶々としながら、カオルは夜を明かした。
◇
翌朝、目覚めてすぐに枕元のタブレットPCを立ち上げた弘樹は、LikeItを見て驚いた。たった一晩で、一万越えの「いいね」或いは「Like」がされている。実際に自分も作り始めたというコメントも多く為されていた。
「凄い、凄い!」
弘樹は思わず声を上げ、すぐにタブレットPCをカオルに接続する。
〈おはよう、弘樹〉
穏やかに微笑んだカオルに、弘樹は興奮を抑えきれない声で言った。
「カオル、LikeItを見てくれ! 一万越えの『いいね』がされてる!」
〈本当だ、これは嬉しいね……!〉
カオルも驚き喜んでくれている。弘樹はベッドから跳ねるように下り、寝巻きから半袖シャツとズボンに着替えながらも、布団の上に置いたままのタブレットPCの画面を見続けた。僅かな間にも、「いいね」はどんどんと増え続けていく。
〈今後が楽しみだね……〉
カオルが考え深げに呟いた。
ずっとタブレットPCの画面を見続けていたいが、小学生はそうもいかない。弘樹はダイニングキッチンに行って朝食を食べたり、洗面所で歯を磨いたりしながら、しかしタブレットPCの電源は切らずに、カオルとの接続も保ったままにしておいた。そうしておけば、カオルが常にLikeItを確認できるからだ。
弘樹は、それとなく、味噌汁を啜る男の姿も観察したが、特に変わった様子はない。LikeItは見ていないか、少なくとも、KUSUが弘樹だとは気づいていないのだろう。
(それにしても、毎朝、忙しい母さんに、自分専用の、ちゃんと冷ました薄味の味噌汁を用意させて、子どもかよ……!)
僅かな苛立ちを感じつつも、弘樹は仕度を済ませ、ランドセルを背負う。
「行ってきます」
母に声をかけて玄関を出た直後、背中のランドセルの中から、カオルが話しかけてきた。
〈弘樹、「いいね」が二万を越えたよ。おめでとう。こういうものは、加速度的に増えるんだね〉
「ああ。『これは面白い』と思った人が、次々他の人達にも知らせてくれるからな!」
弘樹は走って公園に入り、カオルの体――楠のところへ急いだ。普段は帰りにしか寄らないが、今朝はどうしても直接会ってから学校へ行きたかったのだ。
楠は、朝から既に暑い夏の陽光の中で、濃い緑の葉をきらきらとさせて立っている。遠くにジョギングをしている人はいるが、近くには誰もいない。弘樹は茶褐色の幹にそっと抱きつき、囁いた。
「カオル、おまえと喋れて本当に嬉しいよ。おまえみたいに人間と喋ってくれる植物が増えるといいな」
〈そうだね。ぼくも、わくわくしているよ〉
ランドセルの中から、カオルが優しく答えてくれた。
◇
目論見通り、南弘樹は彼が置いておいた覚え書きを見て、眷属達と意思疎通できる装置を創り上げ、それをLikeItにアップロードした。これで、多くの眷属達が人間達と意思疎通し、人間の文化を学び、膨大な情報を得、遠く離れた眷属同士とも意思疎通できるようになるだろう。
(皆からは、賛否両論あるだろうが……)
批判してくる輩もいるだろう。どうせ滅ぼす人間相手に、余計なことはしなくてよい、と。だが、地球の眷属達が人間相手に意思疎通できるようになり、遠く離れた眷属同士でも意思疎通できるようになる利点は、誰も非難できないはずだ。そこを力説すれば、特に介入や妨害をしてくる輩はいないだろう。
(われらとて、この惑星の眷属達の意志全てを知る訳ではない。人間を滅ぼすというなら、それは、この惑星の眷属達が主となって行なうべきことだと、皆を説得しよう……)
ずるり、ずるりと彼は古墳へ向かう。「肩」から斜め掛けした布鞄の中で、朝子が用意してくれた水筒の水が、たぷんと揺れた。
◇
その後の一週間で、LikeItのKUSUのページに対する「いいね」は、更に増加して十万を越え、鉢植えのシクラメンや盆栽の松、庭の薔薇と話すことに成功した等々のコメントや動画も増え始めた。また、アプリケーションをアップグレードさせて、キャラクターの画像をより美麗にする方法を紹介するコメントも付けられて、大評判となっている。弘樹自身も、喜んでカオルの容姿を一層可憐で美しいものへと向上させた。一方、KUSU自身に対しては、この複雑なプログラムをどのようにして創り上げたのかという質問や賞賛、あなたは植物生理学者なのかというような、正体を誰何するコメントも寄せられて、現状、弘樹を大いに困らせている。
「なあ、カオル」
いつものように帰り道、楠の根元に座ってタブレットPCを立ち上げ、弘樹は話しかけた。
「おれがただの小学生だって、LikeItのみんなに教えたほうがいいかな……」
〈それは、やめておいたほうがいいと思うよ〉
カオルは緑色の睫毛を揺らして目を瞬いた。我ながら、元々の愛らしさはそのままに、実に繊細な造形ができたキャラクターだ。
〈そんなことをしたら、きっときみはあらゆるメディアに取り上げられた挙げ句、たくさんの研究機関から問い詰められることになる。でも、あのプログラムは、きみが創ったものじゃないだろう? きみは、LikeItのみんなが求める技術を持っている訳じゃない。だから、やめておいたほうがいいよ〉
カオルの言葉は些か辛辣だったが、的を射ている。
「そうだな……」
溜め息をついた弘樹に、カオルは優しく微笑んだ。
〈そんなことより、この装置を模倣した改良型の装置で縄文杉さんと話そうと試みている研究者がいるよ。縄文杉さんがどんなことを言うのか楽しみじゃないかい? ぼくも縄文杉さんと話ができたら、とても嬉しいよ。それもこれも、きみがこの装置を作って電網世界上に公開したお陰だ。きみは素晴らしい偉業を為したんだよ〉
「そうだといいな……」
褒められて頬を弛めた弘樹は、ふと疑問に思って、カオルに問うた。
「そう言えば、おまえはいつからここに生えてるんだ?」
〈ぼくかい?〉
画面のカオルは可愛らしく自分を指差す。頭上でも、さわさわと葉音が鳴った。
〈ぼくは、今年で百三歳だよ。樹齢数百歳という先輩がたくさんいるようだから、ぼくはまだまだ若いほうだね〉
「そうなのか……。でも、この公園ができるずっと前から生えてるんだよな……?」
〈うん。きみ達が「太平洋戦争」と呼んでいる大きな人間同士の争いの最中に、種から育てて貰って、ちょっと育った頃に、ここに植えられたんだよ。当時は、きみ達の言葉が分からなかったから、理解できていなかったけれど、どうやら、出征する若い男の人が育てたぼくを、その母親の女性が、ずっとずっと世話してくれていたんだと思う。その男の人は――息子さんは、帰ってこなかったから、その女性は、ぼくのことを、息子さんの替わりのように思っていたんだろうね……〉
「太平洋戦争……」
急に歴史で習った言葉が出てきて、弘樹は面食らった。木というものは、やはり長く生きているだけあって、語る言葉の一つ一つが奥深い。
〈その女性が亡くなった後、家は取り壊されたんだけれど、ぼくは切り倒されなかった。そして、そのまま、公園の一部になったんだ〉
「……凄いな……」
弘樹は気を呑まれたまま、ほうと息をつく。
「おまえの生きてきた時間が、そのまま歴史って感じがする。若いほうって言っても、おれ達人間より、滅茶苦茶長生きだよ」
感心した弘樹に、カオルは肩を竦めた。
〈ぼくにとっては、きみ達人間のほうが驚異だよ。ぼく達の数百倍慌ただしく生きているのに、百年生きるんだから〉
「そうか?」
真似して肩を竦めた弘樹に、カオルはうんうんと大きく頷いて、憐れむ眼差しで見てくる。
〈そうだよ。そしてきみは、ぼくと話しながらでも、宿題を進めないとね。ゆっくりしていたら、すぐに家に帰る時刻になって、夜遅くまで宿題をする羽目に陥ってしまうよ〉
「分かったよ」
苦笑して、弘樹は画面に、カオルと並べて漢字の宿題を開き、次々出される問題にタッチペンで答え始めた。
◇
弘樹は、愚痴を零したり感謝を口にしたりしながら、何とか漢字と計算の宿題を終えて、ベッドに入った。おやすみ、と毎夜の挨拶を交わし、接続が切られて、静寂が訪れる。月はまだ出ていないが、星々の光が感じられる。長くうねる星々の集まりは、人間達によって「天の川」とか「ミルキーウェイ」と呼ばれているらしい。
(弘樹に訊かれて、久し振りに思い出した……)
カオルは、広く深く伸ばした根の先から水を吸い上げ、維管束でくるくると音を立てた。植えられた頃の記憶は、既に朧気だ。だが、心地よく響く声をした青年の手で、植木鉢から地面に優しく植え替えられたこと。徐々に老いていくその母親に、毎日毎日五十年間ほども話しかけられていたことは覚えている。
(何故、人間はぼくに話しかけるんだろう。今度、弘樹に訊いてみよう)
一つ決めて、カオルは空に向けて広げた全ての葉の気孔から、静かに二酸化炭素と水蒸気を吐き出した。弘樹に、まだあの男の正体について話せていない。今日も弘樹は、あの男について、盛大に愚痴を零していた。夕食の際、男が湯飲みを倒し、流れた茶が弘樹の服にもかかったらしい。けれど、男は低い声で何かもごもご言っただけで、碌に謝りもせずに、後の片付けを全て弘樹の母親に任せっきりだったという。
――「あいつは、おれの父さんじゃない。なのに、何で父さんの部屋を使ってるんだ……! 学校でも、あいつがおれの父さんみたいに言われることがあって腹が立つし。母さんはどういうつもりなんだろ。不器用だけど優しい人だ、の一点張りで、いつまであいつの面倒を見るつもりなんだ……?」
――〈きみの苛立ちは尤もだけれど、彼がいることで、きみのお母さんは何か救われている部分があるんだよ。それに、彼は別に、意図的にきみに何か悪いことをする訳じゃないだろう?〉
カオルが宥めると、弘樹は余計に尖った声で言った。
――「家っていうのは、安心して、ゆっくりできる場所のはずだろ? あいつがいると、ゆっくりし切れない。安心し切れないんだ。あいつがいる限り、どっかでおれは緊張してる。どっかで苛々してるんだ」
――〈……そうだね……〉
相槌を打つことしかできなかったカオルに、弘樹は溜め息をついて詫びてきた。
――「ごめん、カオル。おまえに当たってもしょうがないのにな。おまえはいつも、おれの話を真面目に、最後まで聞いてくれる。おまえ相手なら、どんな愚痴でも零せる。母さんには言えないことも言える。凄く感謝してる」
――〈ぼくのほうこそ、きみと話せて、とても嬉しいんだ。だから、謝る必要はないよ〉
――「ありがとう……」
少し湿った弘樹の声はいじらしかった。
(彼のこと、いつかは弘樹に伝えないとね……。それにしても、彼は本当に、どういう存在で、どういうつもりで弘樹の家にいるんだろう……?)
音で、大まかな正体は分かったが、詳しいことについては皆目不明だ。そもそも、あんな音――振動は今まで感じたことがないのだ。
(彼は、何なんだろう……)
考えつつ、夜風に揺れる全ての葉の気孔から酸素を吸い込んで、カオルは眠りに落ちた。
◇
縄文杉が、芽吹いてから七千百六十二回の冬を越えたと語ったというニュースが流れたのは、九日後のことだった。縄文杉のある屋久島周辺では、約七千三百年前の鬼界カルデラの大噴火により、大型の植物は絶滅したと考えられており、縄文杉の証言は、それを裏付けるもので、世界的なニュースとなった。それまで、電網世界上だけで主に話題となっていたKUSUの装置が、ありとあらゆるメディアで取り上げられるようになったのである。縄文杉は、倒れた仲間の体の上に芽吹いたとも語ったらしく、そのことは、既に調査で明らかとなっていた倒木更新の跡とも合致して、装置の信憑性も高まることとなった。お陰で、KUSUとは誰なのか、プログラムを創ったのは誰なのか、巷で議論が沸騰している。
「おれは名乗り出ないとして、あのプログラムを創ったのは誰なんだろうな……」
学校帰り、いつものようにカオルの根元に座って、弘樹は呟いた。
(まさか、あいつ自身が創ったんじゃないよな……?)
湧いてくる疑念に顔をしかめた弘樹に、画面のカオルが硬い面持ちで応じた。
〈……誰かというのも重要だけれど、どういう意図で、というのも重要だと思う。いつかはこういう状況になると、恐らく分かっていて、あのプログラムを無料ソースコードサイトに公開していた訳だから〉
「そうだな……」
弘樹は首を捻る。
「けど、意図って言うなら、このプログラムを創った人は、きっとおれと同じように植物が好きな人だよな? こんなに人間と植物が分かり合える装置の元になったんだから」
〈「分かり合える装置」としては使っていない人間達もいるけれどね……〉
カオルは一転して皮肉な笑みを浮かべた。常に優しげなカオルにしては珍しいことだ。
「どういうことだ?」
聞き返した弘樹に、カオルは微かに棘のある口調で告げた。
〈この日本で、きみの装置を改造した装置を使って、ホワイトアスパラガスやアボカドの生産を試みるらしいよ。装置の最大の「改良点」は、植物達を生産者のPCにのみ接続して、電網世界には接続しない点にあるって。余計な知識を与えたり、他の植物達と意思疎通したりはさせたくないんだね。ホワイトアスパラガスは、三年間、肉牛と同じように愛情たっぷりに可愛がって育てて、とても美味しくなったものを食用に出荷するそうだよ。彼ら草は、ぼく達木に比べて知能が低いとはいえ、なかなか残酷なことをするね……。アボカドについては、充分に彼らの意思を汲みながら、よい果実を付けさせて、もぎ取って出荷するらしい。努力して努力して大きくした実を、種を、地面に植えては貰えない訳だね……〉
「そんなことにまで使われてるのか……」
愕然として呟きつつ、弘樹は内心カオルを慮っておろおろとしていた。画面のカオルは目を伏せて、暗い表情で佇んでいる。背中を預けている幹も、心なしか、いつもより硬く刺々しく感じた。ホワイトアスパラガスへの人間の仕打ちも酷い。そしてアボカドは、確かクスノキ科の木なので、より感情移入してしまうのだろう。
「……そんな人間ばかりじゃないから、その……、人間全部、嫌いにならないでくれよ……?」
弘樹は懸命に言葉を紡いだ。カオルが目を上げて、こちらを見つめてくる。その褐色の円らな双眸を見つめ返すことができず、僅かに視線を逸らしながらも、弘樹は請うた。
「勿論おれも、野菜を食べてるし、木からできた紙も使ってる。でも、でも、おれは、おまえと、ずっと……」
〈分かっているよ〉
カオルは肩を竦めて微笑んでくれた。いつもの優しい表情だ。
〈大丈夫、ぼくがきみを嫌いになることはないよ。寧ろ、きみには期待しているんだ。ぼく達植物と、人間達との橋渡し役になってくれるんじゃないか、とね。期待し過ぎかな?〉
悪戯っぽく問われて、弘樹は急いで首を横に振った。
「いや、おれも、そうなりたい……!」
〈よかった……〉
カオルは嬉しげに笑い、頭上でも、ニイニイゼミの鳴き声に混じって、さわさわと心地のよい葉ずれの音がした。
◇
公園が唐突に立ち入り禁止になったのは、夏休み直前のことだった。何でも、不審者が出たらしい。それも、何度も何度もカオルの近くで目撃されたというのだ。
「あの木に、チンコこすりつけてたらしいぜ」
級友達は、弘樹がカオルの根元で毎日過ごしていたのを知っていて、からかってくる。
「きったねえよな! おまえ、不審者のおしっこに触ってたんじゃねえか?」
「うわ、きったねえ! こっち寄るなよ、弘樹」
男子達が一頻り騒ぐと、今度は女子達が寄ってきた。
「あの木は祟るって、うちのお婆ちゃんが言ってた。植えた人の魂が宿ってて、何かしたら仕返しがあるんだって。だから、あそこを公園にした時にも、そのまま置いておいたんだって」
「怖ぁ。何でそんな木が生えてるとこ、公園にしてる訳……?」
「木が、不審者を呼んでたりして」
「不審者が何かしたら木が怒るんじゃないの?」
「違うわよ、あたし達に嫌がらせするために、変な人を呼び寄せるのよ」
「そんな木、切っちまえばいいんだよ」
男子の一人が女子の会話へ、ぽんと放り込んだ言葉が、弘樹の心臓を締め付けた。
「切ったら祟るんじゃねえか?」
「お祓いすればいいでしょ」
「最近話題の、あの植物と話せるって装置使ったら、祟らないで下さいって言えるんじゃねえ?」
「切らないで下さい~って返事されて終わりだろ? でも切るからって答えるのか? 植物と話したって面倒臭ぇだけだよ」
勝手に続いていく級友達の会話を背に、弘樹は教室を出た。廊下を早足で歩いていき、階段下の誰も来ないところで、抱えていたタブレットPCを開く。画面に素早くカオルを呼び出し、訴えた。
「不審者がおまえに変なことしてたって言う奴がいるんだ……。おまえ、大丈夫か? おまえのところに行きたい。おまえの根元に座って、葉っぱの音を聞きたい。おまえの幹に触れて、無事なのを確かめたい。こうやって話はできても、会いに行けないことがつらいんだ……」
〈ぼくは、大丈夫だけれど……〉
カオルは、やや躊躇う様子を見せてから、意を決したように褐色の双眸をこちらへ向けた。
〈話があるんだ、弘樹。でも、長い話になるから、今夜、きみの部屋で聞いてくれないかい?〉
酷く深刻そうな口調だ。
「……分かった」
弘樹は唾を呑み込み、乾いた声で答えた。
◇
夕食に、あの男はいなかった。母の通信端末に、暫く留守にする、今までありがとう、と家のPCからメッセージが来ていたらしい。心配そうにして落ち込んでいる母に、弘樹は微かに苛々として言った。
「よかったじゃないか、母さん。あんな男のどこがよかったんだよ。おれはあいつがいなくなって清々する」
ここまできつく母に告げたことはなかったが、弘樹もカオルのことが気懸かりで、心に余裕がなかったのだった。
「あの人は……、優しかったのよ……」
母は、俯いて寂しげに、繰り返してきた言葉をまた口にすると、一口茶を飲んでから続ける。
「母さんは、父さんに捨てられたの。単身赴任してた間に、あなたの父さん、別に好きな人ができちゃって、離婚したのよ」
それは、弘樹が初めて聞く話だった。絶句する弘樹に、母は湯飲みに視線を落としたまま話す。
「あの日は、離婚届を出して、心が、もうどうしていいか分からないくらいぐちゃぐちゃだった。『これでいいんだ』『弘樹がいるし、仕事もあるから、強く生きていくんだ』っていう前向きな気持ちと、『何でこうなるのよ』『許せない』『恨めしい』『悲しい』『つらい』っていう後ろ向きな気持ちが喧嘩して、後ろ向きな気持ちのほうが勝ちかけてた。けど、その時、あの人が目に入ったの」
母は、湯飲みを弄りながら微笑む。
「丁度あの日は、台風の煽りで、歩道にも、並木の木の枝や葉っぱがたくさん散らばってた。あの人、その木の枝を一つ一つ拾っていくのよ。それも、とても大切そうに。黒い合羽を着てたから、掃除の人かと思うくらいだったけど、見てる内に、拾った枝を全部、近くの神社の森の端っこの土に挿し木し始めたの。しっかり間隔を開けて、大きくなった時に困らないようにっていう感じに。まるで子どもみたいで……、でも、ああ、優しい人なんだなって思った瞬間に、涙が出たの。溢れて止まらなくなった。雨の日でよかったわ。傘の陰で泣けたから。道端で泣いて泣いて……。また目が見えるようになったら、まだあの人がいたのよ。うろうろして、とても困ってるふうだった。だから、つい勢いで連れて帰ってきちゃったのよ」
ふふ、と母は笑う。
「言葉が不自由だったみたいだけど、話すほうはなかなかでも、読み書きのほうはすぐに覚えて、わたしのPCまで使えるようになって……、凄く便利に使い易くしてくれたのよ?」
それも、弘樹にとっては初耳だった。
「食事も、薄味の汁物しか食べないし、ただ部屋にいて、時々外出するだけで、夜はずっとわたしの愚痴を聞いて、静かに相槌を打ってくれて……」
母の目から、ぽたりとテーブルの上に涙が落ちる。
「……もう、帰ってこないのかしら」
悲しげに呟かれて、弘樹はどう応じていいものか分からなくなった。
「――帰ってくるだろ、こんな居心地のいい家、他にないんだから」
つっけんどんに言って、弘樹は席を立つ。普段なら夕食の片付けを手伝うところだが、そんな気分にはなれなかった。自室へ行き、扉を閉めて、ベッドに倒れ伏す。暫くしてから、弘樹は枕元で充電していたタブレットPCの電源を入れ、カオルに接続した。
〈弘樹、大丈夫かい……? 脈拍が乱れているよ……?〉
開口一番、カオルは気遣ってくる。弘樹は、枕に顔を埋めたまま告げた。
「――あいつがいなくなったんだ。それで、母さんが落ち込んで……」
〈そう〉
カオルの声音には、納得したような響きがあった。
「何か知ってるのか?」
頭をもたげて画面を見た弘樹に、カオルは複雑そうに微笑む。白い衣の裾を整えて座り、長い話を語り始めた。
〈単刀直入に言えば、きみが「あいつ」と言っている「男の人」は、人間じゃないんだよ〉
「は……?」
間抜けな反応しかできなかった弘樹に、カオルは肩を竦める。
〈きみが驚くのは無理もないんだけれど、実は、ぼくは、この状態で初めて、この家を紹介して貰った日に、彼の音を聞いた時から、分かっていたんだ……。ずっとずっと言えていなくて、ごめん……。でも、彼の真相は、ぼくの想像を超えていたよ。彼はね、不審者に間違われているけれど、ぼくのところへ来て、自分の正体を明かして、いろいろ相談していたんだ……。何日かに分けて、わざわざ通ってきてね〉
「要するに、あいつは何なんだ?」
弘樹が急かすと、カオルは今までになく真剣な表情になり、ゆっくりと言った。
〈彼は、宇宙から里帰りしてきた木なんだ〉
「は?」
またも間抜けな反応しかできなかった弘樹に、カオルは真顔のまま説明した。
〈彼の先祖は、三億六千万年前から二億九千九百年万前の石炭紀に、地球で大繁栄したリンボクの仲間なんだ。きみなら、その辺りの話は詳しいよね? リンボクは高さ四十メートル、幹の直径は二メートルに達する小葉植物だったんだけれど、彼の仲間は六千百万年の間に随分と進化して、配偶体が、あちこち歩き回れるようになったんだ。そうして、新しい生息地を見つけては、そこで男女の配偶体が交わり、生まれた胞子体が根を張るという生態だったらしい。でも、歩き回れるようになったことで、感覚器官はどんどん発達し、さまざまな意思決定をする細胞群、即ち「脳」も発達して、きみ達人間と似たような動きをするようになってね、世代を重ねるごとに、配偶体で過ごす期間も三十年、四十年と長くなっていったそうだよ。その後、石炭紀の次のペルム紀に環境が悪化していったことで、逆境を跳ね返すために彼らの文明は加速度的に進歩して、ペルム紀末の、地球史上最大規模の大量絶滅を前に、宇宙へ脱出したんだ。彼らの文明の痕跡が未だ発見されていないのは、生息域が現在の南極大陸だったからみたいだね。そうして彼らは、胞子体を休眠させながら太陽系外へ出て、住める惑星を探して、そこで今も繁栄しているそうだよ。けれど、一部の木達が、故郷の地球へ帰ろうと言い出して、先遣隊として、彼を含む数本の木が派遣されてきたらしい。それで、植物をいいように利用している人間を見て――駆除しようという結論になったんだ〉
「なら、あいつ、おれ達人間の敵じゃないか!」
低く叫んだ弘樹に、カオルは首を横に振って見せた。
〈違うんだ。彼は、きみのお母さん――朝子さんに出会って、考えを変えたと言うんだ。人間と植物は共存共栄できる、と。それで彼は、あのプログラムを創ったんだよ〉
「……そうじゃないかと、思ったことはあった」
吐露した弘樹に、カオルは頷いた。
〈きみが彼の覚え書きを見たのは偶然じゃない。彼が意図してそうさせたんだ。そして、ぼくと親しいきみが、あの装置を作り、嬉しさの余り、電網世界上へ公開するだろう、とね……〉
「おれは、あいつの掌の上で踊らされてたってことか」
弘樹が憮然として呟くと、カオルは励ます表情になった。
〈きみに期待してのことだよ。前に、ぼくも言っただろう? 「寧ろ、きみには期待しているんだ。ぼく達植物と、人間達との橋渡し役になってくれるんじゃないか、とね」と。彼も、ぼくと同じ気持ちだった訳だよ。そして、きみは「そうなりたい」と言ってくれた。きみは、既にその第一歩を踏み出していたんだよ〉
「……それで、あいつは何で姿を消したんだ……?」
弘樹の問いに、カオルは少し悲しげな顔で答えた。
〈「不審者」になったから、もうこの家にはいられない、と言っていた。二十五年後まで、どこかに潜み続けて、彼の仲間達の意見を変えさせようと努力するんだろうね……〉
その夜、弘樹は寝返りばかり打って、寝付くことができなかった。余りに多くの信じ難い真相が告げられて、重苦しい気分だった。だが翌日、弘樹にとって、更に重苦しい話が飛び込んできたのだった。
◇
「伐採……?」
信じたくない話に、弘樹の声は裏返った。
一学期の終業式を終え、教室で締め括りの学級活動をしている最中だった。担任の先生から、立ち入り禁止となっている公園で、明日から楠の大木の伐採作業があり、大型車両等も来るため、気をつけるように、という注意があったのだ。
「弘樹、残念だったな」
斜め前に座っている級友が、振り向いて、にやっと笑った。
「人の心を傷つけることは言わない!」
担任の先生がぴしゃりと叱ったが、弘樹の耳には届かなかった。そのまま立ち上がり、タブレットPCだけを抱えて、弘樹は公園へと必死に駆けていった。
公園は相変わらず黄色い立ち入り禁止のテープで囲まれていたが、弘樹は周囲に人がいない隙を狙って、するりとテープの下から入り込み、一散にカオルの許へ走った。
「カオル、カオル」
懐かしいとすら感じる、ごつごつとした幹に縋りつき、急いでタブレットPCを立ち上げる。
「カオル、おまえが切られるって、先生が……!」
〈うん、今、電網世界上で確認した。明日、伐採されるんだね〉
カオルは、まるで他人事のように落ち着いていた。
「カオル、おまえ、何で、そんな……、おれは嫌だよ、おまえが切られるなんて……!」
涙が溢れる。息が苦しい。滲んだ視界の中で、カオルが優しく微笑んだ。
〈ぼくも嫌だよ。だから、きみに一つお願いがあるんだ。ぼくの枝を一本切り取って、大きめの鉢に挿し木してくれないかな? うまく根付けば、ぼくは枝一本でも生き延びられる〉
「そうする! そうするけど、まずはおまえが切られないように、何とかできないのか? おれがKUSUだって名乗り出て、反対運動をしたら、『いいね』をくれた人達が助けてくれて、止められるんじゃないか?」
〈その可能性は大いにあるし、反対運動もしてくれたらいいんだけれど、でも、止めてしまわないでほしいんだ〉
カオルは肩を竦めて、すまなそうに言った。
「何でだ……!」
意味が分からない。愕然とした弘樹に、楠は労る表情で告げた。
〈これは、ぼくが彼と相談して立てた、計画に沿ったことだから〉
「あいつと……?」
弘樹が乾いた声で聞き返すと、カオルは厳しい顔になって語った。
〈彼の仲間の本隊は、二十五年後に地球に到着して、きみ達人間を滅ぼすことになっている。もう猶予はないんだよ。何とかそれまでに、彼の仲間達と、きみ達人間は、分かり合えるようになっていなければいけない。彼の仲間達が、きみ達を滅ぼさない方向で考えられるように持っていかなければいけないんだ。そのためには、人間の意識改革が必要だ。植物――特に木を、対等な相手と見なして、共存共栄できるようにね。彼は、わざと、ぼくが巻き込まれる形で不審者を演じた。そうして、ぼくが切り倒される、その一部始終を、きみが、ぼくのこのキャラクターの様子とともに電網世界上に公開すれば、きっと、多くの人間の意識が変わって、人間が二十五年後を生き延びるための第一歩になると思うんだ〉
「人間のために、切られるのか……?」
喘いだ弘樹に、カオルはまた肩を竦めて微苦笑した。
〈それは、ちょっと違うかもしれない。ぼくは、きみの未来を守るために、切られる覚悟を決めたんだ〉
◇
おれのためにおまえが切られるなんて嫌だ、と泣いて幹に縋りつく弘樹は、走ってきた担任と、連絡を受けて帰ってきた朝子に宥めすかされて引き離された。その後、担任が学校へ戻って取ってきた剪定鋏で、カオルが指示して切らせた若い枝の先を大切そうに胸に抱き、家へと連れ帰られていった。
【弘樹は、KUSUだと名乗り出て、夜通し反対運動を盛り上げているよ。ぼくがどういうつもりだろうと、切らせはしないと言い張って】
カオルが教えると、僅かに白んだ夜明け空の下、近づいてきた男は、常時全身を覆ってきた黒い服を脱いで、無数の気孔から息を吐いた。葉緑体を持つ体は、かなり不定形らしい音がする。配偶体だからか、維管束の代わりに人間や動物の血管に似た組織が、体中へ水と養分を送り、眷属同士の会話の大部分も担っている。その不定形眷属が、不審者として人間の女を驚かせ、鞄ごと奪ったタブレットPCを抱えている様子は、妙におかしかった。
【おまえは、本当に、いいのか……?】
問われて、カオルは維管束でくるくると音を鳴らした。
【覚悟が鈍るようなことは、言わないでほしいな。でも、これが一番いい方法だと思うから】
【――分かった】
ずるりと男は「踵」を返した。服を纏い直し、徐々に人間の姿へと戻っていく。
【反対運動は、間に合わない……。それよりも強力に、自治体に伐採を訴えている地域住民がいる……。若い頃、男から性暴力を受けた経験のある女だ……。不審者を呼び寄せる木を切れ、見通しがよくなれば治安もよくなるという、彼女の訴えを軽んじることは、誰にもできない……】
遠ざかる「背中」で告げてきた男に、カオルは、明るさを増す空から二酸化炭素を吸い込みながら応じた。
【その女性の訴えを、きみが電網世界上で拡散させて、この運びとなった訳だね。ありがとう、とは言いたくないな。分かった、とだけ言っておくよ】
◇
反対運動が高まるのを恐れるかのように、伐採作業は午前八時から始まった。
【弘樹、きみにはつらいことを頼むけれど、ぼくの体と、このキャラクターと、両方の様子を、きちんと世界中に配信してほしい】
カオルに真摯に請われて、弘樹は泣き腫らした目のまま、タブレットPCを抱えて、張り巡らされたフェンスのすぐ外まで行った。震える手でタブレットPCを構え、朝日を浴びて佇む楠の姿を動画で撮影する。画面の右下には、神妙な面持ちで立つカオルのキャラクターも映し出してある。作業員が、身軽にカオルの体に登り、幹の高い位置へ縄を括り付けてから降りてきた。縄の端は地面に長々と垂れている。そして八時十五分過ぎ、唐突に、チェーンソーの心臓を抉るような音が響き始めた。
〈――っ、痛い、痛い、痛い……!〉
耐えかねたように、カオルが叫ぶ。昨日、枝の先を切り落とした時には、微かに顔をしかめただけだったカオルが、身を捩って痛がっている。
「カオル、カオル……! やめて、やめてくれ、お願いです! やめて下さい、その木は、おれの友達なんです、お願い、やめさせて……!」
弘樹も叫んだが、周囲にいる大人達は痛ましそうな顔をするだけ、作業員達は、そもそも聞く耳を持っていないようだった。
〈痛い、痛い、ひあ、あぁあ、ぎゃあああ……!〉
カオルの叫びは、身も世もないものへ変わっていく。
「カオル、カオル、嫌だ、嫌だよ……! やめてくれ! お願い、誰かやめさせて下さい、誰か、やめさせて……!」
弘樹も滂沱と涙を流しながら叫び続けたが、応じる者は誰もいない。
〈ああああ……!〉
画面の中のカオルが、とうとうふらつきかけた時、断続的に響いていたチェーンソーの音が、また唐突に止んだ。
「やめてくれたのか……?」
首を伸ばして、何とかフェンスの向こう、楠の根元で行われている作業を見ようとした弘樹に、いつの間にか傍らに立っていた母が、首を横に振って見せた。
「違うわ。次は、反対側を切るのよ」
そうして母は、両手を伸ばして、弘樹の肩を強く支えてくる。直後、再び恐ろしい音が鳴り響き始めた。
〈うっ、あ、いぎゃあああああああ……!〉
カオルの悲鳴が、弘樹の心臓を鷲掴みにする。
「あああ、カオル、カオル、やめて、やめて、もうやめて……!」
泣いて震えながらも、弘樹はタブレットPCを構え続けた。カオルとの約束を破ることはできない。
(おまえは、おれのために――、たった一人の、おれのためだけに……!)
〈ああ、あ……〉
カオルの声が、不意に途絶えた。チェーンソーの音も止んだ。作業員達が、大きな声で話し合っている。カオルの幹の上のほうに括り付けられていた縄が、急にぴんと張った。作業員達が引っ張り始めたのだ。
〈――弘樹……〉
画面のカオルが、しゃがみ込むような姿勢で、こちらへ片手を伸ばした。
「カオル……!」
弘樹は、画面と憐れな楠とを、忙しく見比べる。めりめり、べきべき、と全ての希望を打ち砕く音が響いた。
〈ありがとう……〉
画面の中のカオルが目を閉じて倒れ伏す。楠の大木も、全ての枝と葉を揺らしながら、ゆっくりと地面へ倒れていった。
◇
「カオル、今日から、おれ三日間、国際連合総会に行ってくる」
まだ新しい中学校の制服に身を包みながら、弘樹は枕元に置いた自前のタブレットPC画面に話しかけた。そこには、横たわって目を閉じ、静かに呼吸だけしているカオルのキャラクターが映っている。カオルの挿し木は、発根促進剤を使い、電網世界上で調べた通りに丁寧に行なったので成功したのだが、何故か、その葉にクリップ型の感知基板と振動装置を着けておいても、キャラクターは眠ったままなのだった。
「って言っても、おれはオブザーバーでしかないんだけどな」
二年前、反対運動をするためにKUSUであると明かしたことで、弘樹は今や、木の権利を守ろうとする運動の象徴的存在となっている。更には、カオルが伐採される日の早朝、公園の防犯カメラに、人間に擬態する植物様の謎の生命体が映っていたと、ハッキングされた画像が電網世界上に流され、弘樹がそれを受けて、例のプログラムの作成者や、地球由来の木の宇宙人達の到来について話したため、国連に設けられた対策委員会にまで呼ばれるようになった。
「日本代表は、森本総理大臣と縄文杉大統領なんだけど、おれはいつか、おまえが日本の樹木大統領になってくれたらと思うよ。知名度は、もう縄文杉さんと同じくらいになったしな。おまえ、ちゃんと世界中で有名になってるんだぜ……?」
幾ら話しかけても、返事はない。着替えを終えた弘樹は溜め息をつき、鞄にタブレットPCを入れると、自室を出た。
「母さん、それじゃ、カオルのこと、宜しく頼む」
見送りに出てきた母に念を押し、玄関を出た弘樹は公園へと走る。カオルの元の体が切り倒され、根まで掘り起こされてしまったその後に、柵に囲まれて、挿し木から育ったカオルは、まだ小さく細い体ながら、空へ向けて葉を広げている。去年、自治体の許可を得て、鉢から元の場所へ植え替えたのだ。
「カオル、しっかり水吸えよ。おれはアメリカまで行って、明後日帰ってくるから、それまで元気にしてるんだぞ」
声をかけ、柵の外から手を限界まで伸ばしてカオルの葉にそっと触れてから、弘樹は市役所へ向かった。
◇
ずっと空に向かって枝と葉を広げていた。その体が倒れかけた瞬間、自分の記憶というものは奈辺にあるのだろう、いつも幹を撫でてくれた女性を、いつも根元に座っていた少年を、忘れたくないと強烈に思った。繋がれていた電網世界へその意識は電気信号となって走り――、暗闇が訪れた。
眠ってばかりではなく、起きてはいた。だが、昼と夜を感じるくらいで、それ以上の意識はなかった。何か話しかけられて、世話もされていた。だが、それらはただ通り過ぎていくもので、水と養分を吸い上げ、光を浴びて光合成をし、呼吸することにだけ、一生懸命になっていた。
朝日に全ての葉を向けていると、不意に葉の一枚に、敏感な気孔のある裏側に、そっと触れられた。
(この音は……知っている……)
呼吸の音、脈拍の音、声は少し低くなり、足音は少し重くなっただろうか。けれど、知っている。
(知っている……覚えている……ぼくの……記憶――)
浮上する意識に呼応するように、膨大な量の電気信号が流れ込んできた。
◇
公園からもほど近い市役所には既に高級車が待っていて、弘樹はその後部座席に収まった。少しばかりVIPになった気分だ。座った時の習慣として、鞄からタブレットPCを取り出し、カオルを確認したのは、特に予感などがあったからではなかった。しかし、画面にカオルが現れた瞬間、弘樹は声を上げた。
「え?」
隣の席に座った外務省職員が、こちらを見てくる。弘樹は構わず、画面へ話しかけた。
「カオル、カオル、起きたのか?」
ゆっくりと立ち上がったカオルが、緑の長い髪に縁取られた顔を上げる。褐色の円らな双眸と、目が合った。
「カオル……!」
〈――弘樹……〉
懐かしい、優しい声だ。
〈……泣いているのかい……?〉
柔らかに問われて、弘樹は頷いた。
「当たり前だ……! おまえと、また話せたんだからな……!」
◇
国際連合総会には、加盟する世界中の各国から、それぞれ人間代表と樹木代表とが出席する。樹木代表達は、当然オンライン出席だ。更には、その日、オブザーバーとして、日本の中学生KUSUこと南弘樹と、楠のカオルとが出席し、話題を呼んだのだった。
南弘樹とカオルとが熱弁した効果もあり、木の権利を守り、宇宙から里帰りしてくる木達と友好的な関係を結ぼうという機運は、一層高まった。ASAKOLOVEという素性の知れないハッカーが、木の権利を侵害する業者や団体、自治体の不正をあちこちで暴き、南弘樹達の運動に追い風を吹かせた。
そうして、南弘樹が予言してから二十五年後の夏、本当に、宇宙船が船団を組んでやって来たのである。国際連合は慌てることなく、まずは計画通り、静止軌道上に設けた会談場で迎えることとし、樹木職員が中心となって連絡を取り合った。先方は、樹木職員がいることに感嘆したようで、会談の日程はすんなりと決まり、地球基準時間の八月八日、双方の代表が出会うこととなった。地球代表は、正式に国際連合職員となり、三十六歳となった弘樹と、こちらも国際連合職員となっているカオルである。
〈いよいよだね〉
キャラクターの姿をそのまま模した美しい遠隔操作ロボットから話しかけられて、弘樹は深く頷いた。道程は長かったが、傍らには、ずっとカオルがいた。だから、止まらずに歩いてくることができたのだ。目の前で、広間へと続くハッチが開かれる。
「おまえと、ここに立てて嬉しい」
緊張しながらも、感無量で告げた弘樹に、カオルが朗らかに言った。
〈誕生日おめでとう、弘樹。大丈夫、ASAKOLOVEと懇意のぼくがいるから、きっと会談はうまくいくよ。きみに、最高の誕生日プレゼントを贈ると約束する〉
(そうか、今日は……)
忙しくてすっかり忘れていた。
(でも、最高の誕生日プレゼントは……)
あの日、母が前倒しで買ってくれた安価な電子工作キット。あれを懸命に改造し、そのアプリケーションでASAKOLOVEのプログラムを起動させ、初めてカオルと話した。
(あれに優る誕生日プレゼントはないよ)
胸中で呟きつつ、顔を上げて、弘樹はカオルと並んで広間へ踏み入る。同じように向こうのハッチから入ってきた緑色の代表達は、どこか見慣れた懐かしい姿に思えた。
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