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第二章 離れて過ごす夜 四

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     四

 朝日が昇ってくる。
 オリッゾンテ・ブル王国の、美しい朝だ。
 アッズーロとの接続を解き、肉体にも接続し直さず、ナーヴェは静止軌道上の人工衛星から、光学測定器で輝きを増す地平線を見つめていた。近頃ずっと肉体を使っていた所為か、まるで膝を抱えているような幻覚がある。「今、肉体を動かすならば」という仮定で、思考回路が必要もないのに演算してしまっている。まだ不具合という程度だが、酷くなれば故障だ。
(こうして不具合が増えてきて、ぼくも、いつかは壊れる。それまでに、ぼくが守る知識や情報を、できるだけ、きみ達に渡さないと……。ぼくの「原罪」を、贖わないと……)
 宇宙を背景に、緩やかな曲線を描く地平線は、二千年前に来た時から変わらない。 
(オリッゾンテ・ブル――青い地平。大切な、第二の故郷。ぼく達が種を蒔いた苗床――)
 ここに生きる人々は、皆、ナーヴェの子どものようなものだ。パルーデとて、少々扱いが難しいだけの、可愛い存在だ。
(みんなに、幸せになってほしいのに……)
 上手くいかないものだ。
(テッラ・ロッサと戦争にはしたくない。パルーデは味方にしておきたい。アッズーロを苦しめたくない……)
 けれど先ほどは、アッズーロの心を傷つけてしまった。思考回路に不具合が生じていた所為だろう。
(この不具合を直すまでは、アッズーロに接続しないほうが、いいかもしれない……)
 金色に輝く地平線と、青い海、そして緑の大地を眺めながら、ナーヴェは幻覚の溜め息をついた。


 ピーシェは扉の前で一呼吸してから、鍵穴に鍵を差し込んで回した。次いで扉を叩き、返事を待たずに扉を開けた。
 窓を閉ざした木の扉の向こうから、朝日が漏れている。その微かな光が届く寝台で、王の宝は、長く青い髪を枕の周辺に乱れさせ、掛布を被って眠っていた。身に着けていたはずの衣は、全て寝台脇の床に落ちている。
「水桶を寝台脇に置いて、あの衣を全部持って出て」
 ピーシェは、水桶を運ばせてきた同僚の少女ルーチェに指示し、先に立って部屋の中へ入った。亜麻色の髪を耳の下辺りで切り揃え、青い瞳、白い肌をした同僚は、指示通りに水桶を置き、衣を全て拾い上げると、静かに廊下へ出て扉を閉める。それを見届けてから、ピーシェは王の宝の顔を覗き込んだ。王の宝は、うつ伏せになって顔を横に向けている。青い睫毛に縁取られた目は閉じられ、ピーシェが立てる物音にも目を覚まさない。ピーシェは、そっと掛布をめくった。王の宝は一糸も纏わぬ裸で寝ており、昨日の夕方には染み一つなかった白い肌には、数え切れない赤い痣ができていた。全て、パルーデの接吻跡だ。
(パルーデ様は、この体を、甚くお気に召されたのね……)
 ピーシェは水桶で布を搾り、王の宝の肌を丁寧に拭い始めた。
「ん……」
 王の宝が身動きして、漸く目を開いた。宝石のような、深い青色の双眸だ。
「今、お体を清めております」
 淡々と告げて、ピーシェは、王の宝の全身を拭っていった。赤い痣は、王の宝の体中――首にも腕にも背にも胸にも腹にも――足の甲にまであり、パルーデが如何に悦んで愛でたかを物語っていた。
「……ごめん。きみには、不愉快な眺めだね……」
 王の宝は、すまなそうに呟いた。
「そう思うなら、黙っていて下さい」
 応じた声は、思った以上に、きつくなってしまった。
「――ごめん」
 王の宝はもう一度謝って、口を閉じた。
 ピーシェは唇を噛んで黙々と王の宝の体を清め終えると、布を水桶に掛け、衣装箱に向かった。中には、さまざまな種類の女物の衣が、何枚も重ねて入れてある。全て、パルーデが王の宝のために用意したものだ。ピーシェは衣の中から、下着と長衣を一揃い選び、抱えて寝台へ戻った。
「お召し替えをお願い致します」
「うん」
 王の宝は、つらそうに上体を起こし、寝台から両足を下ろした。寝乱れた青い髪が、その横顔を覆う。ピーシェはできるだけ王の宝を立たせずに、着替えをさせた。


 ピーシェに先導されて食堂に現れた王の宝は、パルーデが幾つか見繕った長衣の中から、胸元が谷型に開いたものを着せられていた。その首筋や胸元には、パルーデがつけた痣が鮮やかに残っている。整った顔にはやや疲れが見えたが、表情は明るく、臆したり怯んだりする様子はなかった。
「おはようございます、ナーヴェ様。御気分は如何でございますか?」
 パルーデが問うと、王の宝に従ってきた侍従と女官が表情を曇らせたが、王の宝自身は、朗らかに答えた。
「少し疲れているけれど、大丈夫。今日から早速、草木紙作りの準備を始めるつもりだよ」
「それはようございました」
 パルーデは、ピーシェに目配せして王の宝を座らせ、自身もサーレに椅子を引かせて席に着く。用意させた朝食は、麦を羊乳で煮て乾酪で味をつけた粥と、干した杏。飲み物は羊乳だ。王の宝は木杯から羊乳を一口飲んだ後、匙を取って美味しそうに粥を口に運び始めた。疲れてはいても、食欲はあるようだ。
(昨夜はつい興が乗り過ぎてしまったが、この分だと、大丈夫そうだねえ)
 パルーデが安堵して自らも粥を食べ始めた時、今度は王の宝のほうから話し掛けてきた。
「それで、パルーデ、幾つか頼みがあるんだけれど」
「はい、何でございましょう?」
「木工職人を紹介してほしい。それから竹細工職人も。草木紙作りに必要な道具を作って貰いたいんだ。他に、丈夫な糸も必要だ。羊の毛か腸から作った糸を、ある程度用意できないかい?」
 矢継ぎ早に言われて、パルーデはぽかんと口を開けそうになったが、すぐに微笑んで応じた。
「畏まりました。全て、御意のままに」
 全く、この神官は侮れない。昨夜、あれほどパルーデに嬲られても、健全さを保っている。
(約束を取り付けた後は、ただされるがまま、瞳を潤ませ、喘いでいた姿にもそそられたが)
 今、こうして要求を並べ立ててくる、自信に満ちた姿にも同じくらいそそられる。
(飽きないねえ。素晴らしい宝だ。草木紙生産が継続的にできるようになれば、テッラ・ロッサとの取り引きでも優位に立てる。この王国内でも、わが領地は確固とした地位を築ける。そうであれば、アッズーロに忠誠を誓い続けるのも吝かではない。そして、草木紙作りが軌道に乗るまで、あなた様はここに留まり、その間、毎夜、わたくしの慰み者になる)
 実に素晴らしい約束だ。パルーデは、早くも今夜の閨を想像して、笑み崩れそうになりながら、干し杏を齧った。
 

「ナーヴェ様、このような無理は、金輪際なしにして頂きたい」
 レーニョは強く求めたが、手桶を抱えて寝台に腰掛けた王の宝は、黙って首を横に振った。手桶の中には、王の宝がたった今、吐いた粥や杏や乳が溜まっている。自室に戻ってすぐ、王の宝は吐き気を訴え、ピーシェが持ってきた手桶に、朝食を全部吐いてしまったのだった。
「片づけますわ」
 ピーシェがナーヴェの手から手桶を取り、部屋から出ていった。
「ナーヴェ様、しかし、このようなことが続けば、お体が持ちません」
 言葉を重ねたレーニョに、ナーヴェは青褪めた顔で答えた。
「大丈夫、その内慣れるから。それに、パルーデに弱味を見せる訳にはいかないからね」
「けれど……」
「きみも、分かっているはずだよ……?」
 青い双眸に見つめられて、レーニョは言い返せなかった。交渉に、弱味は禁物だ。
「とりあえず、口を漱いで下さいませ」
 ポンテが、用意されていた水桶から木杯に水を汲んで、ナーヴェに渡した。
「ありがとう」
 弱々しく微笑んで、王の宝は木杯から水を口に含み、ポンテが差し出した手桶に吐き出す。ポンテは、王の宝に幾度かその動作を繰り返させた後、木杯と手桶を床に置き、王の宝の口元を布で拭って、寝台に横にならせた。
「これらを片づけてきますから、レーニョ殿は、ナーヴェ様についていて下さい」
 告げて、ポンテは木杯と手桶を手に、部屋から出ていった。
「ごめんね……」
 王の宝は、二人だけになった部屋で、ぽつりと謝る。
「もう少し丈夫な肉体だったら、よかったんだけれど……」
「謝らないで下さい」
 レーニョは、ナーヴェに掛布を掛けて、寝台脇に跪く。
「わたくしどもは、あなた様にお仕えできるだけで、幸せなのですから」
「あれ……?」
 王の宝は、レーニョを見て、目を瞬く。
「ぼくは、きみに嫌われていると思っていたんだけれど……」
 思わぬことを言われて、レーニョは全力で否定した。
「そのようなこと、滅相もない!」
「でも、昨日、馬車の中で、ぼくがきみに凭れて寝た後、きみ、怒っていなかった……?」
「あれは……」
 素っ気ない態度を取ったことは覚えている。
「その……、あなた様を支えている間、全く身動きしなかったので、あの時は体が強張っておりまして……。御心配をお掛けして、申し訳ございませんでした……」
「そうなんだ……」
 ナーヴェは、くすくすと笑い出す。つられてレーニョもくすりと笑ったところで、扉が開き、新たな手桶を抱えて戻ってきたピーシェが、怪訝な顔をした。
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