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第五章 妃となる道 二

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     二

 フォレスタ・ブル大公マーレは、娘のヴァッレに伴われて部屋に入ってきた人物を見て、椅子の肘掛けを強く握った。
 青く癖のない髪は腰に届く長さ。前髪のかかる形のいい青い眉。慈愛と好奇心を湛えた青い双眸。白い長衣と筒袴を纏った、すんなりと細い体。懐かしい姿――人ではない者だ。それが、目の前に、人として在る。
「話すのは久し振りだね、マーレ」
 親しげに挨拶されて、マーレは椅子から立ち上がった。
「そなた、本物なのか」
 口から零れた言葉に、相手は、寂しげな苦笑を浮かべた。
「やっぱり、疑っていたんだね。少しも会いに来てくれないから、そうだろうな、とは思っていたんだ」
「当たり前であろう」
 マーレは頭痛を覚えて、こめかみを押さえる。
「そなたは人ではない。それが人として現れたのなら、誰か適当な者にそれらしいなりをさせておると思うではないか」
「まあ、アッズーロは、そうしても可笑しくない状況で即位したからね」
 涼しい口調で言い、王の宝――ナーヴェは、マーレを見つめる。
「でも、アッズーロは、ぼくの予測も、きみの想像も、超えたんだよ」
「どうやら、そのようね」
 マーレは溜め息をつき、椅子に座り直した。
「ああ、ぼくも椅子に座っていいかな?」
 ナーヴェが、既に目で椅子を物色しながら訊いてくる。
「ちょっと、体調が思わしくなくてね」
「如何した?」
「妊娠しているんだよ、驚いたことにね」
 さらりと告げられて、マーレは目を瞬いた。
「は?」
「びっくりした時のその反応、甥っ子とそっくりだよ」
 くすりと、王の宝は笑った。
「一体、誰の――」
 尋ねる途中で、マーレは口を閉じた。答えなど、決まっている。
「――本当に、あの子は、われの想像を超えたようね……」
「それで、座っていいかな?」
 再度問われて、マーレは手を振った。
「どの椅子でも、適当に使うがよい」
 マーレが座る肘掛け椅子の前には長卓があり、その周りには他にも長椅子や肘掛け椅子がある。ナーヴェは長椅子にゆっくりと腰掛けた。娘のヴァッレが、その長椅子の背後に立つ。マーレは、ヴァッレに視線を向けた。
「ヴァッレ、そなたは、いつからナーヴェの妊娠を知っていたのだ?」
「わたくしも、つい昨日、知ったばかりです」
「何しろ、ぼくは昨日の未明に妊娠したところだから」
 ナーヴェが赤裸々に付け加えた。マーレはまたも頭痛を覚え、顔をしかめつつ尋ねた。
「……それで、何ゆえわれに会いに来たのだ?」
「口添えを、お願いしたくてね」
 王の宝は、マーレが初めて見る優しい表情をする。
「アッズーロが、ぼくを妃にしたがっているから、できるだけ多くの協力者が必要なんだ」
「妃だと? 人ではないそなたをか!」
 マーレは激高した。王家に、人ではない者の血を入れるなど、考えただけでぞっとする。
「アッズーロめ、血迷うたか!」
「うん。彼は血迷った」
 王の宝は冷静に認める。
「ぼくが幾ら反対しても、聞く耳を持たなかった。それどころか、ぼくを妃にするために暴走して、どんどん孤立していく感じがした。だから、ぼくは彼に協力することにしたんだ」
 澄んだ青い双眸が、真っ直ぐにマーレを見据える。
「ぼくは、彼を暴君ではなく、賢君にしたい。ぼくは青い瞳を持っている。ぼくは多くの知識を持っている。ぼくは、子どもを産める。後は、何が不足だい?」
 マーレは深く息をついた。これほど熱を帯びた言葉を語るナーヴェも、初めて見る。アッズーロは、歴代の、どの王も為し得なかったことをしたのだ。
「その体は、本当に人なのか?」
 マーレの問いに、ナーヴェは穏やかに頷いた。
「人だよ。極小機械は入れているけれど、人には違いない」
「そなたは、嘘がつけぬのだったな?」
「うん。造られてから今に至るまで、まだ嘘をつけたことはないよ」
 マーレは、もう一度深く息をついた。考えたこともなかったが、選択肢としては、有りなのかもしれない。
(王権の象徴の血を、王家に入れる――。悪くないやもしれぬ……)
「よかろう」
 マーレは椅子から立ち上がる。
「われが、そなたを支援しよう。そなたが如何に妃に相応しいか、吹聴して回るとしよう」
「ありがとう」
 ナーヴェも立ち上がり、ふと片手を差し出した。マーレはその手を一瞬見つめた後、自らも手を伸ばして握手に応じた。宝の白い手は、華奢で、やや骨ばっていて、柔らかな肌をしている。その生の感触が、どんな言葉より、青い髪をしたこの少女を、人なのだと感じさせた。
「まさか、そなたと実際に手を握り合う日が来ようとはな」
 感慨深く呟いたマーレに、ナーヴェも僅かに肩を竦めて言った。
「そうだね。ぼくの予測にも、こんな未来はなかったよ」


 ヴルカーノ伯フェッロは、王都に小さめの邸を持ち、王城の敷地内に設けられた製作所へ通っている。レーニョ配下の間諜達は、その生活を逐一観察し、報告し始めた。そうして八日目、レーニョは気になる報告を受けた。フェッロの許を、とある少女が訪ねたという。その少女は、頭巾付き外套で容貌を隠してはいたが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯の王都の館にも出入りしていたというのだ。
(テッラ・ロッサ絡み、と見るのが妥当だろうな――)
 だが、確証がない。
(視察と称して、一度、製作所を彼に案内させてみるか)
 アッズーロの命令を受けて、実際に製作所設置の指揮を執ったのはレーニョだ。その後の様子を気にして視察に訪れても、違和感はないはずだ。
(彼が製作所にいる時を狙って、抜き打ちで行くか)
 レーニョは、間諜の報告と自分の判断を伝えるため、王の執務室へ向かった。夕食が終わる頃の時間なので、王はもしかしたら続き部屋の寝室のほうにいるかもしれない。
(ナーヴェ様と語らっておられるところへお邪魔するのは気が引けるが……)
 王の宝ナーヴェを妃にする、とアッズーロから告げられたのは、七日前だ。さまざまな説得工作の成果で、今では大臣の半数が賛成に回っている。
(ペルソーネ様を筆頭に、根強い反対もあるとは聞くが、ここまでくれば、時間の問題だろう)
 執務室の扉を叩き、中へ入ると、やはりそこにアッズーロはおらず、隣室から話し声が聞こえてきた。
「明日は、ペルソーネと話してみるよ。彼女も、話が分からない人ではないから、突破口はあると思う」
 ナーヴェが提案している。相変わらず、意表を突く真っ向勝負が好みらしい。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領から戻って暫くは体調を崩しがちだったが、ここ二、三日は調子がよさそうだ。
(穏やかそうに見えて、交渉事においては好戦的なところのある方だ)
 小さく息をついて、レーニョは声を掛けた。
「陛下、レーニョでございます。御報告したき儀があり、参りました。宜しいでしょうか?」
「うむ、入れ」
 卓に着いたまま振り向いたアッズーロに促され、レーニョは王の寝室へ入った。
「いつも遅くまでありがとう、レーニョ」
 ナーヴェが、卓の向こうから涼やかな笑顔で労ってくれた。フィオーレに拠れば、女官達は皆、ナーヴェの魅力の虜だという。気遣いが細やかで、優しく、しかも当たり前の世話に素直に喜び感謝してくれる、仕え甲斐のある主人である、と。それは、レーニョにとっても同じだった。
「お気遣い痛み入ります、ナーヴェ様」
 一礼してから、レーニョはアッズーロへ歩み寄り、声を低めて告げた。
「ヴルカーノ伯の件ですが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯の従僕が接触を持ったようです。それだけでは確証はありませんが、やはり、テッラ・ロッサとの繋がりが濃厚に疑われるかと。明日、抜き打ちの視察と称して、彼が製作所にいるところへ訪れ、幾らか探ってみようと思います」
「ふむ。それはよいが、急ぐ必要はないぞ。こちらも工作員を送っている最中だからな。抑止力になれば、それでよい」
 アッズーロは、気負いなく言った。ナーヴェの体調がよくなった所為か、一時感じられた焦りがなく、余裕がある。よいことだ。
「畏まりました。浅く探る程度に致します」
 再び一礼して、レーニョは寝室を辞す。去り際に、寝室の隅に控えていたフィオーレと目が合ったが、レーニョは特に何も示さず、扉を閉めて廊下へ出た。


「それで、そなた本気でペルソーネと話す気か?」
 顔をしかめたアッズーロに問われて、ナーヴェは苦笑した。
「きみは、本当に彼女が苦手なんだね。そんな顔をしなくてもいいのに。彼女は真面目でいい人だよ?」
「真面目だけが取り柄の女だ。一々狭量で面倒だ」
 アッズーロは鼻を鳴らして言った。
「そういう人こそ、政務では大切にしないと」
 ナーヴェは忠告して、席を立った。すると、アッズーロも慌てて立ち上がり、フィオーレも駆け寄ってくる。
「大丈夫だよ」
 ナーヴェは二人を宥めたが、アッズーロは真剣な顔で怒った。
「大事な体で、大事な時期であろう! われの寿命を縮める気か! 歩く時は必ず介添えを付けよ!」
「――分かったよ」
 ナーヴェは渋々頷いて、アッズーロに支えられて歩き、寝台へ腰掛けた。
 すぐにフィオーレが楊枝と手桶と木杯を持って傍へ来て、歯磨きを始めてくれる。アッズーロは隣に腰掛け、何となくナーヴェの青い髪を触り始めた。髪を手櫛で梳いたり、毛先を指に搦めて弄ったりする。臥所をともにできない代わりに、そうして欲求不満を解消しているらしい。アッズーロの優しい手の動きを髪を通じて感じながら、ナーヴェは大人しくフィオーレに歯を磨かれ、口を濯いだ。次いで、フィオーレに手伝われながら、夜着の長衣へと着替える。アッズーロは隣に腰掛けたまま、時折、立ち上がってナーヴェを支えた。ナーヴェが上半身裸になった時には、アッズーロはふと手を伸ばし、まだ平らなナーヴェの下腹に触れてきた。
「順調か?」
 耳元に囁くように問われて、ナーヴェはくすぐったさに首を竦めながら答えた。
「順調だよ。ぼくがずっとこの体に接続し続けて、極小機械で守っているから大丈夫。この子は元気に細胞分裂を続けているよ」
「そうか」
 アッズーロは相槌を打つと、ナーヴェの頬に口付けてから、体を離した。その隙を逃さず、フィオーレがナーヴェの頭から長衣を被せる。貫頭衣の襟から頭を出したナーヴェの髪を、アッズーロが手際よく衣の外へ出して背中へ流してくれた。
 フィオーレに介添えされて、寝室の隅にある手洗いへ行ってから、ナーヴェは寝台に横になる。アッズーロが優しく掛布を掛けてくれた。そうして、アッズーロは身を屈め、ナーヴェの口に口付ける。妊娠してから、毎晩の習慣だ。
「今宵は、蜂蜜の味だな」
 呟いて身を起こしたアッズーロを見上げ、ナーヴェは問うた。
「きみは、まだ暫く政務をするのかい?」
「うむ。報告書は日々溜まるからな」
「そうだね。でも、無理をしたら駄目だよ。一つしかない体なんだから」
「分かっておる。体が幾つもあるのは、そなただけだ」
 呆れたように言ってから、アッズーロは優しく微笑む。
「では、しっかり休め」
「うん」
 頷いたナーヴェの前髪にちらりと触れてから、アッズーロは執務室へと消えた。
「では、ナーヴェ様、おやすみなさいませ」
 フィオーレが一礼し、油皿の灯火を消した。
「おやすみ、フィオーレ。今日もありがとう」
 暗くなった部屋の中、感謝を告げて、ナーヴェは目を閉じた。明日、ペルソーネとどう話すか。暫く演算してから、眠りに落ちた。
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