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第七章 壊れた宝 三

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     三

 フィオーレに連れられて部屋に入ってきた青い髪の少女を見て、レーニョは心底安堵した。フェッロによってテッラ・ロッサに拉致されただの、国境付近で磔刑に処せられただの、自責の念に駆られる噂ばかりが聞こえてきたが、人ではないという少女は、無事、戻ってきてくれたのだ。
「お元気そうで、何よりです。命をお救い頂き、本当に感謝の言葉もありません」
 寝台に横たわったまま真摯に述べたレーニョに、王の宝は首を横に振った。
「救って貰ったのは、ぼくのほうだよ。きみが防いでくれなかったら、この体は頭を吹き飛ばされて即死して、お腹の子が助からなかった」
 穏やかに言って、王の宝はフィオーレが用意した枕辺の椅子に腰掛けた。
「具合はどうだい? ぼくができたのは応急処置までだから、まだかなり痛いだろう?」
「それはそうですが、あなた様と侍医殿のお陰で、日々快方に向かっております。ナーヴェ様こそ、テッラ・ロッサで、いろいろと御苦労なさったのではありませんか?」
「まあ、そうだね。特に磔刑は、とても痛くて苦しかったよ。予測以上だった。できれば、次は御免被りたいね」
 嘆息した宝に、レーニョは引き攣った笑みを浮かべた。磔刑を二度受けることを恐れるなど、聞いたこともない。磔刑を受けておきながら、その翌日の午前九時に、けろりとして目の前にいる少女こそ恐ろしいのではないだろうか。だが、恐ろしさなど微塵も感じさせない少女は、人懐っこく顔を寄せてきた。
「それで、フィオーレと、何か進展はあったのかい?」
 耳に息の掛かる距離で囁かれた言葉に、レーニョは瞠目した。
「はい?」
 訊き返すと、ナーヴェは体を離して、また嘆息した。
「分かったよ。きみ達には、まだまだ時間が必要だね」
 そうして宝は椅子から下りる。
「では、またね。今度お見舞いに来た時には、『あなた様と侍医殿とフィオーレ殿のお陰で』と聞けることを、楽しみにしているよ」
 悪戯っぽく告げて、長く青い髪を揺らし、王の宝はレーニョの居室から出ていった。フィオーレが慌てて、その後へついて行く。去り際に振り向いたフィオーレの頬は、ほんのり赤く染まっていたが、レーニョは気の利いた台詞など言えず、ただ見送っただけだった。


  悲しいよ、愛する王国、きみはぼくを捨てたね、
  とても哀しいやり方で。
  ずっときみを愛し続けてきたのに、
  きみと一緒にいられれば幸せだったのに。

  オリッゾンテ・ブルはぼくの歓び、
  オリッゾンテ・ブルはぼくの幸せ。
  オリッゾンテ・ブルはぼくの心の輝き、
  きみ以外考えられないぼくの王国オリッゾンテ・ブル。

 物悲しい旋律の歌が、王都アルバで流行っている。それは、三日前に処刑されたオリッゾンテ・ブルの王の宝が、幽閉塔に閉じ込められていた間、繰り返し口ずさんでいた歌だった。それを連日聴いていた近衛兵達や女官達が、知り合いに伝えていったものらしい。王都では今や、市井の楽団がその歌を演奏して客を集め、日銭を稼ぐまでになっているという。
(何か、作為的なものを感じるわね……)
 シンティラーレは不審に思いながらも、その歌に惹かれる民衆の気持ちが分からないでもなかった。特に貧民街の人々は、宝がスコーポの命を救ったことを知っている。その宝が、格子の嵌まった箱馬車で王都を引き回された挙句、国境付近で残酷な磔刑に処せられたのだ。また、王の宝は、磔にされてから事切れるまでの間に、その場にいた民衆へ語り掛けたという。それは友好的な内容で、その無残な死にざまとも相まって、オリッゾンテ・ブルへの憎しみを叫んでいた人々の心に、少なからぬ衝撃を与えたようだと聞いている。人々は、王の宝を憐れみ、その死を悼んでいるのだろう。しかし、民衆の感情と政治的な問題は別物だ。
(一度、様子を見に行かないといけないわね……)
 シンティラーレは、その日、身を窶し、王都中心の泉近くで演奏している楽団を観察しに行った。

  きみはぼくの心を壊すように誓いを破った、
  ああ、何故きみはぼくをこんなに魅了するのかな。
  離れた場所にいる今でさえも、
  ぼくの心はきみの虜だ。

  きみの願いは全て叶えてきた、
  きみのために全てを賭けた。
  命も土地も捧げてきた、
  きみの愛と優しさをぼくのものにしたかったから。

 昼下がりの陽光の下、竪琴の伴奏で澄んだ歌声を響かせていたのは、王の宝と年恰好の似た少女だった。癖のない長い黒髪をただ垂らして布で覆い、華奢な体に白い長衣を纏った美しい少女は、青い双眸で集まった人々を見渡しながら、高くも低くもない中性的な声で歌う。

  ああ、ぼくは天高き神に祈ろう、
  きみがぼくの永遠の愛に気づくように、
  そしてぼくの人生の終わりが来る前に、
  もう一度きみがぼくを愛してくれるように。

(これは、思った以上に、まずいわね……)
 シンティラーレは、歌う少女から、立ったまま聴き入る人々へと視線を転じて、眉をひそめた。
(王の宝への同情が、膨れ上がっている……)
 それは、下手をすると、テッラ・ロッサ王家への反発に変わる感情だ。

  オリッゾンテ・ブルよ、今はもうさようなら。
  きみに神の恵みがありますように。
  ぼくは今でもきみを想っているよ。
  もう一度戻ってきてぼくを愛して。

  オリッゾンテ・ブルはぼくの歓び、
  オリッゾンテ・ブルはぼくの幸せ。
  オリッゾンテ・ブルはぼくの心の輝き、
  きみ以外考えられないぼくの王国オリッゾンテ・ブル。
   
 余韻たっぷりに歌い終えた少女に、人々は拍手を送り、その足元へたくさんの硬貨を投げ与えた。シンティラーレは、その輪からそっと離れた。
(兄上に、この状況を報告したほうがよさそうね……)
 楽団は、歌い手、竪琴弾き、横笛吹き、鉦叩きの四人から成っていた。歌い手以外の三人は白い頭巾付き外套ですっぽりと全身を覆っていたが、竪琴弾きは長い銀灰色の髪を結った女、横笛吹きは短い金褐色の髪の男、鉦叩きは癖のある黒髪を襟足で切り揃えた少女だった。
(全員、工作員という可能性もある。ソニャーレに調べさせて……)
 考え掛けてから、シンティラーレは軽く首を横に振り、溜め息をついた。ソニャーレは、怒れる人々に混じって、宝を護送する箱馬車について行き、その処刑を見届けたという。
(恩人が、磔刑で残酷に処刑されるさまを見た彼女に、この任務は無理ね……)
 シンティラーレは、どの工作員を使うべきか頭の中で検討しながら、王宮へ戻った。しかし、その報告をするより先に、シンティラーレは、侍従の一人から王族の間へ来るよう伝えられた。そこは、王の家族のみが集まり、話し合う部屋だ。シンティラーレが王族の間へ入ると、既にそこには、ロッソと三人の姉達、そして一人の少年がいた。
(ボルド……!)
 跪いて控えた栗毛の少年は、シンティラーレが知る間諜の一人だった。確か、オリッゾンテ・ブルの王城に、侍従として入り込んでいたはずだ。それが自ら戻ってくるとは、余ほど重大なことが起きたのだ。
「ボルド、おまえが見聞したことを、もう一度述べよ」
 ロッソが命じ、少年は硬い面持ちで語った。
「王の宝が、生きております。『神が奇跡を起こし賜い、王の宝は復活した』と、国王アッズーロは国民に喧伝しております。単なる宣伝、神格化かとも思い、第一報を鳩でお知らせした後、王城内で調査しておりましたところ、わたくし自身、王の宝を目撃致しました。詳しく観察致しましたが、顔立ち、立ち居振る舞い、語り口、周りの者達との関わり方、全て以前と寸分たがいません。あれは間違いなく、以前のままの王の宝です。代わりの者ではありません。王の宝は、生きていたのです」
 シンティラーレは絶句し、兄王の顔を見た。
「あの状況で生きていたとは信じ難いが、対策を練らねばならん」
 兄王は、険しい横顔で言う。
「テッラ・ロッサの王権の危機だ。あれは、アッズーロの妃となるのだろう?」
 ロッソの確認に、ボルドは頷いた。
「まだ正式には発表されておりませんが、王城内の雰囲気、大臣達の会話からは、そう推察されます。神の恩寵を受けた王の宝が王妃となれば、国王アッズーロの権威は弥増し、国政は安定すると、大方の意見は一致しているようです。以前は、王の宝というだけで、得体の知れない者を王妃にすることには反対がありましたが、現在は『奇跡の復活』の影響で、反対は殆どありません」
「あれは、身篭っていた。まだ、子は流れておらんのだな?」
「それについては、確定的情報が得られませんでした。そもそも以前より、王の宝が妊娠しているという情報は、噂程度で、正式には発表されておりません。なれど、国王アッズーロと王の宝の仲は以前にも増して睦まじく、周囲の女官達の言動からも、子が流れた様子は窺えませんでした」
「――さては、最初から偽者であったか」
 ロッソは低く呟いた。シンティラーレは、姉達とともに、兄王の顔を注視する。兄王は、腹立たしげに言葉を続けた。
「フェッロとソニャーレが連れてきた宝は、偽者であったのだ。あやつらは、偽者を掴まされたのだ。そうして、おれも騙され、奇跡の演出の片棒を担がされたのだ。おれが磔刑に処した者は、確かに死んでいた。あの状況で、生きておるはずがない。況して、子も流れておらんなどと、あり得るはずがない」
(あれが、偽者――)
 シンティラーレは、言葉を交わし、ともにソニャーレの家へ行った少女の姿を思い浮かべる。博識で、且つ慈愛に満ちた振る舞いをしていたあの少女は、宝の偽者で、奇跡の演出のために、甘んじて磔刑に処せられ、死んだのだ。
(何ということを――)
 涙を流しそうになり、慌てて堪えたシンティラーレの耳に、ロッソの吐き捨てるような言葉が刺さった。
「あの偽者は、確かに身篭っていた。オリッゾンテ・ブルの奴らの非道なことよ。われらを謀るためだけに身篭った女を使い、腹の子ともども見殺しにしたのだ」
「何という、残虐な……」
「惨いことを……」
「卑劣漢どもめ……!」
 姉達が涙に咽ぶ。シンティラーレも、最早、目から溢れる涙を堪えはしなかった。常に微笑んでいたあの少女が、結末を知りながらも腹の子を労わっていたあの少女が、憐れでならなかった。
(だから、処刑後、「遺体をその場でオリッゾンテ・ブル王国に引き渡して」ほしい、だったのね……)
 遺体がテッラ・ロッサに残っていれば、「復活」も演出できない。彼女の遺体は、オリッゾンテ・ブルで、誰に知られることなく、処分されたのだろう。
(そこまで尽くす必要が、オリッゾンテ・ブルにあったの? それとも、誰かを人質に取られていたの……?)
 もっと、あの少女と話しておけばよかったと思った。もしかしたら、優秀な工作員として、こちらに引き入れられたかもしれなかった――。
「まずは、その線から攻めることとしよう」
 兄王が結論付ける。
「オリッゾンテ・ブルは、偽者を用意し、卑劣にもその者を見殺しにして、『奇跡の復活』を演出した。そう、わが国民にも、オリッゾンテ・ブル国民にも、知らせるのだ」
「それがようございます」
「仰せのままに……!」
「すぐに配下の者どもを動かしましょう」
 姉達が賛同する。シンティラーレも深く頷いた。
「オリッゾンテ・ブルの奴らがどれほど残酷なことをしたのか、わが国民にも、かの国民にも、確と知らせてやりましょう!」
 あの少女の死の上に笑う者達を、許しはすまい。シンティラーレは、固く決意した。


 妹達との話し合いを終え、幾つかの指示をボルドや臣下達に下してから、ロッソは、西日が僅かに差し込む寝室へ戻った。ボルドの第一報を受け取り、「奇跡の復活」の話を知ってから、不愉快な気分が続いているが、かの少女が偽者であったと思い至った瞬間から、更に不快感が増している。あの時、ロッソの体の下で、途中からは諦めた様子で、されるがままになり、ただ涙を流していた少女。ソニャーレの祖父を、真摯な手当てで救った少女。磔刑の苦しみの中で、怒鳴る民衆に語り掛けた少女。全て、命を懸けた演出の一部だったのだ。偽者だったかの少女に、ロッソが問うた王の宝の罪はなかった。だがロッソに、妹達のような単純な同情心は湧いてこない。命を懸けて、かの少女は、テッラ・ロッサを陥れたのだ――。
(どうせ死を覚悟していたのなら、あの時、容赦せず、殺す気で抱き潰しておけばよかったな……)
 胸中で、ロッソは苦々しく、獰猛に呟いた。
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