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第八章 長き旅路の果てに 二

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     二

 産後の体は、まだ準備ができていない所為で、新たな子どもは宿らなかったが、アッズーロと濃密な時間を過ごして、ナーヴェは幸せだった。けれど、幸せを守るためにも、王妃として役に立つためにも、水路作戦を次の段階へ進める必要があった。
「妊娠や産後の肥立ちの心配やらで、一年近く人工衛星達に接続していないから、地形が変わっていないか心配でね。ちょっと接続してくるよ。その間、肉体は寝たきりになるけれど、一時間くらいで戻るから、心配しないでほしい」
 ナーヴェはアッズーロに告げ、揺り篭で眠るテゾーロの額に口付けてから、寝台に横になり、接続を切り替えた。まず接続した先は、恒星同期準回帰軌道上にある人工衛星。恒星との角度を一定に保ちながら、少しずつ軌道をずらして、惑星の地表全てを観測する役割を担っている。丁度、オリッゾンテ・ブル王国の上空を通っている日時なのだ。
 地表を見下ろすのは、妊娠する前日の昼間以来だった。久し振りの眺めだ。夜に入ったオリッゾンテ・ブル王国と、西のほうはまだ夕暮れのテッラ・ロッサ王国。人々の営みを内包した、美しい惑星。ナーヴェはまず、光学測定器で地表の川や植物の様子を観測してから、夜間でもよく見える能動型極超短波測定器で、クリニエラ山脈の地形を詳細に観測し始めた。能動型極超短波測定器も、光学測定器同様、一糎掛ける一糎の分解能を有している。小石が一つ移動していても分かるのだ。
(水路工事の妨げになるような地形の変化はないね……。よかった……)
 安堵したナーヴェは、次に、オリッゾンテ・ブル王国上空の静止軌道上にある人工衛星へ接続した。こちらにも、光学測定器とともに能動型極超短波測定器が搭載されている。恒星同期準回帰軌道よりも静止軌道のほうが高い高度にあり、観測幅が広い。ナーヴェは能動型極超短波測定器でクリニエラ山脈からテッラ・ロッサ王国側へ、より広い範囲の地表を観測してから、更に高い高度にある人工衛星へ接続を切り替えた。恒星から陰になる惑星オリッゾンテ・ブルの夜側に配置した、天文観測衛星である。さまざまな光学望遠鏡と観測機器を搭載しており、宇宙を観測する役割を担っている。ナーヴェは、十一ヶ月と十一日振りに、宇宙を見渡した。そして、――それに気づいた。
(何故、こっちに……!)
 一年前には確かに別の軌道を通っていたはずの小惑星が、惑星オリッゾンテ・ブルへ向かってきている。
(いつ軌道が変わった……? それに、この惑星への危機が明確になれば、緊急安全装置が作動して、疑似人格電脳のぼくに強制するか、或いはぼくを初期化してでも、対処を開始するはず――)
 そこまで一瞬で考察して、ナーヴェは幻覚の目を瞠った。
(まさか、ぼくが壊れたあの時に、アッズーロが「船長」の権限で、ぼくの初期化を拒んだから……?)
 アッズーロが、緊急安全装置に対して、どう言ったのかは聞いていない。しかし、恐らくは、何があろうと休眠状態を続けるよう命じてしまったのだ。小惑星の軌道は、あの事件以降に、何らかの原因でずれたのだろう。
(ぼくが壊れたから――、きみ達が、滅んでしまう……?)
 ナーヴェは、幻覚の体で、ゆっくりと惑星オリッゾンテ・ブルを振り向いた。眩い恒星を背景に、オリッゾンテ・ブルはその名の通り、美しい青い地平を見せている――。


(一時間と言うたのに、なかなか目覚めんではないか……!)
 執務室で一人報告書を読みながら、苛々と待っていたアッズーロは、寝室からゆらりと現れたナーヴェの様子に、目を瞬いた。
「如何した? 酷い顔をしているぞ」
 執務机に置いた油皿の灯火に微かに照らされたナーヴェの顔は、涙で濡れていた。
 報告書を置き、執務机を回って駆け寄ったアッズーロに、宝は、泣き顔で縋りついてくる。とりあえず抱き締めて、話をしようとしたアッズーロに、腕の中から宝は囁いた。
「……きみを失いたくない」
「何か、悪い夢でも見たのか」
 幼子に尋ねるように、アッズーロは問うた。両手で力一杯縋りついてくるナーヴェは、本当に、年端のいかない子どものようだ。けれど、暫くしてから返ってきた答えは、幼さとは懸け離れたものだった。
「――抱いて。悪い夢を見なくて済むくらい、滅茶苦茶に、抱いて」
 何かあったな、とは思った。だが、珍しく冷静さを失った宝を前に、アッズーロは、追及は後回しにして、言われた通りにしたほうがよさそうだと判断した。
「分かった。覚悟するがよい」
 囁き返して、アッズーロは華奢な体を抱き上げ、寝室へ戻る。テゾーロの揺り篭から遠い自身の寝台へナーヴェを寝かせて、アッズーロは、深い口付けから始めた。
 卓上で揺らめく油皿の灯りの中、ナーヴェは、昼間以上にアッズーロを求めた。アッズーロはそれに応じて、一つ一つ丁寧に、ナーヴェが悦ぶことをしていった。その効果があったのか、三十分もしない内にナーヴェは落ち着いてきて、アッズーロの下で口を開いた。
「どうしたの、アッズーロ、優しいよ……?」
「そなた、随分と口が悪くなったな? われはそなたに対して、概ねいつも優しかろうが?」
「……そうだね。その『概ね』という辺りに、きみの優しさを感じるよ……」
 複雑そうに呟きながら、ナーヴェは手を伸ばして、アッズーロの後頭部の髪の毛を、さわさわと梳いた。優しい指の感触が、心地よくもくすぐったくもある。そう言えば、昼間、林檎の木の下で睦み合った時にも、ナーヴェは頻繁にアッズーロの髪に触れていた。
「そなた、人の髪を触るのが好きなのか?」
 試しに訊くと、ナーヴェは目を瞬いた。
「しょっちゅうぼくの髪を弄っているきみに言われると、何だか意外だけれど……、そうだね、ぼくはきみの髪が好きなんだよ。柔らかくて、光の当たり方によって、金に近い色から黒に近い色にまで、いろいろな色に見えて、とても綺麗だ。昼間、木漏れ日の中で見た時も、とても綺麗だった」
「そなたの、この青い髪に比べれば、何ということもなかろう」
 長く青い髪を一房掬い上げて口付けてから、アッズーロは、テゾーロの揺り篭のほうを振り向いた。
「テゾーロはわれに似て暗褐色の髪だが、次の子は、青い髪でもよいな」
「それはないよ」
 ナーヴェは上体を起こしながら、冷静に告げる。
「この色は、遺伝子操作をして、無理に発色させているものだからね。そういうものは、殆ど遺伝しないし、万一があっても、させない。自然が一番だよ」
「そなたは相変わらず、頑固よな」
 嘆息して、アッズーロも起き上がり、寝台に腰掛けた。その脇から寝台を下り、ナーヴェは半裸のまま揺り篭へと歩いて、テゾーロを抱き上げた。少し前から細い泣き声を漏らしていた赤子を胸に抱き、乳を含ませる。膨らみに乏しい胸は、乳の出も悪かったが、それでも多少は授乳できるらしい。乳の出がいいラディーチェに相当助けられてはいるが、ナーヴェも努力して栄養価の高いものを食べ、夜間の授乳は一人でこなしている。
 テゾーロに乳を与えながら、自らの寝台に腰掛けたナーヴェに、アッズーロは漸く問うた。
「――それで、何があったのだ?」
「小さな星が一つ、飛んでくる」
 ナーヴェは、抱いたテゾーロに視線を落としたまま、低い声で答えた。予想外の返答に、アッズーロは眉をひそめた。
「流星か?」
「小惑星だよ。でも、この惑星にぶつかったら、隕石だね。きみ達が見たことのあるような、可愛らしい流星にはならないよ」
「ぶつかるのか……?」
 瞠目したアッズーロに、ナーヴェはこくりと頷いた。
「ぼくの計算では、一ヶ月後に衝突する。でも、それはさせない」
 きっぱりと言い切り、ナーヴェは顔を上げる。
「ぼくの本体を使う。飛ぶのは二千年振りだけれど、まだ飛べるから、迎撃に行く」
「できるのか」
 物騒な話に、声が掠れた。ナーヴェは静かな眼差しでアッズーロを見つめ、微笑んだ。
「大丈夫。ぼくはこう見えても、星の海を越えてきた船だから」


――「ただ、お願いがあるんだ」
 昨夜、ナーヴェが提示した幾つかの安全策を実現するために、アッズーロの日常は俄かに慌ただしくなった。臨時の大臣会議を招集し、事態を伝え、アッズーロは命じた。
「まずはこの王都から、諸侯と民衆を残らず避難させねばならん。神殿が飛び立つ際に、巻き添えを食ってはならんからな。近隣の町々に分散して三週間は過ごせるよう、建物や物資の用意をせよ。それから、万が一、空から星の欠片が降ってきた時のために、穴を掘り、防空壕を造らせよ。家単位、村単位、規模は何でも構わん。ただ、全ての国民が必ずどこかの防空壕に入れるようにせよ。最後に、忌々しいことだが、テッラ・ロッサの奴らにもこの事態を伝えてやらねばならん。これは、水路作戦の一環ともなる。使節団団長には、ペルソーネを任じる。加えて――」
「ぼくも行くよ」
 同席しているナーヴェが、珍しく口を挟んだ。大臣達が、驚いた顔で王の宝を振り返る。その話自体は、昨夜の内に確認していたが、ここで発言するとは聞いていなかった。アッズーロは、顔をしかめて口を閉じ、続きをナーヴェに譲った。
「ごめん、アッズーロ。でも、自分の口で説明しておきたいんだ」
 詫びて、ナーヴェは椅子から立ち上がり、大臣達を見つめる。
「自分達だけでも大変な時に、他国の人まで救おうとするのは、愚かだと考える人もいるかもしれない。けれど、利他的になれることこそが、人があらゆる困難を乗り越えて生き延びてきた理由の一つだから、今回も、手を差し伸べてほしいんだ。そうすれば、きっといつか、テッラ・ロッサに助けられる日も来るから」
 熱を持って語ったナーヴェに、ヴァッレとペルソーネが深く頷いた。他の大臣達も、表立って異は唱えない。中には、ナーヴェの機嫌を損ねると、小惑星の迎撃事態が危うくなると考える輩もいるだろう。
「一つ、質問が」
 工業担当大臣チェラーミカ伯ディアマンテが手を上げた。四十歳近いしっかり者だが、普段は控えめで、水路作戦で陶磁器の管制作を指揮し、苦労を重ねている一人でもある。その所為で、ナーヴェとのやり取りも増え、最近は随分と気の置けない仲に見える。
「どうぞ」
 ナーヴェも気安く応じた。
「はい」
 立ち上がったディアマンテは、不安げに鳶色の髪を耳に掛け、問う。
「未だテッラ・ロッサでは、われわれが妃殿下の偽者の少女を見殺しにしたと信じている輩も多いと聞きますが、その点は心配ないのでしょうか? 畏れながら、妃殿下が直接赴かれては、余計な混乱が生じるような気が致します」
「そうだね。混乱は起きるだろうね」
 ナーヴェは素直に認め、昨夜アッズーロに説明した時と同じように、穏やかに話す。
「でも、だからこそ、ぼく達の話に説得力も生まれると思うんだ。神の恩寵を受けた宝でも、奇跡の業を使う巫女でも神官でも、何でもいい。『復活』を信じさせて、ぼくという存在に、彼らが無視することのできない権威が備われば、それでいいんだよ。必要なら、新たな『奇跡』を二つ三つ見せてもいいとさえ思っている」
 穏やかながら強い言葉に、気圧されたようにディアマンテは頭を下げた。
「畏まりました。考えの浅いことを口にしてしまい、申し訳ございません」
「いいんだよ、ディアマンテ。そうして口にしてくれるから、ぼく達はより深く分かり合える」
 ナーヴェは微笑んで、身振りでディアマンテに着席を勧め、自らも椅子に腰を下ろした。
「他に今、王妃に問うておくべき事柄はあるか?」
 アッズーロは大臣達を見回したが、もう手を上げる者はいない。
「ならば、王妃は退席させる。いろいろと準備があるようだからな。われらはこれより、先ほど示した項目の一つ一つについて、担当を振り分け、話を詰める」
 手を振ったアッズーロに、ナーヴェは笑みを返し、大臣達が立ち上がって会釈する中、会議室を出ていった。近衛兵が閉じる扉の向こうに、長く青い髪が揺れる背中を見送り、アッズーロは微かに眉をひそめた。泣いて縋って、あれほど動揺していたというのに、今は些か落ち着き過ぎている。その様子が、逆に気掛かりだ。
(もう一度、しっかりと話をせねばならんな……)
 密やかに溜め息をついて、アッズーロは目の前の大臣達に視線を戻した。
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