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第十七章 罪ある者達 一

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     一

「ナーヴェ様、さあ、どうぞ、ここへ……!」
 通路の向こうから、僅かに焦ったフィオーレの声が聞こえた。
(やはり、あやつ……!)
 寝室に駆け込んだアッズーロの目に、ポンテに支えられて寝台で前屈みになり、フィオーレが持つ手桶へ吐いているナーヴェの姿が映る。
「たわけ! 右肩の治療が危うくなるようであれば、即刻接続を切るよう言うておいたであろう!」
 怒鳴ったアッズーロに、ナーヴェは俯いたまま反論した。
「これは……、右肩とは、何の関係もない、単なる不具合だよ……」
 アッズーロは険しく眉をひそめた。以前、ナーヴェが言っていたことが思い出される。
「それは……、あれか? われ以外の輩に触れられた時に起こる吐き気か……?」
「――きみに嫌な思いをさせるから、かなり我慢したんだけれどね……」
 ナーヴェは自嘲気味に認める。
「きみに接続するために、ほんの少しこっちの接続を切っただけで、制御不能になったよ……。肉体の扱いは……、本当に難しいね……」
「馬鹿者め……」
 低い声で罵って、アッズーロは宝に歩み寄った。ポンテが支える華奢な体に寄り添って寝台に腰掛け、青い髪が流れるその背を撫でる。ナーヴェは、フィオーレが持つ手桶に、昼食に与えた茸と乾酪の粥を、殆ど全てだろう、吐いてしまった。
(この分では、夕食も無理か……)
 アッズーロは、ポンテに代わって宝の華奢な体を両腕で支える。その間に、フィオーレは手桶を洗いに行き、ポンテが水を満たした木杯と新たな手桶を持ってきた。
「ありがとう」
 律儀に礼を述べて木杯の水で口を濯いだナーヴェは、弱々しく手桶へ水を吐き出し、一息つく。その弱った体を、固定具に保護された右肩に配慮しながら、アッズーロは寝台へ横たわらせてやった。
「ごめん、ありがとう……」
 呟くように詫び、感謝を伝えてきた宝の前髪を掻き上げ、アッズーロは身を屈めて、白い額に軽く口付ける。血の気の失せた白過ぎる顔が、すまなそうな表情を浮かべた。
「アッズーロ……、夕食、食べられそうにないんだ……」
「言われずとも、この状況を見れば分かる」
 アッズーロは溜め息をついて、青い前髪を元に戻す。
「だが、白湯でも何でも、飲むだけは飲め。いろいろと見繕わせる」
「うん。分かった……」
 安堵したらしい宝の顔から、アッズーロは戻ってきたフィオーレに視線を転じた。
「白湯、生姜湯、林檎果汁、それに蜂蜜を持って参れ」
「仰せのままに」
 一礼して、フィオーレは再び退室していく。入れ替わりに、レーニョが入ってきた。
「陛下、バーゼが執務室に参っておりますが、如何致しましょう」
「こちらへ通せ」
 アッズーロは短く指示した。
 レーニョに先導され、寝室に姿を現したバーゼは、入り口を入ったところですぐに跪き、頭を垂れた。
「バーゼ、参りました」
「うむ。わが妃の体調が優れぬゆえ、ここで報告を聞く。おまえが見聞きした反乱民どもの情報を、奴らの関係性を中心に細大漏らさず述べよ」
「畏まりました」
 一礼して顔を上げたバーゼの青い双眸は、寝台に腰掛けたアッズーロを飛び越えて、背後に横たわったナーヴェに注がれているように見える。気になって仕方ないのだろう。
「わが妃のことは気に病むな。今は小康状態だ。意識もある。すり合わせたい情報があれば、遠慮なく申すがよい」
「分かりました」
 バーゼは頷いて、話し始めた。
「彼らの首魁は、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身のゼーロ、十八歳です」
「われより一つ年下か」
 評したアッズーロに、バーゼは真顔で続けた。
「はい。それからもう一人。フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領出身のベッリースィモが、ゼーロを補佐し、共同代表のような立ち位置にいます。また、ベッリースィモは、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコの妹の子だそうです。ただ、妹は市井の男性と結婚したため、ベッリースィモ自身は侯爵家を継ぐ資格は有していないとのこと。その辺りに、何か思うところがありそうです」
「諸侯になり損ね、僻んでおる輩ということか」
 アッズーロの嘲りを聞き流し、バーゼは更に話を続けた。
「他に、ドゥーエ、タッソ、キアーヴェ、ヌーヴォローゾ、ニード、チーニョといった者達がゼーロを補佐しておりました。ドゥーエは、ゼーロの幼馴染みだそうです。タッソは、ピアット・ディ・マレーア侯領出身で、ゼーロに賛同し合流したという話でした。キアーヴェは、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領出身と聞いていますが、本人は寡黙な上に、ゼーロ達も彼女のことについては詳しくないようなので、テッラ・ロッサの工作員の可能性も考えられます。ヌーヴォローゾは、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身で、カテーナ・ディ・モンターニェ侯城襲撃直前に仲間に加わったそうですが、冷静沈着な性格で、頭角を現してきたようです。ニードもカテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身で、ヌーヴォローゾと同時期に反乱に加わったようですが、温厚で真面目な性格で、ゼーロの信頼が厚いようです。チーニョもまたカテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身で、ゼーロやドゥーエの古くからの知り合いということですが、優柔不断なところがあって、近頃では、仲間内での地位は下がりつつあるようです」
「成るほど。では、奴らの結束を崩すには、どの辺りから攻めるのがよいと考える?」
 アッズーロの問いに、バーゼは間を置かず答えた。
「ドゥーエが、タッソやヌーヴォローゾ、チーニョに対して、不信感を持ち始めています。崩すならば、そこかと」
「ふむ。よい情報だ。褒めて遣わす」
 労って、アッズーロは妃を振り向いた。
「ナーヴェ、他に何か訊いておきたいことはあるか?」
「うん」
 小さく頷いて起き上がろうとするナーヴェを支え起こし、アッズーロはバーゼの顔が見えるようにしてやる。ナーヴェは、微笑んで、バーゼに尋ねた。
「ベッリースィモが、どういう思惑でゼーロ達と行動をともにしているのか、知りたいんだ。何か手掛かりになるような情報を掴んでいないかな? 些細なことでも構わないんだ」
 バーゼは少し考える顔をしてから述べた。
「彼は、その生い立ちからか、陛下や妃殿下、諸侯、将軍達に対して、軽蔑するような発言を繰り返していました。ただ、純粋に権威を憎んでいるというよりは、陛下が仰せられた通り、僻みから来る発言のようで、或いは、反乱に協力することで、テッラ・ロッサから地位を約束されているのかもしれません。であれば、テッラ・ロッサ軍を手引きしたのは彼でしょう」
「さすがの推測だね。ありがとう。ぼくの予測とも一致する。その線で調査を進めるよ」
 嬉しげに謝意を示した宝に、バーゼは心底悲しげな顔で応じた。
「いえ、間諜としてのわたくしの力量は、妃殿下の足下にも及びません。もっと多くの情報を持ち帰るべきところ、力不足で、申し訳もございません……」
「自分を責めないで。きみは充分やっているよ」
 柔らかな口調で、ナーヴェは慰める。
「これからも頼りにしているから、今日のところは、しっかり休んでほしい」
「勿体ないお言葉でございます。仰せのままに致します」
 深く頭を下げたバーゼに、アッズーロは命じた。
「此度の諜報活動で得た情報全てを報告書にまとめ、提出致せ。但し明日だ。今夜は、わが妃が望む通りに休むがよい」
「仰せのままに」
 床に着きそうなほど頭を下げたバーゼは、一度顔を上げてアッズーロとナーヴェを見つめてから立ち上がり、後ろ向きに退室していった。
「さて、次はそなたの食事だ」
 アッズーロは両腕で抱き起こしているナーヴェに言い聞かせ、丁度戻ってきたフィオーレを見る。フィオーレは盆を持っており、そこには四つの瓶と三つの木杯、それに一本の匙が載っていた。
「まずは白湯を」
「はい」
 寝台脇の小宅に盆を置いたフィオーレは、湯気の立っている瓶を取り、中身を一つの木杯に注ぐ。透明なそれは、王城の井戸水を熱した白湯だ。温まった木杯を受け取ったアッズーロは、片腕で支えたナーヴェの口元へ、その木杯を宛てがった。少しずつ注意深く白湯を飲むナーヴェの姿は、それだけで愛らしい。愛おしい。
(全く、妃がそなたでなければ、われがこのように自ら甲斐甲斐しく世話をすることもなかったろう。そなたは偉大よな)
 複雑な思いを懐きながら、アッズーロは時間を掛け、ゆっくりと、ナーヴェに白湯を飲ませた。
「次は何がよい? 林檎果汁なら飲めそうか?」
 空になった木杯をフィオーレに返しながらアッズーロが訊くと、ナーヴェはふわりと微笑んだ。
「きみは、本当によく、ぼくのことを分かっているよね……」
「日々の学習の成果だ」
 胸を張って見せてから、アッズーロは零した。
「だが、まだまだそなたの言動には意表を突かれることが多い。学習が足らんということであろうな」
「そうなのかい……?」
 ナーヴェは軽く目を見開いてアッズーロを見る。
「きみのほうこそ、いつもいつもぼくの予測を超えた言動をするものだから、意表を突かれているのは、ぼくのほうだとばかり思っていたよ。お互いさまだったんだね……」
 感慨深げな言葉に、アッズーロは微笑んだ。
「刺激的な関係、大いに結構。これからも、そなたはそのままでいるがよい。われの意表を突くところもまた、そなたの魅力の一つゆえな。そなたは、決してわれを飽きさせん」
「それは、褒めているのかい……?」
 訝しむ表情を浮かべた妃に、アッズーロはフィオーレから林檎果汁を満たした木杯を受け取りつつ、破顔した。
「当たり前であろう。そなたは、わが宝だからな」
 ナーヴェは、アッズーロを見たまま、僅かに頬を赤らめて応じた。
「……ぼくも、きみを特別に愛しているよ」
 純真な返事に、またも意表を突かれたアッズーロは、可愛らし過ぎる妃の顔を暫し見つめた。自制心が幾らあっても足りない気分だ。
(全く……。これで、誘っておる自覚が全くないのだからな……)
 沈黙したアッズーロの顔を、妃は不思議そうに窺っている。アッズーロは溜め息をついて込み上げてくる感情を遣り過ごし、林檎果汁の香が立つ木杯を、妃の口元へ持っていった。


 ゼーロ達は今頃、小神殿の小部屋に集まって、今後の方針について話し合っている最中だろう。
(だが、おれは声を掛けられもしない……)
 自嘲して、チーニョは扉の壊れた農具倉庫の中を歩く。
(おれは、もう、ただの役立たずだ……)
 優柔不断で、行動力がなくて、先を読む力もなければ、人を導く力もない。自分は、たまたまゼーロと早くに知り合ったから、今日まで何となく仲間達の中心近くにいただけなのだ――。
(ゼーロも、もう、ニードやヌーヴォローゾのほうを頼りにしてる……)
 溜め息をついて、チーニョは床に敷かれた藁の上に腰を下ろした。破壊された扉と、明かり取りの窓から、淡い月明かりが差し込んでいる。すぐ先に、血に汚れた藁が見える。あの青い髪の少女が横たわっていたところ。自分達が、あの「王の宝」を代わる代わる辱めた場所だ。
 女を抱いたのは、初めてだった。タッソに、「おまえもこいつに罰を与えてやれ」と言われて、気は進まなかったが、見様見真似で抱いた。横からタッソにからかわれながら、自分も一人前に罰を与えるという役目を果たそうと必死だった。だが――。
(あの人、熱くて、柔らかくて……)
 チーニョは、抱え込んだ両膝に顔を埋める。思い出すと、駄目だ。捕らわれてしまう。だが、忘れられない。
(罰を与えてるおれ達に、懸命に話し掛けてきて……)
 辱められながら、決して穢された様子は見せず、あくまでも真摯に語り掛けてきた姿は、タッソやヌーヴォローゾがどう言おうと、儚く美しく神々しかった。
(おれ達は、本物の「王の宝」を辱めてしまったんじゃないのか……?)
 畏怖が、後悔が、胸の奥から止め処もなく立ち昇ってくる。テッラ・ロッサの新兵器で乗り込んできたアッズーロが、電光石火で彼女を救い出し、立ち去った後、チーニョは藁に絡んで残された一筋の青い髪を見つけた。きっと、王の宝に成り済ますため、色の薄い髪に青い色を付けているだけだと思っていた。だが、試しに切ってみた髪の断面は、外側と同じ、深い青色をしていたのだ。
(もし、あの人が本物の「王の宝」だったら、おれは、おれ達は、何てことを……)
 両手で頭を抱え、掻き毟って、チーニョは、夜の静けさの中、悶々と一人悩み続けた。
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