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シチリア島の退屈な歌劇

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「トゥリッドゥが殺された!!」
 女の悲痛な声が響き渡る。
 眼の縁をくっきりとしたアイラインで縁どった化粧の濃い派手な顔とは、裏腹に地味な衣装の女たちが騒ぐ。人々の悲鳴が飛び交う。
 身内らしい女が、大仰な身振りでその場に倒れ込んだ。

 トゥリッドゥ……って、誰だっけ?

 眠い目を擦りながら、ぼんやりと思い出す。
 ああ、そうだ。
 シケリア島の村に帰ってきた青年だっけ。
 それが、昔の恋人とよりを戻したのはいいけど、残念ながら彼女はすでに人妻。
 妻の不倫にキレた夫が、トゥリッドゥを決闘で殺してしまう。
 今は、シケリアではなくシチリアと呼ばれているイタリア半島の地中海最大の島を舞台にしたオペラだ。ほとんどワイドショーのネタみたいな内容……。



 周囲では、盛大な拍手が沸き起こり、あたしも軽い調子で拍手をした。
 ようやく舞台は、終ったようだ。
 結婚とは人生の墓場だとは言うが、今のあたしこそ、墓所に生きたまま埋められたのも同然の身の上だわ。

「よくお休みでしたね。オペラは退屈でしたか?」
 隣の席から、夫が声をかけてきた。
「あら、そうでもないわ」
 さすがに、眠っていたと言われると恥ずかしいので、いかにも“起きてましたよ!”というアピールをしてしまう。
「トゥリッドゥによって歌われるシチリアーナはとても素晴らしかったわ」
 後で、どうだった? と、夫に聞かれたときのために用意していたセリフだから、すらすら出てくる。
「それに何と言っても劇的なラストシーンの直前に置かれた間奏曲は……」
 パンフレットの受け売りをするあたしを見て、夫はくすくすと笑った。
「そのシーンであなた。爆睡してたでしょ?」
 だから、どうした。いびきでもかいて、あんたに迷惑をかけたとでも言うのか。
 内心でそう思ったものの口には出さず、にっこり微笑んでやる。我ながら、見事な顔面操作。
 半年ぶりの里帰りに、こんな面白くもないオペラなど観にくるのではなかった。
「21世紀の現代で、古代ギリシャの野外劇場(テアトログレコ)で上演されたのが、19世紀のヴェリズモ(真実主義)・オペラだなんて、ちょっと間が抜けているわ」
「19世紀なら、シチリアで第二の規模を誇るこの古代劇場も半分埋もれかけた廃虚だったのが、今では、観光化のおかげで修復も進んでいるようですね」

 シチリアで第二の規模を誇る古代劇場は、タオルミーナの高台に位置しており、海の近くにある。劇場ではまだ人々が残って、騒いでいるようだった。
 ギリシャでも、夏の芸術祭でオーケストラやポピュラーミュージックのコンサート、演劇、舞踊など、世界中の一流パフォーマンスが古代野外劇場で開催されるけど、こちらはそんな大がかりなものではない。
 せいぜい、村のお祭りぐらいの規模だ。

「あたし、少し一人で歩きたいわ。いいでしょ?」
「おや、わたしはジャマですか」
 あたしの言葉に夫は、わずかに眉根を寄せる。
「そんなことないけど、たまには一人になりたいこともあるのよ」
「ええ、そうですね。あなたの里帰りは、半年に一度のことだから」
「そのことに関しては、両家で了承済みだったはずよ」
 少し斜めに睨んでやると夫は、やれやれとばかりに首を横に振った。
「では、せめてボディーガードを」
「必要ないわ。だって、シチリア島はあたしの庭よ。今日から半年間だけ、あたしは、一人で好きなところへ行けるんだもの。この島のどこへでもね」

 基本的に、今まであたしの思い通りにならなかったことなど、ほぼなかったに等しい。
 何より年上の夫は、あたしに甘い。甘すぎて胸やけする。
 親子ほども年齢差があるのだから、当然かもしれないが、いつになっても夫は、あたしを子供扱いするのだ。
 周囲もそれが当然だと思っているから、ちょっとした散歩にさえ、ボディーガードがつく。
 自由にできるのは、実家のあるシチリア島にいる間だけなのだ。
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