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冥府の王の接吻

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「申し訳ありませんね……皆で甘やかしておりましたせいでご迷惑をおかけした。まったく妻は、いつまでも子供でしてね」
 そう言いながら夫は、しゃがみこんでいたアーレスに手を差し伸べる。
 タコ呼ばわりしたあげくに頭頂部をわしづかみにした妻のことは、ほっとくつもりらしい。
 実家に帰ったら、母に言いつけてやろうか。
 いや、この島でのできごとは、すべて母に筒抜けのはず……。
 夫は、アーレスの腕をつかんで助け起こした。
 ずいぶんと紳士的なことだ。
 いや、女性に脳天締めするあたりで、すでに紳士ではない。
 ハーデスは、面喰っているアーレスを立ち上がらせると、いきなり両手を広げて抱きしめた。



 今、目の前で何が起こっているのか。
 まったく把握ができない。
 たぶん、アーレスのほうも同じだろう。
 巨体の中年男に抱きつかれて身動きもできずにいるようだ。
 無抵抗のアーレスの身体を抱きしめながらハーデスは、唇を若い男の咽喉から耳に這わせる。
「うっ」っと呻き声をアーレスはあげるが、かまうことなく夫は、耳朶を噛んだ。
 アーレスは、あたしと同じ主神ゼウスを父とするから、ハーデスから見れば、彼は甥にあたる。
 これは、久しぶりに会った親戚同士が抱擁していると受けとるべきなのか。

 たぶん、違う。

 オリュンポスの神々において、血縁関係などあってないようなものだ。
 同族同士の殺し合いも肉体関係など、なんでもアリ。
 人間より、はるかに動物的だとも言える。
 あたしの脳内で、男同士のイケナイ関係が出来上がってしまう。

 夫ハーデスは、冥府の王と呼ばれているが、その外見は美しい。
 初めて逢ったころには、神々の王である父よりもずっと老けていて恐ろしげに見えた。
 黒髪と髭のせいだろうか。
 重々しい威厳に満ちた姿。深い声音が、誰をも近づけさせない。
 陽気で、女好みの父とは違い、いつも不機嫌そうだった。

 だが、近くへ寄ってみれば、彼の切れ上がった涼しげな優しい眼もとに気づく者がいるかもしれない。
 男のくせにほっそりとした長い指先。
 それに触れられたら、もうゾクゾクと身体の内側から震えてしてしまう。
 いつもは、とても優しいのに、いつも彼は性急な行動であたしを驚かせる。
 無遠慮で、大胆不敵な行動で、あたしの知らなかったさまざまなことを教えたあの指先と唇が、アーレスに触れている。

 ああ、そうだ。
 あのころ、何の屈託もなかった子供だったあたしたちは、もうどこにもいない。
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