ひとりぼっちのラパン

沢本新

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3.呪い

13 怪物

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「ごめんね、変なことになっちゃって」

 動物園のエントランスから出たところで、浅川は今日四回目くらいの「ごめん」を口にした。「いいよ、気にしてないから」と、こちらも決まり文句を返していく。だが一方で、浅川が何度も「ごめん」を言うのは、僕の言葉がどこか上滑りして聞こえるからなのかもしれない、とも思った。

「すごい子だったね」

 出来る限り気にしていない風を装って言ったが、「……いつもは普通なんだよ」と俯いてしまった。
 カフェから出ると、原田は何も言わずにどこかへ行ってしまった。風のように走り去る後ろ姿は僕から見ても整っていて、さすがは陸上部だなと妙なところに感心した。

「浅川のことが、好きなんだね」

 浅川は否定も肯定もせず、「あはは」と曖昧に笑った。

「一緒の中学だったの、結衣は」
「やっぱり、陸上部?」
「うん。中距離やる子って少ないからさ。いつも一緒に走ってた」
「仲が良いわけだ」

 きっと、大好きな浅川が変な男に取られてしまうとでも思ったのだろう。浅川が〈ラパン〉を使ったことを知った時の絶望感すら、目に浮かぶようだった。

「もしも彼女が〈ラパン〉を使ってたら、僕じゃなくて、彼女が選ばれていたかもしれないね」
「……それは、大変な状況だね」
「確か、女の子同士でカップリングされることもあるって聞いたよ」

 ちなみに、男同士のカップリングもあり得るという。本人が自覚していない性的志向まで、〈ラパン〉は的確に見抜いてしまう。

「さすがに想像できないなぁ、結衣とそういう関係になるのは」

 浅川はそうかもしれないが、原田の方はきっと違うだろう。
 向き合ったのは短い時間だったが、原田が浅川をどれほど大切に思っているかは痛いくらいに伝わってきた。
 だからこそ、わかる。
 原田がなぜあそこまで僕に対して怒っていたのかも――

「まだ時間、大丈夫?」
「うん」
「行きたいところがあるの。うちのすぐそばなんだけど」
「じゃあ、電車乗る?」
「せっかくだし、歩いていかない?」

 電車に乗れば二十分の距離も、歩いて行けば一時間以上はかかる。今日、浅川と一緒にいられる時間が、歩いた分だけ長くなる。疲れるし、もうすぐ日も暮れていくが、決して悪いことばかりでもないだろう。

「いいよ」
「いい天気だしね」
「うん」

 言い訳みたいな浅川の言葉に、かぶせるように頷いた。
 五車線くらいある大きな道路に沿って、太陽の沈む方に向かってただひたすらに歩いた。軽く応じてしまったものの、一時間以上歩くのは冷静に考えると頭おかしいよな、と思った。

 今にして思えば、怖気づいていたのは僕だけではなかったのかもしれない。
 〈ラパン〉の承認は、出会いから一か月以内に行わなければならない。
 あの雪の広場で浅川と会った日から数えて、今日でちょうど一か月だ。

 僕らは今日、答えを出さなくてはならない。
 別れる前に。
 今日の太陽が暮れてしまう前に。

 僕は浅川の半歩後ろを歩いていた。浅川の髪が風に大きくなびくと、柔らかそうな髪が西日の光の中で金色に輝く。そんなはずないのに、身体中から光を放っているように、僕には思えた。

 僕は、浅川のことが好きなんだと思った。
 だけど、浅川の隣にいる自分は、天地がひっくり返ろうとも想像できなかった。浅川のことが好きだからこそ、自分のことが信じられない。

 ――心配しなくても、わたしは傷ついたりなんかしないよ。

 確かに今、浅川は傷ついてはいないかもしれない。
 しかし、今僕が浅川を傷つけていないのだとしても、将来にわたって傷つけないことの担保にはならない。
 いつか僕は、浅川のことをどうしようもなく損なってしまうのだと思う。
 父が、母の心に消えない傷をつけて消えたのと同じように。
 そんな陰惨な未来図を想像するだけで、心臓を抉り出したくなるぐらいに胸がぎしぎし軋んだ。

 偽者。

 いみじくも原田が僕のことをそう評したように、もしも僕が本当に偽者だったとしたら――その仮定は、僕にとって限りなく甘美なものだった。
 今僕が偽者であることを明らかにできれば、浅川につけることになる傷を最小限に抑えることが出来る。僕のような怪物の人生に浅川を巻き込まずに済むのだ。
 胸の痛みは、乾いた森に放たれた火が燃え広がるようなスピードで身体中を駆け巡った。浅川と歩いているのでなければ、とっくにうずくまっていただろう。

 徐々に浅川との距離が広がっていく。
 僕の足が遅れていっているのに、浅川はまだ気が付いていない。
 頭を押さえてうずくまることもできないまま、何気なくまさぐったポケットの中に、それはあった。
 ちゃら。
 冷たい金属の手触りだった。
 その感触に、痛覚が幾分和らぐ。
 そして、僕は彼女の言葉を思い出した。

 ――〈ラパン〉を。
 ――『運命』を信じられなくなったら、これを首にかけるといい。

 ねえ、ゆくえ。
 もしも、心の底から『ラパン』が選択した『運命』を信じられるようになったら、僕は今よりも少しだけましな自分になれるんだろうか――
 溺れかけた人が藁にすらすがるような気持ちで、僕はそのペンダントを首にかけた。
 特に先ほどまでと何かが変わったような感じもなく、歩を進めるたびにちゃらちゃらと軽い音が鳴るだけだった。
 やはり、気休めのお守りみたいなものだったのだ。
 そう結論付け、浅川に見られる前に外そうと、シルバーのチェーンに指をかけたその時、

 ずくん――、と。
 心臓が鈍く呻いた。

 突然、心拍数が倍になったみたいに心臓が強く脈打ち始めた。深く息を吸って吐いても全く収まる様子がない。なす術もなく道路にしゃがみ込むと、周りを歩いていた人が何事かと振り返った。

「沢村くん? どうしたの?」

 僕の異変に気付いた浅川が駆け寄ってくる。その時には既に視界は真っ赤に染まっていて、僕は浅川の顔を見ることができない。胸を押さえたまま膝に顔を埋めた。胸と一緒に冷たいペンダントを握り込む。手の中のペンダントが痛いくらいに脈打っている。

「沢村くん! 大丈夫!?」

 浅川の手が僕の肩に触れる。触れられた部分に火が点いたように熱い。今にも擦り切れてしまいそうな呼吸で、それでも立ち上がらなきゃと浅川の方に顔を持ち上げた。
 真っ赤に染まった視界の中で、浅川の顔だけが天使のような白い輝きに包まれていた。
 その時、僕の胸に溢れた想いを、人は愛と呼ぶのだろうと思う。
 愛が何なのか、どこにあるのか。愛はどう生まれて、どこに行くのか。僕らはそれをどう扱って、どう大切にしまっておくのか。
 どれだけ生きようとも辿り着けない真理の扉が、まるで自動ドアみたいにぽっかりと口を開けていた。

 浅川が何かを言っている。
 この世界にあってこの世界にない僕の意識は、浅川の言葉を認識できない。

 胸に溢れかえった愛という表層は、次第に音を立てて剥がれ落ちていった。裂けた皮相の隙間から見え隠れするのは、自分すら知らない獣の本能――とても言葉には言い表せないほど醜い怪物の姿だった。
 愛を隠れ蓑に成長した怪物。ヤツが浅川を見た瞬間の舌なめずりを、僕は確かに耳にした。剥がれた愛を踏みつけにして、ヤツは歓喜の雄叫びをあげた。

 近づきたい。
 手に入れたい。
 侵入したい。

 ――壊したい。

 浅川。
 浅川、浅川、浅川――!

 心臓から押し出され、身体の中を駆け巡っていた熱が爆発した瞬間、僕は立ち上がっていた。
 僕の中にあった脆い器が弾け飛んだ。器の破片は四散し、飛び散る過程で、骨や、肉や、血管の一本一本まで、ありとあらゆる器官に鋭い傷を残していった。
 爆心地に打ち捨てられた僕だったものの残骸。
 忍び寄ったのは、慣れ親しんだ感覚だった。

 〈呪い〉だ。

 そう悟った時には、もう遅かった。
 僕の周りに集まった野次馬が、叫び声をあげて一様に飛び下がった。口元から胃の中にあった熱いものが流れ出していることには、袖口で拭って初めて気づいた。

「沢村、くん?」

 僕は、浅川を見た。
 見てしまった。

 その時、僕の中にあった〈呪い〉が爆発した。

 吐き気なんて生易しいものじゃなかった。地面に頭を打ち付けるように倒れ込み、ただひたすらえづき続けた。身体の中にある内臓を全てひっくり返したみたいだった。

 浅川が何か言っている。
 だけど、その声はもう意味のある言葉としては届かない。

 世界の終わりみたいな吐き気の中、僕は自分の中の怪物が浅川を欲していることをはっきり自覚した。

 手にしたい。
 そして、引き裂きたい。

 その衝動に比べれば、愛や恋など所詮は子どものおとぎ話だ。
 風が吹けば容易く吹き飛んでしまう、儚い夢物語でしかない。
 情動によがり狂う怪物の姿を、僕ではない僕が上空から醒めた目で見下ろしていた。

 心に浮かぶのは、ただ一つだった。
 やっぱり、そうだった。
 原田はやはり正しかった。

 僕は偽者で、
 獣で、
 怪物だった。

「沢村くんっ! 沢村くんっ!?」

 駆け寄ってきた浅川が、僕の肩に触れた。
 電流が、僕の身体を貫いていく。
 次の瞬間、僕は転がるように走り始めた。
 この時、初めて僕は自分の〈呪い〉が何なのかをはっきりと自覚した。
 〈呪い〉とは、僕の中に棲みついた怪物が飛び出して暴れ出すのを防ぐ安全弁だった。それは一種の防護壁として、僕という怪物から世界の人々を守っていたのだ。

 走れ。
 もっと速く走れ。
 走らないと守れない。
 僕という怪物から浅川を守るにはそれしかない。

 どこでもいい。
 どうなってもいい。
 叶うならば、この地球上で、最も浅川から遠い場所へ――

 どこをどう走ったのかは今でもよく思い出せない。
 気づけばもう空のどこにも太陽の残滓はなく、どこまでも続く闇の中に、見慣れた公園灯の灯りがぽっかりと浮かんでいた。僕の意識は覚醒しているようでいて、温く粘りつく泥の中に沈んでいくようだった。

「ごめんね」

 そんな誰かの声とともに、僕の意識はぷつりと閉じた。
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