ひとりぼっちのラパン

沢本新

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6.不自由

22 さよなら〈ラパン〉

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 監視カメラが配備されているところは最早歩けない。僕らは、仮住まいをしていた平屋からさらに山の奥を目指した。
 とにかく人里を離れた場所へ、誰も訪れる気も起らないほど遠くへ――そんな思いが乗り移ったように、僕らの足取りは軽快だった。ここから戻ることは意識的に考えないようにしていたし、ゆくえもそれは同じに見えた。
 移動の合間を縫って、ゆくえは自分の端末で作業を続けた。

「バッテリーの持ちはいい方だけど、いつ充電できるかわからないし、出来るだけ節約した方がよさそうだ」

 とゆくえは笑っていた。端末の隅で光る電源アイコンの空白を見ると、残り時間を否応なしに意識させられた。切れるまでに僕らの目的は達せられるだろうか。ゆくえに訊いても意味がないことは自覚していたので、僕は何も言わなかった。
 雨露を凌げそうな場所を見つけては細切れに休息を取り、日が暮れて辺りが闇に包まれると、どちらからともなく持ってきた毛布に身を包んで丸くなった。
 あの家を出て以来、ゆくえは明らかに僕に対して距離を置くようになっていた。ゆくえはあの家でしていたように、夜に身を寄せてくることもなくなった。〈ラパン〉のサポートを失った僕を気遣ってくれているんだろうとは思う。だけど、あのぬくもりを知ってしまった今、一人の冷たさは肌を突き刺さんばかりに痛かった。
 そんな風に幾日か山の中を進んでいると、不意にゆくえが口にした。

「ところで、樹くんはなぜ〈ラパン〉を壊したいんだ?」
「今さら?」
「まぁいいじゃないか。気軽に答えてくれればいい」

 手袋をしたゆくえの手が、行く手の繁みをかき分ける。鬱蒼と茂る森林の隙間から、プラネタリウムの星雲のような光が地面を点々と照らしていた。

「綺麗なものを、見たんだ」
「綺麗なもの?」
「ああ。僕なんかでは到底手の届かないような綺麗なものだよ。綺麗なものが綺麗なままでいてほしい、綺麗なものとして報われてほしいって思った。それくらいだよ」
「なんだか抽象的に聞こえるな」

 僕の脳裏には、あの日の原田の姿が、原田の視線の先にある浅川の姿が、あるいは母さんの背中が、何度も繰り返し明滅していた。どう位置づけていいのかはわからない。しかし、どうでもいいものとして心の隅へと追いやってしまうには、それらはどうにも美しすぎた。

「手が届かないから綺麗に見えだけじゃないのか。気持ちはわかるよ。私もそうだった。自分には生涯手に入れられないものがあるって理解した瞬間、世界は本当に輝いて見えるんだよな。きらきらしてて、眩しくて、思わず目を背けたくなってしまう。目を背ければ背けるほど、綺麗なものの本質が見えなくなっていく。自分の中でどんどん神格化していくっていうのかな」
「何が言いたい?」
「わからないよ。ただどちらにしても、世界は美しいと思う」
「それは確かに、そうかもしれない」

 自分には手が届かないものがあるということが、世界をより美しく見せるのかもしれない。
 そこに関して、僕とゆくえの見解は一致していた。

 さらに数日が過ぎた。
 始めた頃は軽かった足取りもほとんど見る影もなく衰えてしまった。持ってきた食料はとうに底をついていた。その辺りにある食べられそうな木の実や、沢の水でなんとか飢えを凌ぐ日々。休憩の時間が日に日に増えていき、会話もほとんどなくなってしまった。無駄口を聞く体力すら惜しかった。
 誰がどう見ても、限界はほど近くにあった。
 ある夜、ゆくえは僕を呼んだ。

「伝えなければいけないことがある」

 その日は手近な崖の下にある岩陰で朝まで休息をとることにしていた。月と星の光の下で、ゆくえの端末のディスプレイだけが煌々と光を放っていた。

「もう数日前かな。私の作業について、予定していたものは全て終了した。つまり、現時点で〈ラパン〉はもう、ごく普通のマッチングアプリになっているってことだ。しかし、これを見てくれ」

 ゆくえが表示させたのは、日別のグラフだった。

「見てもらえばわかるが、〈ラパン〉の感情コントロール機能を停止させても、〈ラパン〉によるマッチング率はほとんど落ちていない。予定であれば、他のマッチングアプリと同等レベルに落ちるか、少なくとも何らかの減少傾向が見られるはずだったんだが、結果は見ての通りだ」

 ゆくえは次々と〈ラパン〉の指標を表示させたが、いずれもゆくえが作業を始めた時期から今まで、有意な数値変動は見て取れそうもない。

「〈ラパン〉はすでに国家レベルで人口に膾炙してしまっている」
「……どういうことだ?」
刷り込みインプリンティングだよ。〈ラパン〉を使えば必ず運命の相手と巡り会える――その、言わば風説が国家レベルの刷り込みインプリンティングとして機能し始めている。それは共同幻想そのものとなって、今までの〈ラパン〉の機能を代替してしまっているんだ。どういうことか、わかるかい?」
「〈ラパン〉は、壊せない?」

 ゆくえは頷いた。

「もちろん、もっと長い目で見れば何らかの変化は見て取れるかもしれないし、その可能性は否定できないよ。ただ、私にできることはもう何もない。〈ラパン〉はもうとっくに私の手を離れてしまっていたんだ」

 言葉もなかった。
 岩陰の向こうに見える星空は皮肉なほど綺麗だった。その一つ一つが人の命の輝きのように見えた。

「物語ってあるだろ」
「物語?」
「そう。物語ってのは、私たちが思っている以上にすごいんだぜ。それを信じる人が多ければ多いほど、物語は力を持つ。昔、信じてくれれば空だって飛べるさって吹いた大泥棒がいただろう? 誰もがその価値を信じているからこそ、ただの紙切れに過ぎないものが黄金と同等の価値を持つ。〈ラパン〉も、それと同じだよ」
「怪物……か」
「ある意味では」

 その姿はもはや、人の手では届かないほど途方もない質量を持った、正真正銘の怪物だ。
 人と人とを必ず結びつける天の使い。
 あるいは、悪魔――

「無駄かもしれないが、やれることだけはやろう」

 ゆくえはもう一度端末のディスプレイを点灯させた。

「〈ラパン〉を、大本から全て削除する。〈ウォッチャー〉のハックは既に終了させているから、問題はないはずだ」
「……できるのか?」
「元より、私が構築したセキュリティーだ。私に破れなかったら誰が破れるって言うんだ?」

 ゆくえは口元だけで器用に笑んで見せた。ともすれば、もっと上手に笑って見せようとしたのかもしれないが、それを確かめる術は今の僕にはない。
 端末と向き合ったゆくえは、僕にもわかるほどの凄まじいスピードで、次々と〈ラパン〉の防壁をぶち破っていった。
 ある意味でそれは、自分で自分の魂を解体していくような、悲しい光景だったのかもしれない。

「さよならだ、〈ラパン〉」

 エンターキーを叩いた後には静寂だけが残った。
 劇的なものは何一つ存在しなかった。
 確かなのは、その時のゆくえの瞳に涙はなかったということだけだった。

   ◆

 僕らは沢で汲んできた水でささやかな祝杯をあげた。

「乾杯」
「何に?」
「私たちの輝かしい未来に」

 一息に飲み干した後、僕らは早々に横になることにした。次の日の朝に起き上がることができるかどうか怪しいほど、僕らは消耗し切っていた。
 ごつごつした岩肌の上で、申し訳程度に敷いた毛布とジャケットを被った。芋虫のように丸まり、互いに背を向けて目を閉じようとしても、闇の中に蠢く影がまぶたの裏にまで侵入してきて、とても意識を手放せそうになかった。
 嘘のような静寂の中、何かの震えが岩肌を伝って僕の背中に届いた。
 振り返ると、闇の中でゆくえが身体を起こして膝を抱えていた。かちかちと鳴っているのは、ゆくえの奥歯なのは明白だった。

「ゆくえ?」
「……ごめん」
「眠れないのか?」

 答えがないまま、ゆくえの奥歯は震え続けた。
 僕は自分の毛布を持ってゆくえに近づき、震えるその肩にかけた。

「樹くんだって寒いだろ。そんなことしなくていい」
「僕は十分温かいんだ」

 それは本音だった。腹の底からふつふつと湧き上がってくるのは、確かな熱だった。その温度が何を引き起こすのかを僕は理解していた。でも、だからこそ僕は、それをゆくえに与えたいと思った。
 闇が動き、ゆくえの手が僕の右手に触れた。
 その温度を認識した瞬間、僕は決壊した。
 僕は岩陰の向こうへと走り、胃の内容物を吐き出した。吐き出せるものなんてほとんど水と木の実しかないのに、僕の身体は延々と痙攣し続けた。
 嘔吐が収まった後、僕はよろよろとゆくえの隣、二メートルくらい間隔を空けて腰を下ろした。岩と森の向こうには細くなった月が顔をのぞかせていた。

「私たちは、不自由だね」

 僕は小さく頷いた。
 闇の中、ゆくえにそれが見えたかはわからなかった。

「どうして月はこんなに綺麗なんだろう」
「僕らの手の届かないところにあるからなんじゃないかな」
「そうだね。きっとそうだ」

 影の中で、ゆくえの頭が何度も上下する空気があった。
 離れているのに、まるで触れ合っているみたいにそれがわかった。

「明日からどうしよう」
「樹くんはどうしたいんだ?」
「何もない。家に帰りたいわけでもない」
「どこにも行けないよ」
「どこにも行きたくないんだ」

 長い沈黙の後、ゆくえはごそごそと何かを探していた。
「飲むかい?」
 カラン、とガラスの小瓶の中で錠剤が転がる音がした。

 ――こう見えて私には自殺願望があってね。
 ――一粒飲めば気持ちよくあの世に行ける薬を、いつもかも自分の手元に置いておかないことには落ち着かないのさ。

 あれは冗談などではなく、本当のことだったんじゃないか。

「それさえ飲めば、もう目を覚まさなくてもいい?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 想像する。
 僕がいなくなっても何も変わらず回り続ける、残酷なまでに美しい世界を。

「やめとくよ」
「どうして?」
「だって、ゆくえがいるから」

 きょとん、とした空気があった。

「ゆくえがいなくなったら僕は寂しいよ。ゆくえもそれは同じじゃないのか?」

 数秒の沈黙の後、ぷっと吹き出すような音がした。

「それはそうだな。うん、きっとそうだ」

 僕らは今まで話さなかったような色々なことを語り合った。穏やかな空気が僕らの背中を押しているようだった。この国の行く末というような高尚なことから、好きな芸能人の遍歴みたいにくだらないことまで。

 ゆくえと僕は、互いの言葉にいちいち笑った。
 残酷なまでに世界が美しいことなんて知らなかった頃のように、無邪気に笑った。
 語り明かし、笑い疲れた頃、僕の意識はゆっくりと遠のいていった。

「眠るのかい?」
「いや、まだもう少し話したい」
「一旦眠ろうよ。私も少し疲れたし」
「朝が来たら、また歩こう」
「ああ、どこまでも行こう。約束だ」

 その言葉が僕の記憶に残っているゆくえの最後の言葉だった。
 僕が再び目を覚ました時、ゆくえの姿はどこにもなかった。
 昨夜、ゆくえの肩にかけた毛布が、ゆくえの形の空洞を作って残っていた。
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