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「英才教育」編

114話 「ホロロの憂鬱、神のいない世界」

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 少しばかり時間は遡る。

 アンシュラオンが初めてロビーで美女を見かけた二週間ほど前、彼女はホテルを出て夜の街を歩いていた。

 外灯で明るいとはいえ、女性が出歩くには遅い時間帯だ。

 しかし、今の彼女にそんなことを考える余裕はない。荒ぶる心を抑えようと必死だった。


(もう駄目かもしれない…)


 せっかくの美しい顔が台無しの暗い表情で、懐にしまった封筒に触れる。

 その中身は『札束』。枚数は二十枚。

 昼間、最後の質入れで手に入れたなけなしの金である。あのホテルは知り合いの紹介なので安上がりとはいえ、そろそろ滞在費も厳しい。

 そして、それ以上の問題が、今入ろうとしている建物の中にある。

 夜の闇の中でも白く浮かび上がる建造物は、シンプルで清潔感があった。

 美女が中に入ると、受付の女性が応対してくれる。


「ホロロ・マクーンですが、先生は?」

「はい、『いつもの』ですね。こちらへどうぞ」


 女性に案内されながら長い通路を歩く。

 両側にはいくつもの部屋があり、ちらっと視線を向けると、大勢の入院患者がベッドで寝ている姿が見えた。

 ここは―――病院

 患者がいるのは当たり前だが、その光景に複雑な感情を覚える。

 なぜならばその中の一人は、自分にとって大事な人なのだから。


「先生、マクーンさんがお見えです」

「入ってもらって」


 通路の一番奥の部屋には、白衣を着た壮年の男性がいた。

 彼は医者であり、この病院の院長でもある。


「どうぞおかけになってください」


 院長に促されて椅子に座る。

 が、彼が何かを話そうとした瞬間、先にホロロが言葉を発した。


「『母』が倒れてからしばらく経ちます。それでも病状は一向に回復いたしません。失礼ですが、こちらの治療に効果はあるのでしょうか?」


 いきなりの鋭い質問に院長が少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに気を取り直し、同情した様子で諭す。


「マクーンさん、以前も述べましたが、これは難しい病気なのです。今の医学では簡単に治せるものではありません」

「それは理解しています。昼間面会した時も、母の身体に目に見えて異常が出ていました。あれは普通ではありません」

「そうでしょうとも。我々も日々研究しておりますが、なかなかどうして治療は難しいものなのです」

「しかし、このままでは助かる見込みがありません。意識を失ったまま戻りませんし、日に日に衰弱していっております。ただ問題を先延ばしにしているだけではありませんか」

「これは致し方のない処置なのです。今大事なことは医療麻薬で痛みを和らげることです。そうしないと呼吸にすら痛みを伴うことになります。それではあまりにつらいでしょう」

「ですが、そのせいで意識が回復しないのでは?」

「それも仕方ありません。今述べたように痛みがあれば日常生活は苦しいだけです。ならば、解決策が見つかるまで意識はないほうがよいのです」

「…その解決策の目処は立っているのでしょうか?」

「あなたが疑う気持ちもわかります。ですが、グラス・ギースの医者もさじを投げたとおっしゃいましたね。それだけの難病であることはご理解ください」

「具体的にいつ治るかはわからないのですね?」

「努力はしています。これ以上のことは言えませんよ」

「南部には優れた医者もいるのではありませんか? せめて、そこから情報を得たりはできませんか? 似た症例の患者もいるかもしれません」

「マクーンさん、南に行けば優れた医療を受けられると思うのは誤解です。たしかに西側の医療技術が導入されている地域もあるでしょうが、そうした場所に私たちは簡単に入れません。治安も安定しませんし、ここよりも衛生環境が悪く、適切な治療が受けられない患者のほうが圧倒的に多いのです。下手に希望を与えるような噂話が多くて、私たちも困っているのです」

「ここにいても適切な治療は受けられていませんが?」

「むっ…」

「どうせ母は死ぬ。違いますか? 早く死ぬか遅く死ぬかの違いでしかありません」

「そんな言い方はしないでいただきたい。あなたはご自分の母君を見捨てるのですか? あなたを産んでくださった大切な人なのでしょう? 唯一残ったご家族だと言っていたではありませんか。治る見込みがないからと早々に見捨てるというのは、倫理的にいかがなものでしょう?」

「………」

「もしどうしてもとおっしゃるのならば退院もできますが…他の病院が受け入れるとは思えません。こんなお荷物を…いえ、失礼。手に負えない患者を受け入れるのはリスクでしかありませんからね」

「実績に傷がつくからですか?」

「医者であっても治せない病気はあるものです。私たちは女神ではありません。人としてやれることをやるだけです。うちは良心的な病院ですから、どんな患者でも受け入れますが…良質な医療麻薬を手に入れるのにも苦労します。なにせ値が張りますからね」

「お金がかかるのは、わかっています。今回の分はお渡しいたします」

「申し訳ありません。とても心苦しいですが、これであなたの母君への愛情が失われずに済みます。やはり親孝行は大事だと思いますよ。こんなご時勢では特にね」

「………」


 ホロロは二十万が入った封筒を渡す。

 この病院に入院してから一ヶ月で六回目、合計で百二十万だ。

 カジノで遊んでいるような人間にははした金でも、一般人からすれば大金である。簡単に用意できるものではない。


(貯蓄していたお金も、もう無くなってしまった。売れるような貴金属もない。お母さん…私はどうしたらよいの?)


 もともと母親の病気は、今に始まったことではない。

 グラス・ギースで暮らしていた頃から体調が悪化することが増えていき、徐々に強い痛みを訴えるようになった。

 都市にいた医者に見せたが、誰もが病状を見て簡単にさじを投げた。どうやら細胞が異常増殖し、悪性の腫瘍がいくつも身体に現れるようになる病気のようだ。

 唯一『医師連合』の代表だけは興味を示し、新薬や新しい施術の実験に母親を提供するのならば、無料で引き受けるとも言われたが、そんな危険な話に乗るわけにはいかない。

 仕方なくグラス・ギースは諦め、ハピ・クジュネに向かおうと都市を出た。

 南に行けば行くほど入植している西側諸国の影響もあり、最新の医療を受けられると聞いたからだ。

 しかし旅の途中、このハピナ・ラッソで母は意識を失ってしまった。放っておけば死ぬだけだ。見捨てることなどできるはずもない。

 受け入れてくれる病院に入院したものの、ここでも治療らしい治療はできず、医療麻薬を使って強制的に痛みを紛らわすことしかできない状態だ。

 かといって、ここから南に運ぶだけの体力は残っていないだろう。すでに金もない。どう考えても手詰まりだ。


(これならばグラス・ギースの医者の実験台にしたほうがよかった? でも、彼らは母を生きている人間だと思っていなかった。そんな人たちに任せるわけにはいかない。…こんな過去にすがらねばならないほど最悪の状況なのね)


 ただただ心が重い。

 いっそのこと自分が病気だったらと思ったこともあるが、それでは母が苦労するだけだ。不幸の堂々巡りである。

 何よりも医療費が高すぎるのが問題だ。

 医療技術が発達していない地域では、薬も満足に手に入らないし、どんな治療をするにもコストがかかる。医者の数も少ないため値が釣り上がるのは当然だろう。

 ロリコンの薬があれだけ高く売れたのは、こういった事情もあるのだ。


「マクーンさん、言いづらいことですが…お金は大丈夫ですか?」

「…なぜですか?」

「いえ、私が言うのもなんですが、最初に出会った頃より装飾品が減ってきておりますし、ご苦労されているのではないかと思いましてね」

「あなたには関係ない話と存じますが?」

「そ、それはそうですが…我々としても大切な話題です。そう怒らないでください」

「怒ってはいません。ただ、非礼だと思っただけです」

「はは…これは手厳しいですな。ですが、これからもお金は必要です。もしよろしければ、『融資』してくれるところをご紹介いたしましょうか?」

「………」

「いやいや、警戒なさるのも当然ですが、こんな商売をしていると顔が広くなるものでしてね、金融関係にも少しばかり伝手があるのです。ここは小さな街ですし、金融業はどこも同じところが経営しております。どうせ行くのならば、こうした紹介があったほうが上手く話が進むものですよ。私の名前を出せば、すぐにお金を用意してくれるはずです」


 院長はそう言うと、金融業者の場所が記された名刺を差し出した。


「私はこれで失礼いたします」

「次は四日後にまたお願いしますよ」

「………」


 名刺を手に取って立ち上がり、部屋を出る。


(随分と手際がよいこと。まったくもって不快だわ)


 ホロロは頭の良い女性だ。この街に一ヶ月もいれば、人々との会話でどんな場所なのかすぐにわかる。

 ハピナ・ラッソは街全体をギャングが支配しており、カジノもホテルも商店も、果ては医者でさえも彼らと結託している。そうしなければ生きていけないからだ。

 この金融業者も間違いなく、彼らの息がかかっている者たちだろう。

 帰り際、眠っている母親を見舞う。

 母親は静かな寝息を立てていた。意識がないので痛みもないだろうが、同時に未来もない。


(医者なんて何の役にも立たない無能ばかり。金のことしか考えていないクズだわ)


 院長が意図的に治療を長引かせているのは明白だが、治せないことも事実なのだろう。

 つまりは無意味で無価値だ。


(お母さんが死ぬことは避けられない。どうせ死ぬのならば延命をやめるべき? …でも、私には…そんなことはできない。あんな男に言われるまでもない。私にとってこの人は、この世に残った唯一の肉親。見捨てるわけにはいかない)


 あの医者は、親子の情に訴えかけるという最大の侮辱を行った。絶対に許すわけにはいかない。

 が、そうは思っていても自分にはどうすることもできない。クズだと罵る相手にすがるしかないのが現状だ。


(どうして私は無力なのかしら。なぜ世界は残酷なのかしら。祈っても女神は助けてくれない。もう何一つ信じられない)


「この世に神など―――いない」


 気丈な彼女がそう思ってしまうほど現実は厳しかった。

 さまざまな感情が渦巻く中、ホロロは病室を後にする。

 今日も彼女は憂鬱だ。


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