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零章 第三部『富の塔、奪還作戦』

五十話 「RD事変 其の四十九 『全敗の男』」

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 †††

「風位、到着しました」

 やや上擦った声でアルザリ・ナムが報告。ここはハブシェンメッツが指定した場所、ちょうどアピュラトリスと会議場を結ぶ直線上の中間ポイントである。

 アピュラトリスの南部には、会議場のほかに港につながる大きな幹線道路が存在している。南側は政府が管理する施設だけが存在するので民間施設はない。

 幹線道路とはいっても単純な直線ではなく、アピュラトリス防衛を考慮したやや複雑な形をしており、所々ではヘアピンのような場所もある。あまり高くはないがビル群も存在し、ここだけ街とは異なる一つの都市が存在するかのようであった。

 事実、グライスタル・シティの中でもこの場所は特異であり、政府の中枢がすべて集まる重要な場所である。その幹線道路の中央にハブシェンメッツが乗る装甲指揮車が停まる。

(ああ、痛い痛い。そろそろ止めないと怒られるな)
 ハブシェンメッツはボサボサの青い髪を引っ張りながら思案する。おそらくここが【最終防衛ライン】。突破されれば会議場に直接被害が出るレベルの戦いとなるだろう。

 静かに戦況を見つめるザフキエルはともかく、そろそろアルメリアの痛い視線が届く距離である。そうでなくても戦いが始まってからというもの彼女の視線は常に張り付いていたのだ。

 その視線はまるで針。突き刺さるような痛みを伴うものである。およそ女性が放つものとは思えないほど鋭かった。

(やれやれ、彼女が上官だったら三ヶ月もしないうちに胃潰瘍で入院だな)
 ハブシェンメッツは自分が青風位であることを感謝する。これがもしもっと階級が上で彼女の直属の部下になれば毎日この視線に晒されるのだ。

 比較的精神が図太いハブシェンメッツでも三ヶ月はもたないだろうと試算する。それだけアルメリアの眼力は強い。せっかくの美貌が台無しだとは思うが、それが彼女の役割なのだから仕方がない。

 アルメリアが求めるのは天威を示すこと。つまり「圧勝しろ」ということだ。あの敵を相手に土台そんなことは無理であるが、自分のためにもこのあたりで挽回しないといけないだろう。

「シェイク軍が防衛部隊を展開しています」
「せっかちだね。こちらへの牽制のつもりだよ、あれは。嫌がらせに近いね」

 シェイクも会議場の周囲に部隊を展開させる。まだ少数であるが最終防衛ラインが突破されれば動くだろう。こうして後ろからもせっつかれてハブシェンメッツは四面楚歌の状態であった。

 がしかし、アルザリ・ナムは不思議なことに気がつく。

(なぜ笑うのだろう?)
 正直、状況は悪化している。そうにもかかわらずハブシェンメッツは笑顔になっていくのだ。

 特段ニタニタ笑っているわけではない。顔はいつものやる気のない感じで困っているような表情だ。だが声は弾んでいるし、少なからず機嫌が良さそうである。まだまだ余力を残しているので当然なのかもしれないが、そうした余裕とはまた違うものが彼から感じられた。

「では、やるかな」
 ハブシェンメッツは指揮車の上部ハッチから外に出て、車の上に立った。

 装甲指揮車の上部は、ちょうど政治家が街道演説をするように人が立てるスペースが設けられている。ついでに機関銃もあるにはあるが、彼にとっては足を置く出っ張り程度にしか役立たない。

「風位! 危険ですよ!」
 それに慌てたのはアルザリ・ナム。多少離れているとはいえ、ここは戦場なのだ。いつ流れ弾が飛んでくるかわからない。

「大丈夫だよ。どのみち流れ弾が当たれば装甲車だって耐えられないさ」
「それは大丈夫とは言いませんよ…」

 ハブシェンメッツの表情は変わらない。それどころか外の風を受けてますます生き生きしているようだ。

(まったくこの人は…ほんと、何が楽しいんだか)
 常人であるアルザリ・ナムにとってハブシェンメッツは昔から不思議な男である。彼は何にもこだわることがない。物にも権力にも興味を示さない。ただ唯一、勝負事だけを楽しむ。

 おそらく今も彼の中では勝負事の続き、ギャンブルの延長ぐらいにしか考えていないのだ。そうでなければこんな状況で笑えない。そして、ハブシェンメッツはそれを見透かしたようなことを言うから、ますます憎らしい。

「アルナム、君はこの状況に不安を感じているようだね」
「…まあ、それは認めます。でもそれは風位のせいです」

 やや不機嫌そうにアルザリ・ナムは答える。そもそも自分が不安になるのはハブシェンメッツが何も説明しないからである。

 これでも秘書官としてそれなりに仕事はしているはずだが、いざというときはハブシェンメッツは独断でいろいろと進めてしまう癖がある。今回もそうだ。任されたのは雑事だけ。敵が情報戦に優れているからといって自分に対してくらいは全部教えてもいいとは思うのだ。

「私はそんなに頼りないですか?」
 そうした不満が頂点に達したのか、ついアルザリ・ナムは本心を言ってしまう。

「そんなことはないさ。君は僕より立派な人間だと思うよ。スケジュール管理も見事だし家事もできる。偉大なことだ」
 もしアルザリ・ナムがいなければハブシェンメッツは生活できていないだろう。この男は駄目人間なのである。

 が、アルザリ・ナムが求めることは、そんなことではない。

「戦術士として、です」
 まだ実戦経験はないが自分とて戦術士の卵なのである。作戦面で少しでも役に立ちたいという願望があるのは当然なのだ。

「そうか…うん、そうだね。たしかにそうだ」
 ハブシェンメッツにはその自覚がないらしく、今になってアルザリ・ナムを置き去りにしていたことに気がつく。

「そりゃそうだね。逆の立場だったら僕だって嫌かな。悪かったよ」
「それ以前に風位だったら職場放棄してますよ」
「はは、違いない」

 もしハブシェンメッツがアルザリ・ナムの立場だったならば、自分には関係ないのだなと勝手に判断して、さっさと昼寝のために抜け出すか公営カジノにでも走るに決まっている。

 それ自体が恐ろしいことであるが、ハブシェンメッツとはそういう男なのである。基本、自分のことしか考えていない人間のクズである。

(でもこの人は自分より圧倒的に上にいる。これが一流の戦術士なんだ)
 アルザリ・ナムがいくら真面目であっても優等生であっても関係ない。戦術士に求められる才覚はまったく異なるのである。それを目の前の駄目人間が持っている。だからこの立場の差が存在しているのだ。

 ハブシェンメッツは少し考えたあと、目の前の不思議な縁で知り合った少年、今は青年となったアルザリ・ナムに優しく話しかける。

「信頼していないわけじゃない。ただ、この相手は危険なんだ」
 悪魔という存在は、ハブシェンメッツすら危機を感じるほどに危険である。そんなことは言われるまでもないのだろうが、この意味を本当に理解している者は少ない。

「君は僕が戦力を使わないことに焦りを感じている。違うかな?」
 機関銃を足でぐいぐい押しながらハブシェンメッツは尋ねる。それに無言で頷くアルザリ・ナム。

 実際その通りである。アルザリ・ナムは焦っている。
 正しくいえば【やきもき】している。

 彼だけではなく他のすべての人間がハブシェンメッツの采配に疑念を感じているに違いない。世界最高の騎士団を擁しながら、なぜこんな【弱気な戦い】を挑むのか、と。

 ハブシェンメッツが採用した戦術は強者のやり方であった。遠距離から圧倒的な火力で打ち倒す。まさに大国の戦いである。しかしながら大国の戦いにはもう一つある。いや、こちらのほうが意味合いは遙かに重要である。

 武の力を示す。それすなわち武人。
 つまりは騎士団としての実力を示すことである。

 武人が人の可能性であるならば、その実力が高ければ高いほど世界をリードするに相応しいと内外に示すことができる。人が何かに従うのは、ただ単純に物資が多いからではない。金があるからではない。

 その根幹に従うべき【象徴】があるからである。

 心の奥底に「これは正しい」と思わせる強さがあること。それが血であれ信仰であれ法であれ、あるいは金であるかは問題ではない。人の心を惹きつけるものがリーダーには必要なのである。それも魂を揺さぶるような強烈で強靭ものが。

「悪魔君はそれを自己犠牲の形で示した。だから彼らは強いんだ」
 悪魔は自らが手を汚すことで、痛みを受けることで人々を惹きつける。英雄であることを捨てた彼が痛みの中で戦う姿は、バーンたちを強く惹きつける。

 彼らが強いのは武に秀でているからだけではない。リーダーたる悪魔がしっかりと責任を果たしているからだ。数が少なくても彼らはけっして諦めないだろう。最後の一人になろうと戦い続けるだろう。それだけ背負っているものがあるからだ。

 だから危険なのである。その意思の力は恐ろしく強く、気高く、破壊的だ。

「アルナム、君は今のルシアに同じことができると思うかい? まあ、天威があればできるだろうね。でも、それは軍の一部の人間に限られる」
「風位、それは…!」

 アルザリ・ナムはハブシェンメッツの言葉に凍りつく。なぜならばそれは天帝への、天威への批判とも捉えられかねない発言であるからだ。だが、事実である以上、ハブシェンメッツは言葉を引っ込めない。今のルシアには肥大化した国土すべてを治めるだけのリーダーシップがないのだ。

「いいかい、権力というものは押しつけたら終わりなんだ。押しつけ始めた段階で、すでに下り坂なんだよ」

 権力とは、求めるものではない。与えられるものでもない。自然と集まるものである。その者ならば必ずやってくれるという信頼、確信。そういったものが自然と集まって生まれるものである。

 誰もが押しつけるのではなく【期待】する。群れのリーダーというものは、そうやって自然と力を発揮していくのだ。

 しかし、それは前方に向かっているときに限定される。上に昇っている間だけの話なのだ。そうして知らずのうちに引きつけている間はよいが、集まった権力を守る態勢に入った瞬間にバイオリズムの下り坂が始まる。

 急上昇したならばしたほど、落ちるときは一瞬。

 今のルシアは完全なる下り坂である。五百年で得たものは、五百年で失うのが道理だろう。悪魔がルシアの衰退を改めて言わずとも多くの人間には身にしみてわかっていることなのだ。

 だが、今のアルメリアの視線のように監視が強くて言い出せないにすぎない。何十年、何百年かは持つだろう。だが、それまでのことである。ルシア帝国が生まれて三千年。それがあと数百年しかもたないのならば、もう末期であるといえる。

 人間でいえばすでに八十歳も半ば。枯渇した老人。彼にはもう若い頃の理想もなく、希望もなく、未来もない。あるのはただ使いきれない莫大な財産だけ。しかもその財は、他者から奪ったものであるので、いつかは返さねばならない。いわば借金である。

 そんな国の末期に希望を抱ける者などそうはいない。愚鈍で怠惰な人間は気がつかないが、見る者が見ればすぐにわかることである。そしてハブシェンメッツにはそれがわかる。当然、賢王たるザフキエルも。

「おそらく悪魔君は今のルシアに足りないものを持っている。だから陛下も悪魔に魅了されたんだ」
「陛下が…魅了?」
「そうだよ。人はね、自分が持っていないものに対してのみ憧れを抱く。正反対のものに惹かれるんだ」

 ザフキエルが権力を維持するために凝り固まった氷だとすれば、ゼッカーという存在は氷を解かす炎となるだろう。

 霊は進化と多様性のために正反対のものを求める。おおよそ一般の価値観では絶対に釣り合わない夫婦がいるのと同じことである。両者は互いを補完するためにおのずと惹かれあう。プラスとマイナスは必ず出会う運命にあるのだ。

「だからね、ここはただの最終防衛ラインじゃない。ルシアという存在そのものをかけた場所なんだ」

 アルザリ・ナムは戦術的な話をしてくれるのだと思っていたが、ハブシェンメッツが語ったのはもっと違うものであった。だが、見上げたハブシェンメッツの表情は明らかに今までと違っていた。

 かすかに笑ってはいる。青いボサボサの髪が逆立つように興奮はしている。されど、そのような言葉では表現できない何か大きなものが、ハブシェンメッツから発せられているように思えたのだ。

「さあ、おしゃべりはここまでだ。来るよ」
 ハブシェンメッツの鬼気迫るような視線の先には、ついにやってきた黒いものが映っている。

 ナイト・オブ・ザ・バーン。
 バーンの騎士。

 しかし、彼の目は騎士の先にいるもの、悪魔という存在、それすら超えて【歴史】を視ていた。

(この感覚、僕は今世界を視ている)
 ハブシェンメッツは自分の意識が戦場のすべてを駆けめぐるのを感じていた。まるで上空から全体を俯瞰する鳥の感覚。すべての流れ、人の流れ、物の流れ、あらゆる意識の流れが彼と融合し、一つになっていく感覚。

 これはジーバ・ラピスラズリと同等の能力。それを今、ハブシェンメッツは体現している。ジュエルなど使わずとも人には無限の才能がある。その一つを彼は持っているのだ。

(見ている世界が違うんだ)
 この時、アルザリ・ナムは理解した。おそらく自分は一生この人には追いつけないだろうと。

 そもそも視野が違う。自分が目の前の戦術しか見ていない時に彼は世界を視ていた。俯瞰していた。見通していた。それは目に見えない全体の流れ、人の進化の流れ、世界のシステムの流れを視ているかのようであった。

 彼は知っている。この瞬間こそが歴史のターニングポイントであることを。

 もしここで負けるようなことがあれば、世界が大きく変わってしまうのだと知っている。しかし同時に悪魔が現れた世界を彼は見たがってもいるようだった。



 †††



 作戦会議が終わったあと、各国要人は自国に与えられた会議場内の施設スペースに戻っていた。施設スペースといっても巨大なもので、会議場からヘインシーが滞在していたホテルや港を含めた巨大な複合建造物とも呼べるものである。

 ダマスカスの特徴は、すべてが一体化していることであった。もともと国土が小さく、同じ島国のロイゼン神聖王国と比べても五分の一程度しかない。そのため効率よく物事を進める文化が生まれたといわれている。施設一つ見ても無駄が少ない設計になっていた。

 その点においてルシアとは似ている面もある。雪の国ルシアでは限られた資源を上手く利用して生きねばならない事情がある。今となっては物流もスムーズであるが、かつての慎ましく生きる文化を人々は好む傾向にあった。一部の貴族を除けば、大多数の一般人は質素に暮らしているものである。

 しかし、その文化の集大成が生み出したのが、あの富の塔。それは人が崇めた【神】の姿。人が生み出した黄金の神が鎮座する光景である。そんな皮肉の中でザフキエルは静かに戦況を見つめていた。

「なぜ我があのような若造を選んだかわかるか?」
 ルシア天帝の偶像がアルメリアに話しかける。若造とは、当然ハブシェンメッツのことである。

 直接奪還作戦に参加する軍人を除けば、今現在文官にやれることはない。行政府の高官たちは今後の利害と各国との駆け引きについて相談しているくらいだ。

 それはルシア天帝も同じことである。すべてをハブシェンメッツに任せた以上、ただこうして偉そうに待っているのが今の彼の役目なのである。

 これはそんな彼の他愛もない暇潰し。

「これもあのご老人の悪知恵でありましょう?」
 アルメリアはいつもの通り口元を隠し、淑女の礼を失しないように上品に答える。会議場に敵が向かっているにもかかわらず、彼女の目には怯えの色一つも浮かんでいない。その胆力はさすがである。



「物足りぬようだな」
「…ええ、まあ」

 が、彼女の瞳には違う感情が宿っているのをザフキエルは見逃さない。アルメリアもまた否定はしなかった。

 アルメリアはザフキエルがハブシェンメッツを選んだのは、アーマイガーの推薦があったからだと知っている。彼女にとってもアーマイガーという人物は異端に見える。正直、いろいろな意味で自分とは違う存在であると思えるのだ。

 アーマイガーは貴族ではない。上品さもないし、他人に対しての礼節も知らない。もし彼が何の役職もない人間であったら一生関わらない人物であったに違いない。

 しかし、知謀、悪知恵に関してはアルメリアも認めるしかないほど異端なる存在。彼を敵に回したいと思う者はルシアにはいないだろう。アルメリアもそうだし、それが天帝であっても同じである。

 そんな面妖な老人がよこした人材なのだ。普通であるわけがない。しかし、アルメリアにはまだそこまでの奇才をハブシェンメッツから感じていないのも事実。ごくごく平凡ではないものの多少優れているといった程度。戦術士としてはそこそこ使える駒なので、小規模な地域紛争程度ならば任せてもいい。それくらいの評価。

 つまり、この場には物足りない。これが本音である。

「陛下がお選びになった者だというのに…無礼をお許しください」
「かまわぬ。むしろ安心した」

 もしアルメリアが現状で満足しているのならば、彼女が紅天位という座に相応しくないことを意味する。現段階の状況においてアルメリアの見識は正しい。ザフキエルから見ても物足りない結果である。

 ザフキエルは天帝として、ハブシェンメッツが語っていたリーダーとしての資質をよく熟知していた。たしかにルシアは純血主義ではあるが【無能】はいらない。純血を尊ぶのは力があってこそである。強固な地盤を生み出すためには確固たる実力が必要なのだ。

 それゆえにアーマイガーのような異端者も受け入れている。いくら血を尊んだところで力なき為政者はいつか滅びるしかないのである。だからこそザフキエルはハブシェンメッツを選んだ。ハブシェンメッツもまた【異端】であると知ったからである。

 アルメリアから見れば冴えない凡夫のような男である。彼が自分の直属の部下だったならば、まずその髪型から指導するレベルである。いや、そもそもあのような男が彼女の部下になどなれないだろう。第一次書類審査で即落ちるのは間違いない。

 しかし、ザフキエルの言う異端が、変質者ではなく才覚のことであることは明白。異端者の弟子もまた異端であってしかるべきだからだ。アーマイガーは普通の人間を手元には絶対に置かない。それは彼の他の弟子を見てもわかることである。

「あの男が来たときアーマイガーから注文があった。いや、使用上の注意というべきであろうな」
 アーマイガーは弟子の派遣に際して一つの条件を出した。それはハブシェンメッツの【仕様書】ともいうべきものである。

 そこにはこう記されてあった。

「あれは普段は凡庸である。何一つ秀でたところがない役立たずである。だが、【特定の条件下】に置けば最高の悪知恵となるであろう」

「特定の条件下?」
 アルメリアは特定の条件という言葉に興味を持つ。

 天帝がハブシェンメッツを指定したということは、今がその条件下であることを意味するからだ。しかし、現在という状況を見るに、まだハブシェンメッツの真価が発揮されているとは言い難い。

「あの男がギャンブル狂という話は知っているな」
「ギャンブルなど、愚鈍な人間のすることです」

 アルメリアはそうばっさりと切り捨てる。ギャンブルは胴元が勝つようにできているからだ。事実、公営カジノを運営しているのはルシア貴族たちなのだ。アルメリアの実家であるベルシェメーラー家は関与していないが、同じ元老院派の大貴族の一人が関わっており、利益のすべては彼らに入るようになっている。

 最初から勝つ者が決まっている偽りの勝負事。それがギャンブルである。ギャンブルをする人間は、そもそも仕組みを理解していない愚か者であると侮蔑していた。

「お前らしい答えだ」
「いいえ、自分でも頭が固いとは思っています。父にもよくたしなめられます」

 アルメリアにはまだ若さゆえの固さがあり、無駄なことが嫌いという意味での潔癖症の傾向がある。それは自分でも理解しているので大きな問題ではないが、自力では解決できないため、彼女の中では一つの劣等感に近い感情になっている。

 天帝の発言に対してまでそうした反応をしてしまうことがその証拠。つい嫌いなものへの嫌悪感が先に来てしまい、まっさきに正論で叩き潰そうとしてしまう。

 つまりは、正直にいえばハブシェンメッツのような人間が大嫌いなのである。今ハブシェンメッツが感じている視線が厳しいのも、彼女の感情的なものも含まれているからだろう。

「陛下に帯同を許された身であるのに、この程度の感情すら隠せないとは。申し訳ありません」
「謝ってばかりのお前も珍しいものよ。女らしいところもあるのだと部下に見せてやりたいものだ」
「お戯れを。それに私は女であることを捨てるつもりはありません」

 アルメリアには自身が女性であることへの強い自負がある。女性に生まれてよかったと心底思っているのだ。今自分がここにいられるのは女だからこそ。高い能力も女だから目立つのであって、男ならば天才や秀才の集まりであるルシア帝国では埋もれてしまう可能性もあった。

 ただし、女の弱い側面には嫌悪感を抱いている。媚を売り、色香を使って男を動かすということは死んでも御免であると。そうした気概が彼女の針のような視線を生み出しているのだろう。

(紅虎すら敵に回す胆力。それができる者がルシアに何人いるか)
 一方、ザフキエルはアルメリアを評価していた。それが若さと余裕のなさから来るものであれ、その強靭な精神力は天帝から見ても異質なものである。

 そう、アルメリアも異質なのだ。

 彼女当人は女の側面でしか捉えていないが、本質そのものが他の人間とは明らかに違う。そうでなければ紅天位に任ずることもなかったであろう。そして、当人は嫌悪しているものの、異質、異端という意味でハブシェンメッツと同類である。

 心の中では違和感と親近感に気がついている。されど、その冴えない外見と生活態度への嫌悪感が無意識の壁になっているにすぎない。だからこそザフキエルはあえてこの話をするのだ。

「ギャンブルの話だが、ハブシェンメッツの勝率を予想できるか?」
「せいぜい二割以下といったところでしょうか。あの者ならば一割以下ということもありえますが」

 確率の低いゲームならばもっと下がるだろうが、可もなく不可もなく、普通の人間がギャンブルをすればその程度であろう。よくギャンブルは最終的に五分五分というが、そんな高いはずもない。結局人生全体で見れば大損するのがギャンブルであるから。

 そのアルメリアの「普通の答え」に満足したのか、ザフキエルは珍しく少し弾んだ声でその事実を告げる。

「普通ならばそうかもしれん。しかし、天才や馬鹿という人種は中途半端なことはせぬようだ」


「その勝率は―――ゼロだ」


「ゼロ? 一度もですか?」
「そう。一度もない。少なくともアーマイガーが知るこの十年、一度もな」

 その言葉にはさすがのアルメリアも眉をひそめる。正直、どう反応していいのかわからない。

 ハブシェンメッツは借金をしてでも毎日欠かさずギャンブルに行っている。そこで最低でも三十回は勝負するので、それが十年となれば相当な数である。

 普通、それだけギャンブルをやっていれば一回くらい勝てそうなものである。ビギナーズラックという言葉もあるくらいだ。千回くらい何かしらやれば誰しも一度は当たるだろう。

 がしかし、一度も当たらない。

 まるで女神に嫌われているのではないかというくらい、まったくもって当たらない。ひとケースに一つは入っているであろう駄菓子の当たりクジでさえ当たらない。何一つ当たらない。彼がホームレスになった理由がこれでよくわかるだろう。賭け事に関しては神懸かった無能人なのである。

「そのような男が、よくもまあ戦術士になれたものです。いや、よく生きてこられたものです」
「ふふふ、はははははは! たしかにな!」

 ザフキエルが笑った。あの笑わない男として有名な王が、今日という日に二度も笑うなど実に珍しいことである。

 だが、この話を聞けば笑わずにはいられないだろう。

 たしかにハブシェンメッツは恐るべきギャンブル運のなさを持っている。天才的なほどに。それはなぜか? アーマイガーがハブシェンメッツを引き入れて観察を続け、三年後にしてようやくその【事実】に気がつく。

 それを知ったとき、今のザフキエルのようにアーマイガーは笑ったという。

 その理由、事実とは…


「あの男は、わざと負けているのだ」


「…は?」
 さすがのアルメリアも我が耳を疑わずにはいられず、思わず淑女にはあるまじき呆けた声を出してしまう。

「そうだ。あの男は自ら負けているのだ。クジもポーカーもルーレットも、すべてな」

 全敗という記録は、ハブシェンメッツが自ら望んで得た結果であった。

 クジ付きを買うときはデータと勘を頼りにハズレを引き、ポーカーはまさに相手のポーカーフェイスに惑わされず真実を見抜き、ルーレットはすべての環境条件を感覚で得て負ける。しかも店側があまりの負けっぷりに危機感を感じ、相手に勝たせるための出来勝負を仕掛けても、途中で降りるなどして自ら負ける。

 このような話を聞いて、笑わずにいられる者がいるだろうか。あの男は自ら負けているのだ。その意味においてこの十年【全勝】であるという事実。

「まさか、偶然…ではない。あの老人ならば、ですわね」
 アルメリアはハブシェンメッツの逸話よりアーマイガーを信じることにした。そのほうが遙かに現実的な話である。あの老人が三年もかかって結論に達したのならば間違いはないのだろう。

 がしかし。

「あの男を知る者からは本気でギャンブルに臨んでいると聞きます。それにホームレスであったという話も」
「なんら不思議ではあるまいよ。それらも本当のことだからな」

 自ら負けたいと思う人間などはいない。ハブシェンメッツは自分が凡人だと思っているので、誰よりも本気で勝ちにいっている。だから全力で考え、全力で挑み、全力で負けている。

 当然、負ければ絶望的な顔をして戻ってくる。アルザリ・ナムいわく「死んだ魚の目をしている」顔で。

 借金をしたのも本気。それで金がなくなってホームレスになったのも本気。けっしてわざと負けたとかではないのだ。だが、結果として負けてしまう。その不思議さ。これらを統括して、アーマイガーはハブシェンメッツはわざと負けていると結論付けた。

 ただし、これは当人の意思ではなく、彼の本質、いわば内在の意識がそうさせるのだろうと考えた。当人は淡い期待で臨むのだが、なぜか結果は惨敗する。惨敗させられる。これだけ見ればただの駄目人間でしかない。

 自分で勝とうと挑んでいるのに負けてしまうのだから、その理由がどうあれ結果が伴わないのならば駄目なものは駄目である。が、ここで当時観察していたアーマイガーに一つの疑問が浮かぶ。

 あの男は軍人将棋で自分に勝った。ギャンブルで全敗する男が、なぜ軍人将棋で勝ったのか。アーマイガー相手にまぐれで勝てる者はいない。その程度の者がルシアの悪知恵にはなれない。

 なぜ勝ったのか。なぜ勝てたのか。さまざまな役割を与え、考え続けて三年目の朝、突然答えが視えた。アーマイガーはその瞬間、ハブシェンメッツの【特異な性質】に気がついたのだ。

「あの男は、命がかかった場面でしか力が発揮できないのだ。いわば【絶望的な状況】でしか生きられない【病人】だ」

 なぜハブシェンメッツは負け続けるのだろう。彼の表面上の意識は勝つつもりであるが、彼の本質、より強力な側面を持つ彼の魂が負けを欲するのだ。

 彼の潜在意識が負けることで物的に自らを追い込む。追い込み追い込み、とことん追い込み、自らを痛めつけるまでに弱らせる。そうしてこそ彼の本当の才覚が目覚める。

 彼がホームレスになった時、目の前に公安に追われた不法移民のアルザリ・ナム少年と出会った。危機的な状況、一見すればもう駄目だと思える絶望の中、彼の才覚はようやくにして開花する。

 たかがパンとコーヒーを得るためだけに、【全敗】から【全勝の才覚】が生まれるのである。もし彼に最初から金銀財宝を与えていたら、まったくもって無能で怠惰な人間の出来上がりである。彼は何一つ生産的なことをせずに人生を終えただろう。

 それを知る彼の本質は、常に自らを絶望的な状況に追いやるのである。当人にその自覚がないので、【パーソナリティーである彼】はいつも嘆くことになるのだが。

「さあ、ハブシェンメッツよ、悪魔が相手ならば不足はあるまい。負ければ死ぬぞ。勝たねば死ぬぞ。死にたくなければ、うぬの本当の力を見せてみよ」

 今、悪魔という好敵手を得て、ハブシェンメッツの才覚が広がっていく。

 全敗の男が全勝の男になれば、もうルシアが負けることはないのだから。

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