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心からの祈り
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あなたの目が覚めると、見知らぬ浜辺にいました。
しばらくその光景をじっと見ていたあなた。
じと~、じと~、頭はぽわ~ん。
とても気持ちがよいので何も考えられません。何か温かいものに包まれているような、暑すぎもせず寒くもないちょうどよい気温が、あなたを優しく包んでいます。
しばらく考えることをやめ、じっとしていました。それだけで幸せな気分だったからです。
はて、ここはどこなのだろう。
ようやくそれを考えはじめました。
あなたが最後に覚えているのは…、覚えているのは…
あらら? すべてが真っ白です。
どうにも記憶がはっきりしません。まるで寝起きのように、何か夢を見ていたような気もするけど、よく思い出せない状態です。
しばらく考えていましたが、思い出せないので諦めました。まあ、いいか。どうせたいした夢ではなかったのだろう。
それより、今自分がどこにいるかが問題です。まわりは海と山しかありません。どうしてここにいるのか、どう考えても謎です。
う~ん、考えていても仕方ない。
とりあえず歩いてみようか。
黄金色の砂浜、美しく透きとおった海水、南国のような木々。そこは写真でしか見たことがないような、外国の美しい浜辺に似ていました。
はぁ~、きれいだな~。
癒されるな~。
あまり旅行をする機会もなかったあなたは、どこか夢見心地です。きっと自分は一生こんなところとは無縁だと思っていたからです。
お金もないし、一緒に行く相手もいないあなたは、毎日平凡に暮らすだけでした。いつか行ってみたいとは思っても、日々の煩雑な出来事に流されてしまっていました。
よくわからないけど、こんな場所に来られてよかった。
だんだんそう思いはじめました。海水を蹴飛ばしてみたり、美しい砂をかき回したり、とても楽しい気分になっています。
ああ、ここはなんて素敵な場所なのだろう。
あなたはご機嫌です。見るものすべてが美しく、生き生きとしています。
こんな素敵な場所は今まで見たことがありませんでした。太陽は優しく自分を包み込み、今までの疲れを癒してくれます。働き詰めだったあなたは、そのすべてに感動を覚えていました。
幸せだなぁ、うれしいなぁ。
なにより、たったこれだけのことに感動できる自分に驚いてもいました。ここには何もないけれど、ただ自然を見ているだけで幸せを感じられるのです。
自然はいいなぁ。
しかし、しばらく遊んでいたあなたでしたが、次第に少し不安になってきました。夜になったらどうしよう。そんな考えが浮かんできます。
ズボンには何も入っていないようです。困った、お金も食料もない。いや、まわりには誰もおらず、そもそもお金が使えるのかもわかりません。
もしかしたら、どこかの島に漂着したのかもしれない。
ああ、いったいどうしたらいいんだろう。
途方に暮れるあなた。
「あっちに行くといいと思うよ」
ふと足元から声がしました。びっくりして下を見ると、一匹の亀がこちらを向いています。どうやら今の声は亀さんだったようです。
亀さんが指差した方向には一本の道がありました。それは山につながる道のようです。少し不安でしたが、どうせ行く場所もありません。従うことにしました。
亀さん、ありがとう。
あなたはお礼を言います。
「ハバナイスデイ、グッドラック」
亀さんはそう言い残し再び海に戻っていきました。
どうやら見かねた亀さんが、わざわざ教えにきてくれたようです。親切な亀さんとの出会いに心が温まりました。
あれはいい亀だ。
あなたもご満悦です。
あの道に行けば何かあるのかもしれないな。ひとまず目的が見つかったことに安堵します。
では、さっそく行ってみよう。
あなたはその道に向かって歩きはじめました。
しかし…まてよ、とあなたはふと立ち止まります。
今、何か重要なことが起こった気がしてなりません。ものすごい疑問が頭の中に渦巻いています。しばらく何がおかしかったのか考えはじめます。
今までいた場所ではありえない現象が起こったような気がしてなりません。
わかった!
あなたは閃きました。
それは、さきほどの亀さんの言葉でした。
まさか、信じられない。
あなたはしばし呆然とします。
そうです、さきほど亀さんは、「と思うよ」と言ったのです。「と思う」「だそうだよ」「らしいよ」、どれも不確定な言葉で、各人の勝手な意見か伝聞です。
では、亀さんはそれが正しいかどうか、完全には知らないことになります。
あの亀さんは、本当にこの道が正しいのか知らないのではないか?
所詮は亀さん。人間のことがわかるはずがない。
たしかに愛らしい顔で親切そうだったが、はたして信用してよいのだろうか。
詐欺師は善人のふりをして近寄ってくるもの。
あの亀だってわかったものじゃない。
今までだって何度も騙されてきたんだ。信用できたものじゃない。
あなたの頭は疑心でいっぱいになってしまいました。
それにあの亀は英語も使っていました。ここは海外なのかもしれません。だとすれば、ますます海外製の亀さんの信憑性に疑問が…
などと考えていたあなたですが、気がつくと亀さんに教えられた道を歩いていました。どのみち知らない土地なのですから、どこに向かってもあまり変わらなかったのです。
あなたは気を取り直して周囲を見ます。
そこは桜が咲く美しい道でした。
あまりの美しさに驚きながらも、その光景に一気に引き込まれるあなた。
なんて美しいんだ。
こんな桜を見るなんていつ以来だろうか。
今までは忙しくて見られなかったし、歳をとってからは足腰も弱って出歩く機会もなくなった。
桜は、こんなにも綺麗だったんだ。
不思議なことに桜は散ることなく、揺れるたびに美しい光をこぼしていきます。薄いピンクから金色の光となり、あなたの肩に優しくつかまります。まるで歓迎してくれているようでした。
足元では今まで見たこともないほどに草木は生き生きしており、葉も花も輝いています。これほど植物が美しいと思ったことは初めてでした。
なぜ、この美しさに気がつかなかったのだろうか。
そして、ふと気がつきます。
植物は最初から美しかった。
見る側の自分の目が曇っていたから見えなかったのだ。
仕事で毎日一生懸命だったからこそ、見えなくなっていたのだろう。
違うことに夢中で、この美しさを当たり前のものだと思っていた。
人は、幸せだと、その幸せを幸せだと思わなくなるものだ。
それ以上のものを求めて、その美を忘れてしまうものだ。
変わったのは、自分のほうだった。
自分がその美しさをあえて見なかったのだ。
あなたは少しばかり後悔しました。もっと前にこの美しさに気がついていれば、人生は変わったかもしれない、と。
さきほど亀さんを疑ったのも、自分の目が曇っていたからでした。彼は、ただ親切心から教えてくれたのに疑ってしまったのです。そんな自分が妙になさけなく感じました。
いつの間にか、誰かを疑う癖が染みついていたのです。
あなたがそうした人生を送ってきたからです。疑わないと騙される世界で生きてきたからです。
それは仕方がないことだ。
そうしないといけなかった。
でも、本当にそうだったのだろうか。
疑わずに生きることもできたのではないだろうか。
誰かを信じ、誰かに託す生き方もできたのではないか。
この美を愛し、安らかに暮らすこともできたのではないだろうか。
桜道を見ているとそんな気がしてきます。まわりの美しさが、かえって自分を醜く見せているように思えてきました。
自分は常に騙されないようにと一生懸命で、素直に信じることを忘れていたのかもしれない。ああ、もう一度やり直せたらこの美を見逃しはしないのに。
もう一度できたら…
しかし、今までの人生をやり直すことはできません。
それはもう過ぎ去った日々です。取り戻すことはできません。今になってようやく悟ったのです。
もう戻れないのだと。
失意の中、ゆっくり、ゆっくり、桜道を歩いていきます。
どこに向かっているかなど知りません。何も考えず、ただその幻想的かつ自然な美しさを味わっていたかったのです。
植物はなぜ美しいのだろう。
植物は騙すこともしない。騙されることもない。
だから自分自身を素直に出せるのだ。
だから美しいのだ。
あなたは、今は何も持っていません。お金もないし、物もない。まさに着の身着のままです。でも、だからこそ自分を見つめ直すことができたのです。自分が自分自身になってみたからこそ、植物の自然な美しさにも気がついたのです。
ああ、そうか。
失ってみて初めて、それらが無意味なものに感じました。
自分は生きている。
何もなくても生きている。
その日に食べるものがあれば十分だった。
あんなにたくさん必要なかった。
何に急いでいたのだろう。
今までがむしゃらに蓄え、今こうして失ったものよりも、この美のほうがはるかに価値がある。物は自分を満たしてはくれなかった。むしろ傷つけてばかりだったじゃないか。
蓄えれば蓄えるほど失うことを恐れた。
お金も物もすべてそうだった。
自分を豊かにするどころか、むしろ逆だった。
自分はどれだけ物に執着していたのだろう。
何の意味もなかった。無駄だった。
それと比べて桜は、桜であるだけで自分を癒す。
生きているだけで美しい。なんと美しい。
これだけあれば自分には何もいらないのだ。
ただ美しいことに、これほどの価値があったのだ。
それは中から出てくるような、見た目だけではない本当の美しさなのかもしれない。
あなたは少しだけ慰められました。自分はまだ生きている。この美を知ることができた。
桜さん、ありがとう。君は美しい。
その言葉に反応するように桜は揺れ、ピンク色の光を周囲に放っていきます。その光はあなたの周囲に寄り添い、歩くごとに心が少しずつ満たされていくようです。
きっと桜の妖精さんが、あなたの綺麗な感情に反応したのでしょう。あなたが信じて素直な心を出したから、妖精さんはもっともっとあなたを包んでくれたのです。
ああ、これが信じることなんだろうか。
あなたは少しだけ思い出しました。
信じることの美しさを。その輝きを。
そうして心を取り戻すかのように、ゆっくりゆっくり、一歩一歩進みます。
大地の鼓動をかみしめながら。
かつての人生をかみしめながら。
桜道にも終わりがきました。終着には桜のアーチがかかっています。まるでお城の庭園のように見事なものでした。
ああ、もう終わりなのか。
もっと味わっていたかったな。
さびしさすら感じるほどに美しかったのです。終わりはいつもさびしいものでした。何かが始まると楽しいのに、どうして終わるとさびしいのだろう。
あなたは、人生で起こったいろいろなことを思い出していました。
家族で囲む食卓の賑わいや、友達と集まってわいわい楽しんだこと。朝、一日が始まって、夜になって終わること。つらい仕事に従事したこと。誰かと喧嘩したこと。助けたこと。助けられたこと。
怖くて逃げたこと。勇気を持って立ち向かったこと。
晴れた日に気が緩んで、嵐の日に怯えたこと。
人が産まれてから死んでいくこと。
終わるのはさびしい。
でもそれはどうにもできない。
子供が大人になるように、ずっと楽しいままではいられない。
そんな当たり前のことがさびしかったのです。
桜のアーチの前で一度立ち止まります。
これからどうすればよいのだろう。
どこに行けばよいのだろう。
自分はどうなってしまうのだろう。
今まで社会に守られてきたあなたは、そんなことを考える必要がありませんでした。すべてを失ったあとのことなど考えなかったのです。もっと考えておけばよかった、そうも思いました。
物事をもっとよく考えて、よく吟味したことなど一度もありません。生きることが何なのか、それも考えたことがありませんでした。
今思えば恥ずかしいことに思えます。考えて、調べて、悩むこともできた。それができなかったのではなく、しなかった。
そう、しなかった。
今になってそれに気がつきます。何も考えずに生きてきたので、すべてを失ったときにどうしてよいのかわからないのです。
自分の中心は、からっぽでした。
これだ、というもの。これにすがればがんばれる、というものがありません。努力はしてきました。がんばってきました。でも、努力家ではなかった。勤勉でもなかった。
失うことが怖くて求めることも少なかった。
だから社会的成功もしなかった。
それも当然。自分の芯がなかったのだ。
あなたは再び悔います。
でも、いまさらどうにもならないことです。今となれば、何もわからないままに歩くことしかできません。ここで立ち止まっていても仕方ないのです。
その道の先は、光が強くてよく見えません。
今度はどんな場所なのだろう、期待と不安が入り混じります。
それでも、あなたは行くのでしょう。
あなたには歩くことしかできないのですから。
勇気を持って一歩を踏み出しました。
道の先には、空と海が広がっていました。
そうでした。この道は山に続いていたのです。あなたは山の中腹、その開けた場所にある平原、空と海の中間に立っています。
そこでの光景もまた絶景でした。手を伸ばせば、空に届きそうでありながら届かず、海に触れようとしても届かない、そんな不思議な距離感の場所です。
この場所からは世界が見えました。
空は無限に広がっており、海は優しく大地を包んでいます。海に抱かれた島々は、まるで世界に抱かれた赤子のようでした。優しく抱かれ、健やかに育つ元気な子のようです。
世界は広い、改めてそう思いました。
自分が知っていた世界など、本当に小さなものだったのだと。
この世界では空にも大地にも値段はついていませんでした。誰もが生きる権利を与えられ、奪われることもない世界。奪う必要もないほど、常に与えられている世界。
まるで天国のようだ。
気がつけば、あなたは大の字に寝て世界を見ていました。自然は自然のまま存在し、人に侵されることなく美しいままに生きています。
空は無限の可能性を感じさせ、大地は優しい温もりに満ちています。生命に満ちています。自分はすべてを失ったが、この場所は受け入れてくれるのだと直感します。
亀さんも桜さんも、空も大地も海も、草の一本一本があなたを祝福していることがわかりました。
優しいのです。
すべてが優しいのです。こんな安らぎを与えられたことは、一度もなかった。
こんなに認められたことは、一度たりともなかった。
世界は、あなたを認めました。
ただ何もしなくても認められる。それは本当に心が満たされる瞬間だったのです。
ですが、それを実感してもなお少しだけさびしくなります。仮にここが本当に天国だとしても、あなたには一緒に暮らす相手もいないからです。
あなたは人を好きになったこともありましたが、どれもうまくいきませんでした。人付き合いが苦手で関わることも苦手。面倒事を嫌って、つかず離れずの付き合い。
それすら次第に生活に追われ、そんなことを考える暇もなくなり、結局何も得ないままに終わったのです。それがむしょうにさびしいのです。
もし家族を作っていたら、どうだっただろう。
もし、子供がいたら自分の人生は変わっていただろうか。
せめて、愛する誰かがいれば…
あなたは、とてもさびしいのです。
そのとき優しい風が吹き、花びらが舞いました。黄金色の羽のような花びらが、空一面に舞います。思わずそれに視線を奪われました。
花びらを目で追いかけ、空から大地に視線を下ろします。
すると新しい光景が見えてきました。
家があります。
大きくも小さくもない、ロッジのような家です。
その瞬間、忘れていた想いが戻ってきました。
そうだ、こういう家だ。
自分は本当は、こういう家でのんびりと暮らしたかったのだ。
忙しい都会の日々ではなく、山と海に囲まれたこんな家に住みたかった。
あなたは、かつての夢を思い出しました。日の出とともに朝を迎え、夜とともに眠る生活。多くは必要ありません。今を幸せに生きていければそれでよい生活。
あなたは、むしょうに心を掻きむしられる気分になりました。
欲しかったものが目の前にある。
ここに住みたい。
ここならば、幸せになれるかもしれない。
一人で暮らすことにも飽き飽きしていました。
孤独な時間には耐えられない。
もう一人は嫌だ。
でも、すべては自分が悪い。誰にも文句は言えない。
自分が勇気を持って、夢を持って生きていれば叶ったのだ。
それができなかったのは、ほかならぬ自分が悪いからだ。
そう思って願望に耐えようとします。
でも、もし…もしもやり直すことができるのならば…
今まで何も信じてこなかったけれど、もし神様がいるのならば…
どうか、どうか…
あなたが神様ならば、もう一度やり直すチャンスをください。
初めて「あなた」は祈りました。
強く願いました。
真っ白な世界、何もない世界。
あなたは無我夢中で手を伸ばします。
何かないか、何かあってほしい。
何もなければ、これからどうすればよいのかわからない。
なんでもいい、何かあってほしい。
希望が欲しい。やり直すきっかけが欲しい!
あなたは本気で叫び、光の中に手を伸ばしました。
そして、その先には…
小さな小さな「手」がありました。
しばらくその光景をじっと見ていたあなた。
じと~、じと~、頭はぽわ~ん。
とても気持ちがよいので何も考えられません。何か温かいものに包まれているような、暑すぎもせず寒くもないちょうどよい気温が、あなたを優しく包んでいます。
しばらく考えることをやめ、じっとしていました。それだけで幸せな気分だったからです。
はて、ここはどこなのだろう。
ようやくそれを考えはじめました。
あなたが最後に覚えているのは…、覚えているのは…
あらら? すべてが真っ白です。
どうにも記憶がはっきりしません。まるで寝起きのように、何か夢を見ていたような気もするけど、よく思い出せない状態です。
しばらく考えていましたが、思い出せないので諦めました。まあ、いいか。どうせたいした夢ではなかったのだろう。
それより、今自分がどこにいるかが問題です。まわりは海と山しかありません。どうしてここにいるのか、どう考えても謎です。
う~ん、考えていても仕方ない。
とりあえず歩いてみようか。
黄金色の砂浜、美しく透きとおった海水、南国のような木々。そこは写真でしか見たことがないような、外国の美しい浜辺に似ていました。
はぁ~、きれいだな~。
癒されるな~。
あまり旅行をする機会もなかったあなたは、どこか夢見心地です。きっと自分は一生こんなところとは無縁だと思っていたからです。
お金もないし、一緒に行く相手もいないあなたは、毎日平凡に暮らすだけでした。いつか行ってみたいとは思っても、日々の煩雑な出来事に流されてしまっていました。
よくわからないけど、こんな場所に来られてよかった。
だんだんそう思いはじめました。海水を蹴飛ばしてみたり、美しい砂をかき回したり、とても楽しい気分になっています。
ああ、ここはなんて素敵な場所なのだろう。
あなたはご機嫌です。見るものすべてが美しく、生き生きとしています。
こんな素敵な場所は今まで見たことがありませんでした。太陽は優しく自分を包み込み、今までの疲れを癒してくれます。働き詰めだったあなたは、そのすべてに感動を覚えていました。
幸せだなぁ、うれしいなぁ。
なにより、たったこれだけのことに感動できる自分に驚いてもいました。ここには何もないけれど、ただ自然を見ているだけで幸せを感じられるのです。
自然はいいなぁ。
しかし、しばらく遊んでいたあなたでしたが、次第に少し不安になってきました。夜になったらどうしよう。そんな考えが浮かんできます。
ズボンには何も入っていないようです。困った、お金も食料もない。いや、まわりには誰もおらず、そもそもお金が使えるのかもわかりません。
もしかしたら、どこかの島に漂着したのかもしれない。
ああ、いったいどうしたらいいんだろう。
途方に暮れるあなた。
「あっちに行くといいと思うよ」
ふと足元から声がしました。びっくりして下を見ると、一匹の亀がこちらを向いています。どうやら今の声は亀さんだったようです。
亀さんが指差した方向には一本の道がありました。それは山につながる道のようです。少し不安でしたが、どうせ行く場所もありません。従うことにしました。
亀さん、ありがとう。
あなたはお礼を言います。
「ハバナイスデイ、グッドラック」
亀さんはそう言い残し再び海に戻っていきました。
どうやら見かねた亀さんが、わざわざ教えにきてくれたようです。親切な亀さんとの出会いに心が温まりました。
あれはいい亀だ。
あなたもご満悦です。
あの道に行けば何かあるのかもしれないな。ひとまず目的が見つかったことに安堵します。
では、さっそく行ってみよう。
あなたはその道に向かって歩きはじめました。
しかし…まてよ、とあなたはふと立ち止まります。
今、何か重要なことが起こった気がしてなりません。ものすごい疑問が頭の中に渦巻いています。しばらく何がおかしかったのか考えはじめます。
今までいた場所ではありえない現象が起こったような気がしてなりません。
わかった!
あなたは閃きました。
それは、さきほどの亀さんの言葉でした。
まさか、信じられない。
あなたはしばし呆然とします。
そうです、さきほど亀さんは、「と思うよ」と言ったのです。「と思う」「だそうだよ」「らしいよ」、どれも不確定な言葉で、各人の勝手な意見か伝聞です。
では、亀さんはそれが正しいかどうか、完全には知らないことになります。
あの亀さんは、本当にこの道が正しいのか知らないのではないか?
所詮は亀さん。人間のことがわかるはずがない。
たしかに愛らしい顔で親切そうだったが、はたして信用してよいのだろうか。
詐欺師は善人のふりをして近寄ってくるもの。
あの亀だってわかったものじゃない。
今までだって何度も騙されてきたんだ。信用できたものじゃない。
あなたの頭は疑心でいっぱいになってしまいました。
それにあの亀は英語も使っていました。ここは海外なのかもしれません。だとすれば、ますます海外製の亀さんの信憑性に疑問が…
などと考えていたあなたですが、気がつくと亀さんに教えられた道を歩いていました。どのみち知らない土地なのですから、どこに向かってもあまり変わらなかったのです。
あなたは気を取り直して周囲を見ます。
そこは桜が咲く美しい道でした。
あまりの美しさに驚きながらも、その光景に一気に引き込まれるあなた。
なんて美しいんだ。
こんな桜を見るなんていつ以来だろうか。
今までは忙しくて見られなかったし、歳をとってからは足腰も弱って出歩く機会もなくなった。
桜は、こんなにも綺麗だったんだ。
不思議なことに桜は散ることなく、揺れるたびに美しい光をこぼしていきます。薄いピンクから金色の光となり、あなたの肩に優しくつかまります。まるで歓迎してくれているようでした。
足元では今まで見たこともないほどに草木は生き生きしており、葉も花も輝いています。これほど植物が美しいと思ったことは初めてでした。
なぜ、この美しさに気がつかなかったのだろうか。
そして、ふと気がつきます。
植物は最初から美しかった。
見る側の自分の目が曇っていたから見えなかったのだ。
仕事で毎日一生懸命だったからこそ、見えなくなっていたのだろう。
違うことに夢中で、この美しさを当たり前のものだと思っていた。
人は、幸せだと、その幸せを幸せだと思わなくなるものだ。
それ以上のものを求めて、その美を忘れてしまうものだ。
変わったのは、自分のほうだった。
自分がその美しさをあえて見なかったのだ。
あなたは少しばかり後悔しました。もっと前にこの美しさに気がついていれば、人生は変わったかもしれない、と。
さきほど亀さんを疑ったのも、自分の目が曇っていたからでした。彼は、ただ親切心から教えてくれたのに疑ってしまったのです。そんな自分が妙になさけなく感じました。
いつの間にか、誰かを疑う癖が染みついていたのです。
あなたがそうした人生を送ってきたからです。疑わないと騙される世界で生きてきたからです。
それは仕方がないことだ。
そうしないといけなかった。
でも、本当にそうだったのだろうか。
疑わずに生きることもできたのではないだろうか。
誰かを信じ、誰かに託す生き方もできたのではないか。
この美を愛し、安らかに暮らすこともできたのではないだろうか。
桜道を見ているとそんな気がしてきます。まわりの美しさが、かえって自分を醜く見せているように思えてきました。
自分は常に騙されないようにと一生懸命で、素直に信じることを忘れていたのかもしれない。ああ、もう一度やり直せたらこの美を見逃しはしないのに。
もう一度できたら…
しかし、今までの人生をやり直すことはできません。
それはもう過ぎ去った日々です。取り戻すことはできません。今になってようやく悟ったのです。
もう戻れないのだと。
失意の中、ゆっくり、ゆっくり、桜道を歩いていきます。
どこに向かっているかなど知りません。何も考えず、ただその幻想的かつ自然な美しさを味わっていたかったのです。
植物はなぜ美しいのだろう。
植物は騙すこともしない。騙されることもない。
だから自分自身を素直に出せるのだ。
だから美しいのだ。
あなたは、今は何も持っていません。お金もないし、物もない。まさに着の身着のままです。でも、だからこそ自分を見つめ直すことができたのです。自分が自分自身になってみたからこそ、植物の自然な美しさにも気がついたのです。
ああ、そうか。
失ってみて初めて、それらが無意味なものに感じました。
自分は生きている。
何もなくても生きている。
その日に食べるものがあれば十分だった。
あんなにたくさん必要なかった。
何に急いでいたのだろう。
今までがむしゃらに蓄え、今こうして失ったものよりも、この美のほうがはるかに価値がある。物は自分を満たしてはくれなかった。むしろ傷つけてばかりだったじゃないか。
蓄えれば蓄えるほど失うことを恐れた。
お金も物もすべてそうだった。
自分を豊かにするどころか、むしろ逆だった。
自分はどれだけ物に執着していたのだろう。
何の意味もなかった。無駄だった。
それと比べて桜は、桜であるだけで自分を癒す。
生きているだけで美しい。なんと美しい。
これだけあれば自分には何もいらないのだ。
ただ美しいことに、これほどの価値があったのだ。
それは中から出てくるような、見た目だけではない本当の美しさなのかもしれない。
あなたは少しだけ慰められました。自分はまだ生きている。この美を知ることができた。
桜さん、ありがとう。君は美しい。
その言葉に反応するように桜は揺れ、ピンク色の光を周囲に放っていきます。その光はあなたの周囲に寄り添い、歩くごとに心が少しずつ満たされていくようです。
きっと桜の妖精さんが、あなたの綺麗な感情に反応したのでしょう。あなたが信じて素直な心を出したから、妖精さんはもっともっとあなたを包んでくれたのです。
ああ、これが信じることなんだろうか。
あなたは少しだけ思い出しました。
信じることの美しさを。その輝きを。
そうして心を取り戻すかのように、ゆっくりゆっくり、一歩一歩進みます。
大地の鼓動をかみしめながら。
かつての人生をかみしめながら。
桜道にも終わりがきました。終着には桜のアーチがかかっています。まるでお城の庭園のように見事なものでした。
ああ、もう終わりなのか。
もっと味わっていたかったな。
さびしさすら感じるほどに美しかったのです。終わりはいつもさびしいものでした。何かが始まると楽しいのに、どうして終わるとさびしいのだろう。
あなたは、人生で起こったいろいろなことを思い出していました。
家族で囲む食卓の賑わいや、友達と集まってわいわい楽しんだこと。朝、一日が始まって、夜になって終わること。つらい仕事に従事したこと。誰かと喧嘩したこと。助けたこと。助けられたこと。
怖くて逃げたこと。勇気を持って立ち向かったこと。
晴れた日に気が緩んで、嵐の日に怯えたこと。
人が産まれてから死んでいくこと。
終わるのはさびしい。
でもそれはどうにもできない。
子供が大人になるように、ずっと楽しいままではいられない。
そんな当たり前のことがさびしかったのです。
桜のアーチの前で一度立ち止まります。
これからどうすればよいのだろう。
どこに行けばよいのだろう。
自分はどうなってしまうのだろう。
今まで社会に守られてきたあなたは、そんなことを考える必要がありませんでした。すべてを失ったあとのことなど考えなかったのです。もっと考えておけばよかった、そうも思いました。
物事をもっとよく考えて、よく吟味したことなど一度もありません。生きることが何なのか、それも考えたことがありませんでした。
今思えば恥ずかしいことに思えます。考えて、調べて、悩むこともできた。それができなかったのではなく、しなかった。
そう、しなかった。
今になってそれに気がつきます。何も考えずに生きてきたので、すべてを失ったときにどうしてよいのかわからないのです。
自分の中心は、からっぽでした。
これだ、というもの。これにすがればがんばれる、というものがありません。努力はしてきました。がんばってきました。でも、努力家ではなかった。勤勉でもなかった。
失うことが怖くて求めることも少なかった。
だから社会的成功もしなかった。
それも当然。自分の芯がなかったのだ。
あなたは再び悔います。
でも、いまさらどうにもならないことです。今となれば、何もわからないままに歩くことしかできません。ここで立ち止まっていても仕方ないのです。
その道の先は、光が強くてよく見えません。
今度はどんな場所なのだろう、期待と不安が入り混じります。
それでも、あなたは行くのでしょう。
あなたには歩くことしかできないのですから。
勇気を持って一歩を踏み出しました。
道の先には、空と海が広がっていました。
そうでした。この道は山に続いていたのです。あなたは山の中腹、その開けた場所にある平原、空と海の中間に立っています。
そこでの光景もまた絶景でした。手を伸ばせば、空に届きそうでありながら届かず、海に触れようとしても届かない、そんな不思議な距離感の場所です。
この場所からは世界が見えました。
空は無限に広がっており、海は優しく大地を包んでいます。海に抱かれた島々は、まるで世界に抱かれた赤子のようでした。優しく抱かれ、健やかに育つ元気な子のようです。
世界は広い、改めてそう思いました。
自分が知っていた世界など、本当に小さなものだったのだと。
この世界では空にも大地にも値段はついていませんでした。誰もが生きる権利を与えられ、奪われることもない世界。奪う必要もないほど、常に与えられている世界。
まるで天国のようだ。
気がつけば、あなたは大の字に寝て世界を見ていました。自然は自然のまま存在し、人に侵されることなく美しいままに生きています。
空は無限の可能性を感じさせ、大地は優しい温もりに満ちています。生命に満ちています。自分はすべてを失ったが、この場所は受け入れてくれるのだと直感します。
亀さんも桜さんも、空も大地も海も、草の一本一本があなたを祝福していることがわかりました。
優しいのです。
すべてが優しいのです。こんな安らぎを与えられたことは、一度もなかった。
こんなに認められたことは、一度たりともなかった。
世界は、あなたを認めました。
ただ何もしなくても認められる。それは本当に心が満たされる瞬間だったのです。
ですが、それを実感してもなお少しだけさびしくなります。仮にここが本当に天国だとしても、あなたには一緒に暮らす相手もいないからです。
あなたは人を好きになったこともありましたが、どれもうまくいきませんでした。人付き合いが苦手で関わることも苦手。面倒事を嫌って、つかず離れずの付き合い。
それすら次第に生活に追われ、そんなことを考える暇もなくなり、結局何も得ないままに終わったのです。それがむしょうにさびしいのです。
もし家族を作っていたら、どうだっただろう。
もし、子供がいたら自分の人生は変わっていただろうか。
せめて、愛する誰かがいれば…
あなたは、とてもさびしいのです。
そのとき優しい風が吹き、花びらが舞いました。黄金色の羽のような花びらが、空一面に舞います。思わずそれに視線を奪われました。
花びらを目で追いかけ、空から大地に視線を下ろします。
すると新しい光景が見えてきました。
家があります。
大きくも小さくもない、ロッジのような家です。
その瞬間、忘れていた想いが戻ってきました。
そうだ、こういう家だ。
自分は本当は、こういう家でのんびりと暮らしたかったのだ。
忙しい都会の日々ではなく、山と海に囲まれたこんな家に住みたかった。
あなたは、かつての夢を思い出しました。日の出とともに朝を迎え、夜とともに眠る生活。多くは必要ありません。今を幸せに生きていければそれでよい生活。
あなたは、むしょうに心を掻きむしられる気分になりました。
欲しかったものが目の前にある。
ここに住みたい。
ここならば、幸せになれるかもしれない。
一人で暮らすことにも飽き飽きしていました。
孤独な時間には耐えられない。
もう一人は嫌だ。
でも、すべては自分が悪い。誰にも文句は言えない。
自分が勇気を持って、夢を持って生きていれば叶ったのだ。
それができなかったのは、ほかならぬ自分が悪いからだ。
そう思って願望に耐えようとします。
でも、もし…もしもやり直すことができるのならば…
今まで何も信じてこなかったけれど、もし神様がいるのならば…
どうか、どうか…
あなたが神様ならば、もう一度やり直すチャンスをください。
初めて「あなた」は祈りました。
強く願いました。
真っ白な世界、何もない世界。
あなたは無我夢中で手を伸ばします。
何かないか、何かあってほしい。
何もなければ、これからどうすればよいのかわからない。
なんでもいい、何かあってほしい。
希望が欲しい。やり直すきっかけが欲しい!
あなたは本気で叫び、光の中に手を伸ばしました。
そして、その先には…
小さな小さな「手」がありました。
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甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。
本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。
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