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永遠の再会
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その手は、ひらひらと揺れています。
はて、これは自分の手なのだろうか?
いやいや、自分の手はここにある。ならば誰の手なのだろうか?
しばらく手を見ていても、それはずっと振られたままです。
誰かが自分を呼んでいる。そんな気がしました。
誰だろう?
知っている人だろうか?
人、その言葉にふと恐怖がよぎります。人と会うのが急に怖くなりました。
なぜならば、ずっと人と触れあっていなかったからです。今までの人生において他人は信用できませんでした。信じようと思っても信じきれず、今こうして自分の生き方が悪かったのだと思っていても、やはり触れるのが怖いのです。
どんな相手だろう。
拒絶されるのではないか。
そもそも言葉は通じるのだろうか。
桜の美しさを見てもまだあなたは自分を素直に出せませんでした。無理もありません。あなたの人生はとても大変でした。誰もそれを責めません。
しかし、歩かねば前には進みません。
そうだ。
歩くことすら自分で拒否してしまったら本当に何もなくなる。
もう失うだけの人生は嫌だ。
変わりたい。
変わろう。
一歩でもいいんだ。
歩こう。
あなたは、決死の覚悟で光の先に向かいます。勇気を持って歩きました。頭をよぎる恐怖に立ち向かうために過去を思い出します。
もう戻らない過去。戻りたくない過去。
それでいいんだ。だから過去なんだ。
自分はまだ生きている。歩こう。歩かないといけない!!
強く、強く歩きました。目の前はもう光で真っ白で何も見えません。わずかに見える手すら白に埋もれそうです。
「手を伸ばして」
そんな声が聴こえたような気がしました。あなたは必死に手を伸ばしました。もう何も考える余裕はありません。唯一の可能性に向かって、ただただひたすらに手を伸ばしたのです。
あなたはがんばりました。勇気を出しました。
だから、世界はあなたのものになりました。
光が収束し、弾け、世界は一つの「形」を生み出しました。
その中心に一人の女性がいました。
にこにこと笑いながら、少し恥ずかしそうにあなたに手を振っています。
初めて見る女性です。美しいブロンドの髪に、柔らかい茶色のカーディガンを着た、とても温和そうな女性。笑顔はキラキラと輝いて、その光が周囲に美しい紋様を生み出しています。
彼女は世界そのものでした。
世界が集まって彼女が生まれました。
一目見た瞬間に、あなたの心の奥に何かがこみあげてきます。
むずむずするような、そわそわするような、言いようもない不思議な感情です。
なぜか抱きしめたくて仕方ありません。
でも、いきなりそんなことはできませんから、ぐっと我慢しました。
そんな気を知ってか知らずか、彼女は相変わらず手を振っています。やはりあなたに対して振っています。あなたは、まるで引き寄せられるように彼女のもとに歩いていきます。
そのたびに女性もそわそわしているようです。
会いたい、でも恥ずかしい。そんな気持ちのようです。
う~ん、やはり知らない人だ。
でも、相手はあきらかにこちらに手を振っている。
ならば忘れているだけで、どこかで会った女性なのかもしれない。
ようやくその場所にたどり着きました。
本当に目の前に感じたのですが、歩くとかなり距離があったようにも思えます。そして周囲がよく見えてきました。ぼやっとしていたものが、しっかりと輪郭を持ったのです。その女性の姿もはっきり見ることができます。
可愛い。すごく可愛い。
心がときめきます。
こんな可愛い子は見たことがない。
ドキドキする。
あなたは一瞬で恋に落ちてしまいました。視線は彼女に釘付けです。
まだ自分にそんな感情があったことに驚きます。もうそんな歳ではないのに…、少し恥ずかしい気持ちです。
このような素敵な女性に恋をしてしまうなど、あってはいけない。
そう思って、目をそむけようとしたとき…
「あなたを愛しています」
女性はあなたに近づき、ぎゅっとあなたの胸におさまりました。
女性の髪から、柔らかい春の匂いが満ちます。生命の香り。大地が放つ、とてもとても優しい匂いがします。
でも、あなたの頭はパニックです。
何が起こったのか整理できず、ただただ身を任せるしかありません。そのあいだも彼女は、あなたの胸の中で顔をすり寄せています。
相手は誰かまったくわからない女性。それでもただ触れあうことが、こんなにも素敵なことなんて。あなたの心は、強烈な痺れを感じました。
久しく感じていなかった少年時代の淡い気持ち。焦れったい気持ち。いや、それよりも、もっともっと強くて新鮮な気持ちが湧き上がってきます。
じんじんと胸の奥が熱くなり、思わず彼女を抱きしめていました。抱きしめ、顔を髪にすりつけ何度も何度も撫でます。
そのたびに彼女も嬉しそうにしっぽを振ります。
………
しっぽ?
ふりふり、ふりふり。
彼女の後ろで揺れているのは間違いなくしっぽでした。
何かのコスチュームだろうか?
気になったあなたは思わず引っ張ってみました。
「きゃふんっ!」
女性は驚いて硬直してしまいました。
「ご主人様、引っ張ったらダメですぅ。敏感なんですよ」
女性は抗議するように再び頭をあなたの胸にすりつけます。
ぐりぐり、ぐりぐり。
優しい抗議の仕方にあなたは笑ってしまいました。
どうやらそのしっぽは本物のようでした。しっかりと感覚があるそうです。ただ、あなたがもっと気になったのはそこではありませんでした。
「ご主人様」、そこが気になりました。
彼女はメイドだったのでしょうか?
そして、あなたはその主人?
いや、あなたはメイドを雇うなんて暮らしはしていません。実にひっそりみじめに、社会の片隅で暮らしていました。もしそんなお金があったならば、また違った人生を送っていたことでしょう。
では、彼女とそういうお店で会ったことがある?
秋葉原にはたくさんメイドがいるという話ですが、あなたは行ったことがありません。
では、彼女の妄想?
それはそれで怖いです。
困惑するあなたに彼女は、はにかみながら言いました。
「あの…、やっぱりわかりませんよね。わたし、リンカです」
リンカ?
その言葉に首をひねります。外国人のような名前に聞き覚えはありません。そんな女性と知り合いなら、まず間違いなく忘れはしないでしょう。
う~ん、思いつかない。
何度考えてもわかりません。
でも、わからないなんて言うのは失礼だし、つくろっておこうか?
いやいや、それはそれでもっと失礼だろう。
あなたはますます困惑してしまいました。
それを見かねたリンカという女性が、さらに続けます。
「わたし、あなたのペットだったんですよ」
…なんて卑猥な。
頭の中は、違うことでいっぱいになってしまいました。ほらほら、そんなことではいけません。ちゃんと考えてください。
「リンカ、リンカ、素敵な名前。あなたがわたしにつけてくれたんです」
女性は、待ちきれないという様子で自分の名前を連呼します。
あなたがつけた名前を愛しそうに繰り返します。
「あなたが引き取ってくれた日に、わたしは生まれました」
雷撃。
あなたの頭の中に、すさまじい衝撃をもってイメージが生まれていきます。霧が晴れたようにその光景が浮かびます。
リンカ、リンカ、リンカ。
ああ、そうだ。忘れもしない、あのリンカ!
あなたはリンカという犬を飼っていました。雑種だったので犬種はよくわかりませんが、美しい黄金の毛並みをした可愛い雌犬です。
ある日、たまたま保健所の知り合いに頼まれ一匹の子犬を預かりました。
犬など飼ったこともないあなたは、その扱いにひどく困惑したものです。しかし、放っておけば、そのまま殺されてしまうと知りました。
自分も生活が厳しく、飼えるかどうかわかりません。でも、せっかく生まれた命であり、こうしてめぐりあった縁があります。
どうあっても見放すことなどできませんでした。
ただ、いざ飼ってみると彼女はとても温厚で、あなたの気持ちを察する頭のよい子でした。
さびしいときはいつも一緒にいて慰めてくれました。
楽しいときは一緒になってはしゃぎ、哀しいときは一緒に泣きました。
そんなリンカをあなたも愛するようになりました。
覚えていますか?
あなたが喧嘩別れのように職場を辞め、レッドインディアンになると言い出したときも彼女は必死で止めました。バッグを引っ張り、出て行くあなたを止めたのです。
覚えていますか?
あなたが自暴自棄になって、ブラック企業に勤めたときも、やめるように説得しました。わんわん、ばうばう、訴えました。
「リンカ、これでお前を養っているんだぞ!」
ばうばう、わんわん!
「そんなことわかっている! でも、仕方ないだろう!」
わんわん、ばうばう!
「そんなこと言われても、これからどうしろっていうんだ」
ばうばう、わんわん…わん!
「わかった。そこまで言うなら辞めるか…」
ええ、彼女はれっきとしたパートナーだったのです。むしろ、あなたよりも利口で道徳観が高かったのです。あなたを陰ながら助けてきたのはリンカだったのですよ。
ですが、犬の寿命は人間と比べて短いもの。
美しかった毛並みは艶を失い。愛らしかった目は濁り、足腰も弱って衰弱します。必死に世話をしました。励ましました。何でもしました。
でも、寿命は誰にも変えられません。
二十年生きた彼女にも、ついに寿命が訪れました。
そのときあなたは、涙が止まりませんでした。
何日も、何ヶ月も、何年も哀しみました。
すでにリンカは家族以上の存在、あなたの存在そのものでした。
その空白感はあなたをどん底に落とし、生きる気力すら失いかけていました。
何の希望もない人生など生きる価値もない、と。
しかし、あなたは知りませんでした。
そんな絶望のふちにいたときも、彼女はそばにいました。泣くあなたをひそかに慰め、励まし、勇気づけていました。あなたは常にリンカと一緒にいました。
見えなかったかもしれませんが、たしかにいたのです。
それによって何度も危ない場面を救われました。
くじけそうになったとき、人生が嫌になったとき、彼女もまたあなたと同じ気持ちを味わい、あなたに生きる希望を持ってもらおうとがんばっていました。
ふとあなたはリンカを思い出すことがあったはずです。
そうした時こそ、リンカがあなたを励ましていたのです。
そして、あなたは最悪の事態に陥る寸前で立ち上がってきました。こんなことじゃリンカに笑われる。がんばろう、と。
あなたにとってリンカこそがすべてでした。
ああ、愛したのです。
誰も愛していないなど、とんでもありません。
あなたは本気で誰かを愛していたのです。
それが犬であろうと愛に違いはないのです。
そして、人生の中で一番愛したものが彼女だったからこそ、ここに来られたのです。
その愛が、この場所とあなたをつないだのです。
ここはサマーランドの中にある、アニマルアイランド。
本当にペットを愛した人だけがたどり着く、両者にとっての憩いの地なのです。
愛がなければ絶対にリンカと会うことはできなかったでしょう。ここで会えた、そのことこそが愛した証拠です。
しかし、なぜ人間の格好をしているのだろう。
犬も死ぬと人間になるのだろうか。
そんな疑問が浮かびます。
当然、違います。
ただ、あなたの愛が、彼女をここまで引き上げたのは事実なのです。愛は最高の力、神の力なのですから。
「同じ人間になって、あなたと一緒になりたいと願っていました」
不思議がるあなたに、リンカは優しく教えてくれます。
その声は、犬であったころとはまったく違う柔らかいものでしたが、穏やかさはまるで変わっていません。言葉は風に乗ってあなたに届きます。
「ご主人様が本気で愛してくれたから、神様がわたしの願いを叶えてくださったのです」
人間は、愛を発することができます。
目に見えなくても愛は存在し、大きな影響を与えているのです。
その愛が、彼女をここまで進化させたのです。
人と動物は、もともと同じ生命です。生命そのものに区切りはありません。同じ仲間です。ただその進化の程度に違いがあるだけであり、神から見れば同じ生命です。
人は、動物よりも進化しているのですから、彼らに愛を与える義務があります。その愛によって動物の魂は大きく飛躍するのです。
そうして人間の愛を受けたペットは、死後も個性を存続させます。亀さんや桜がそうだったように、その知性すら本来の輝きを表現して存在し続けます。
そして、あなたのように最大級の愛をそそいだ場合、その進化は劇的なものとなります。ここにいる動物たちは飼い主の愛を受け、通常のペットたちよりも大きな進化を遂げているのです。
リンカもその一人で、とりわけ成長が早い優秀な子です。彼女はここに来てから瞬く間に人間の形態をとるようになりました。
彼女もあなたを愛していたからです。
人間と犬ではなく、本当の人間と同じように、あなたを愛したい。その愛は通常の動物の感情を超えていました。
もしあなたに誰か好きな人ができたら、その想いは秘めたままにしておこう。
そんな複雑な気持ちでいました。
自分は犬だから。
やっぱり人間とは違うから。
あなたを見守りながらもそう思っていたのです。
しかし、あなたは彼女以外を愛することができませんでした。
愛することが苦手で、リンカを失ったあとは誰も愛する気力がなかったのです。それだけリンカが支えだったのです。
そんなあなたを見て、彼女はますますやる気になりました。
あなたに負けないほど、いえ、それ以上に愛していたからです。
その強い愛が、神様に届かないことがありましょうか。
神は愛です。愛は神の力を引き出します。
お互いの愛が、この世界を創造したのです。
ああ、彼女はあなたを忘れたことなど一度もないのです。
こうして一緒に住む家をつくって待っているほどに、愛し続けていたのです。
ええ、そうです。
この家は、あなたと彼女が暮らす家なのです。
「でも、わたしで…いいですか? 嫌じゃないですか?」
彼女はまだ、あなたが受け入れてくれるか心配のようです。それも当然。このようなことはまったく予想していないことです。
あなたは、まだ困惑…
「あっ、ご主人様…」
などせず、抱きついていました。
ああ、リンカ、リンカ、愛しいリンカ。
心の中はすでに彼女でいっぱいでした。迷うわけもありません。
まさか君が人間になって待っていてくれるなんて、こんな嬉しいことはない。
感謝と感激に、思わず涙がこぼれそうになります。うれし泣き、そんなものはいつ以来だったでしょうか。
あなたが生まれたとき、誰もが喜んでいました。
あなたは望まれて生まれ、愛されて育ちました。
あなたの両親も。あなたの友達も。あなたのまわりのすべても。
愛。愛です。
愛だけが生命の進化を促す唯一の栄養なのです。
誰からも愛されていないと思っていましたが、それは大きな勘違い。
あなたはすべてから愛されていたのです。
リンカから、世界から。
神から。
ただあなたが気がつかなかっただけ。生活に流されて見失っていただけです。すべてはいつも目の前にありました。清らかな心があれば、きっとそれが見えたでしょう。
「ああ、あなただけを愛しています。ずっと、これからも」
その言葉だけで、今までの苦労が消えていくようでした。ただその笑顔があるだけで、ほかには何もいらない。この子だけいれば自分は満足だ。
ああ、神様、ありがとうございます。
願いを叶えてくださって、ありがとうございます。
自由を得たあなたは、自然と感謝の言葉を口にしました。今までの人生で神はもとより、誰にも祈ったことがありませんでした。孤独の中で自分を奮い立たせながら生きてきたあなただからこそ、その感謝は本物でした。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
意固地になっていた心が、急速にとけていくのがわかります。
すっと、身体から何かが抜けていきました。
自分を縛っていたものは、自分だったのです。
あなたは今、自由になりました。
素直に愛を受け入れ、愛を放つ存在となったのです。
思いがけない再会と幸せ。今日は、あなたにとって最高の一日となりました。失われたものが返ってきたのです。
そして、これからもっとあなたは取り戻していくことでしょう。こんなに幸せでいいのかと思うほど、愛し、愛されるでしょう。
なぜならば、神はすべてを与えているからです。
ここはアニマルアイランド。
あなたと彼女が愛をつむぐ場所であり、動物を管理する『竜』が住む場所なのです。
はて、これは自分の手なのだろうか?
いやいや、自分の手はここにある。ならば誰の手なのだろうか?
しばらく手を見ていても、それはずっと振られたままです。
誰かが自分を呼んでいる。そんな気がしました。
誰だろう?
知っている人だろうか?
人、その言葉にふと恐怖がよぎります。人と会うのが急に怖くなりました。
なぜならば、ずっと人と触れあっていなかったからです。今までの人生において他人は信用できませんでした。信じようと思っても信じきれず、今こうして自分の生き方が悪かったのだと思っていても、やはり触れるのが怖いのです。
どんな相手だろう。
拒絶されるのではないか。
そもそも言葉は通じるのだろうか。
桜の美しさを見てもまだあなたは自分を素直に出せませんでした。無理もありません。あなたの人生はとても大変でした。誰もそれを責めません。
しかし、歩かねば前には進みません。
そうだ。
歩くことすら自分で拒否してしまったら本当に何もなくなる。
もう失うだけの人生は嫌だ。
変わりたい。
変わろう。
一歩でもいいんだ。
歩こう。
あなたは、決死の覚悟で光の先に向かいます。勇気を持って歩きました。頭をよぎる恐怖に立ち向かうために過去を思い出します。
もう戻らない過去。戻りたくない過去。
それでいいんだ。だから過去なんだ。
自分はまだ生きている。歩こう。歩かないといけない!!
強く、強く歩きました。目の前はもう光で真っ白で何も見えません。わずかに見える手すら白に埋もれそうです。
「手を伸ばして」
そんな声が聴こえたような気がしました。あなたは必死に手を伸ばしました。もう何も考える余裕はありません。唯一の可能性に向かって、ただただひたすらに手を伸ばしたのです。
あなたはがんばりました。勇気を出しました。
だから、世界はあなたのものになりました。
光が収束し、弾け、世界は一つの「形」を生み出しました。
その中心に一人の女性がいました。
にこにこと笑いながら、少し恥ずかしそうにあなたに手を振っています。
初めて見る女性です。美しいブロンドの髪に、柔らかい茶色のカーディガンを着た、とても温和そうな女性。笑顔はキラキラと輝いて、その光が周囲に美しい紋様を生み出しています。
彼女は世界そのものでした。
世界が集まって彼女が生まれました。
一目見た瞬間に、あなたの心の奥に何かがこみあげてきます。
むずむずするような、そわそわするような、言いようもない不思議な感情です。
なぜか抱きしめたくて仕方ありません。
でも、いきなりそんなことはできませんから、ぐっと我慢しました。
そんな気を知ってか知らずか、彼女は相変わらず手を振っています。やはりあなたに対して振っています。あなたは、まるで引き寄せられるように彼女のもとに歩いていきます。
そのたびに女性もそわそわしているようです。
会いたい、でも恥ずかしい。そんな気持ちのようです。
う~ん、やはり知らない人だ。
でも、相手はあきらかにこちらに手を振っている。
ならば忘れているだけで、どこかで会った女性なのかもしれない。
ようやくその場所にたどり着きました。
本当に目の前に感じたのですが、歩くとかなり距離があったようにも思えます。そして周囲がよく見えてきました。ぼやっとしていたものが、しっかりと輪郭を持ったのです。その女性の姿もはっきり見ることができます。
可愛い。すごく可愛い。
心がときめきます。
こんな可愛い子は見たことがない。
ドキドキする。
あなたは一瞬で恋に落ちてしまいました。視線は彼女に釘付けです。
まだ自分にそんな感情があったことに驚きます。もうそんな歳ではないのに…、少し恥ずかしい気持ちです。
このような素敵な女性に恋をしてしまうなど、あってはいけない。
そう思って、目をそむけようとしたとき…
「あなたを愛しています」
女性はあなたに近づき、ぎゅっとあなたの胸におさまりました。
女性の髪から、柔らかい春の匂いが満ちます。生命の香り。大地が放つ、とてもとても優しい匂いがします。
でも、あなたの頭はパニックです。
何が起こったのか整理できず、ただただ身を任せるしかありません。そのあいだも彼女は、あなたの胸の中で顔をすり寄せています。
相手は誰かまったくわからない女性。それでもただ触れあうことが、こんなにも素敵なことなんて。あなたの心は、強烈な痺れを感じました。
久しく感じていなかった少年時代の淡い気持ち。焦れったい気持ち。いや、それよりも、もっともっと強くて新鮮な気持ちが湧き上がってきます。
じんじんと胸の奥が熱くなり、思わず彼女を抱きしめていました。抱きしめ、顔を髪にすりつけ何度も何度も撫でます。
そのたびに彼女も嬉しそうにしっぽを振ります。
………
しっぽ?
ふりふり、ふりふり。
彼女の後ろで揺れているのは間違いなくしっぽでした。
何かのコスチュームだろうか?
気になったあなたは思わず引っ張ってみました。
「きゃふんっ!」
女性は驚いて硬直してしまいました。
「ご主人様、引っ張ったらダメですぅ。敏感なんですよ」
女性は抗議するように再び頭をあなたの胸にすりつけます。
ぐりぐり、ぐりぐり。
優しい抗議の仕方にあなたは笑ってしまいました。
どうやらそのしっぽは本物のようでした。しっかりと感覚があるそうです。ただ、あなたがもっと気になったのはそこではありませんでした。
「ご主人様」、そこが気になりました。
彼女はメイドだったのでしょうか?
そして、あなたはその主人?
いや、あなたはメイドを雇うなんて暮らしはしていません。実にひっそりみじめに、社会の片隅で暮らしていました。もしそんなお金があったならば、また違った人生を送っていたことでしょう。
では、彼女とそういうお店で会ったことがある?
秋葉原にはたくさんメイドがいるという話ですが、あなたは行ったことがありません。
では、彼女の妄想?
それはそれで怖いです。
困惑するあなたに彼女は、はにかみながら言いました。
「あの…、やっぱりわかりませんよね。わたし、リンカです」
リンカ?
その言葉に首をひねります。外国人のような名前に聞き覚えはありません。そんな女性と知り合いなら、まず間違いなく忘れはしないでしょう。
う~ん、思いつかない。
何度考えてもわかりません。
でも、わからないなんて言うのは失礼だし、つくろっておこうか?
いやいや、それはそれでもっと失礼だろう。
あなたはますます困惑してしまいました。
それを見かねたリンカという女性が、さらに続けます。
「わたし、あなたのペットだったんですよ」
…なんて卑猥な。
頭の中は、違うことでいっぱいになってしまいました。ほらほら、そんなことではいけません。ちゃんと考えてください。
「リンカ、リンカ、素敵な名前。あなたがわたしにつけてくれたんです」
女性は、待ちきれないという様子で自分の名前を連呼します。
あなたがつけた名前を愛しそうに繰り返します。
「あなたが引き取ってくれた日に、わたしは生まれました」
雷撃。
あなたの頭の中に、すさまじい衝撃をもってイメージが生まれていきます。霧が晴れたようにその光景が浮かびます。
リンカ、リンカ、リンカ。
ああ、そうだ。忘れもしない、あのリンカ!
あなたはリンカという犬を飼っていました。雑種だったので犬種はよくわかりませんが、美しい黄金の毛並みをした可愛い雌犬です。
ある日、たまたま保健所の知り合いに頼まれ一匹の子犬を預かりました。
犬など飼ったこともないあなたは、その扱いにひどく困惑したものです。しかし、放っておけば、そのまま殺されてしまうと知りました。
自分も生活が厳しく、飼えるかどうかわかりません。でも、せっかく生まれた命であり、こうしてめぐりあった縁があります。
どうあっても見放すことなどできませんでした。
ただ、いざ飼ってみると彼女はとても温厚で、あなたの気持ちを察する頭のよい子でした。
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そんなリンカをあなたも愛するようになりました。
覚えていますか?
あなたが喧嘩別れのように職場を辞め、レッドインディアンになると言い出したときも彼女は必死で止めました。バッグを引っ張り、出て行くあなたを止めたのです。
覚えていますか?
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「リンカ、これでお前を養っているんだぞ!」
ばうばう、わんわん!
「そんなことわかっている! でも、仕方ないだろう!」
わんわん、ばうばう!
「そんなこと言われても、これからどうしろっていうんだ」
ばうばう、わんわん…わん!
「わかった。そこまで言うなら辞めるか…」
ええ、彼女はれっきとしたパートナーだったのです。むしろ、あなたよりも利口で道徳観が高かったのです。あなたを陰ながら助けてきたのはリンカだったのですよ。
ですが、犬の寿命は人間と比べて短いもの。
美しかった毛並みは艶を失い。愛らしかった目は濁り、足腰も弱って衰弱します。必死に世話をしました。励ましました。何でもしました。
でも、寿命は誰にも変えられません。
二十年生きた彼女にも、ついに寿命が訪れました。
そのときあなたは、涙が止まりませんでした。
何日も、何ヶ月も、何年も哀しみました。
すでにリンカは家族以上の存在、あなたの存在そのものでした。
その空白感はあなたをどん底に落とし、生きる気力すら失いかけていました。
何の希望もない人生など生きる価値もない、と。
しかし、あなたは知りませんでした。
そんな絶望のふちにいたときも、彼女はそばにいました。泣くあなたをひそかに慰め、励まし、勇気づけていました。あなたは常にリンカと一緒にいました。
見えなかったかもしれませんが、たしかにいたのです。
それによって何度も危ない場面を救われました。
くじけそうになったとき、人生が嫌になったとき、彼女もまたあなたと同じ気持ちを味わい、あなたに生きる希望を持ってもらおうとがんばっていました。
ふとあなたはリンカを思い出すことがあったはずです。
そうした時こそ、リンカがあなたを励ましていたのです。
そして、あなたは最悪の事態に陥る寸前で立ち上がってきました。こんなことじゃリンカに笑われる。がんばろう、と。
あなたにとってリンカこそがすべてでした。
ああ、愛したのです。
誰も愛していないなど、とんでもありません。
あなたは本気で誰かを愛していたのです。
それが犬であろうと愛に違いはないのです。
そして、人生の中で一番愛したものが彼女だったからこそ、ここに来られたのです。
その愛が、この場所とあなたをつないだのです。
ここはサマーランドの中にある、アニマルアイランド。
本当にペットを愛した人だけがたどり着く、両者にとっての憩いの地なのです。
愛がなければ絶対にリンカと会うことはできなかったでしょう。ここで会えた、そのことこそが愛した証拠です。
しかし、なぜ人間の格好をしているのだろう。
犬も死ぬと人間になるのだろうか。
そんな疑問が浮かびます。
当然、違います。
ただ、あなたの愛が、彼女をここまで引き上げたのは事実なのです。愛は最高の力、神の力なのですから。
「同じ人間になって、あなたと一緒になりたいと願っていました」
不思議がるあなたに、リンカは優しく教えてくれます。
その声は、犬であったころとはまったく違う柔らかいものでしたが、穏やかさはまるで変わっていません。言葉は風に乗ってあなたに届きます。
「ご主人様が本気で愛してくれたから、神様がわたしの願いを叶えてくださったのです」
人間は、愛を発することができます。
目に見えなくても愛は存在し、大きな影響を与えているのです。
その愛が、彼女をここまで進化させたのです。
人と動物は、もともと同じ生命です。生命そのものに区切りはありません。同じ仲間です。ただその進化の程度に違いがあるだけであり、神から見れば同じ生命です。
人は、動物よりも進化しているのですから、彼らに愛を与える義務があります。その愛によって動物の魂は大きく飛躍するのです。
そうして人間の愛を受けたペットは、死後も個性を存続させます。亀さんや桜がそうだったように、その知性すら本来の輝きを表現して存在し続けます。
そして、あなたのように最大級の愛をそそいだ場合、その進化は劇的なものとなります。ここにいる動物たちは飼い主の愛を受け、通常のペットたちよりも大きな進化を遂げているのです。
リンカもその一人で、とりわけ成長が早い優秀な子です。彼女はここに来てから瞬く間に人間の形態をとるようになりました。
彼女もあなたを愛していたからです。
人間と犬ではなく、本当の人間と同じように、あなたを愛したい。その愛は通常の動物の感情を超えていました。
もしあなたに誰か好きな人ができたら、その想いは秘めたままにしておこう。
そんな複雑な気持ちでいました。
自分は犬だから。
やっぱり人間とは違うから。
あなたを見守りながらもそう思っていたのです。
しかし、あなたは彼女以外を愛することができませんでした。
愛することが苦手で、リンカを失ったあとは誰も愛する気力がなかったのです。それだけリンカが支えだったのです。
そんなあなたを見て、彼女はますますやる気になりました。
あなたに負けないほど、いえ、それ以上に愛していたからです。
その強い愛が、神様に届かないことがありましょうか。
神は愛です。愛は神の力を引き出します。
お互いの愛が、この世界を創造したのです。
ああ、彼女はあなたを忘れたことなど一度もないのです。
こうして一緒に住む家をつくって待っているほどに、愛し続けていたのです。
ええ、そうです。
この家は、あなたと彼女が暮らす家なのです。
「でも、わたしで…いいですか? 嫌じゃないですか?」
彼女はまだ、あなたが受け入れてくれるか心配のようです。それも当然。このようなことはまったく予想していないことです。
あなたは、まだ困惑…
「あっ、ご主人様…」
などせず、抱きついていました。
ああ、リンカ、リンカ、愛しいリンカ。
心の中はすでに彼女でいっぱいでした。迷うわけもありません。
まさか君が人間になって待っていてくれるなんて、こんな嬉しいことはない。
感謝と感激に、思わず涙がこぼれそうになります。うれし泣き、そんなものはいつ以来だったでしょうか。
あなたが生まれたとき、誰もが喜んでいました。
あなたは望まれて生まれ、愛されて育ちました。
あなたの両親も。あなたの友達も。あなたのまわりのすべても。
愛。愛です。
愛だけが生命の進化を促す唯一の栄養なのです。
誰からも愛されていないと思っていましたが、それは大きな勘違い。
あなたはすべてから愛されていたのです。
リンカから、世界から。
神から。
ただあなたが気がつかなかっただけ。生活に流されて見失っていただけです。すべてはいつも目の前にありました。清らかな心があれば、きっとそれが見えたでしょう。
「ああ、あなただけを愛しています。ずっと、これからも」
その言葉だけで、今までの苦労が消えていくようでした。ただその笑顔があるだけで、ほかには何もいらない。この子だけいれば自分は満足だ。
ああ、神様、ありがとうございます。
願いを叶えてくださって、ありがとうございます。
自由を得たあなたは、自然と感謝の言葉を口にしました。今までの人生で神はもとより、誰にも祈ったことがありませんでした。孤独の中で自分を奮い立たせながら生きてきたあなただからこそ、その感謝は本物でした。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
意固地になっていた心が、急速にとけていくのがわかります。
すっと、身体から何かが抜けていきました。
自分を縛っていたものは、自分だったのです。
あなたは今、自由になりました。
素直に愛を受け入れ、愛を放つ存在となったのです。
思いがけない再会と幸せ。今日は、あなたにとって最高の一日となりました。失われたものが返ってきたのです。
そして、これからもっとあなたは取り戻していくことでしょう。こんなに幸せでいいのかと思うほど、愛し、愛されるでしょう。
なぜならば、神はすべてを与えているからです。
ここはアニマルアイランド。
あなたと彼女が愛をつむぐ場所であり、動物を管理する『竜』が住む場所なのです。
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