従属の檻

黒曜 隻

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2. ワインと血の味 *微R18

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 翌日。
 領内には重苦しい戦の気配が漂っていた。

 拮抗状態が長く続き、兵士たちの顔には疲弊が色濃く刻まれている。農民たちもまた怯えて暮らし、税の重みに喘いでいた。次死ぬのは自分かもしれない、このまま税が上昇し続ければ飢え死にするかもしれない、と。そんな恐怖が領内を支配していた。
 
 従者である俺は、常に考えている。
 このままではいずれ不満が爆発し、反乱が起こるだろう。そうなる前に状況を打開する策を実行しなければならない。
 ーーどうか殿下が戦場に出ることだけはありませんように、と祈るような願いを抱いていた。


 「従者よ」
 「はっ」
 「私の背を守れ。それができるのはお前しかいない」


 その一言にドクン、と心臓が跳ねる。
 殿下が自ら戦場に赴く必要はない、と理性は叫んでいる。殿下にはお世継ぎがいない。そんな中彼の身に何かあればこの国はどうなるかもわからないというのに。国が混乱と分裂に吞まれてしまうかもしれないのに。それを承知の上で彼は剣をとろうとしている。
 
 殿下はいつもこうだ。自ら危険に飛び込み、深い闇を覗くような行為をためらわない。
 もし、もし殿下に何かあれば...俺は........。下唇を噛んで感情をぐっと堪える。皮膚が裂け、微かな血の味が広がる。痛みが、バラバラになりそうな心をどうにか繋ぎ止めてくれるような気がした。


 「...何か言いたげな顔だな」


 まただ。心を見透かす深淵の瞳がゆっくりと細められて俺を射抜く。痛みでかろうじて繋ぎ止めた心が、簡単に剥がれ落ちていきそうだった。


 「......いいえ。殿下の、御心のままに」

 
 俺の返事はいつも掠れているな、と。他人事のように考えながら、短く放たれた言葉に、ただ深く頭を垂れることしかできなかった。
 
 ポーカーフェイスだ。これ以上ないほど完璧に作り上げた俺の仮面。苦虫を100匹噛み潰してもこの仮面は剥がれないだろうという自信があった。
 だが、下げた頭の陰に隠してしまえば、そんな努力を殿下に見せることすらできない。自嘲の意を含んだ苦笑が、喉の奥に詰まるのを感じた。




 戦場は、火の海に包まれていた。

 鼻孔を突く鉄の匂いと兵士たちの断末魔、焼けた土の匂いに絶えぬ金属の音。吐き気を催すほどのそれらが、押し寄せる波のように俺を呑み込む。もうここに人の尊厳など存在しなかった。あるのは果てしない殺意と、絶望だけ。誰もが誰かを恨み、痛みつけ、死んでいく。生まれる憎悪の連鎖を、我らの主は見下ろしていた。
 
 こみ上げる吐き気を飲み込んで、主の横顔を盗み見る。
 地獄のような光景を前にしても彼の表情は、氷像のごとく揺らがない。
 ......ゾッとした。その瞳には、何の感情も宿っていなかったのだから。

 慌てて目を逸らし、何事もなかったかのように出陣の準備を整える。鎧を着込む主の姿は凜然として美しく、俺の心をどうしようもなく焦がす。いつも下ろしている御髪を高い位置で一つに結い上げる動作で鉄と鉄がぶつかり合い、乾いた音が鳴る。その音にさえ抑えつけた感情が水を与えられた魚のように反応するのが、なんとも情けなかった。


 そして、殿下が戦地にたった瞬間空気が変わった。比喩でも幻覚でもない。彼の圧倒的な存在感に、敵も味方も一斉に息を吞むのがわかる。 
 一歩。
 一歩と、戦火の中へ進んでゆく。荒れ狂う戦場の中で場違いなほど優雅に歩む殿下に皆の視線が釘付けになる。歩みを止め、徐に剣を掲げ、息を吸い込む。


 「愚かな兵士たちよ!聞け!」


 腹に響くほどの声が、大地を震わせた。


 「貴様らの命に、端から価値などない。皆等しく無意味で、無価値だ。だがーーこの私の剣につながるのならば、腐肉でさえ刹那の輝きを得るだろう。
 
 生 き 残 る こ と を 望 む な ! 刹 那 の 輝 き に な る こ と を 望 め !
 
 この戦場で散ることこそが、貴様らの唯一の存在理由だ!」


 狂気すら帯びた声が戦場を支配する。死を恐れていた兵士たちの瞳に、次々と闘志が宿るのが見えた。命の無価値さを突きつけられ、恐怖を超えた彼らは、殿下の言葉に縋り付く。腐肉で終わるならば、せめて刹那に燃え尽きたいと。
 無価値な腐肉たちにはもう、怖いものなど何もなかった。
 
 味方の兵が吼える。思わぬ捨て身の攻勢に吞まれ、敵陣には動揺が走った。
 誰もが予想していなかった変数に敵兵は為す術もない。その勝機を逃すまいと殿下が、黒い風のように駆け出した。


 「っ殿下!?お一人で行かれてはーー!」

 「問題ない。背中には、お前がいるからな」


 ......っ!まったくこのお方は...!その通りだった。俺は、主のためならば身を盾にしてでもお守りする覚悟がある。それを全て承知の上で、この方は俺に背を預けると、そう言っているのだ。彼の言葉に、他の戦士たちと同様に見事に踊らされている自分がいた。

 そして殿下は目にもとまらぬ速さで戦場を駆け抜けていく。夕日を背にした彼の身体は陰となり、その実態を掴ませない。
 幻影のような初撃は陽動。本命は、敵兵の剣を弾いたその瞬間に、死角から放たれた目にもとまらぬ速さの突きだった。何人も、何人も倒れていく。圧倒的な強さに敵兵たちは恐れ、次々に撤退していった。
 流れるような剣先が相手の防御を誘う。剣の根元から先まで滑らせ、弾き飛ばす。そして武器がなくなったことに呆けている敵の首を躊躇わずに刎ねる。真っ赤な血しぶきがあたりを染めあげた。俺は、顔に返り血がついたことなど、まったく気にならなくなっていた。

 まるで、舞を見ているようだと思ったのだ。今まで宴で見てきたどんな舞よりも美しい、闇色の舞。斬撃を最小限の動きで受け流し、剣と剣がぶつかるたびに火花が散る。殿下の闇色の髪が乱れる様子に思わず息を忘れていた。乱れても尚、その美は損なわれない、むしろ冴え渡るようだった。

 その背後に忍び寄る陰。剣が、まっすぐに殿下の心臓を狙ってーー。

 
 「.......っ!」


 考えるより先に身体が動いていた。敵の首を切り裂き、その亡骸を蹴り飛ばすようにして殿下の傍らへ駆け寄る。


 「殿下!ご無事ですかっ!!!」

 「あぁ」


 殺されかけた人のものとは思えぬ落ち着いた返事だった。あまりにも平然とした返答に怒りがこみ上げる。


 「無茶な戦い方はお止めください。貴方なら、今の攻撃を避けられたはずです!それなのに、躱す気配も見せなかった...。どういうおつもりですかっ!」


 その間にも攻めてくる兵に剣を振るいながら叫ぶ。
 そんな俺の心情を知ってか知らでか、殿下は飄々とした顔で答える。


 「お前がいた。ならば、躱す必要はない」


 ......っ! ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、怒りとも焦燥ともつかぬ感情を呑み込む。そんな俺を横目に、殿下は小さく笑みを漏らした。


 敵の剣が右肩をかすめようとした瞬間、俺は身体をひねり、剣を剣の腹で滑らせる。そして、その勢いを利用して懐に滑り込むように踏み込んだ。

 「はぁっ...はぁっ.....」

ーーー激しい戦いに息が上がり、腕が悲鳴を上げた頃にようやく、敵陣は撤退していったのだった。


 その日の晩。
 俺は主の私室へ呼び出されていた。


 「失礼します」


 許可をいただいて中に入ると、白いシャツを胸元まで開き、藍色のズボンを召したラフな格好の殿下がワイングラスを片手にゆったりと椅子に腰掛けていた。
 グラスを揺らし、ルビーの液体を光に透かす姿は、戦場で見たものとはまるで別人のように優雅で......それだけに不気味だった。


 「今日は、よくやったな。兵たちの間でお前の名が広まっているようだ」


 低く抑えられた声。褒められたのだと理解する前に、ぞわりとした冷たいものが背筋を這った。褒美が怖い。主から与えられるものは、いつも恐怖と悦楽が絡み合った毒だったから。


 「恐れ多きことにございます」

 「恐れる必要はない。これは紛れもなくお前の功績だ。その忠義、誇らしく思うぞ」


 恍惚とした響きが籠る。だがその眼差しは、忠義を讃えてなどいない。俺の心の奥底ーー決して知られたくない感情を、剥き出しに引きずりだそうとする視線だ。


「.........だが」


 瞳が闇に沈む。
 
 一口。グラスを傾ける。ワインが主の喉を滑り落ちる音がやけに耳に残った。


 「気に食わんな。赤の他人が、お前を見て、称えている。お前は、私のモノであるというのに。......違うか?」

 「もちろんです......俺は、殿下のためにのみ、剣を振るいました」


 深く、深く頭を垂れてそう告げた次の瞬間、足音が近づく。
 逃げたい気持ちに蓋をして足を床に縫い付けた。退けば、主を裏切ったとみなされるから。


 「ならばーー褒美をやろう」


 優しく、しかし拒絶を許さぬ強さで顎を掴まれ、顔を上げさせられる。否応なく視線が絡み合い、俺は逃げ場を失った。
 そして、グラスに残った赤い液体が、唇を割って流し込まれる。強い芳香が口内に広がり、頭が眩む。


 「ゲホッ...!ゲホッ.......!」


 咽せる俺の背に手を添え、上下に優しく撫でる手があった。泣き止まぬ幼子をあやすような手つきが、主の行動のちぐはぐさを際立たせる。 そのちぐはぐさが、掌が、肌を焼く支配の証に思えてならなかった。
 熱を帯びた掌が、衣越しでも焼け付くように感じられて反射的に身を強ばらせる。その一瞬を、彼は見逃さなかった。


 「今の反応だ」


 主の声が耳元で甘く震える。


 「恐れている。だが、それだけではない。忠義の奥に...もっと醜く甘いものが混ざっている。......そうだろう?」

 「......っ」


 違う、と叫ばなければならないのに、流し込まれたワインが喉に焼き付いて声が出ない。いや、もしかすると言いたくないと思っているのかもしれない。
 否定すればするほど、彼はその言葉を嘲笑うだろうから。
 しかし、肯定など、尚のこと許されるはずがなかった。どちらを選んでも破滅しかない。

 長い沈黙が落ちた、視線の重圧に胸を押しつぶされ、心臓が悲鳴を上げる。


 「言ってみろ」


 殿下の囁きは甘く、しかし鋭い刃のようだった。


 「お前は、望んでいるのだと」

 「......っ......」


 脳裏に浮かぶのは、自分でも認めたくない醜い渇望。
 それを口にするくらいなら、舌を噛み切って死んだ方がマシだとーーそう思った瞬間。


 「強情だな。ならば...俺が証明してやろう」


 獰猛な笑みとともに、視界が崩れた。背後のベッドに押し倒され、柔らかな布地が背を受け止める。枕に焚かれた上質な香がふわりと鼻腔をくすぐった。

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。だが次の瞬間に、はっきり悟らされる。
 
 両手首は頭上で絡め取られ、抵抗できぬほどの力で押さえつけられている。逃げようと身を捩れば、その動きさえ愉しむかのように、主の脚が俺の脚の間へと深く割り込んできた。


 「......っ」


 喉が掠れる。声にならない抗議は、簡単に宙へ溶けた。

 
 主の手が、ゆっくりと俺の頬を撫でる。優しい動作のはずなのに、その温度は冷たい鉄環のように絡みつき、抵抗を嘲笑うかのようにゆるやかに首筋へ、胸へ、さらに腹部へと降りていく。
 心臓の鼓動が打ち鳴らすのは、生き延びるための警鐘なのか、それとも観念を促す声なのか。

 トン、と。
 身体の中心に、軽く指先が触れた。布越しに与えられた刺激は小さいはずなのに、背骨を駆け上がる戦慄は異様なほど大きい。


 「んっ......!」


 布の隙間から忍び込んだ指が、下着の中で無造作にうごめく。硬い関節が陰毛をかすめると、ザラリ、と生々しい感触が伝わった。
 その瞬間、凍り付いていた脳がようやく危険を認識し、鉛のように重かった全身が跳ね上がるように動いた。


 「お止めくださいっっっ!!!!!」


 未だかつてないほどの大声が、喉を裂いた。


 「お戯れが過ぎます...!慰み者が必要なら、別の者を用意します。ですから...!どうか、冗談はお止めさい......」


 荒い息の合間に、必死に言葉を紡ぐ。だが、震える声は、縋るように弱々しかった。

 「...ハッ!冗談だって?」


 低い声が腹の底を突き抜ける。鼓膜を震わせ、内臓まで届くほどの力で。主の顔が愉悦に歪んでいく。


 「お前はこれが冗談だと思うのか?...他でもない、お前が望んだことだというのに」

 「...っ、な......にを...」


 耳を疑う。喉がカラカラに渇いて、声がうまく出せない。


 「忘れたのか? 私の側にいたいと、私とともにありたいと、お前は口にしたはずだ。命令でも、罰でもなくーーお前自身の意思で」


 事実だった。確かに、かつて誓った。誰よりも近くで、主の剣となり、盾となると。だが、それは孤児だった俺を拾ってくれた主に対する、従者としての願いであってーー。


 「心の奥底では、私に触れられたいと。そう思っているのだろう?この手で、乱されたいと、願っている」

 「ち、ちがいま......それは...!」

 「違う?では問うが」


 主の髪が頬にかかる。吐息が熱い。


 「はなんだ?」

 「あっ......!」


 主の脚が、微かに硬度を持ち始めた俺の熱をグリッと押しつぶす。突然の刺激に思わず甘い声が漏れた。慌てて口を塞ごうとするが両手は頭上で縫い止められたまま。せめてと下唇を血が滲むほど強く噛んで声を押し殺す。
 
 違う、違う。この気持ちを認めてしまえば、今まで貫いてきた己の忠義が汚されてしまう。


 「お前はいつもそれだな。 心が砕けそうになったとき、そうやって自分を痛めつけて繋ぎ止める」


 血に濡れる唇を見下ろし、淡々と告げる。
 耳元に落ちてくる声は、酷く冷たく、突きつけられる現実は、逃げ場を奪った。


 「......だんまりか。ならば私が証明してやろう。お前は、私を欲していると。もう、私からは逃げられないと」


 そう告げた主の唇が降りてくる。深く、全てを奪い去るような口づけだった。呼吸を奪われ、喉の奥まで支配される。



 ーーああ、もう逃げられない。



 抵抗は空しく、身体は火照りに溺れ、主の言葉が脳裏に焼き付き、この身を洗脳する。自分が書き換えられていくのがわかった。主の言葉が全て正しいのだと。
 己が信じてきた忠誠心は、主を渇望する汚い欲望でしかなかったのだ、と。

 俺は理解する。受け入れるしかないのだと。

 揺れる景色の狭間で、高い高い天井が見える。
 初めての口づけは、微かに残るワインの味と、血の匂いがした。
 
 






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