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第一話 「家族」
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一九九七年、年が明けてまもない寒い夜。
詩織は洗面所で歯磨きをしながら、明日買う食材のリストと、寝る前に夫のシャツをアイロンがけすることを忘れないように、頭の中で思い浮かべていた。
「ねえ、ママ」
聞き慣れた幼い声のする方を見ると、さっき布団に入ったはずの次女、遙が眠そうな目をこすりながら立っていた。
慌ててうがいをして、歯ブラシを洗ってからタオルで口許を拭いた詩織は
「どうしたの?ママも、もうすぐお布団行くよ?」
てっきり、布団に入ったものの寂しくなって呼びに来たのかと思った詩織は、安心させるために柔らかく話したが、遙が次に放ったのは、思ってもない言葉だった。
「あのね、ママ、違うの。あたし妹がほしいの」
眠たいながらに必死な顔をする娘に、一瞬、詩織の思考は停止した。
このとき詩織は来月で三十二歳になるところであり、長女の美月も遙も小学校に入り、三人目は全く計画していなかったのである。
三十代での妊娠・出産に不安はあった。
しかし、幼い我が子からのおねがいを無下にするのもいかがなものかと、詩織は夫の隆司と相談することに決めた。
隆司は頭の固い男で、職場では真面目だと評価されているが、割と短気なところがあり、亭主関白という言葉がよく似合っていた。それゆえに、計画になかった三人目の相談をして、反対されたらどうしようかと内心詩織はびくついていた。
けれど、意外なことに隆司はすんなり快諾した。その隆司の反応に拍子抜けした詩織であったが、突如心の中に生まれた三人目の存在に、密かに心を弾ませていた。
そして幸運なことに女の子を懐妊することができ、遙の大きなおねがいから約一年後の真冬日に、三女、恵は生まれたのであった。
念願の妹が生まれた遙は、嬉しくて仕方がなかった。
生まれたばかりの恵の写真を持ち歩き、小学校では友達や担任の先生に見せびらかした。
赤ちゃんというのは、大概全身むちむちしているものだが、特に遙が気に入っていたのは小指である。
「ママ見て、めぐちゃんの小指、むっちむち!」
小学校から帰ってくると、毎日のようにそう言いながら恵を構っていた。
美月は、見慣れない赤ちゃんに最初は少し戸惑っている様子だったが、だんだんと愛着が沸いてきたのか、抱っこしたり哺乳瓶でミルクをあげたりと、ちゃんと「お姉ちゃん」していた。
同居している隆司の父である浩志・母、桜も、すっかり恵に夢中で、家族全員が和やかな雰囲気に包まれていた。
思い返せば、きっとこの時が、家族全員にとって一番幸せな瞬間だったのだと思う。
二〇〇六年、三月。
恵が生まれてから八年が経ち、遙は高校受験に受かり、美月もこの春から東京の大学に進学する予定で、一人暮らしの準備をしていた。
テレビでは何年か前に公開された「ロード・オブ・ザ・リング」が放送されていて、それを居間で観ていた遙と恵は、作中に出てくる大きな目玉が、メイク中の美月の目にそっくりだって大声で笑い転げていた。
すると、いきなり応接間と居間を繋ぐ引き戸が勢いよく開かれ、驚きながらテレビから視線を外すと、いかにも不機嫌そうな美月が立っていた。
「やばいよ、遙姉ちゃん声大きいから、絶対聞こえたんだよ……」
「しっ!めぐ、静かに!」
気まずい沈黙が流れるが、美月はただ一言
「遙、応接間行って」
とだけ言い残して自分は応接間には入らず、眉間にシワを寄せたまま、荒々しく階段を上って自室に向かっていった。
笑ったことで怒ってるんじゃないのか?と少し混乱した二人だったが、仕方なく言われた通りに遙は応接間に入った。
遙が応接間に入ると、ソファーにはなにやら難しいような、苦いような表情で座っている、詩織と隆司がいた。祖父である浩志はもう寝たらしく、部屋の隅には祖母の桜の姿もあった。
十五歳という敏感な年頃らしく、部屋中に立ち込める重たい雰囲気に、遙は嫌な予感がした。
「遙、ここ座って。落ち着いて聞いてね」
詩織の諭すような話し方に、遙の予感は深まっていく。
そして次の瞬間に放たれた詩織からの言葉が、遙の腹の中にまるで大きな石でも入れられたかのように、重く響いた。
遙が応接間に入ってから三十分程経ち、たまに応接間から聞こえてくる遙の怒鳴り声に、恵は何事かと思ったが、内容までは聞き取れず、つまらなそうに映画を観ていた。
すると、今度は静かに応接間と居間を繋ぐ引き戸が開かれ、恵はすぐさまテレビから視線を外し、扉の方を見た。
しかし、立っていたのは遙ではなく、詩織だった。
「恵、こっちに来てくれる?」
「遙姉ちゃんは?上行っちゃったの?」
「うん、遙姉ちゃんとはもうお話ししたから、恵に聞いてもらいたいことがあるの」
「わかった……」
すとん、と詩織達と向かいのソファーに座って、恵はふとあることに気がついた。
パパもママもばあちゃんも、なんで目が赤いんだろう……
そして、詩織は真っ直ぐに恵の目を見つめて、こう言った。
「パパとママね、離婚することにしたの。だから、恵はママと一緒に別のお家へ引っ越すのよ」
離婚、というあまり聞き慣れない言葉に恵は戸惑ったが、今の家を離れるということにひどくショックを受けた。
「……パパとはもう会えないの?」
「ううん、このお家に来れば会えるよ」
「ばあちゃんと、じいちゃんとも会える?」
「もちろん、いつでもおいで。ばあちゃん待っとるから」
「……ママと一緒にって……遙姉ちゃんは?一緒やないの?」
恵が涙目でそう言うと、詩織も、隆司も、ぎゅっと手を固く握って黙ってしまった。
「……遙姉ちゃんはね、まだ考えさせてって言ってるの…だから、まだ分からへんかな」
なんで離婚するのかとか、なんで遙姉ちゃんは迷っているのかとか、分からないことはたくさんあったが、それ以上恵は何も聞くことができなかった。
みんなで一緒にご飯を食べたり、お風呂上がりにばあちゃん達とテレビを見たり、朝起きるとパパが先にご飯を食べていて、難しい顔して新聞を読んでること。
その全てが無くなることが、恵にとって何よりも悲しかった。
そうして四月になり、美月は東京へ行き、遙は浩志と桜と共に家に残り、恵は詩織と二人で引っ越すこととなった。
恵には何故かは分からなかったが、隆司は家に残らず、別の市へと引っ越していった。
詩織は洗面所で歯磨きをしながら、明日買う食材のリストと、寝る前に夫のシャツをアイロンがけすることを忘れないように、頭の中で思い浮かべていた。
「ねえ、ママ」
聞き慣れた幼い声のする方を見ると、さっき布団に入ったはずの次女、遙が眠そうな目をこすりながら立っていた。
慌ててうがいをして、歯ブラシを洗ってからタオルで口許を拭いた詩織は
「どうしたの?ママも、もうすぐお布団行くよ?」
てっきり、布団に入ったものの寂しくなって呼びに来たのかと思った詩織は、安心させるために柔らかく話したが、遙が次に放ったのは、思ってもない言葉だった。
「あのね、ママ、違うの。あたし妹がほしいの」
眠たいながらに必死な顔をする娘に、一瞬、詩織の思考は停止した。
このとき詩織は来月で三十二歳になるところであり、長女の美月も遙も小学校に入り、三人目は全く計画していなかったのである。
三十代での妊娠・出産に不安はあった。
しかし、幼い我が子からのおねがいを無下にするのもいかがなものかと、詩織は夫の隆司と相談することに決めた。
隆司は頭の固い男で、職場では真面目だと評価されているが、割と短気なところがあり、亭主関白という言葉がよく似合っていた。それゆえに、計画になかった三人目の相談をして、反対されたらどうしようかと内心詩織はびくついていた。
けれど、意外なことに隆司はすんなり快諾した。その隆司の反応に拍子抜けした詩織であったが、突如心の中に生まれた三人目の存在に、密かに心を弾ませていた。
そして幸運なことに女の子を懐妊することができ、遙の大きなおねがいから約一年後の真冬日に、三女、恵は生まれたのであった。
念願の妹が生まれた遙は、嬉しくて仕方がなかった。
生まれたばかりの恵の写真を持ち歩き、小学校では友達や担任の先生に見せびらかした。
赤ちゃんというのは、大概全身むちむちしているものだが、特に遙が気に入っていたのは小指である。
「ママ見て、めぐちゃんの小指、むっちむち!」
小学校から帰ってくると、毎日のようにそう言いながら恵を構っていた。
美月は、見慣れない赤ちゃんに最初は少し戸惑っている様子だったが、だんだんと愛着が沸いてきたのか、抱っこしたり哺乳瓶でミルクをあげたりと、ちゃんと「お姉ちゃん」していた。
同居している隆司の父である浩志・母、桜も、すっかり恵に夢中で、家族全員が和やかな雰囲気に包まれていた。
思い返せば、きっとこの時が、家族全員にとって一番幸せな瞬間だったのだと思う。
二〇〇六年、三月。
恵が生まれてから八年が経ち、遙は高校受験に受かり、美月もこの春から東京の大学に進学する予定で、一人暮らしの準備をしていた。
テレビでは何年か前に公開された「ロード・オブ・ザ・リング」が放送されていて、それを居間で観ていた遙と恵は、作中に出てくる大きな目玉が、メイク中の美月の目にそっくりだって大声で笑い転げていた。
すると、いきなり応接間と居間を繋ぐ引き戸が勢いよく開かれ、驚きながらテレビから視線を外すと、いかにも不機嫌そうな美月が立っていた。
「やばいよ、遙姉ちゃん声大きいから、絶対聞こえたんだよ……」
「しっ!めぐ、静かに!」
気まずい沈黙が流れるが、美月はただ一言
「遙、応接間行って」
とだけ言い残して自分は応接間には入らず、眉間にシワを寄せたまま、荒々しく階段を上って自室に向かっていった。
笑ったことで怒ってるんじゃないのか?と少し混乱した二人だったが、仕方なく言われた通りに遙は応接間に入った。
遙が応接間に入ると、ソファーにはなにやら難しいような、苦いような表情で座っている、詩織と隆司がいた。祖父である浩志はもう寝たらしく、部屋の隅には祖母の桜の姿もあった。
十五歳という敏感な年頃らしく、部屋中に立ち込める重たい雰囲気に、遙は嫌な予感がした。
「遙、ここ座って。落ち着いて聞いてね」
詩織の諭すような話し方に、遙の予感は深まっていく。
そして次の瞬間に放たれた詩織からの言葉が、遙の腹の中にまるで大きな石でも入れられたかのように、重く響いた。
遙が応接間に入ってから三十分程経ち、たまに応接間から聞こえてくる遙の怒鳴り声に、恵は何事かと思ったが、内容までは聞き取れず、つまらなそうに映画を観ていた。
すると、今度は静かに応接間と居間を繋ぐ引き戸が開かれ、恵はすぐさまテレビから視線を外し、扉の方を見た。
しかし、立っていたのは遙ではなく、詩織だった。
「恵、こっちに来てくれる?」
「遙姉ちゃんは?上行っちゃったの?」
「うん、遙姉ちゃんとはもうお話ししたから、恵に聞いてもらいたいことがあるの」
「わかった……」
すとん、と詩織達と向かいのソファーに座って、恵はふとあることに気がついた。
パパもママもばあちゃんも、なんで目が赤いんだろう……
そして、詩織は真っ直ぐに恵の目を見つめて、こう言った。
「パパとママね、離婚することにしたの。だから、恵はママと一緒に別のお家へ引っ越すのよ」
離婚、というあまり聞き慣れない言葉に恵は戸惑ったが、今の家を離れるということにひどくショックを受けた。
「……パパとはもう会えないの?」
「ううん、このお家に来れば会えるよ」
「ばあちゃんと、じいちゃんとも会える?」
「もちろん、いつでもおいで。ばあちゃん待っとるから」
「……ママと一緒にって……遙姉ちゃんは?一緒やないの?」
恵が涙目でそう言うと、詩織も、隆司も、ぎゅっと手を固く握って黙ってしまった。
「……遙姉ちゃんはね、まだ考えさせてって言ってるの…だから、まだ分からへんかな」
なんで離婚するのかとか、なんで遙姉ちゃんは迷っているのかとか、分からないことはたくさんあったが、それ以上恵は何も聞くことができなかった。
みんなで一緒にご飯を食べたり、お風呂上がりにばあちゃん達とテレビを見たり、朝起きるとパパが先にご飯を食べていて、難しい顔して新聞を読んでること。
その全てが無くなることが、恵にとって何よりも悲しかった。
そうして四月になり、美月は東京へ行き、遙は浩志と桜と共に家に残り、恵は詩織と二人で引っ越すこととなった。
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