裸足の願い

蒼山 サキ

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此処に来た理由

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 楠木は施設長の部屋を退室する前。宮本に胸ポケットに入れていた山岸佳音の写真を見せる。この写真がサトルの家の仏壇にあったと伝えた。

「佳音ちゃん。貴方は本当にこの人を愛していたのね。お顔の傷も、お化粧で隠してない…。素敵な笑顔だわ。刑事さん。どうか、どうか光ちゃんの事をよろしくお願いします。」

 宮本は児童養護施設ひかりの家の門を開ける。蝉の声が降り注ぎ真夏の太陽が照りつける中、走り去る車を見えなくなりまで見届けた。楠木のバックミラーには小さくなる宮本が映っていた。そしてその横には、あの化け物が立っていた。

 楠木は高速道路に入り、途中でサービスエリアに寄った。だだっ広い駐車場に停めた車の中で楠木は呆然としている。宮本から聞いた話を思い出す。
 光はサトルの子供で間違いなかった。母親の山岸佳音が亡くなるまで2人は会った事も無かった。なぜサトルは5年前に宮本から子供がいる事を知らされたのだ。なぜ佳音は生前サトルに生まれた事を知らせもしなかった子供を、死後になって託したのか。
 光はひかりの家に入所していた。佳音も幼き頃に保護されて18歳までひかりの家に入所していた。退所しても宮本と連絡を取り合うぐらい関係は良かった。だとしたら自分と同じように光を18歳までひかりの家に住んでもらうのでは駄目だったのか。
 更に10年前、佳音は藤木真由と同じ祈願荘の203号室に住んでいた。聞き取り捜査の時に大家が話していた珍しくちゃんとした子の正体は山岸佳音だったのだ。
 サトルが祈願荘の階段を登った理由は単純に酔っ払って間違えただけではなかった。昔の記憶を辿って203号室に行こうとしていたのではないか。2人が愛し合ったあの部屋に。
 楠木は車を急いで走らせた。カーナビに目的地を入力する必要はない。ここ最近何度も通っている為、道は完璧に覚えている。

 目的地近くのパーキングに車を停める。そこから歩いて5分。楠木は祈願荘の前にいた。
 門を通り、階段を登る。1番奥の角部屋に向かい扉の前に立つ。ドアには擦れて消えそうな字で203と描かれていた。持っていた鍵を差す。103号室にも、サトルのマンション502号室にも入らなかった鍵がすんなりと入った。ガチャと古びた音を鳴らして鍵を回す。
 203号室の扉を開けた。中は埃っぽく、天井には蜘蛛の巣が張られている。換気されていないのだろう。空気が澱んでいた。
 楠木は持ってきたスリッパに履き替えて室内に入り、台所の前に立つ。この部屋の真下でサトルは殺害された。約10年前は此処に立っていたのだろうか。
 そして去年の夏。サトルは別の女性、藤木と関係を持った。そして祈願荘に再び訪れた。さぞ驚いただろう。かつて愛した女性が住んでいた部屋。その真下に住んでいる女性。もしかしたらサトルは、藤木真由に佳音を投影していたのかもしれない。

「山岸佳音。もし今この部屋にいるのなら、知っているのなら、教えてくれ。祈願荘で一体何があったんだ。」

 家具も何も無い部屋に問い掛ける。ガランとした空間。窓の外の音と楠木の呼吸音以外何も聞こえない。神経を張り巡らせる。何も感じない。楠木は狭い部屋を歩き回りながら現れてくれるまで待機した。
 きっとあいつは来るはずだ。それまで俺は意地でも此処で待ってやる。
 
 パリン。

 後ろからあの音が聞こえた。やっと来た。楠木は台所の前で立ち止まる。待ち侘びていた気配を察知し、音の鳴った方へ顔を向けた。
 部屋の真ん中に化け物が窓を向いて立っている。まるで外を眺めているようだ。ゆっくり此方に振り返る。その姿は今まで楠木が見ていた化け物の姿ではなかった。楠木の胸ポケットに入っている写真と同じ顔だった。
 白いガウンには血が付いていない。口は裂けておらず、小さな口の口角が僅かに上がっていた。長い髪の毛は黒く艶がある。顔中にあった切り傷は左頬のみになっていた。黒くて大きな丸い目が楠木をじっと見つめている。

「お前の正体は山岸佳音だな。」

 楠木の問い掛けに佳音はゆっくりと頷く。

「死んでからずっとこの部屋にいるのか?」

 佳音は首を横に振る。楠木は聞きたい事が山程あったが中々言葉にできなかった。目の前で起きている現象にまだ思考がまとまらない。待ち侘びていた筈なのに。非現実的な光景が、まるで夢でも見ているかのようだった。
 すると佳音は考え込んでいる楠木に向かってゆっくりと歩く。楠木は後退りしそうになったが踏ん張った。今逃げてしまったら、この部屋で待っていた意味が無い。2人の距離が徐々に縮まる。
 佳音が楠木の目と鼻の先で止まった。どのくらい時間が経っただろうか。お互いに目を逸らさず、何も言わない。
 いつまでこのままなんだろうか。痺れを切らした楠木が口を開こうとした時、楠木の目に閃光が走った。意識を手放し、埃が積まれている床に倒れた。

 しばらくして意識が戻る。楠木は固い布団で寝ていた。隣には酒臭い男性が寝ている。サトルだ。その奥で藤木も横になっていた。驚いて声が出そうになる口を必死に抑えた。周りを見回すと先程のガランとした203号室ではなかった。
 ゴミが放置されている机。床に落ちている大量の衣類。見覚えがあった。間違いない、この部屋は103号室だ。起き上がって現場を調べようとする。

「あれ?なんか視線が低い。」

 立ち上がった時の視線が低い。声も低い男の声ではなかった。そして壁にある電気のスイッチが高く感じる。まさかと思い顔を確認しようと寝ている2人を起こさないよう静かにユニットバスに向かう。中に入り取り付けられている鏡を見た。
 そこには幼い頃の佳音によく似た子供の顔が映っていた。大きな目に白い肌。髪の毛は短く切り揃えられている。
 以前楠木が見た病院の夢はきっと佳音の過去だ。ということは、今回は光の過去か。藤木とサトルの殺人事件を直接見られるかもしれない。バレないように上手くやり過ごさなければ。
 時刻はAM10時30分。隣人は朝から2人は煩かったと話していたが起きる気配は無い。隣人の思い違いだったのか?と楠木が思っていた時だった。
 派手なピンク色のケースを付けたスマートフォンから着信音が鳴る。藤木のものだ。慌てて布団に戻って寝たふりをする。畳の上で寝転んでいた藤木が不機嫌そうにスマートフォンに手を伸ばす。画面を見た藤木の顔はどんどん青褪めていった。

「もしもし。はい。すいません。今月中にすぐ払います。」

 掠れた声を出しながら早口で謝る。電話相手は余程大声で叫んでいるのかスピーカーから男の声が漏れている。
 以前行った聞き取り捜査で藤木には肩代わりした借金があるとスナック蘭のオーナーが言っていた。電話相手は借金取りか?藤木は闇金から借金をしていたのか?
 通話が始まってから10分が経過した。通話が終わる頃には藤木の顔は疲れ切っていた。大きな溜息を吐いてスマートフォンを衣類の山に投げる。
 立ち上がった藤木はシャワーを浴びにユニットバスへ向かった。中からは怒鳴り声が聞こえる。

「なんで!なんで私がこんな目に遭わないとあかんねん!なんぼ金返したって意味無いやん!全部、全部あいつのせいや!」

 藤木は泣きながら叫んでいる。シャワーを浴びている音の他に、物が壁に投げつけられたような音もする。大きな音でサトルが目を覚ました。
 サトルは寝たふりを続けている楠木(光)に小声で話す。

「ごめんね、光。もう少しだけ寝ていてね。」

 サトルはこの時から藤木を殺すつもりだったのか?そもそも光を連れて来た理由が分からない。サトルは困惑する楠木の頭を優しく撫でる。その手は震えていた。
 シャワーの音が止まる。ユニットバスのドアが開き湯気と共に藤木が出てきた。起床したサトルを見ると笑顔で駆け寄る。

「おはようさん。昨日は急やったのに来てくれてありがとうね。子供と一緒におるって聞いてホンマびっくりしたわぁ。サトルさん、子供おるって言うてたっけ?」

 サトルは藤木に光の事を言っていなかったのか。それとも藤木が忘れているだけなのか。藤木は不快な顔で楠木の顔を見つめる。
 楠木はまだ自分が光になっているという事に実感が無い。2人の目が此方に向く気配を感じる度に心臓の音が激しくなる。

「真由ちゃんに隠してるつもりは無かったんだけどね。」

「ふぅん。あんま顔似てへんやん。ホンマにサトルさんの子なん?」

 この女、少々失礼ではないか?楠木は苛つきが顔に出ないよう堪える。対するサトルは何食わぬ顔で答えた。

「僕自身、光が僕の子供って知ったのは5年前なんだ。色々複雑な事情があってね。でも正真正銘、僕の子だよ。5年前にDNA検査もしてちゃんと証明されてる。今は離れて暮らしているけどいつか一緒に住めるように手続きしてる最中なんだ。」

「そうなんや。お母さんはどないしたん?離婚?」

 サトルは黙って天井を見上げる。藤木の質問には答えず独り言のように話し出した。その目は遠い昔を思い出している表情をしている。

「僕が真由ちゃんと出会った日の事を覚えてる?丁度1年くらい前の夜。祈願荘に来た僕は懐かしくて、苦しくて泣いていた。8月14日。この日は僕にとって今でも特別な日なんだ。」
 
 1年前にもサトルは祈願荘に来ていたのか。一体なぜだ。

「その時『大丈夫?』って声をかけてくれたのが真由ちゃんだったよね。真由ちゃんは泣いている僕を同伴の客として蘭に連れて行った。都合の良いカモが手に入ったと思ったんだろう。でもね、僕にとっても好都合だったんだ。怪しまれずにまた祈願荘に入る事ができるのだから。」

 藤木は意味不明だと言いたげな表情でサトルを見ていた。額には皺が寄って、口が半開きになっている。

「本当は僕があの部屋を借りたかったんだ。だけど母親の面倒もあったし、光と一緒に住むにはあの部屋は狭すぎる。1人でもかなり狭いからね。だから諦めていた。時々見に行くだけだった。でも真由ちゃんが僕を部屋に招き入れてくれた。本当に嬉しかった。僕がほぼ毎週金曜日の夜、わざわざ電車に乗って蘭に通っていた理由が分かるかい?わざわざ真由ちゃんを指名していた理由が分かるかい?」

 藤木は怯えながら首を横に振る。

「此処に来るためだよ。」

 サトルは藤木を利用して祈願荘に来ていた。愛する人が住んでいた部屋の側へ怪しまれずに居る為だった。

「203号室の合鍵は持ってるから入ろうと思えば入れたんだけどね。一度だけ鍵が交換されていないか試した事があるんだ。すんなり回ったよ。でも扉を開ける事は出来なかった。そのまま鍵を回して閉めたんだ。愛する人が急に消えた景色をもう一度見てしまったらまた悪夢を見てしまう。今度こそ立ち直れないだろうと思うと怖かった。」

 サトルがスーツのポケットから鍵を取り出した。203号室の合鍵だ。佳音が死亡してからもずっと持ち続けていたのだろう。所々錆びている部分がある古い鍵だ。

「真由ちゃん、前に僕に聞いたよね。部屋に来たのに何で何もしないのって。僕にとっての目的は真由ちゃんじゃない。この部屋に来る事なんだ。臆病な僕は堂々と祈願荘に入る口実が欲しかった。それに愛する人が居た部屋の下でそんな事はしたくない。此処に入れてる時点で目的は達成されているのだから何かをする必要なんて無い。むしろ嫌われないように凄い気を使ったよ。大変だったなぁ。もし真由ちゃんに嫌われて部屋に呼んでくれなくなったら僕は、壊れてしまいそうだったからね。」

 目線を天井から藤木に移す。藤木は怒りで顔が真っ赤に染まっていた。

「じゃあ何?私にお金使ってたんは全部、部屋に来る為やったってわけ?アホやろ。」

「そうだね。自分でもそう思うよ。でも昨日施設の人と話して光と家族になれる目処が立ったんだ。ようやく気持ちに区切りをつける事が出来た。もう真由ちゃんとは会わない。今まで本当にありがとう。」

 サトルは深くお辞儀をして感謝を伝えた。その顔は晴々としている。祈願荘に来ていた理由は、藤木に会う為でも、佳音を藤木に投影していた訳でもなかった。
 サトルは203号室の側に居たかっただけだった。泥酔して現実と過去の区別がつかなくなり、間違えて階段を登る。ドアの前に行き、鍵を開けようとするがハッと踏み止まる。何度同じ事を繰り返したのだろうか。
 楠木の頭の中に疑問が浮かぶ。佳音は何故サトルの前から消えたのか。そしてさっきサトルは自分自身も5年前に光の存在を知ったと話していた。佳音が出産した事、光が生まれた事をそれまで知らなかったのである。何故サトルは5年間も実の娘の存在を知らされなかったのか。

「で?子供と住むからもう店には来ないって?私とは会わないって?そんなん聞いてないわ!!」

「蘭のオーナーには言ってあるよ。真由ちゃんにも伝えてくれと言ったんだけど、昨日真由ちゃんから連絡が来た時にまだ伝わってないと思ったんだ。独り身だと思い込んでる真由ちゃんに、僕が実の娘と一緒に住むって言っても信じてくれなさそうだったから苦渋の決断で光を連れてきた。でも良かったよ。最後に愛する人が住んでた家を光に見せてあげる事が出来たからね。」

「子供おるなんて1回も聞いてへんわ!!嘘吐き!!」

「そもそも子供がいるかなんて聞かれてないからね。僕は独り身だって言っただけだよ。」

 藤木は「もういい!!」と怒鳴ってスウェットのまま玄関に向かう。犯行時刻まで残り15分になった。
 サトルは光(楠木)を見て「ごめんね。」と言った。楠木は寝たふりを続ける。サトルは適当に荷物を片付け始めた。前日に来ていた服装に着替えようと立ち上がる。台所に向かい、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して蓋を開けた。
 楠木はバレないように薄く目を開いて状況を確かめた。薄暗い玄関で藤木が此方を向いて立ち止まっている。その目はサトルを睨み付けていた。怒りで歯を食い縛りギリギリと音が鳴っている。悔し紛れに暴言を吐く。サトルはお構い無しに水を飲んでいる。

「子供おいて消えるなんて、お前の母親は碌でもない人間やな。クズやわ、クズ。お前も一緒に消えたらよかってん。せっかくの金蔓やったのに。全部ぶち壊しやがって!」

 怒りの矛先が光(楠木)に向かった。楠木はずっと黙っていたが、流石に反論してやろうと体に力を入れる。しかし起き上がれない。どれだけ力を入れても体が動かない。
 なぜだ。今まで動けていたのに。声を出す事すらできない。そうか!今ここで動いてしまうと現実世界の状況が変わってしまう。現実世界に影響が出る行動は出来ないようになっているのかもしれない。だとすれば光はずっと寝たふりをしていた事になる。
 藤木に反論できない悔しさが爆発しそうになる。せめて声だけでも…。
 ピクリとも動かない光の体に向かって藤木は罵倒を続ける。

「お前の父親も大概やで。ここ来てた理由が昔住んでた恋人の部屋見たいとか気持ち悪すぎるわ。対してイケメンでもないおっさんのくせに…。どうせその女もブスなんやろ。家族揃って気持ち悪い!早く私の家から出ていけ!!」

 喚きながら玄関のドアを開けようとしている。足元には散らかった靴が床に敷き詰められている。その背後に包丁を持ったサトルが立っていた。藤木は頭に血が昇りすぎて周りが見えていないのか、サトルが背後に立っている事に気付いていない。

「鍵、郵便受けに入れといて!!」

 1人出て行こうとする藤木が靴を履いてドアノブを捻る。隙間から僅かに外の世界の光が差し込んだ時だった。背後で立っているサトルが持っていた包丁を静かに振り上げる。
 ダメだ!!サトル、落ち着け!!今堪えられたら、いつか家族2人で暮らせるようになるんだぞ!山岸佳音は、お前が殺人犯になる事なんて絶対望んでいないはずだ!
 楠木の悲痛な心の叫びはサトルに届かなかった。景色がスローモーションに見える。振り上げられた手は真っ直ぐ藤木の背中に振り下ろされた。包丁の柄の部分まで深く刺さる。ゆっくりと包丁が抜かれた。刺された背中からは血が溢れ、ダラダラと流れていく。血が止まる様子はない。
 ドアノブから手を離した藤木がゆっくり後ろを振り返る。目の前には血塗れの包丁を持っているサトル。全身の力が抜けていき、ドアに寄り掛かる。そのままズルズルと音を出して散らかった靴の上に座った。そして小さな呼吸音が消えた。
 生き絶えた藤木の鮮やかな血が靴に染み込んでいく。サトルはそれをじっと見下ろしていた。
 どれだけ時間が経ったのだろうか。隣人が玄関のドアを開ける音がする。サトルはまだ玄関の前に居る。楠木も布団の中だった。

「佳音ちゃん。もう起きているんだろう?一緒にあの部屋へ戻ろう。」

 佳音はもうこの世にいない。今103号室に居るのはサトルと楠木(光)の2人だけだ。何を勘違いしているんだ。
 急に楠木の意思とは関係無く光の体が動いた。フラフラと立ち上がり、ペタペタと足音を鳴らしながらサトルの方へ歩いていく。

「ずっと会いたかったよ。何で急に僕の前から消えたんだい?佳音ちゃんが消えてから生きる気力を失ってたんだ。仕事も辞めてずっと家に引き篭もっていたよ。」

 せん妄状態に陥っているのだろうか。ゆっくりと振り向き、楠木の目を見つめながら自身の過去を話し始めた。
 12年前。佳音が消えてから鬱病を患い、自宅で引き篭もっていたサトルは物流倉庫の会社から自主退職を促された。無断欠勤が続いていたサトルに拒否権は無かった。
 無職になり外の世界と関わらない日々は真っ暗な闇だった。永遠に終わらない闇。このまま闇の中で苦しいまま生きていくぐらいなら、死んだ方がマシだなんて思ってた。

「本当に苦しかった。毎日真っ暗で明日こそ死んでやろうって思ってた。でも臆病な僕は手首を切る事も縄を首に巻く事もベランダから飛び降りる事も出来なかった。」

 持っていた包丁を手放す。包丁は軽い音を立てて床に落ちた。

「でも5年前に宮本さんが家に来た。宮本さんは佳音ちゃんの子供と会ってほしいって僕に頼んだ。びっくりしたよ。佳音ちゃんに子供がいたなんて。なんで生まれた時すぐに教えてくれなかったの?」

 サトルはかがんで楠木(光)の肩を恍惚とした顔で強く掴む。跡が残りそうなくらい強い力だ。
 今まで感じた事の無い恐怖が襲った。楠木の心拍数が上がる。サトルは何をしようとしているんだ。目の前にいるのは自分の娘だぞ。振り払おうとするが子供の力で勝てる訳がなかった。

「怖いの?大丈夫だよ。僕達は何度も何度も、あの部屋で愛し合ったじゃないか。」

 顔が近付いてくる。サトルが楠木(光)を強く抱き締めた。
 涙が勝手に目から溢れる。逃げられない。言い表せない嫌悪感が楠木の背中を這う。
 サトルの横に包丁が落ちているのが見えた。勝手に左手が動く。小さな手が血塗れの包丁を掴んだ。
 やめろ!光、止まれ!殺してはいけない!
 必死の抵抗も虚しく包丁がサトルの背中を目指して力一杯振り下ろされた。肉が裂けて温かい血が手に纏わりつく。小さく呻き声を上げたサトルは楠木(光)に覆い被さるようにして倒れた。
 身動きが取れない。首を横に動かすとサトルが目を開いているのが見える。口からはゆっくりと血が溢れていた。何か言っているようだったが聞き取れない。
 生温い体が徐々に冷たくなっていく。密着している小さな体に赤い血が滴り落ちる。
 楠木は呆然としながら目を閉じた。次に目を開けた時は埃まみれの203号室だった。光の体でも、佳音の体でもなかった。楠木自身の体だった。
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