裸足の願い

蒼山 サキ

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過去の幸せ①

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 佳音とサトルが付き合ってから2年が経とうとしていた。相変わらず祈願荘203号室に住んでいる。2人は平穏な毎日を過ごしていた。
 しかしここ最近佳音の様子がおかしかった。体調が優れない日が続き、仕事を休む事も多かった。

「佳音、大丈夫?ちゃんと病院行った方がええで。この前出勤した時もめっちゃ顔色悪かったし。近所の病院教えたろか?」

 仕事を休むと連絡した佳音に鈴谷が心配して電話を掛けている。そして職場近くの病院の名前を教えた。

「本当申し訳ありません。夏風邪とかだと思うんですけど…。鈴谷さんが教えてくれた病院に明日行ってみます。」

 暑いせいだろうか。全身熱っぽく身体が怠い。眠気も常にあり何事にも集中する事が出来なかった。吐き気も止まらない。
 佳音は小さな救急箱から体温計を取り出して熱を測る。アラームが鳴り確認する。37.3度、微熱だった。普段なら薬を飲んで出勤するが、最近どうも調子が悪い。
 ベッドの上で横になる。新しいスマートフォンから通知音が鳴る。最近佳音は携帯電話からスマートフォンに機種変更をした。使いこなせるまでもう少し時間が掛かりそうだ。
 通知音はメッセージアプリがメッセージを受信した時の音だった。佳音はロックを解除してメッセージを確認する。トークルームには広告や会員登録した店舗からのお知らせが大半だった。その中にサトルからメッセージが来ている。

【おはよう。昨日は体調悪いって言ってたけど、今日はどう?大丈夫?】

【おはよ!全然大丈夫だよ~!一応明日病院に行ってくる!】

 佳音はなるべく心配掛けないよう明るく振る舞って返信した。仕事中にお見舞いに来て欲しいなんて我儘は言えない。
 佳音はスマートフォンをサイドテーブルに置いて再び眠りに就く。どれだけ寝ても寝足りなかった。少しでも起きようとするが勝手に目が閉じていく。睡魔に抗えなかった。
 鍵が開く音で目が覚める。重い瞼を開くとサトルが立っていた。両手には商品が詰め込まれたスーパーの袋をぶら下げている。

「サトルさん!?仕事はどうしたの!?」

「仕事はもう終わってるよ。連絡しても返信来なかったから心配で来たんだ。佳音ちゃんずっと寝てたの?もう夜だよ?」

 サトルは笑いながら佳音に話し掛ける。佳音は慌ててスマートフォンのロックを解除した。時刻はPM19時を過ぎている。サトルからはメッセージアプリだけでなく電話の通知も何件か届いていた。

「本当だ。もうこんな時間…。連絡してくれてたのに気付かなくてごめんね。ずっと寝てた。」

「謝らないで。ゆっくり出来たなら良かったよ。何か食べた?とりあえず風邪でも食べられそうなもの買ってきたんだけど…。」

 サトルはスーパーの袋からゼリー飲料やスポーツドリンクを取り出していく。その量の多さに佳音は思わず笑ってしまった。
 買い物代金を渡そうとしたが断られた。「無理しないでね。」と言ってサトルは部屋から出て行く。佳音はその姿をベッドから見送り、再び瞼を閉じた。朝まで目を覚ます事は無かった。
 起床して体温を測ると37.5度だった。重たい体を動かして佳音は鈴谷に教えられた市立病院に向かう。待合室でベンチに腰掛け順番を待つ。30分程待つと佳音の名前が呼ばれた。
 医者に症状を伝えた。抗原検査と血液検査をして、また待合室で待機する。

「山岸佳音さ~ん。診察へどうぞ~。」

 佳音は立ち上がって診察室に入った。医者が検査結果が書いてある診断書を佳音に見せながら話す。

「山岸さん、風邪のような症状は2週間ぐらい前から続いてるんでしたよね?」

「はい。7月になってからぐらいだったと思います。」

 数値を読み上げながら説明していく。感染症で陽性反応は出なかった。血液検査の結果も貧血気味ではあったが概ね良好だった。

「最近月経はきましたか?もしかしたら山岸さん、妊娠されているかもしれませんね。」

 医者の言葉に佳音の心臓が跳ね上がった。そう言えば最近生理が遅れている。自分のお腹に命が宿っているのか。
 院内にある産婦人科を紹介してもらい、そのまま診察を受けた。尿検査の結果は妖精。佳音は妊娠していた。妊娠3ヶ月だった。
 市立病院から出た後、バスに乗り市役所に向かう。母子手帳を受け取る。またバスに乗り祈願荘に到着した。

 私のお腹に赤ちゃんがいる。サトルと、私の。私はお母さんになるの?

 佳音は途方に暮れた。今まで児童養護施設で育った私が母親になんてなれるのか。真っ当な家族を知らない私がこの子を育てていくことなんて出来るのか。
 左頬の傷を触る。父親に硝子の破片で切り付けられた時の切り傷。虐待されていた頃を思い出す。恐怖で震えが止まらない。
 佳音の父親は母親が亡くなるまでとても優しい人だった。怒る母親を宥め、いつも佳音の味方をしていた。殴られた事なんて1度も無かった。
 そんな父親が母の死をきっかけに変わってしまった。仕事に行かず、毎日酒に溺れていた。酒が無くなると大声を出しながら物を投げた。次第に行動がエスカレートしていき佳音に手を上げるようになった。歯止めが効かなくなった父親は遂に逮捕された。
 硝子の破片を持った父親の顔が忘れられない。目が吊り上がる。罵声を浴びせている口は大きく開いていた。

「サトルさんも、もしお父さんみたいになったら…。」

 優しいサトルのそんな姿は見たくない。何より産まれてくるであろう我が子を傷付けられたくない。その為にはどうすればいいか。夕日が差し込む部屋の中、佳音は必死になって考えた。そして最悪の答えを出してしまった。

「佳音ちゃん、入院することになったってどういうこと?何か大変な病気なの?」

 電話越しでもサトルが心配している様子が容易に伝わる。サトルの後ろでは夜のニュースがテレビから流れていた。

「そうなの。今日病院に行った時、早めに検査入院した方がいいって言われたの。明日から3日ぐらいは入院しなきゃいけないかなぁ。」

「心配だね。何も無ければいいけど…。もし必要な物とかあれば教えてね。すぐに持って行くから!」

 佳音は「ありがとう。」と伝えて電話を切る。スマートフォンをポケットに入れて部屋を見渡す。
 急いで荷物を片付けないと。私は此処から、サトルの前から消えるのだから。
 荷造りは朝まで続いた。8帖の部屋に置かれている佳音の私物は全て段ボールに詰める。荷造りをしながら自分の気持ちも整理していた。一生分は泣いただろう。もう涙は出さないと誓った。

 翌日の朝。佳音は不動産会社に向かい、退職届を提出した。全員驚いていたが社長は労いの言葉を掛けてくれた。鈴谷はとても残念そうにしていた。

「佳音まで辞めたら社長と影谷しか残らへんやん!会社潰れるなぁ。」

 入社当時に勤務していた竹本と村西はとっくに退職していた。鈴谷も来月に退職する事が決まっている。鈴谷は一緒に暮らしている実母に癌が見つかり入院する事になった。看病をしながら育児もして仕事を続けていくのは厳しい。近くのコンビニでアルバイトをしながら生計を立てていくと話していた。
 退職の挨拶をした佳音は影谷に引き継ぎを済ます。その後急いで自分が住む家を探した。安くて、此処から遠ければ何処でも良い。とにかく早く見つけたかった。仕事付き合いのある大家に頼み、新しい家はすぐに見つかった。引っ越し業者も仕事で培った人脈を駆使して手配できた。
 翌日の夜には新居の鍵を受け取り、引っ越し作業が終わった。空っぽになった203号室の鍵を閉める。もう思い残す事は何も無い。大家の部屋の前で止まる。鞄から封筒を取り出した。中には退去費用と203号室の鍵が入っている。ドアにある郵便受けに封筒を入れた。階段を降りて門を通る。
 振り向かずに歩く。愛する人との思い出が詰まった部屋を見ると決心が揺らぎそうだった。これからは、私とこの子の2人で生きていく。誰にも傷付けられない。血の繋がった2人で。
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