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過去の幸せ②
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引っ越してから8ヶ月後。佳音は小さな産婦人科で女の子を出産した。女の子は光と名付けられた。2610gと小さな体だったが、無事に退院する事ができた。迎えに来る人も、お祝いの言葉を掛けてくれる人もいない。2人きりで帰宅した。
1人で乳児の世話をするのは大変だった。朝から夜まで世話をして眠る暇も無い。頼れる親もいない。育児の情報はインターネットから集めていた。
祈願荘を出てからはサトルだけでなく施設長、綾華とも連絡を取っていない。佳音は住所だけでなく電話番号も変えていた。過去を知る人物とは全員縁を切った。
引っ越し先の町は豊中市に比べて田舎だったが祈願荘より住み心地は良かった。築30年のアパート。間取りは1LDKで家賃は4万円。狭い家だったが将来、光の部屋を設ける事が出来る。立地の良さ等考えていられなかったので即決だった。
アパートから持ってきた家具や衣類を置いてもまだ広々としている。その中に思い出の品物は1つも無い。写真やプレゼント等は全て捨てた。
泣き止まない光を布団から抱き上げる。顔を眺めていると自然に笑みが溢れた。なんて愛おしい存在なのだろうか。この子は絶対に私が守る。私みたいな人生は送らせない。佳音は強く決意した。
仕事を辞めてからは貯金を切り崩しながら母子手当を受給して生活している。贅沢はできないが光を育てながら働くのは厳しい。保育園に預けられる月齢になるまでの辛抱だ。
慌ただしい日々が流れ1年が過ぎた。光を認可保育所に預けて佳音は家の近所にある飲食店でアルバイトとして働いていた。時給は安いが光に何かあった時の為にすぐ休めるよう正社員は選ばなかった。
平日は光を夕方まで保育所に預けて出勤する。休日は2人で出掛けたりして過ごす。佳音は人生で1番充実した日々を送っていた。
ある日公園に遊びに行った時だった。光は3歳になっていた。ブランコに乗りながら砂場で遊んでいる父親と娘をジッと眺めている。光が落ちないように支えている佳音を見て質問した。
「ママ。ひーちゃんのパパは、どこなの?」
光は最近自分の事を「ひーちゃん」と呼んでいた。保育所でも皆んなから呼ばれている。
「光のパパは、遠い所でお仕事をしているの。だから会えないのよ。」
いつか聞かれるかもしれないと想定していた質問だ。佳音は当たり前かのように答えた。サトルと光を会わせるなんて少しも考えていない。今の生活が永遠に続く事が2人の幸せだと思っていたからだ。
「そっかぁ。じゃあママのママはどこなの?ママのパパは?」
幼い我が子の無邪気な質問に固まってしまう。自分の家族の事なんて絶対に教えたくない。適当に誤魔化してブランコを少し強く押した。光が高い声を出して笑っている。
これで良い。おとぎ話みたいに、いつまでも2人仲良く幸せに暮らしましたとさ、と締め括るのが1番良いに決まっている。
公園から帰って夕飯の支度をする。光の好物のカレーライスを慣れた手付きで作っていく。野菜を細かく切って炒め、水を投入して沸かしカレールーを入れる。調理している佳音の横で、光が保育所で習った「カレーライスのうた」を楽しそうに歌っている。
皿に盛り付けて机まで運ぶ。机の上には出来たばかりのカレーライスが1皿置かれた。
「ママ、今日も食べないの?昨日も食べてないよ。」
「ママはお昼ご飯いっぱい食べちゃったから、まだお腹空いてないの。後で食べるから大丈夫。」
佳音の昼食は食パン1枚だった。しかも食べ切れていない。この頃食欲が湧かない。それに食べたとしても暫くすると吐き出してしまう。胃腸炎かと思い病院に行ったが異常は無かった。疲労が溜まっているのだろう。ゼリー飲食等で凌いでいた。
佳音に見られながら光は黙々と食べ進める。好き嫌いの多い光だがカレーライスは残さず完食してくれる。あっという間に食べ切り「おかわりください!」と子供用の皿を佳音に渡す。微笑みながら受け取り台所に向かう。
「痛いっ…。」
鍋からルーを掬い上げた時に右肩がズキズキと痛んだ。公園で遊んだ時に痛めたか。それともブランコを押したから筋肉痛になったのか。
痛みに耐えながら子供用の皿に盛り付けて、光にカレーライスを渡す。喜ぶ光を見ながら右肩を摩り湿布を貼った。
明日からまた仕事だ。朝早く起きて光を保育所に連れて行って…。やる事が沢山ある。佳音は光と一緒に就寝準備を済まし、布団に入った。
スマートフォンのアラームが鳴る。佳音は身支度をしながら寝ている光を起こす。目を擦りながら欠伸をする光を急かして準備する。準備が終わったら光を自転車の後ろに乗せて保育所に送る。そしてアルバイト先の飲食店に向かった。
忙しいランチタイムが過ぎ、ディナーの準備をしている時だった。眩暈がする。体がふらつき立っているだけでも辛い。思わず座り込んでしまった。早退させてもらい病院に向かう。診察をした医者は佳音に血液検査を勧めた。
「1週間後に結果が出ます。それまでは痛み止めを処方しておきますね。」
受付で看護師から処方箋を受け取る。薬局に向かい薬を受け取って帰宅した。
「もうこんな時間。光を迎えに行かないと…。」
痛む体を引き摺りながら保育所に向かった。部屋に入ると1人で積み木をして遊んでいる光が見えた。保育士に挨拶をして光の名前を呼ぶ。まだ遊びたいと駄々を捏ねる光を宥めて帰宅した。
長い1週間が終わった。痛み止めを服用しながら過ごしていた。光を保育所に預けている間は仕事を休み、家で寝込んでいた。
今日は病院に行かなければならない。検査結果の通知を伝えるハガキが届いていた。光を保育所に送った後、佳音はバスで病院に向かった。
受付を済ませる。待合室の長椅子に座ろうとした時だった。
「山岸さん。診察室へお越しください。」
看護師が切羽詰まった声で佳音を呼ぶ。
「今来たばっかりなのに?」
佳音が受付をした時には既に5組程待合室で座っていた。予約をしていた訳でもないのに何故。戸惑いながら周りに頭を下げて診察室へ入る。医者はカルテを見ながら言い辛そうに話し始める。
「落ち着いて聞いてください。山岸さん、あなたは…。」
目の前が真っ暗に染まる。何を言っているのか分からない。
看護師に肩を支えられ、ただ座っているだけの佳音に医者が病院のパンフレットを渡す。呆然と見つめる佳音に説明を続ける。
「うちの病院じゃ治療できる限界がありますので、近くの大学病院に紹介状を送っておきます。」
上の空で返事をする。受け取った診断書とパンフレットを鞄に入れてバス停まで向かった。足取りは重くふらついている。バスに乗ると冷房が効き過ぎていて鳥肌が立つ。痛む腕を摩った。
血液検査の結果は癌だった。数値が異常に悪かった為、悪性腫瘍の可能性が高い。大学病院に紹介状を送ったのは精密検査をする事になったからだった。
車内でスマートフォンを使って調べる。
【癌 悪性腫瘍 治療費】
【癌 悪性腫瘍 治る?】
【癌 悪性腫瘍 余命】
検索して出てきた不穏なホームページの数々。佳音は食い入るように画面を見ている。全てを見終わる前に終点に到着した。バスから降りて自宅に向かって歩く。
まだ決まったわけじゃない。精密検査はまだ受けていない。きっと大丈夫。
しかし、後日精密検査を受けた結果は佳音が考えていたよりも残酷だった。全身に癌が転移している。医者から宣告された余命は2年。余りにも短い時間だった。
悪性腫瘍と診断されて2年が過ぎた。医者から宣告された余命の年数だ。もういつ死んでもおかしくはないだろう。
抗がん剤治療の影響で辛い副作用が襲う。佳音は殺風景な病室にあるベッドで入院生活を過ごしていた。
「ママ、お見舞い来たよー!」
光が病室に入り佳音が寝ているベッドまで歩く。雨に濡れた長靴が滑りそうだった。転ばないよう慎重に歩いている。小さな手には花束を抱えていた。オレンジ色やピンク色の花が色鮮やかに咲いている。
光から少し遅れて児童養護施設ひかりの家の施設長が病室に入ってくる。
入院が決まった時、佳音は光の預け先を探した。頼れる親族はいない。途方に暮れた佳音はひかりの家に頼る事にした。スマートフォンで施設の電話番号を調べて連絡した。施設長と話すのは数年ぶりだった。
事情を聞いた施設長は快く引き受けてくれた。入院の前日に光を迎えに来た。光には治るまでの我慢だと伝えた。愛する我が子を乗せてひかりの家に向かう車が去っていく。佳音は車の影が見えなくなるまで見送った。
それから2週間に1回、施設長と光が一緒に見舞いに来る。入院生活で唯一の楽しみだった。
「ママ、今日は何の日か覚えてる?特別な日だよ!」
光がベッドの横で無邪気に飛び跳ねる。今日は何日だ。最近日付の感覚が乏しい。佳音はゆっくり起き上がってカレンダーを探した。すぐに答えない光が怒った顔をしている。
「もう!忘れん坊なんだから!ママの誕生日だよ!」
昼間に飲んだ薬の袋に日付が書いてある。8月14日。この日佳音は32歳になった。
光が膨らませていた頬はいつの間にか萎んでいた。大きな目に涙を浮かべながら佳音の顔を覗き込む。
「ママどうしちゃったの?お薬のせいで全部忘れちゃったの?」
震える光の小さな頭を撫でた。細く長い髪が佳音の指を通る。
「ごめんね、光。ママがうっかりしてただけよ。お薬のせいじゃないよ。早く治さないとね。」
「いつ治るの?まだお薬飲まないとダメなの?早くママと一緒にお家に帰りたい。」
話を聞いていた施設長がカーテンを開けた。右手には百貨店の紙袋を持っている。施設長はベッドの近くに行き、持っていた紙袋を光に渡した。
「ほら光ちゃん。今日お母さんに渡す物があるんだよね?」
「あ、そうだった!ママ、お誕生日プレゼントだよ!」
佳音は助け舟を出してくれた施設長に目で感謝を伝える。それに気付いてない光は紙袋の中から画用紙を取り出して佳音に渡した。
白い画用紙の真ん中に大きく描かれた似顔絵。周りには蝶や花がたくさん描かれている。
「ありがとう!凄い!上手に描けてるね~!」
褒められた光は恥ずかしそうに笑う。佳音は精一杯光を抱き締めて「ありがとう。」と伝えた。時間の許す限り、ずっと抱き締めていた。愛しい我が子。出来る事なら死んでも離れたくない。
いつの間にか雨が上がり夕方になっていた。面会の時間が終了する。施設長に連れられて光は退室した。去り際、寂しそうに手を振る光。佳音が見た光の最後の姿だった。
8月14日PM11時18分。佳音が息を引き取った。心電図モニターからアラームが鳴り看護師が向かった時にはもう遅かった。佳音は光から貰った画用紙を抱き締めながら眠るように亡くなっていた。
1人で乳児の世話をするのは大変だった。朝から夜まで世話をして眠る暇も無い。頼れる親もいない。育児の情報はインターネットから集めていた。
祈願荘を出てからはサトルだけでなく施設長、綾華とも連絡を取っていない。佳音は住所だけでなく電話番号も変えていた。過去を知る人物とは全員縁を切った。
引っ越し先の町は豊中市に比べて田舎だったが祈願荘より住み心地は良かった。築30年のアパート。間取りは1LDKで家賃は4万円。狭い家だったが将来、光の部屋を設ける事が出来る。立地の良さ等考えていられなかったので即決だった。
アパートから持ってきた家具や衣類を置いてもまだ広々としている。その中に思い出の品物は1つも無い。写真やプレゼント等は全て捨てた。
泣き止まない光を布団から抱き上げる。顔を眺めていると自然に笑みが溢れた。なんて愛おしい存在なのだろうか。この子は絶対に私が守る。私みたいな人生は送らせない。佳音は強く決意した。
仕事を辞めてからは貯金を切り崩しながら母子手当を受給して生活している。贅沢はできないが光を育てながら働くのは厳しい。保育園に預けられる月齢になるまでの辛抱だ。
慌ただしい日々が流れ1年が過ぎた。光を認可保育所に預けて佳音は家の近所にある飲食店でアルバイトとして働いていた。時給は安いが光に何かあった時の為にすぐ休めるよう正社員は選ばなかった。
平日は光を夕方まで保育所に預けて出勤する。休日は2人で出掛けたりして過ごす。佳音は人生で1番充実した日々を送っていた。
ある日公園に遊びに行った時だった。光は3歳になっていた。ブランコに乗りながら砂場で遊んでいる父親と娘をジッと眺めている。光が落ちないように支えている佳音を見て質問した。
「ママ。ひーちゃんのパパは、どこなの?」
光は最近自分の事を「ひーちゃん」と呼んでいた。保育所でも皆んなから呼ばれている。
「光のパパは、遠い所でお仕事をしているの。だから会えないのよ。」
いつか聞かれるかもしれないと想定していた質問だ。佳音は当たり前かのように答えた。サトルと光を会わせるなんて少しも考えていない。今の生活が永遠に続く事が2人の幸せだと思っていたからだ。
「そっかぁ。じゃあママのママはどこなの?ママのパパは?」
幼い我が子の無邪気な質問に固まってしまう。自分の家族の事なんて絶対に教えたくない。適当に誤魔化してブランコを少し強く押した。光が高い声を出して笑っている。
これで良い。おとぎ話みたいに、いつまでも2人仲良く幸せに暮らしましたとさ、と締め括るのが1番良いに決まっている。
公園から帰って夕飯の支度をする。光の好物のカレーライスを慣れた手付きで作っていく。野菜を細かく切って炒め、水を投入して沸かしカレールーを入れる。調理している佳音の横で、光が保育所で習った「カレーライスのうた」を楽しそうに歌っている。
皿に盛り付けて机まで運ぶ。机の上には出来たばかりのカレーライスが1皿置かれた。
「ママ、今日も食べないの?昨日も食べてないよ。」
「ママはお昼ご飯いっぱい食べちゃったから、まだお腹空いてないの。後で食べるから大丈夫。」
佳音の昼食は食パン1枚だった。しかも食べ切れていない。この頃食欲が湧かない。それに食べたとしても暫くすると吐き出してしまう。胃腸炎かと思い病院に行ったが異常は無かった。疲労が溜まっているのだろう。ゼリー飲食等で凌いでいた。
佳音に見られながら光は黙々と食べ進める。好き嫌いの多い光だがカレーライスは残さず完食してくれる。あっという間に食べ切り「おかわりください!」と子供用の皿を佳音に渡す。微笑みながら受け取り台所に向かう。
「痛いっ…。」
鍋からルーを掬い上げた時に右肩がズキズキと痛んだ。公園で遊んだ時に痛めたか。それともブランコを押したから筋肉痛になったのか。
痛みに耐えながら子供用の皿に盛り付けて、光にカレーライスを渡す。喜ぶ光を見ながら右肩を摩り湿布を貼った。
明日からまた仕事だ。朝早く起きて光を保育所に連れて行って…。やる事が沢山ある。佳音は光と一緒に就寝準備を済まし、布団に入った。
スマートフォンのアラームが鳴る。佳音は身支度をしながら寝ている光を起こす。目を擦りながら欠伸をする光を急かして準備する。準備が終わったら光を自転車の後ろに乗せて保育所に送る。そしてアルバイト先の飲食店に向かった。
忙しいランチタイムが過ぎ、ディナーの準備をしている時だった。眩暈がする。体がふらつき立っているだけでも辛い。思わず座り込んでしまった。早退させてもらい病院に向かう。診察をした医者は佳音に血液検査を勧めた。
「1週間後に結果が出ます。それまでは痛み止めを処方しておきますね。」
受付で看護師から処方箋を受け取る。薬局に向かい薬を受け取って帰宅した。
「もうこんな時間。光を迎えに行かないと…。」
痛む体を引き摺りながら保育所に向かった。部屋に入ると1人で積み木をして遊んでいる光が見えた。保育士に挨拶をして光の名前を呼ぶ。まだ遊びたいと駄々を捏ねる光を宥めて帰宅した。
長い1週間が終わった。痛み止めを服用しながら過ごしていた。光を保育所に預けている間は仕事を休み、家で寝込んでいた。
今日は病院に行かなければならない。検査結果の通知を伝えるハガキが届いていた。光を保育所に送った後、佳音はバスで病院に向かった。
受付を済ませる。待合室の長椅子に座ろうとした時だった。
「山岸さん。診察室へお越しください。」
看護師が切羽詰まった声で佳音を呼ぶ。
「今来たばっかりなのに?」
佳音が受付をした時には既に5組程待合室で座っていた。予約をしていた訳でもないのに何故。戸惑いながら周りに頭を下げて診察室へ入る。医者はカルテを見ながら言い辛そうに話し始める。
「落ち着いて聞いてください。山岸さん、あなたは…。」
目の前が真っ暗に染まる。何を言っているのか分からない。
看護師に肩を支えられ、ただ座っているだけの佳音に医者が病院のパンフレットを渡す。呆然と見つめる佳音に説明を続ける。
「うちの病院じゃ治療できる限界がありますので、近くの大学病院に紹介状を送っておきます。」
上の空で返事をする。受け取った診断書とパンフレットを鞄に入れてバス停まで向かった。足取りは重くふらついている。バスに乗ると冷房が効き過ぎていて鳥肌が立つ。痛む腕を摩った。
血液検査の結果は癌だった。数値が異常に悪かった為、悪性腫瘍の可能性が高い。大学病院に紹介状を送ったのは精密検査をする事になったからだった。
車内でスマートフォンを使って調べる。
【癌 悪性腫瘍 治療費】
【癌 悪性腫瘍 治る?】
【癌 悪性腫瘍 余命】
検索して出てきた不穏なホームページの数々。佳音は食い入るように画面を見ている。全てを見終わる前に終点に到着した。バスから降りて自宅に向かって歩く。
まだ決まったわけじゃない。精密検査はまだ受けていない。きっと大丈夫。
しかし、後日精密検査を受けた結果は佳音が考えていたよりも残酷だった。全身に癌が転移している。医者から宣告された余命は2年。余りにも短い時間だった。
悪性腫瘍と診断されて2年が過ぎた。医者から宣告された余命の年数だ。もういつ死んでもおかしくはないだろう。
抗がん剤治療の影響で辛い副作用が襲う。佳音は殺風景な病室にあるベッドで入院生活を過ごしていた。
「ママ、お見舞い来たよー!」
光が病室に入り佳音が寝ているベッドまで歩く。雨に濡れた長靴が滑りそうだった。転ばないよう慎重に歩いている。小さな手には花束を抱えていた。オレンジ色やピンク色の花が色鮮やかに咲いている。
光から少し遅れて児童養護施設ひかりの家の施設長が病室に入ってくる。
入院が決まった時、佳音は光の預け先を探した。頼れる親族はいない。途方に暮れた佳音はひかりの家に頼る事にした。スマートフォンで施設の電話番号を調べて連絡した。施設長と話すのは数年ぶりだった。
事情を聞いた施設長は快く引き受けてくれた。入院の前日に光を迎えに来た。光には治るまでの我慢だと伝えた。愛する我が子を乗せてひかりの家に向かう車が去っていく。佳音は車の影が見えなくなるまで見送った。
それから2週間に1回、施設長と光が一緒に見舞いに来る。入院生活で唯一の楽しみだった。
「ママ、今日は何の日か覚えてる?特別な日だよ!」
光がベッドの横で無邪気に飛び跳ねる。今日は何日だ。最近日付の感覚が乏しい。佳音はゆっくり起き上がってカレンダーを探した。すぐに答えない光が怒った顔をしている。
「もう!忘れん坊なんだから!ママの誕生日だよ!」
昼間に飲んだ薬の袋に日付が書いてある。8月14日。この日佳音は32歳になった。
光が膨らませていた頬はいつの間にか萎んでいた。大きな目に涙を浮かべながら佳音の顔を覗き込む。
「ママどうしちゃったの?お薬のせいで全部忘れちゃったの?」
震える光の小さな頭を撫でた。細く長い髪が佳音の指を通る。
「ごめんね、光。ママがうっかりしてただけよ。お薬のせいじゃないよ。早く治さないとね。」
「いつ治るの?まだお薬飲まないとダメなの?早くママと一緒にお家に帰りたい。」
話を聞いていた施設長がカーテンを開けた。右手には百貨店の紙袋を持っている。施設長はベッドの近くに行き、持っていた紙袋を光に渡した。
「ほら光ちゃん。今日お母さんに渡す物があるんだよね?」
「あ、そうだった!ママ、お誕生日プレゼントだよ!」
佳音は助け舟を出してくれた施設長に目で感謝を伝える。それに気付いてない光は紙袋の中から画用紙を取り出して佳音に渡した。
白い画用紙の真ん中に大きく描かれた似顔絵。周りには蝶や花がたくさん描かれている。
「ありがとう!凄い!上手に描けてるね~!」
褒められた光は恥ずかしそうに笑う。佳音は精一杯光を抱き締めて「ありがとう。」と伝えた。時間の許す限り、ずっと抱き締めていた。愛しい我が子。出来る事なら死んでも離れたくない。
いつの間にか雨が上がり夕方になっていた。面会の時間が終了する。施設長に連れられて光は退室した。去り際、寂しそうに手を振る光。佳音が見た光の最後の姿だった。
8月14日PM11時18分。佳音が息を引き取った。心電図モニターからアラームが鳴り看護師が向かった時にはもう遅かった。佳音は光から貰った画用紙を抱き締めながら眠るように亡くなっていた。
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