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スイート・ツリー

三年目の夏(その2)

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 いよいよ雨風が強くなってきた。
 昼間だというのに、周囲は暗い。
 黒い雲は、こちらに襲い掛かってくるかのようだ。

「昨年より風が強くないですかっ!」

 風の音と、風が葉を揺らす音が、先ほどから騒音となって響いている。
 それに負けない勢いで、小娘が叫ぶ。

「強いわねー! ここ数年で一番大きい台風じゃないかしらー!」

 このような状況になってしまっては、下手な慰めなど意味がない。
 ピンク色も素直に同意する。

「激しいが、その分、速度も速い! 通り過ぎるのも早いはずだ!」

 とはいえ、この暴力を耐えるのは、同じ時間でも長く感じる。
 だから、自分の言葉ながら説得力を感じないのだが、そうでも思わないとやってられない。
 だが、状況はさらに悪くなろうとしている。

「なんだか、遠くで光りませんでしたか? ……きゃっ!」

 一瞬の光。
 そして、数瞬後の轟音。
 それに小娘が怯える。

「……これはマズイかも知れないわねー」

 ピンク色が呟く。
 吾輩やピンク色は何度も台風を経験している。
 そして、台風が連れてくる雷を見たことも、数えきれないくらいある。
 だから、今さら怯えることはない。
 だが、そんなピンク色が状況に懸念を抱いている。
 つまり、それだけ危険な状況ということだ。

「なんですか? なにがマズイんですか?」

 この暴風の中、ピンク色の呟きを聞き取ったのだろう。
 小娘が尋ねる。
 ピンク色は言ってもいいものかどうか迷っているようだ。
 ちらっとこちらに視線を向けてくる。

 もちろん、吾輩も状況は理解している。
 先ほどの光
 そのの方向。
 そして、吹き付ける風の向き。
 最悪だ。

「あの雷雲が、こちらに来るということだ」

 小娘の不安を受け止めるのは吾輩の役目だ。
 ピンク色に任せるつもりはない。
 小娘の問いに対する回答を引き受ける。

「……それって、あの光と音が、ここに来るってことですか?」
「まあ、そういうことだ。だが……」

 光と音。
 それだけを聞くと、大したことが無いように思える。
 確かに、皮膚を焼くような光と、身体を振るわせるほどの轟音は怖ろしい。
 だが、それだけに思える。
 しかし、違うのだ。

「雷の怖ろしさは光や音ではない。身体を貫く電流。本当に怖ろしいのは、それだ」
「あの、わたし良く知らないんですけど、あれってそんなに怖いものなんですか?」

 あれは体験した者にしか分からない。
 そして、偉そうなことを言ってはいるが、吾輩も体験したことは無い。
 だが、怖ろしさは知っている。
 なぜなら、それを体験した者の末路を知っているからだ。

「ああ。あれに撃たれると、身体の芯まで一瞬で焼かれる。それに光の速さだ。避けることもできない」

 小娘が恐怖に身体を振るわせる。

「それに運よく生き残ったとしても、その後に火がつくこともある」

 それは吾輩たちにとって致命的だ。
 吾輩たちの身体は燃えやすい。
 雷に撃たれ、身動きが取れない状態で、火に焼かれる。
 その末路は言うまでもないだろう。

「昔、この近く……と言っても、それなりの距離があったが、そこに雷が落ちたことがある」

 吾輩の長い人生の中でも、雷が落ちたのを見たのは、その一度きりだ。
 だが、忘れることができない。

「落ちた場所にいた者は即死。だが、悲劇はそれだけで終わらなかった。直後に起きた火によって、人間の住処を含めた一帯が火の海になった」
「あれは怖かったわねー。ここまで火が来るかと思ったものー」

 ピンク色も当時を思い出したのか、身体を振るわせる。
 実際、あのときは危なかった。
 熱を感じる距離まで近づいていたのだ。
 そして、煙による息苦しさで、死を予感したものだ。

「そ、そんなっ! 逃げないとっ!」

 しまった。
 当時のことを語り過ぎて、必要以上に小娘を怖がらせてしまった。
 それくらい、あの出来事が強烈だったということなのだが。

「落ち着け、スモモ。吾輩たちは、この場から動くことができない。それに動けたとして、多少、距離を取ったところで意味はない」

 あれは雷雲が覆う範囲に落ちる可能性があるのだ。
 それこそ、雷雲がない場所まで移動しなければ、逃げ切ることなどできない。
 だが……

 空を仰ぐ。

 雷雲がない場所など、視界が許す範囲には見当たらない。
 ならば、取れる行動は限られている。

「なに、心配するな。スモモと子供は守ってやる」
「で、でもっ! いくら、ウメ兄さんでも、雷なんて防げないですよっ!」

 さんざん怖がらせてしまった後だ。
 小娘からすれば、無謀に聞こえたのだろう。

 だが、これは決して気休めではない。
 守る方法は知っているのだ。
 そして、それは奇跡を願うような可能性が低い話でもない。

「雷には特徴がある。あれは高いところを狙って落ちるのだ。そして、落ちたものの身体を伝わるから、意外と近くにいるものには被害が及ばない」

 それだけでは、その後に発生する火まで防ぐことはできない。
 だが、それも目途は立っている。

「それに、今回の台風は雨も多い。もし、火が起きたとしても、それほど燃え広がらずに鎮火するはずだ」

 これなら、小娘は助かるだろう。
 雷雲が近づいてくるのは運が悪かった。
 だが、その雲が大量の雨を連れてくるのは不幸中の幸いだった。
 不幸ばかりを嘆いていても仕方がない。
 助かる可能性にかけた方が、よほど前向きだろう。

「だから、スモモは祈っていればいい。早く台風が通り過ぎることをな」

 安心させるように小娘に語り掛ける。
 しかし、小娘は素直に納得はしてくれないようだ。

「それって、ウメ兄さんが雷に撃たれるってことじゃないですかっ! いやですよ、そんなのっ!」

 その言葉は嬉しい。
 自分が助かる可能性を喜ぶよりも、他を犠牲にすることを厭う心は尊いだろう。
 だからこそ、守りたいと思う。

「こういうのは順番なのだ」

 森から離れ、人間と共存している吾輩たちとて、自然の一部。
 弱肉強食に生きているのだ。
 だから、最優先は種の存続。
 たとえ一体が犠牲になったとしても、種が存続すれば負けではない。
 そして、吾輩の子孫は小娘が繋いでくれるだろう。

「先ほど、この近くに雷が落ちたときのことを話しただろう。そのときに犠牲になったのは、この辺りで一番大きかった存在でな」

 当時の吾輩も、それなりに背は高かったのだが、それでも見上げるほどだった。
 そんな存在が一晩で姿を消した。

「だが、その犠牲により、吾輩やピンク色を含めた、それ以外の全員が助かったのだ」

 それが意図したことかどうかは関係がない。
 ただ、助かった。
 その事実が重要なのだ。

「今、この周囲で一番大きいのは吾輩だ」

 ピンク色も吾輩と同じくらいの背だが、少しだけ吾輩の方が大きい。
 だが、それを不幸だとは思わないし、代わって欲しいとも思わない。
 小娘を守るのは吾輩の役目だし、ピンク色もまあついでに守ってやってもいい。

「そんなっ!」

 小娘が悲鳴を上げる。
 そんな小娘には悪いが、吾輩は安心もしている。
 なんとか威厳を見せることができそうだ。
 思えば、子供ができてから、ろくによいところを見せることができていなかったからな。
 最期くらいは、恰好をつけてもよいだろう。
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